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ことば村・ことばのサロン

2019・12月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「ある外交官OBのつぶやき②―ローマ教皇とバチカン」


● 2019年12月21日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎441教室
● 話題提供:上野景文先生
 (元杏林大学客員教授/元駐グアテマラ大使、元駐バチカン大使)
● 司会:八木橋宏勇ことば村理事(杏林大学外国語学部准教授)
● YouTube映像 (講演の全内容をご覧いただけます)
  https://youtu.be/28gO-_fo1U8





司会 今日は12月のサロンにようこそお出でくださいました。グアテマラやバチカンの大使を歴任された上野景文先生には、7月のサロンで、グアテマラを中心に日本と比較したアミニズムのお話をしていただきました。同日は、アミニズムとの対比で一神教(カトリック)総本山・バチカンについてもお話頂くはずでしたが、アニミズムの話で時間切れとなり、バチカンの話を伺えなかったことから、ぜひ続編をとの声が多数あり、その結果、バチカン編を本日お話いただくことになったわけです。先月23〜26日、フランシスコ教皇が来日されましたが、その来日が持つ意味についてもお話を伺えるのではと期待しております。それでは上野先生、よろしくお願いします。


講演要旨

I イントロダクション


 8年前までバチカンで大使をしておりましたためか、先月の教皇来日の前後2ヶ月は、TVや新聞に追い回されました。今日は、教皇の来日絡みで考えたことをお話しします。が、その前に、バチカンについて若干おさらいをします。


I-① 17年前の熱狂

 2001〜04年、私は中米のグアテマラで大使をしておりました。そのときにかのヨハネ・パウロ2世がグアテマラとメキシコに来られ、大きなミサがありました。驚いたのは、今回の後楽園ドームのミサの6万人を大幅に上回る35万人の人が集まったことです。後楽園の6倍から7倍の人が会場の競馬場を埋め尽くしました。若者が多く、「パパ大好き」のコールがあちこちから上がりました。今回の後楽園ミサの実況を見た外務省の先輩が、「上野君、これはキリスト教ではなく、教皇教じゃないか!」と驚きを示しましたが、グアテマラの熱狂ぶりはもっとすごかった。大使席、私のそばにいたメキシコ大使などは感涙が溢れ、彼女の顔はぐちゃぐちゃになっていました。カトリック信者にとっては、教皇を直かに拝することがどれだけ素晴らしいことかを実感しました。
 当時私は読売新聞の文化欄に時折寄稿しており、教皇来訪についても書きました。教皇は、パパモービルと呼ばれる自動車で空港から宿舎へ向かわれたのですが、市内各地域の町内会が道路一面に着色したおが屑で絵を描いて迎える。車がその上を駆け抜けると、沿道の人たちは一目散に道路に飛び出し、散り散りバラバラになったそのおが屑を瓶に入れて持ち帰った。あたかも高校球児が甲子園の土を持ち帰るが如くに。という点を読売に書いたことを思い出しました。
 教皇のグアテマラ訪問は、新聖人を創ること(列聖)が目的でしたが、その聖人ゆかりの教会では、遺体の入った廟に触れながら涙を流すひとが多い。涙なり感激がないとカトリックは成り立たないと感じました。
 (画像)これは6年前、現教皇がブラジルへ行かれた時のミサですが、これにはグアテマラもびっくり、何と85万人が参加しました。85万人となると競馬場も間に合わないので、ビーチそばの大通りを使った。日本のTVは、教皇はロックスター並みと言っていましたが、通常のスーパースターではとてもかなわない、そういう存在です。


I-② 何故バチカンに

 外交官をしていて分かったことは、特に一神教を奉じる文化圏の人々に日本のことを説明するためには補助線が必要だ、その補助線としては、日本文化の根っこにあるアニミズムが有効である、ということです。そこで25年前頃から雑誌や新聞に持論を発表してきました。アニミズムは多神教の中でも最も多神教性の強いものです。その対極が一神教です。2006年頃、最後のポストはどこがいいかと思いを巡らせたとき、一神教の総本山・バチカンに乗り込んで文明対話をするのも悪くないと考えました。そういうことでバチカンに行かせてもらいました。
 当然相手側は私の宗教的バックグラウンドが気になる。私は現地では、自分は「ブッディスティック・シントウイスト」であると告げることにしていましたが、皆何となく分かったような顔をしてくれました。


