地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2019・1月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「ことばの邂逅―最後のイゾラドを中心に」


● 2019年1月12日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス西校舎514教室
● 話題提供:国分拓先生(NHKTVディレクター)
● 司会:小林昭美(ことば村副理事長)


司会 私は新聞の書評を見たことから、国分さんの本「ノモレ」を読んで、大変大きな衝撃を受けました。人間の文明がどう形作られてきたのか、それに対するヒントがたくさんありまして、感銘を受けました。ジャレッド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」も未開と文明の接触を描いて衝撃を受けましたが、次に衝撃を受けたのがこの「ノモレ」で、ぜひ著者のお話を聞きたいと思ったのです。私もNHKにおりましたが、彼とは一世代違っていてなかなかつながらない。OB会でやっと手がかりを得て、先日ついにお目にかかれましたが、国分さんから小林さんは自分の父親の年代ですと言われて。私が居た頃のNHKの抑制の効いたドキュメンタリーを、いまだに作ってくれている人がいるということを大変嬉しく思いました。
 ことば村では毎月一回、ことばに関するこういうお話を聞く会を持っております。慶應大学の井上先生が理事長をしていますので、井上先生、一言お願いします。

井上 理事長をしております井上逸兵と申します。小林さんからお話ししたように、毎月ことばのサロンを開いております。コンセプトは「家庭のことばから少数言語まで」、日本語・英語という身近な言語から様々な言語を扱う。中心は言語ですが、そこに係わっていわゆる文化や民俗・風俗もからめて、毎回貴重なお話を聞いております。世はインターネット時代で我々もその取り組みをしてはおりますが、どちらかとくとアナログな団体で、こういうアナログな会の価値は将来絶対に出てくる、と信じて続けております。今日は国分さんにおいでいただき、私個人も大変楽しみにしております。どうぞよろしくお願いいたします。


はじめに

国分 初めまして。国分と申します。NHKでテレビ番組を作っております。僕はフィジカル派を自認していて、あまり知識を溜め込まず、現場に行きそこで起きたことだけで番組を作ることを基本にやってきました。今回いただいたタイトルが「ことばの邂逅」で少々荷が重い(笑)、それだとどうしても「論」になる、というか。現場に行ってそこで知ったこと、僕は表現するのも好きなので、表現してきた。その一点において伝えられることがあるのじゃないか。そう思ってお受けしました。なので、今日は講義とか講演とかではなく、現場報告ということで聞いていただけたらと思います。


国分拓先生


今日のテーマは「イゾラド」

 テレビを見てくださったかたもあると思いますが、アマゾン川流域に「イゾラド」と呼ばれる先住民族がいます。このイゾラドを垣間見た、元イゾラドと話ができた、そういう人は世界でも少なくて、おそらく日本人は僕とカメラマンだけです。
 イゾラドはポルトガル語でインディオ・イゾラドスといいますが、イゾラドスとは隔絶されたという意味で、すなわち隔絶された先住民という意味です。広い意味でいうと、政府の管理下にない先住民のことを言います。しかしそもそもは、文明社会と接触したことがない、接触したとしても森の奥などでばったりと出会うだけの先住民、つまり我々のことを、直接的には全く知らずに生きてきた先住民を言う総称です。
 このイゾラドが、この20年くらいの間にほぼ絶滅しかかっている。その20年、このイゾラドをできる限り取材をして伝えるという仕事をしてきました。イゾラドの人数は、ブラジル政府の担当部署のホームページによれば非常に大きな人数で書かれています。それは広義のイゾラドのことを言っていて、数千人とか書いていますが、居そうな場所の上空をセスナで飛んで、家があり、畑がある、何人くらい居そうか、多分50人くらいかな、と言う具合で非常にアバウトなのです。本音ベースで役人に聞くと、あるひとは1000人から1500人、ある人は多く見積もっても300人と言う。僕も数百人だろうと思いますが、誰も断定できない。すでに絶滅してしまったという可能性も含めて、よく分からないというのが現状であります。


