地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2013・12月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「オセアニア島嶼国のことば―数にかかわる表現を中心に」


● 2013年12月7日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎423教室
● 話題提供:西本希呼先生(京都大学白眉センター・東南アジア研究所)


はじめに「文字のない社会」「数詞のない言語」

 皆さん、こんにちは。今日はオセアニア島嶼国で話されている言葉で、その中でも「数」に着目してお話します。私はこれまで、「文字のない社会」で研究をしてきました。「文字のない社会」と言うと、「言語のない社会」「知的な文化のない社会」と大きな誤解を招くことがとても多いのですが、決してそうではありません。まず、人間がいるかぎり、言語があります。文字がないため、技術や知識や情報は全て頭で記憶しなければなりません。もしくは、文字以外の手段で何らかの記録手段を持ちます。私自身、調査をしていて、何でもノートにメモをすると満足してしまいますが、メモをすると翌日には忘れてしまい『昨日も言ったのに』と現地の人々に言われてしまうことがあります。文字や印刷機は確かに、様々な情報を幅広く伝達する機能はあるけれども、同時に私たちの脳を退化させてしまうのではないでしょうか?
 そうした研究を続けている中、最近、私は「数詞のない言語」に関心を持ち研究をしています。今日は、「数詞のない言語」の話は別の機会においておき、その前に、オセアニア島嶼国の言語のさまざまな「数」にまつわる話をしようと思います。


西本希呼先生


「数(かず)」と「数(すう)」

 「数」という文字を見て、どう読みますか?「かず」とも「すう」とも読めます。ここで、言語学において「かず」と「すう」の用語の使い分けを説明します。「かず」とは、1,2,3,4と「数(かぞ)える」具体的な数(かず)を示します。一方、「すう」とは、文法カテゴリーとしての「すう」を示します。たとえば、単数形、複数形、1人称、2人称で示される数です。数え方も文法カテゴリーとしての数も、言語によって様々、多種多様。どのような数え方や、数(すう)があるのか、見ていきましょう。


記数法

 オセアニア諸語を含むオーストロネシア語族の言語の大多数が10進法です。人々が数えるときにつかう手段の一つが指だからです。表1のルルツ語、ラパヌイ語、ハワイ語、トンガ語、フィジー語の数詞の例をご覧下さい。


表1 オセアニア諸語の数詞の例


 たとえば、タヒチ語で5を表すrimaは同時に「手」という意味を持ちます。さらに、rimaの重複形であるrimarimaは、レディーフィンガーという品種のバナナを表します。タヒチの市場に並ぶバナナのなかでも、小さくてやや短い実をいっぱいつけ、横に広がっているバナナです。甘酸っぱいバナナで、私はこれを食して以来、2011年からバナナが大好きになりました。Rimarimaは、日本では食べれない品種です!オセアニアを訪問した際は是非食べてみて下さい。「5」と「手」の意味をもつ言語は多く、オセアニアの諸語の多くに見られます(サモア語 lima「5」「手」、トンガ語 nima「5」「手」、ニウエ語 lima「5」「手」等)。また、ニューカレドニアで話されているジャウェ語は、「一人の人間 siic kac」で20を表します。人間には手と足あわせて20本の指があるからです。


色々な数え方

 それでは、ほかの言語の例も見て見ましょう。チャモロ語の数詞は現在では消滅したと言われています。チャモロ語で1から10は、表1の言語と同一の起源を持ち、hacha, hugua, tulu, fatfat, lima, genum, fiti, gualu, sigua, manotと言いますが、今はスペイン語からの借用語が用いられています。マーシャル語では、加算による表現があり、7はjiljilimjuon(3 “jilu”+3 “jilu”+1 “juon”)、9はratimjuon(8 “ralitok”+1 “juon”)と言います。減算によって表される言語もあります。ヤップ語は、7はmedlip(10 “me”-3 “dlip”)、8はmeruuk(10 “me”-2 “ruuk”)、9はmereeb(10 “me”-1 “reeb”)と一部の数を引き算で表します。パプアニューギニアの言語では、手のみならず、肩、腕、肘、胸など身体部位を表す語が数詞になっています。表1のオセアニアの言語とは系統は異なりますが、地理的にオセアニアに位置するオーストラリア大陸のアボリジニーの言語には、1,2までしかない言語や、1,2,3までしかない言語など、数詞の少ない言語が多々観察されます。


数の標識が義務的な言語、義務的でない言語

 これまでの話は、「数(かず)」でした。ここからは、文法カテゴリーとしての「数(すう)」についてお話します。馴染み深いのは、英語の「単数」と「複数」の区別でしょう。英語では、「2人の男の子」は、two boysと言い、必ず「男の子」 “boy”は複数形 “boys”にしなければなりません。複数の標識 –s がなければ、誤りとされます。一方日本語では、「2人の男の子」「男の子2人」「2人の男の子たち」と色々な表現がありますが、必ずしも複数を表す「たち」をつける必要はありません。つまり、英語は、数の標識が義務的(ここでは単数と複数の区別)な言語であり、日本語は数の標識は義務的ではないのです。