I-③ バチカンに赴任してみると

 現地は文明的刺激に富んだところです。かつてのモスクワ、それに北京(今でもそうですが)では、色々な分野のトップクラスを中央に引き抜き、英才教育をします。学芸・芸術はもとよりスポーツに至るまで。カトリックも同じで、アフリカであれ、中南米であれ、優秀な人材を引き抜いてバチカンに集め純粋培養する。ですから、バチカンには、PHDを2〜3持ち、ラテン語、ギリシャ語、さらには、ヘブライ語、アラム語などを操る猛者がいます。大変なところです。頭脳明晰な彼らを通して見た西欧、東欧、米国、さらにイスラム世界は、日本から見える景色とは違います。そういう意味で、新鮮で、参考になることが多い。ただ、いかに優秀であっても、彼らが得手でないものがひとつある。それは仏教です。キリスト教は基本的にロゴスの世界ですから、論理で組み立てていく、それではどうしても捉えきれないものがあるのが仏教です。なので、仏教について彼らに意見を求めると暗い顔になります。しかし、それ以外について語るときは自信に満ちた顔つきになります。
 大使は赴任国に行くと最初の数ヶ月は、任国の要路に挨拶回りをします。バチカンには3つの裁判所を含めて30ほどの役所があります。ある役所の長官(長官は大方枢機卿です)に挨拶したとき、私から「自分はあなた方と文明対話をするために貴国に来た」と言うと、枢機卿は嬉しそうな顔をして、「あなたが文明対話のためにバチカンに来たというその判断は正しい」、「なぜなら、文明は我々が創ってきたからだ」と言いきりました。彼のいう文明とは、「西洋文明」のことです。それまでの40年近い外交官生活の中で、さまざまな国の人と交わりましたが、「文明は我々が創った」と豪語したのはこの人が初めてでした。180に及ぶ国の違いを超え、また、多数の言語・文化の違いを超えて、カトリック世界全体を束ねるには、その位の自信が必要なのだと感じました。


上野景文先生


II おさらい――「基本」の確認

 そこで、本論に入る前に、バチカンにつき、若干おさらいをさせてください。


II-① カトリック(教会)の特異性

●継続性・世界性
 最初に申し上げたい点は、カトリック教会は「特異・異常な世界」だという点です。否定的な意味で申し上げている訳ではなく、「普通(尋常)ではない」という意味です。どういうことか。一般的に宗教は分裂するのが「常態」です。たとえば日本。日本には、文化庁に登録されている宗教法人が18万2千あります。加えて、県(知事)に登録されている宗教団体が多数あります。さる新宗教など、この50年の間に8つに分裂し、ここへきて更に分裂する気配を見せています。それから、プロテスタントですが、かれらの場合、個人が神と直接対話するわけですから、個人が様々な解釈をなし得る構造になっています。極論すれば誰でも新しい宗派を創れます。その結果、世界全体ではプロテスタントの宗派数は3万3千に及び、なおかつ、毎年300くらい増えているそうです。
 これに対し、カトリックは、(大きな分裂が何回かあったものの)2千年にわたり「ひとつの宗派」としての一体性を守り、継続性を維持する一方で、世界中にネットワークを形成しています。これは、宗教の「常態」に照らせば、「異常」以外の何ものでもありません。それではこの継続性、世界性をもたらしているものは何か。

●教皇の「絶対的」権威+権力
 それは一言で言えば、教皇の持っている「絶対的権威と権力」に他なりません。この権威をベースに、教皇は強力な「求心装置」として、全体を束ねます。かれらは、言わば「教皇本位制」なるものを確立した。キーワードは「絶対」です。日本文化にはこの「絶対」という要素が希薄で、相対主義が強い。そのため、この「絶対」ということは、我々にとって体感しにくいところはありますが、「絶対」という点にカトリック教会の本質があります。なお、かつての教皇の中には怪しげな人物もいました。が、個人としての教皇でなく、教皇という「装置」そのものの中に、カトリックという特異な世界を維持する秘密が隠されているように思うのです。
 それではその教皇の正統性はどこから来るのか。簡単に言えば、聖書の中のキリストの言葉にオリジンがあります。キリストは、「自分亡き後、羊(信徒)の世話はお前がするように」と、第一の弟子ペテロに命じた。ペテロは後にローマに出てローマ司教になりました。今でもローマ教皇はローマ司教を兼ねています。このキリストの言葉に教皇のオリジンがあり、その後2代、3代と続く歴代教皇はこのキリストから与えられた使命を順次継承して、今日、266代目に至っているわけです。