イゾラドと接触した21分の記録

 彼らの多くは移動性の狩猟・採集民です。基本的には大家族単位の集団をなして、食料を求めて移動しています。あるところの獲物を食べ尽くすと次の土地に移動する。中には乾期にイモとか伝来したバナナとかの畑を作る半定住性の人々もいます。乾期には動物などを狩って、雨期には畑から収穫した作物を食べる。この場合はもう少し人口が増えます。主な食べ物はイモ、野生の果物、猿とかイノシシ、アルマジロ、ネズミなどの動物タンパク。弓矢で一番穫りやすいのは猿ですね。
 取材できたのは接触して数年が経った元イゾラド、政府が保護しているひとたちですが、一度だけ撮影できたのは、今接触がはじまったばかりのイゾラド、ちょっと前までは本物のイゾラドで、何ヶ月か前から政府となんとなく接触している人々です。舟で近くまで行ったのはカメラマンだけで、僕は行っていないのですが、21分間の接触です。イゾラドはどんな人々なのか、も含めてそのオンエアになった映像をご覧頂きます。

(映像:岸辺でイゾラドの家族が政府の舟を見つめている~舟からは友だちを意味する「ノモレ」だけを連呼~舟に積んだバナナなどを贈る・奪うように受け取るイゾラド家族~カメラマンなどの衣服に興味を示すイゾラドの若者たち・・・・「私たちに向けられたいくつかのことばが耳に残った。『あなたは誰なのか』『何もしないよね』『私の子どもに害を与えるなよ』」)

 これが2015年の映像です。出現してから1年経っていない先住民で、森の奥にいてなにかのきっかけで河岸にある政府の前線基地と交流をするようになった家族です。政府の役人がいて、ことばが少し通じるのですが、全く知らない者同士がこれで11回接触しても、それほどしゃべれることは多くない。名前など自己紹介くらいで経済とか文化のことは語れるレベルではない。また、これまで会ったことのない人間、カメラマンですが、がいると怖がっている。一方で興味も感じている。服とか時計、眼鏡、に興味を示す。ひとり家族中にTシャツを着ている少女がいましたが、不思議ですよね。ペルーのこの河は公道で、僻地観光の船がばんばん来るのです。その乗客が川辺の素っ裸の人間を見て、あげる、と投げてやることがあると思います。政府は一応禁止しているのですが。あるいは宗教関係者が布教で入ってあげたのかもしれない。
 この人たちはペルーの先住民ですが、おそらく最後のイゾラドではないかと言われています。ひとりとかふたり、はあるでしょうが、100人規模でいるのはここが最後なのではないか、と。


イゾラド絶滅の始まりは病原菌

 ブラジルに他の地から初めてひとがやってきたのは1500年です。ポルトガル王に仕えるキリスト教騎士団のペドロ・カブラールという人で、現在のポルト・セグーロに上陸し、ブラジルを「発見した」ということになっています。今のポルト・セグーロは新婚旅行や恋人たちの初めての旅先として、有名なビーチリゾートです。
 上陸したペドロ・カブラールが最初にしたのは、ドーンと十字架を立てることでした。そのときの十字架が残っているのですが、どう考えてもそのときのものとは思えません。で、そこをポルトガル領としました。来たのだから、俺たちのものだ、というわけです。しかし、そこには人間がいた。西欧文明と初めて接触した先住民がいたわけです。ですから当時南米大陸にいた先住民は全部「イゾラド」ということになります。
 そのうち、スペインからもフランスからも西欧人がやってくるようになります。100年もしないうちに沿岸部からほぼ一人も先住民はいなくなったと言われています。虐殺もありましたが、ほとんどは西欧から持ち込まれた病原菌による病死と考えられています。それまで隔絶されていたために免疫がないのですね。麻疹、天然痘、インフルエンザ、みな一発で死にます。オリンピックのあったリオ・デ・ジャネイロにも、漁をしていた先住民がいて、絵などの記録が残されていますが、今は一人もいません。その部族の名前も分からない。どんなことばをしゃべっていたかも分からない。歴史から消えたのですね。そういうケースはいっぱいあります。


西欧領土の拡大は河にそって

 領土を求め、基本的には河を遡って西欧人は内陸に向かいます。大きな河にそって文明がもたらされる。最初は国王に献上する領土が目的でした。フランスの植民都市、サン・ルイス、今は世界遺産ですが、ルイスからわかるように当時のブルボン王家に捧げたわけですね。そのようにどんどん植民しながら内陸に向かった。川の沿岸の先住民は、今はほとんどいなくなりました。フランスの記録で、真偽は分かりませんが、舟に乗せた奴隷は天然痘患者だったと。もしくは天然痘患者の使った毛布などを持って行く、と。それを接触した先住民に物々交換の具として渡す。で、翌年に行くと、もう一人もいない。全部死んだのですね。なので、そこはフランス領に。
 領土拡大が終わると、そこにポルトガル人の街、フランス人の街ができます。そこの人々が奥地に探検に行きはじめる。南北アメリカの植民の違いは、北米には家族単位で植民してきた。従ってひたすら殺しましたが、混血はあまりなかった。南米の場合は、次男、三男の男だけで来る例が非常に多くて奥地へいっては犯して混血児を産ませた。今その子孫が何パーセントかを占めています。