単数、双数、複数、小数

 さて、上では、単数と複数、つまり、「一つ」もしくは、「たくさん」の区別を見てきました。オセアニアの多くの言語では、単数と複数以外に「双数」があります。二つのもの、対になるものを示すときに使う数の標識です。人称代名詞も同様で、私たち、あなたたち、彼・彼女らにも、「私たち2人」、「あなたたち2人」、「彼・彼女ら2人」を表す人称があるのです。たとえば、「2人の男の子」「二本の手」「2本の花」「2匹の犬」「2冊の本」を表すとき、双数を表すnaがつきます。小数とは、「いくつかの、2,3の」を意味し、単数、双数に並び、タヒチ語にある数の標識の一つです。単数はte,双数はna,小数はte tai,複数はte mauで表現されます。名詞に変化はなく、単数、複数などを強調したい際に標識を名詞の前に置きます。(1軒の家 te fare,2軒の家 na fare,te tai fare 数軒の家々,te mau fare 家々)


タヒチ語のフランス語への影響

 タヒチの子供たちと遊んでいると、人称代名詞の双数形が、タヒチ人の話すフランス語に影響を与えていることが観察されます。「これは私たち2人のため?」とお菓子を指していうとき、“pour nous deux?”(pour 〜のため,nous 私たち,deux 2)、と人称、特に1人称が2人の時、主語でも目的語でも、フランス語の「私たち」のあとに数詞「2」をつけて話していました。


会場のようす


無限の数と有限の数詞

 数は無限です。一方、数詞は有限です。数詞のない言語もあります。日本語では、小さな数を表す時にかつて、繊維が使われていたそうです。糸や毛や維が小さな数を表していました。例えば、糸は10-4、繊は10-7を表していたそうです。日本の算学の歴史は江戸時代の算学について書かれた『塵劫記』(吉田 光由,1977,岩波文庫)に詳しく書かれています。大きな数のある言語として、ミクロネシアの例があげられます。ミクロネシアのポナペ語、キリバティ語などでは1億を表す数詞が、加算、位取り法、減算ではなく、数を表す語として存在します。その単語が1億という数値を示すということが、どのような調査で明らかになったか議論の余地がありますが、数詞のない言語もあれば、日常生活で使わない大きな数を表す数詞のある言語もあるのです。人間にとって数えるという行為はごく日常です。数詞のない言語を話す話者が、「数えることができない」わけではありません。数え方や数の表し方、数える手段は多様です。しかし、同じ脳の構造をもつ、人間である限り、何らかの共通点や普遍的特徴が観察されるのではないでしょうか。「手」が「5」、「人間」が「20」を表すのはわかりやすい例です。言語の構造や現地の人々の生活を観察することで、私たち人間の数の認識や数え方の多様性と普遍性を見いだすことが私の今後の研究の関心項目です。


さいごに

 今日は、数(かず)と数(すう)についてお話しました。「無限」「有限」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?数学、生物学、物理学、工学、哲学、経済学、社会学といったいろいろな分野からの学説や議論があるでしょう。学問の視点から述べることはもちろん大切です。しかし、年齢を問わず、自分自身の考えを持つことはそれ以上に大切な時代になったと私は思います。オセアニアの小さな離島や途上国の小さな村にいても、何でもインターネットで簡単に検索できるようになった今、「問い」に関して何らかの自分の考えを持って世の中を見てほしいのです。今日のオセアニアの言語の話題を通じて、知的好奇心を刺激するきっかけとなれば幸いです。
 無限は、憧れるものなのでしょうか、無限とは何か神秘的なものなのでしょうか?有限というと、「資源は有限だ」と頻繁に聞く言葉です。私たちの命も有限です。命あるもの、生物は全て有限です。有限だからこそ尊いのでしょうか?では「限界」とは?研究者として私が好むのは「無限」です。命や時間は有限です。だけれど、可能生は無限にあります。どのような分野でも研究とは暗やみを模索し、小さな小さなかけらを積み重ねて、成果を出して行きます。成果や結果がでないこともたくさんあります。それでも、無限の可能性を信じて、前へ進んで行く、研究者のみならずそれが人として生きる道と思います。


*「さいごに」にも、数を表す表現がたくさんでてきたのにお気づきでしょうか?(「小さな」、「かけら」、「たくさん」など)


Pacific Languages, an introduction, John Lynch, University of Hawaii press, 1998.
オーストロネシア諸語の基礎語彙集 https://abvd.shh.mpg.de/austronesian/
ルルツ語 http://www.chikyukotobamura.org/muse/low130324s.html
ラパヌイ語 http://www.chikyukotobamura.org/muse/low130529s.html

以上