II-② 概念整理・・・・教皇/HS/VCS/教会

 次に、幾つかのキーワードにつき、概念整理をしましょう。

●ローマ教皇
 3階建てのビルをイメージしてください(概念図)。ローマ教皇は最上階(3階)に相当します。その下(2階)を占めるのがHS、VCS(後述)、その下(1階)に根を張るのが世界のカトリック教会です。

●HS(HOLY SEE:教皇聖座)
 教皇のすぐ下(2階)にあって、教皇と一体となって、世界カトリック教会を統治する宗教機関を「教皇聖座(Holy See:以下HS)」と言います。このHSは2000年にわたって教皇を支えて来たカトリック世界の総司令部です。ところが、このHSは同時に教皇の外交を手がける機関でもあります。そういう意味、世俗的な面もある。国際社会においてHSは国家の扱いを受けています。ここが分かりにくいところで、HSは、宗教機関でありながら、国家としての顔を持つという意味で、二面性を持っています。

●VCS(Vatican City State:バチカン市国)
 このVCSは90年前に突如出現したものです。HSは国土がありませんでした。近代的な国民国家のシステムにはまらない。国土があった方がよい。そこで90年前に関係国が協議して、HSを安置する「容器」を創りました。それがバチカン市国(Vatican City State:以下VCS)です。不動産屋的存在です。HSは世界のカトリック教会を従え、それらと繋がっていますが、VCSは繋がりがない。教皇に仕え、HSと連携はしていますが。

●「2つの国」=HS、VCS
 教皇傘下にあるHS、VCSという2つの国は、いずれも国際法上認められた国家です。その違いは、繰り返しになりますが、以下の通りです。
 ・HS:2000年の歴史/世界(の教会)と繋がる/統治/外交
 ・VCS:90年の歴史/0.44km2 /管理(バチカン宮殿や美術館/切手、コイン、通信)

●「教皇外交」は、HSが手がける
 ここで重要なことは、外交はHSが手がけるという点です。国連、UNESCOなどの国際機関への参加も、HSが手掛けます。ただ、VCSは切手発行や通信を管理していますので、その関係の国際機関、例えば万国郵便連合への参加はVCSが手掛けます。

●バチカン(通俗的呼称)=HSもVCSもあり得る
 報道などでは、以上の区別は気にせず、単に「バチカン」ということが多い。この俗称ですが、HSを意味する場合もあれば、VCSを意味する場合もあります。HSを意味することが結構多い。私の以下の話しは、この「俗称」としてのバチカンということでお話します。

●参考
 以上は、カトリック教会についての話ですが、この3階建てのビルを否定しているのがプロテスタントです。カトリックは2000年にわたる解釈の積み重ねを通じ、教皇の権威を認め、教会の役割を認める。更に、聖人なども大切にします。純粋な一神教から外れますが、ある種のリアリズムがあります。プロテスタントは、この解釈の積み重ねを否定し(すなわち、歴史を否定し)、リアリズムより純粋なイデオロギーを重視する。純化思想と言ってよい。比喩的に言えば、カトリックはワインなどの醸造酒であるのに対し、プロテスタントはウィスキーなどの蒸留酒、そういう肌合いの違いがあります。


II-③ バチカンは「近代国家」にあらず
 もう一点明確にしておきたいことがあります。バチカンは「近代国家」ではない、という点です。近代国家というのは、国民国家/民主主義/政教分離を要件とし、それらを旨とするのが普通です。バチカン(HS)には、国土も国民もありませんから、国民国家ではない。民主主義は国民主権がベースですから、民主主義は原理的に成り立ち得ない。むしろ、バチカンでは立法・行政・司法の三権が全て教皇の手中に集中している。専制主義体制(autocracy)と言うべきものです。バチカンの高官もそれを認めています。言うまでもなく、政教は一致している。つまり、近代国家としての3要件を満たさない。いわば中世の生き残りなのです。中世には、十字軍の騎士が創ったミニ宗教国家(ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団など)が色々ありました。それらの多くは、近世以降消滅しました。その中で、宗教国家として唯一生き残ったのがバチカンです。したがって、前近代的色彩(プレモダン)が濃い。


II-④ 絶えざる「超VIP」による「教皇詣で」=教皇の磁力は?