絶滅に向かう決定打は道路

 奥地へ奥地へと入っていった人々が開墾し町を作っていく、それが何百年も続きました。
 そのような人はバンディランティスと呼ばれ、英雄視されて、サンパウロには探検隊のようなバンディランティス像が立っています。本当は、彼らは虐殺し、犯した人々なんですね。トヨタ自動車が南米で車を売り出すときに、バンディランティスと名付け、すごく売れたらしいですが。
 18世紀にバンディランティスの時代が終わりますが、それから後もどんどん西欧から人が来ます。なぜなら奥地には膨大な資源がある。最初は木でした。紅い染料の出るパウ・ブラジルという木があって、そこからブラジルという国名ができたのですが、それとか、マホガニー、ゴムなど。それから、金、鉄、ダイヤ、それらを求めて人が入ってきた。今では牧場と大豆です。その奥地への拡大は現在も進んでいます。
 イゾラドはさぁっといなくなり、決定打となったのは道路です。道路があれば誰でも行ける、僕らのような取材陣もそれで入れるわけで、加害者なんですが。大西洋岸から東西を横切るアマゾン横断道路を1970年に着工して作りました。軍事政権だったので、何でも出来るんですね。まず、先頭に、イゾラドと接触する政府の専門家が行く。道路工事の人たちを脅さない、襲わないと飼い慣らす。それが終わると森をダイナマイトで破壊しながら道を作ったのですね。一本できると横道が一杯出来るのです。それで、奥地に普通の人が入れるようになる。


1980年以降のイゾラド出現

 ブラジルの現行の法律では、ある土地を占拠して何年か経つと自分のものになる、と定められています。軍事政権時代、「人無き土地に土地無き人を」がスローガンでした。誰も居ない土地へ行って、農業をやれば食えるから行け!ということで、これが多分イゾラド消滅の決定打だったと思います。「人無き土地」には人がいたのでしょうね。1980年代にはイゾラドは出なくなったと思われました。
 1980年以降、ブラジルでのイゾラドとの公式の接触、イゾラドがここにいるから保護する、と政府が正式に発表したのは3回だけです。1987年、番組で取り上げたアウレとアウラの出現、1996年、コルポ族の母集団から分かれた20人ほどの集団との接触、2014年ペルーとの国境エンビラの政府基地に表れた兄弟と思われる素裸の3人。この3人は10代から20代で助けを求めて駆け込んできて、今はもう文明化して基地内に服を着ているらしいです。ブラジル以外では1回。先に映像を見ていただいたイゾラドの集団ですが、これを含めると4回ですね。僕は運良く、この4回の内エンビラを除く3回を取材することができました。それぞれ特殊な言語、特殊な文化を持つはず、しかしその内容は分からない、というこの3例のイゾラドについて、これからお話ししようと思います。


アウレとアウラ

 最初は、TVでごらんになった方は重複しますが、1987年の例です。1987年の当時アマゾン横断道路から50キロくらいの公道があり、その道から木材を伐採して運び出す獣道のような道がありました。今はちゃんとした道路が通っています。当時、公道に人口200~300くらいの小さな町があり、そこから先は勝手に道を作って、バンバンマホガニーを切って持ち出して売る、そういう人が1980年以降たくさん、入ってきていた。その前、20世紀初頭にはゴムがあったのでゴム採取人が入っていた。決定的なのは1986年に村が出来たことです。トラコア村というのですが、今は無くなっています。その村に、ある日、素っ裸の二人の人間がやってきたのです。
 二人の小屋があったのは、その村からおよそ10キロ離れたところです。当時は森と開拓地の境目でした。この二人は、他の例と決定的に違う点がありました。文明未接触のイゾラドが出現しても、大抵はそのあたりにいる先住民のことばが30%位は通じるのです。政府が接触するときはそういう先住民に通訳をさせます。しかしいろんな語族に属するさまざまな先住民言語で話しかけても、この二人には通じませんでした。そこで面倒になった政府は彼らにアウレとアウラという名前を勝手に付けて保護することにしたのです。今回4KTVの放送でこの番組のロングヴァージョンを放映しましたが、それの一部を見ていただきます。
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/okan09

