「カンボジアから日本へ―ふたつの文化の間で―」
● 2011年3月5日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス研究室棟第一会議室(B126)
● 話題提供:ペン・セタリン氏(プノンペン大学・言語人類学/カンボジア女性自立センター)
ペン・セタリンさんは『日本語・カンボジア語辞典』の共著者であり、芥川竜之介、泉鏡花、谷崎純一郎、森鷗外などの著作のカンボジア語への翻訳者でもあります。自伝的な作品の著書『アンコールワットの青い空の下で』はカンボジア語で書かれて1997年にシアヌーク国王文学賞を受賞しました。この作品はご本人が日本語にも翻訳し、日本でも出版されています。このほかにも『私は水玉のシマウマ』(講談社)という作品もあります。現在プノンペン大学で教えるほか、カンボジアの教育・文化を支援する会の代表もつとめ、カンボジアのこどものために副読本や絵本、識字教育の教材を贈る運動もしています。
講演要旨
私は今、プノンペン大学で言語人類学を教えています。そのほか、カンボジアの女性自立支援センターの運営や子どものための図書館も運営しています。今回は女性自立センターの支援コンサートのために帰国しました。また4月にカンボジアにもどります。去年の10月に拠点をカンボジアに移しました。
私は1974年、日本の文部省の国費留学生の試験に受かって、日本に留学することになり来日しました。当時、カンボジアには日本についての情報がほとんど入っていなかったのですが、5年間の留学期間が決められていました。日本語学校に1年間在籍し、学芸大学で学んだ後、レストラン経営などをしながら、物語に興味があったので、法政大学で物語論で博士号を取りました。
その間に、日本語―カンボジア語辞典の編纂にも携わりました。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の峰岸先生が見出し語を挙げ、私がクメール語に翻訳したものです。今でもこの辞典は、カンボジアで日本語を学ぶ方々にとても重宝されていて、海賊版がいっぱい出ています。
カンボジアの未来の教育のために
私は文学が大好きで、来日する前にプノンペン大学ではフランス文学を専攻しました。こちらでは日本文学を専攻する予定だったのですが、カンボジアは内戦で大変でしたので、文学をやるよりはなにかカンボジアの教育に役立つようなことをしたい、と思いました。当時カンボジアの教育はフランスで使われている教科書を使い、先生もフランス人、教育言語もフランス語でしたので、地理でも歴史でもカンボジアの人間のものではなかったのです。ですから帰ったら文部大臣になりたい、とおまじないのように言っていました。日本ではそういうことをいうと批判されるのですね。目立ちたがり屋、みたいな。日本に慣れてくると、皆にペースを合わせようとするようになりました。
日本文学をやっても仕方がない、と思ったので、当時の永井道雄文部大臣宛てに7人の留学生で手紙を書いたのです。私たちの国、特にカンボジアは戦争状態でしたから、これからは基礎から変えなくてはならない、そのために日本語を使って専門を身につけたいと手紙に書いたのです。そうしたら、お返事が来て、もっともなことだ、と。手紙をもらったことで府中の東京外国語大学付属日本語学校の先生が驚いて、私たちを呼び出されたのですが、7人の留学生はカンボジア、タイ、ラオス、フィリピンからの留学生で、シンガポールや香港からの留学生と較べるとどうしようもない学生たちだったのです。漢字圏ではありませんので、漢字を覚えるのが非常に難しかったのです。で、先生方は君たちのレベルでは日本の学生と机を並べて勉強するのは無理、だと。先生を説得した結果、なんとか、宿題をたくさん出すなどして、望むようにしてくださいました。
日本語学校は寮から廊下伝いに教室へ行かれるようになっていたのですが、ある学生はパジャマで教室に来たりして、日本では考えられないと注意されたりしました。つまり、ここでも異文化体験があったわけです。毎日8時間は学校で勉強し、寮で3、4時間かかって宿題をしました。漢字の宿題です。つまり、もともとは私たち7人は外語大に行かなくてはならないのに、私は小学校のカリキュラムを学びたいというので学芸大に行く、他はお茶の水大に行く、神戸の経済工科大学に行く、というので、ひとりひとりに専門用語などを教えなくてはならない。先生方は本当に大変だったと思います。そしてわたしは学芸大学で面接を受け、入学することができました。
なぜ 日本だったのか
当時もカンボジアには日本の車や電気製品などはたくさん入ってきていましたが、学問、文化についてはなんの情報も入っていなくて、私が知っていたのはせいぜい原節子、それから座頭市でした。座頭市が大好きでした。というのも、カンボジアは仏教国で殺生をしてはいけない。蚊や蠅も殺してはいけない。蠅がたかったものは食べてはいけないけれど殺してもいけない。で、座頭市が杖を振ったら蠅がまっぷたつになって落ちたのがすごくかっこよかったのです。勝手に蠅が死んでくれた、ということで。また、家に日本の童謡のレコードがありました。当時ヴェトナム戦争の時代で、北ヴェトナム軍を攻撃するためにアメリカ軍の爆撃があって戦火が広がっていきました。カンボジアでは親アメリカのロンノル将軍が大統領になって、若者、リセの学生でもだれでも軍隊に連れていかれました。私の父親はお金で弟を返してもらいましたが。お金やコネのないひとはどんどん連れていかれ、音楽も人を鼓舞するような軍歌しか認められない。お米も入ってこなくてろくに食べられない。おなかがすいているときに軍歌は疲れてしまう。そこで、ひっそりと日本の童謡「月の砂漠」を聴いたのです。そのとき、自分のイマジネーションで、自分の国、のように感じ、夢にまでみたのです。山の国で、木もカンボジアと違って、とんがっている木で、そこを歩いている、そういう夢を2、3日続けて見ました。この国に行きたい、と思いました。