●絶えざる「教皇詣で」
 プレモダンであるにもかかわらず、バチカンの実態を見ると、世界の「超VIP」がひっきりなしにやって来ます。私は2010年に離任しましたので、古い話になりますが、たとえばブッシュ大統領(息子の方)。8年の大統領任期の間に7回やってきました。彼はエヴァンジェリカル、ばりばりのプロテスタント保守ですが、なぜか教皇が大好きでした。それからプーチン大統領。当時首相でしたが、3〜4回は来ました。その後も何回も来ていますので、今日までですと7〜8回は来ているのではないか。イギリスのトニー・ブレア首相も熱心で、4〜5回は来ました。後任のゴードン・ブラウンも数回。
 このように、カトリック国だけでなく、プロテスタントや英国国教会、東方正教会などの国からの「教皇詣で」も盛んでした。更に、イスラム国、仏教国からも超VIPが来ました。エジプトの大統領、サウジ国王、スリランカ大統領王などなどです。
 ですから、バチカンは世界の先端を行っているようにも思えました。プレモダンでありながら、先端を行くという、この2つの間のギャップが面白い。

●「数」の力/「権威」の力/超ソフトパワー
 以上ように、世界の「超VIP」を惹きつける教皇の磁力の源は何か?第1は数の力です。世界には、教皇の背後には13億人のカトリック教徒がいること。第2は「権威」の力。「西欧の奥の院」という感じがします。第3は、後述しますが、教皇が持つメッセージ力。「超ソフト・パワー」と言って良いでしょう。それらが相俟って、世界の「超VIP」を惹きつけている、というのが実態です。


III 本論1・・・フランチェスコ教皇の登場(2013年3月13日)

 いよいよ本論に移ります。先ずは、フランシスコ現教皇をどう見るか。フランシスコさんがもたらそうとしているもの、あるいはもたらしたものは何か。それらをお話しします。


III-① 3つの「異例」性

●「異例」な教皇
 7年前、世界の脚光を浴びて登場したフランシスコさんは極めて「異例」な教皇です。3点挙げておきます。
 先ず第1に、1300年ぶりの非ヨーロッパ出身教皇であり、新大陸・南米からの初の教皇という点。南米というのは、バチカンという「中心」から見れば「周辺・周縁」です。これまでの教皇は「北」出身でしたが、初めての「南」からの教皇です。
 第2に、初めてのイエズス会出身教皇であるという点。500年間世界で活躍して来たイエズス会ですが、これまで教皇は出していなかった。修道士というのは、清貧、奉仕、自己犠牲を旨としており、宮廷文化的なバチカンとは対極の世界。ブエノスアイレスの修道士と言えば、「前線(フロンティア)」の精神、文化を体現する人であり、その意味でも、中央(バチカン)の対極にある。
 第3に、フランシスコという教皇名を頂いた訳ですが、これも初めてのこと。このフランシスコは、12〜13世紀にアッシジに現われ、「キリストの再来」と言われた聖フランチェスコに由来します。これまでの教皇は、フランチェスコが「偉大過ぎる」ということから、教皇名に使うことにためらいがあった。が、ブエノスアイレスのベルゴリオさんは、貧しい人、弱者、差別を受けている人に寄り添い、ひいては自然すら愛し、これを取り込んだと言われる聖フランチェスコに傾倒し、かれの「包摂の文化」に共鳴していたことから、教皇になると、躊躇なくフランチェスコを名乗ることにしました。
 以上まとめれば、フランシスコさんは、極めて「非バチカン的」な教皇と言えます。