(映像:「アウラ 未知のイゾラド 最後のひとり」二人の出現。二人の小屋。政府の役人のコメント。二人の肉声の録音音声。入植者の小屋に二人が押し入ってきたことを語る入植者夫婦。二人の小屋の周りにあった廃棄された大きな小屋の内部。子どもの使っていたと思われる短い矢。仲間がいれば彼らだけの保護区を作ることもできたが、誰もみつからなかった。政府は半年をかけて二人を車におびき出して、車内に押し込み、保護する。車内をのぞき込む開拓民。ナレーション:「それは明らかに捕獲であり、連行でした」「何度も尋ねました。あの森に帰りたくないか?ふたりは何も答えませんでした」出現地から東へ200キロの先住民保護区に連れてこられる。「そこにいた50名の先住民は誰もイゾラドを見たことがなかった」2メートル四方の暗い奥の部屋へ隔離。部屋の内部。「張られたハンモックは使おうとせず床で眠った」「政府はここで二人が文明に親しむことを期待したが、連日部屋を抜け出し、テーブルの下でがたがた震えていた」「その時点で森へ帰すことを強く政府に訴えればよかった」「次に政府が試みたのは、ほかの先住民と同居させることだった」アマゾン横断道路で北へ。「車内では二人は終始にこやかだった」出現した森から100キロ離れたパラカレン族保護区。「そこが違う場所だと気づくと二人はすぐに逃亡を試みたがその日のうちに施設に戻った」「次にさらに北のアスリン族保護区へつれていかれた」温厚なアスリン族の一人で二人を世話したアヤのコメント。アスリンの男が二人の採ってきた栗を奪おうとして二人に殺され、報復されそうになる。その後アウレとアウラは施設を転々とするが、行く先々でトラブルになり、同居の試みは失敗。13番目の土地に落ち着く。)


誰にも分からないアウレとアウラのことば

 彼らのヒストリーを見ていただきました。特徴的なのはことばが分からないという点なのです。1987年の出現以来ずっと、人類学者や言語学者による言語調査が行われています。1989年の調査では、専門家が住み込みで、指さしながら一つずつ書き留めていく方法で採取されました。そのため、植物や昆虫の名前ばかりで、実際に会話に使えるような単語は極めて少ないのですが。それらのことばをブラジリア大学の言語学の大家に見せたところ、これはトゥピグワラニー語族のひとつだろう、その中のこれまで知られなかったことばに違いない、と。大家の言うことなので、これが通説になりました。この語族に属するトゥピ語、アスリニ語と共通する単語も100個くらいはあります。でも、同じウラルアルタイ語族であっても、日本語とトルコ語ではまったく通じませんね。そのくらいの差があって、コミュニケーションが取れない。
 1989年の調査をした専門家は1年だけ国費で派遣されたのですが、その後も申請した上で、自費で調査を続けています。政府に提出した資料がこれです。(映像)19番は<ムリャ>で、<女>の意味です。文字は無いので、インディオっぽい音を当てはめたのだと思います。本当にそうなのか分からないので、いっぱい?がついていますが、何年かかけて、名詞がほとんどの800語を採取した。同居をしていた言語学者が最初に知ったことばは、<骨:マイティンガ>だったそうです。森を歩いていたら、動物の死体があって、その骨を指さしてアウレかアウラのどちらかが「マイティンガ」と言ったらしい。で、それから骨がある時に「マイティンガ?」と聞くと「アウェ」(yesの意味)と答えた。
 彼らがしゃべっていることばは、いったい何なのだろうという疑問に対して、俗説も含めてたくさんあります。滅亡した部族の残った二人で新しいことばを作った、という人もいます。言語学的にはそれは不可能らしいですが。もうひとつの説は、彼らの出現地に近いところにアラワテ族という部族がいて、この部族には子どもを捨てる習慣がある。彼らは捨てられた子どもなのではないか、という説です。アラワテにはそれほど似ていない、というのが調査者の意見ですが、絶対にそうではない、とも言えない。あるいは、自活できる年齢、10歳から12歳ごろに何らかの事情で二人きりになったのだろうという説もあります。その証左として、アウレとアウラさんはやたらに矢を作るものの弓は作らない。何千本も矢を作り、しかもそれを使わない。狩りは手づかみです。矢だけが作れる段階で離れたから、矢を作ることで母集団を思い出しているのだ、という説です。これは十分あり得ますね。
 二人の出現の際、政府は80キロ四方をくまなく探しましたが、ほかには誰もいなかった。小屋があっただけです。奥にある小屋の方が古く大きい。一番大きな小屋には囲炉裏が4つある。また子どもが狩りを練習するための弓があった。その弓は人類学者がかっぱらっていって、今どこにも無いのですが。ですから、当時は子どももいた部族が徐々に人数を減らして、住む場所を探しながら、たまたま出てきたときは二人きりになっていた。それが正しいのかなぁと考えられています。
 (参加者:見つかった時の年齢はいくつぐらいだったのでしょうか?)政府が骨格などから推定したのは、だいたい30歳から35歳でした。それから30年立っていますから現在生きているアウラは60歳から65歳ということになります。