カンボジアではバカロレア(高校卒業資格試験)に受からないと大学へ行けません。その勉強で音楽のことは忘れかけましたが、戦争ははげしくなり、不正も多くあって、本当に地獄だと思いました。バカロレアに受かった後、日本の奨学金がある、と知って受験しました。3名の枠で、日本の大使館のひとに、バカロレアに受かったばかりでは無理だろうと言われ、それでも受験会場に行ってみると500人くらい受験生がいて。本当にみんな国を出たがっていたのです。試験自体はとても簡単なものでしたが、まさか受かるとは思わなかったところを受かって来日することができたのです。
暮らしの中の異文化体験
日本に来てからは、先にふれたように、周りのひととペースを合わせなくてはいけない、ということが分かるまで大変でした。また、ことばの問題もあります。例えば病院と美容院の区別が聞き取れなくて、病院の受付で「髪を切ってください」と言って、それは美容院です、と言われ、とても恥ずかしい思いをしたこともありました。その上、日本語学校で習った日本語が通じません。日本語学校ではとても丁寧な言い方を教わったのです。でも、学生同士の会話ではそんな言い方をしません。日本語学校の日本語は役に立たない、と思いました。今では日本語で呪うこともできますが、時と場合にあったことばを使えるようになるまでにはかなり時間がかかりました。
その後、レストランを経営していますがそこはカンボジアだけでなく、タイやラオス、ヴェトナム人が集まる場所になっていて、その人たちの間で日本人や日本社会に対する批判も交わされます。例えば、アパートに暮らしているラオス人は東南アジアで果物の王様と呼ばれるドリアンを、日本では貴重品なので喜んでもらえると思って、すこしずつ隣近所に分けたところ、日本人にとってはいやな香りだったため、投げ捨てられたりした、と。また、民間療法のひとつ、コインで体を赤くなるまで擦ることがあるのですが、子どもにそれをしたところ、虐待された子と勘違いされたケースなど。
私の娘、モニカが小学校に通っていたころ、学校で雑巾を持って来なさいと言われて、古いタオルを持っていったら、とてもからかわれたということもありました。普通、学校へ持っていく雑巾は、きれいに畳んでチクチク針で刺したものを持っていくのですね。知りませんでした。異文化のなかでの子育てもなかなか大変です。保育園に通っていたころ、娘が「カンボジア人になんか生れてこなければよかった」といったことがあって、はっとさせられました。登校拒否になるこどももたくさんいます。先生に、将来日本で暮らす以上は日本語ができないと困るから、家でも日本語を使いなさい、と言われたこともありました。私は家ではクメール語で話し、クメール文化を伝えたい。でもそれは非常に難しいことでした。
日本で暮らす外国人の場合、親の世代は大人になってから学習した日本語ですから、どうしても子どもの方が上手になる。親が下手な日本語で接すると、子どもには分からなかったり、親をバカにしたりするようになります。難民センターでの3か月の日本語学習では、本当に基本的な言い方しか習いません。仕事がみつかっても、多くの場合は単純な作業で言葉を必要としないから、日本語が上達しません。
また、日本語とクメール語とではニュアンスが非常にちがう言葉があります。例えば、日本人はよく「頑張ってね」などといいますが、カンボジア人はとても重く受けとめてしまいます。「私は今でも頑張っているのに、頑張りたりないのかな」などと真剣にうけとめてとてもプレッシャーになります。また、日本語の「ごめんなさい」と辞書ではそれにあたるクメール語の「ソム トッ」とは全然違う語感なのです。日本人はすぐに「ごめんなさい」と言いますが、私に言わせれば、全然反省していない場合が多いです。とりあえず「ごめんなさい」と言う感じですね。しかし、「ソム トッ」はもっと強い意味です。相手に何をされても仕方がない、という意味がこもっています。私は日本文学のクメール語訳もたくさんしていますが、翻訳する場合、まず、ストーリーから入り、その世界にふさわしいように言葉を選んで訳していきます。
現在はクメール語と日本語が両方使える人は、企業がとてもほしがります。でも子どものころにクメール語を話さなかった場合、日本語にない音がたくさんありますので、どうしても細かな音などが表現できないことがあります。
私は講演などの機会があるたびに、上のさまざまな問題について改善を訴えてきましたが、全然取り上げられていないような気がしています。
そして これから
今後はカンボジアで、大学で教えるかたわら、女性の自立や子どもの教育支援の活動をする中で、日本で学んだこと、例えば日本の「和の心」を紹介して、個人個人でばらばらにならずに、全体を考えていく大切さを広めていきたいと思っています。
以上
(文責:事務局)
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