●参考:生い立ちについて
(画像)これはホルヘ・ベルゴリオさんが育ったブエノスアイレス近郊のフローレスという地区の今の風景です。80年前はこんな高層ビルはなく、スラムもあったということです。
(画像)これは中心部にあるサン・ホセ・デ・フローレスという教会です。ベルゴリオさんが幼少期通っていた幼稚園の先生は、教皇就任時にインタビューに答え、「ホルヘ少年はじっと席に座っていることが出来ず、絶えず動き回っているタイプの少年で、『小さな悪魔』と呼ばれていた」と語っていました。かなりやんちゃな少年だったのでしょう。
 お父さんは北イタリアのトリノに近いピエモンテ出身です。そこからアルゼンチンに移住し、転々とした後1932年頃フローレスに定住しました。同地区は、イタリア、スペイン、ユダヤ、アルバニア、地中海系などの移民が多く、ブルーカラー層の多い処です。通っていた小学校には有名なサッカーOBが訪れ、ベルゴリオ少年もこれに興じた。今日に至るまで一貫して、地元のサッカーチーム、サン・ロレンツォのファンだそうです。
 戦後のアルゼンチンはペロン大統領、いわゆるポピュリズムのはしりの人ですが、彼が国民をまとめました。マルクス主義でも市場主義でもない「第三の道」を志向しながら、労働者階級に受けの良い政策を打ち出した。フローレス地区では、ベルゴリオ青年の親戚筋、近所の人たちを含め、親ペロン的な人が多かったようです。ですから、ベルゴリオ青年も、このペロニズムの影響を受けたようです。当時のペロニスタはイエズス会と仲が良く、政党綱領もイエズス会の神父が書いたと言われています。アルゼンチンのイエズス会は、労働組合とも仲が良く、ベルゴリオさん自身、労働組合との人脈を持っていました。

●人懐っこさ
 もう1点つけ加えると、フランシスコさんは人との触れ合い(コミュニケーション)が大好きというか、大切にする人です。書斎派ではありません。町に出て、人々に溶け込み、触れ合うのが大好き。後楽園のミサの際も、会場内で子供や赤ん坊を抱き上げて抱擁する、その表情は輝いていました。他方、セレモニーは好きではないらしく、ミサを主宰しているときの表情は退屈そうに見えます(笑)。イエズス会のさる人から聞いた話ですが、教皇にもふたつタイプがあって、官僚の書いた原稿をそのまま読む人と、それは参考程度にとどめて自分の言葉で話す人とがいると。フランシスコさんは後者で、言葉に力があり、パフォーマンスにも力がありますね。そういうカリスマ性が、人気のベースにあるのでしょう。


III-② フランシスコ教皇の文明的、歴史的「挑戦」=パラダイムの転換

 では、この「異例な」教皇フランシスコは、カトリック世界を如何なる方向へ導こうとしているのでしょうか。フランシスコさんは、カトリック世界のパラダイム転換を図るべく、3つ文明的、歴史的挑戦をしている、と私は見ています。

●「貧しい人」へのシフト
 まず第1に、貧しい人、差別された人、罪深い人、弱者、難民、受刑者など、社会から排除され、疎外された人に手を差し伸べよと説きます。「排除の論理」から「包摂の論理」へ転換せよということです。

●「南」へのシフト
 第2に、カトリック世界の重心を「北」から「南」にシフトせよと説きます。従来の「欧州中心主義」から脱皮せよということでもあります。

●「周辺」へのシフト
 併せて、バチカンのエリートによる支配」、中央集権から脱し、分権型にシフトせよと説きます。中南米には「中南米らしい教会」があって良いという考えです。一般人の視線に立ってものを考える教皇という意味で、“People’s Pope”(民衆の教皇)と呼ぶ人もいます。


III-③ 蓋を開ければ・・・「フランシスコ色」が溢れる

 上の3つの転換を志向して始まったフランシスコ教皇の時代ですが、蓋を開けてみたらどうなったか。この6〜7年を振り返ると、フランシスコ色がかなり出て来たと言っていいと思います。

●「包摂の論理」への転換
 例えば、離婚者やゲイなどカトリックの規範から外れる人たちは、これまでミサからある程度排除されて来ました。が、フランシスコさんは、「彼らといえど、神の前では平等である」、「排除するな」と説きます。教会は締め出すのでなく、暖かく包みこむべきだとのこの発想は、グレアム・グリーンや遠藤周作にも通じるものがあります。
 教皇は、長年差別されて来た先住民との交わりを重視しています。特に南米の先住民ですね。出身母体であるイエズス会は1500~1700年にかけて、パラグアイやブラジルに先住民共同体を設け、宣教した訳ですが、彼らの施設・事業は、先住民を奴隷として売買する植民地勢力に対する防波堤になっていたと見る学者もいます。今でも中南米の教会は、先住民擁護の立場に立つところが多いようです。更に、教皇の受刑者に対する思いやりも定評があります。