意味が判明したいくつかのことば

 自費で調査をしている言語学者は、ある時期からアウラさんはしょっちゅう同じ事を話す、と言っています。そしてあることばを発するときは、とてつもなく落ち込んで見える、と。少しずつことばが分かってきて、部族について聞こうと拙い質問をすると必ず三つのことばを使う、と。<オッキン>と<マヌ>と<モミイーン>、全部<消える>とか<居なくなる>、意訳すると<死>。この使い分けは分からない。やたらこの三つのことばを話し、その後にいろんな単語が続く、関連性があるはずだと。<死んだ>なら、<なんで~>が続いているのかもしれないし、<どんな状況で~>をしゃべっているのかもしれない。わからないのだが、<死>の後にいつも同じことばが続く。例えば<髭>、<雨>、<大きな音>、<火花>など。何が起きたのか、すごく想像力を刺激しますね。しかしそれは想像の域をでません。
 <お父さん>、<お母さん>の単語は分かった。<おじいちゃん>や<兄弟>は分からない。アウラとアウレが兄弟かと聞きたいが、分からない。<オッキン タイユ>=<みんな死んだ> 僕も一ヶ月の取材で3回くらい聞きましたね。証拠はありませんが、僕的には、やはり目撃したのだと思いますね。親から聞いた何らかの虐殺とかも可能性としては捨てきれませんが、やはりあれほど言うということは目撃したのじゃないかと。ところが、誰が殺したのか、と聞くと、ぶれる。いろんなことを言います。<弓><ピタピタ><血>とかって言います。弓なら、先住民に殺されたのかと思いますが、別のときには<雨><雷>とか違うことを言う。もっとしつこく聞くと、多分その時の状況、<髭>とか<夜>とか<雨>、<銃>、<トッポン=大きな音>を言う。その言語学者が言うには、多分自分の部族に起きたことについて話している、と。
 数年前から「誰が?」と聞くと<テコル>と答えるようになった。<テコル>は多分名詞ですね。きっと自分たちを襲った集団の総称ではないか。<テコル>の後によく続くのは<髭>、また<髪が長い>。先住民、開拓民、金工堀り、誰であれテコルという奴らがやってきて何かが起きた。取材中に一度だけテコルのことを話してくれました。それをぜひ見ていただきたいと思います。

(映像:ナレーション「アウレが死んでまもなく、そのことばを聞きました。テコルが来た。みんないなくなった。アウラがそう言ったのです。部族を殺したのはテコルだ、そう言っているようでした」テコルの後に続くいくつかの単語「<アリベ><リトマ><ティン>など。」話すアウレの映像と音声)

 ぼくが取材を通して最も印象に残ったことばは<オティマノエ ムクイン>です。<オティマノエ>は<長い距離を歩く>、<ムクイン>は<二人で>という意味ですね。これもしょっちゅう言いました。たった一人の生き残りになった男が、テコルに襲われたあとの果てしなく続いた逃避を言っているのではないかと思いました。
 2002年の取材時、政府の詰め所から40メートルくらい先にアウレとアウラの小屋がありました。僕たちは詰め所のベランダのハンモックで寝ていましたが、夜明けの1時間くらい前に小屋から声が聞こえるのです。夜明けと共にふたりで魚などを取りに行くまでずっとしゃべっている。それを言語学者に聞いてもらいましたが全然分からない、と。
 アウレとアウラは、1500年から始まる西欧文明との接触において、幾度となく繰り返されてきたであろう、ある部族の滅亡の現代版なのですね。おそらくもう今後は無いことだろうと思います。加害者である文明に追われて転々とし、森から出てきて全く未知の世界で生きていかねばならなかったふたりのイゾラドが、夜な夜な明け方までしゃべっていた声を聞いていただきたいと思います。

(アウラとアウレの会話音声 何かを削るような、こするような音)


会場の様子


コルボ族の出現

 次のコルボ族の例に移ります。イゾラドが出現した後どうなるか、は千差万別です。多くは政府が周りを囲って誰も入れないようにして、そのままにしておく。それが無理なら文明化してしまう。携帯を持つような、ですね。この例はブラジル政府が気合いを入れて保護した例です。
 1996年出現以後、政府は立ち入り禁止の広さが北海道くらいもある保護区を作りました。当時は軍事政権だったので、こういうことが出来たのですね。19人のコルボ族でしたが、入ってくる漁民や政府の役人などと殺し合いを始めてしまった。そこで、敵が入らないようにしてやるからお前らも殺すな、と政府が接触を始めたのです。1996年から2001年に予防注射を打つまでに5年かかっています。僕たちは2002年に取材に行けました。ここを取材できたのは、スウェーデン人のフリーランスカメラマンと、ナショナルジオグラフィックと、ブラジルTV局と、私たちNHKだけです。
 後日談ですが、2010年頃19人のうちの一人、ボスの奥さんが重い子宮筋腫になった。接触から14年、政府とも信頼関係ができていたのでしょう。重要人物でもあるし、遠くへ行けば治ると、政府が説得し舟とセスナに乗り継いでマナウスまで連れて行った。マナウスはワールドカップをするような大都会です。治療を受けすっかり治って帰ってきた。部族を集めて、彼女が言うには、もう殺すのはやめよう、あいつら多すぎる、きりが無いと。(大笑)2012年に再度入れさせてくれと粘り強く交渉しましたが、だめでした。今、ブラジル政府はイゾラドの保護区には人を入れないので。


ペルーでのイゾラド集団の出現

 次はペルーの例です。僕は2012年から2013年くらいに「大アマゾン」というシリーズをやることになって、イゾラドをやろう、と考え、ブラジル政府に交渉しましたが断られた。すると2013年にペルーのアルト・マドレ・デ・ディオス川流域でイゾラドが100人単位という大量出現をした。僕は信じられなかったのですが、最初にその現場に行ったブラジルのテレビ・グローブの映像を見て、本物だ!とびっくりしました。で、取材に行き、「大アマゾン」の第四集の「最後のイゾラド」という番組になったのです。
 アウレとアウラを例外として、イゾラドが現在いるのは、河口から遠い、舟でしか行けない奥地しかあり得ません。行くのが本当に大変なのです。地図上、河が始まる源流域でほとんど誰も言ったことがない。2013年の出現もそういう場所、乾期でした。そのあたりの村に突然現われたのですが、その時の映像は誰も撮っていません。そのイゾラドは泳げないし、舟を作る技術もなかった。なので、乾期で水が退いたときに歩いて河を渡り、獲物を探し来た。しかし雨期になったらどこかへ行ってしまった。翌年またやってきて、そのときに地元の人がカメラを回したのですね。それをもらって、放送したのですが、それをごらんください。

(イゾラドの集団が河を渡ってくる映像 叫び声 以前に襲われた地元民の説明 ナレーション:「その森で青年を襲ったイゾラドがある日河の向こうからこちらへやってきた。」吠える犬 叫び声 ナレーション:「集落はパニックになった。若い女性と子どもは鍵のかかる監視所へ逃げ込んだ」 ノモレ、ノモレという呼び声 「集落のリーダーは家々からバナナをかき集め贈ることにした。敵ではないことを伝えようとしたのだ。イゾラドは弓矢を置いた。」「腰巻き以外身につけていない男たちが河を渡って近づいてくる。虫除けの木の実でも塗りつけたのか、顔が赤や黄色に見える男たちもいる。河の真ん中で立ち止まると、こちら側をさかんに指さし始めた。集落の人が笛を吹いて見せる。」 笛の音 「イゾラドもなにか取り出し応える。動物の真似をすると、彼らも真似をする。しばらくしてバナナを載せたカヌーが届けられる。イゾラドのひとりがこちらに向かってなにかを掲げカヌーの中に入れる。長さ30センチほどの木。イゾラドの使うナイフで返礼の品のようだった。この接触の後、今度は家族を連れてやってくるようになった。その数、115人。モンテセルバードの住人より多い、イゾラドの大集団だった。」
 「野性的な顔立ち、長い髪。ペルーでは姿を見せたイゾラドのことをマシュコピーロと呼んだ。凶暴で野蛮な人間、という意味だ。さまざまなことばを投げかけると、マシュコピーロが反応を示すことばがあった。集落のひとが話す先住民のことばが一部通じることが分かった。」 住民とイゾラドのやりとりの声 「バナナを渡し少しの会話を試みる。」)

 全く知らない集団が河を渡って近づいてくるという局面。怖かったと思います。こちら側はイネ族で、イネのことばでさまざまなことを投げかけています。ことばとか、何かを真似をするとか、コミュニケーションをとろうとする。いろんな選択肢があったと思います。こちらにはライフルとかあるので、いきなり攻撃する、と言う選択肢がありますよね。歴史上いくらでもあったことでしょう。でも彼らはことばを使うことをチョイスするのです。彼らが仲間なのかそうでないのかの判断を、ことばを通じてやろうとした。そういった、ことばの持つ不思議があるなぁと思いました。
 その後、この人たちがどうなったか。雨期になります。2014年11月に僕たちはこの村に行きました。つい先頃まで彼らは来ていましたが、僕たちのいる間は来なかった。雨期になったので、以前のように帰ったのではないかと政府の人類学者も言っていた。それで僕たちも1週間くらいで11月末に帰ったのですが、その1ヶ月後、彼らはこの村を襲った。殺された人はいませんでしたが、イヌや鶏は殺し、網戸やパラボラ、などを破壊しました。つまりイゾラドの世界にはないもの、ですね。
 住民は避難民として都会に出た。その状態は今も続いています。たまに帰った時にカエルが吊り下げてあった。それを撮ってほしいと言ったのですが、もうあるわけないだろう、と断られましたが。それは先住民共通で、ここは俺の場所だという意味だと言います。このイゾラドの集団は2014年の襲撃以来一度も出てきていません。行き先も、生きているか絶滅してしまったかも分かりません。


「ノモレ」と呼びかけた住民たち

 映像で見ていただいた最初の出現の時、「ノモレ」と呼びかけていますが、イネ族のことばで<同郷の人>とか<同胞><友><仲間>の意味です。最初に言ったことばが、お前ら誰だ、とか何をしに来た、ではなく、「ノモレ」と言ったことに僕は非常に感動しました。なぜノモレと言ったのか、を含め、放送できなかったことを本にした次第です。図書館などでお読みいただければとても嬉しいです。


まとめ:イゾラドから学んだこと

 運良く、イゾラドを取材してきて、私たちにとっていったいイゾラドとは何なのであるか、イゾラドの存在が私たちの社会を相対化する、という感じがあります。彼らがいることで、私たちがはっとすることがある。さっき言った、知らない者同士、襲ってくるかもしれない人々と出会ったときにどうするか、この人たちはノモレという交流を選択したけれど、略奪があったり差別が生まれたり、があったりするかもしれない。それはイゾラドと非イゾラドという関係だけでなく、他者が会うときの我々が持つ、何かしらダークなところ、を目覚めさせる、それがあるからどこか謙虚になれる、そんなことを考えています。
 また、私自身イゾラドを取材してきて忘れてはならないと戒めていることがあります。それは加害性ですね。イゾラドが500年にわたって減ってきているのは、なぜか。病原菌の持ち込みも土地の収奪も、アウレとアウラのようにことばも奪った、その結果何も後世に残せずに滅んでいった集団、部族、民族が数え切れないほど存在する。それをしてきたのは私たちの側である。それを強く感じました。しかもそれは人類の歴史においてはアマゾンに限ったことではない。世界中で起きてきたことです。それを考えると、私たちは何なのだろう、私たちの文明は何なのだろう、と思う。それはイゾラドから学んだことだと思います。大それたことは言えませんが、現場を見てきた僕たちはその私たち、もしくは私のしてきた加害性を忘れないようにしようと思うのです。


(文責:事務局)

2020/7/10掲載