●「南」・「周辺」へのシフト
 教皇は、貧しい「南」と富裕な「北」の間の格差問題と、環境劣化問題は、表裏一体の関係にあるとすると共に、経済格差の解消の中で環境問題を解決していかなくてはならないと説き、環境問題につき強いメッセージを出し続けています。「北」の過剰消費が今日の環境問題を悪化させている大きな要因であるということです。「北」は文明的転換を果たし、シンプルな(質素な)生活に戻るべしとも説きます。聖フランチェスコに通じる考えです。2015年6月には、そういった見解を集大成した回勅 “Laudato Si”(神の讃美)を発表しました。これは環境問題についてのバイブル的存在になっています。
 外遊面でも、「南」に重心をシフトさせています。好例がアジアへの訪問です。前教皇ベネディクトさんは西欧中心主義が強く、保守的な思想の持ち主だったことも手伝い、在位8年間、アジアには全く足を踏み入れなかった。これと対照的に、フランシスコさんは、既に日本を含む7カ国を訪問しましたし、中東のイスラム諸国にも足繁く行っています。今年(2019年)の5月にはアラブ首長国連邦も訪問しましたが、歴代の教皇でアラビア半島に足を踏み入れたのは彼が初めてです。アフリカにもよく行っています。
 更に、人事面でも、「南」へのシフトは進んでいます。教皇を選ぶコンクラーベは80歳未満の枢機卿が投票するのですが、80歳未満の枢機卿120人に占める出身地域の状況を見ると、
◎フランシスコさん就任前の2013年には、欧州出身者が61人(52%)、「南」出身者が44人(38%)でした。欧州のカトリック教徒は世界の1/4ですが、枢機卿は52%を占め、優遇されていました。ですから、コンクラーベでは欧州出身者が選ばれやすいメカニズムがビルトインされていたわけです。
◎ところがこの6年の間に入れ替えが進み、西欧出身者は41%に低下、逆に、「南」出身者が48%に増えました。従来枢機卿の称号をもらっていたベネチアやトリノの大司教は、枢機卿にしてもらっていない。(ということで、「既得権」を奪われたイタリア系聖職者の間では、不満が鬱積しているようです。)

●余談――IOC、FIFA、バチカン
 ローマにいる時に、あるアメリカ人ジャーナリストがぼやいていました。曰く、世界にはグローバルな機構でありながら、英語が必ずしも尊重されていないものが3つあると。IOC(国際オリンピック委員会)、FIFA(国際サッカー連盟)、そしてバチカンだそうです。確かにバチカンでの英語の地位は高くない。この3機関では、まだまだ西欧中心主義が強いということです。
 上述のように、コンクラーベでのヨーロッパ出身枢機卿の割合は4割に落ちましたので、バチカンは変わりつつあると言えます。しかし、IOCは今でもヨーロッパ人の発言力が5割強あり、かれらの発言力が維持されています。これをもっと平等なものにすべきではないかと、常々私は申し上げています。

●反エリート主義
 2014年暮れ、フランシスコ教皇はバチカンの幹部を集め演説を行いました。その中心テーマは、バチカン幹部、就中、枢機卿に対する批判でした。利己主義、出世主義、ご都合主義が強いなど、15の項目につき批判をし、「君たちの中には精神的アルツハイマーと言うべき人がいる」と批判したそうです。バチカン官僚に対する教皇の視線は、このように厳しいものがあります。

●アマゾン司教会議
 今年(2019年)の10月、アマゾン地域にフォーカスした司教会議がローマで開かれました。中南米の司教が集まり、アマゾン地域の、環境を含むさまざまな問題を議論しました。森林保全や先住民擁護などにつき、ブラジルのボルソナーロ政権とは真逆の発言や方針が打ち出されました。
 特に国際メディアが注目したことがありました。この会議の開始を祝ってバチカンでレセプションが催されました。アマゾンの先住民が民族舞踊を踊ったあと、地場の宗教を象徴する女神像が教皇に差し出され、教皇は手で祝福を与えました。これに対し、保守派の人たちは、「邪教を祝福するとは何事だ。教皇は規を超えた。」と噛みつき、その日の夜、その像をテベレ川に捨ててしまったそうです。教皇はかれらの文化を祝福したに過ぎないようですが、保守派にとっては格好の攻撃材料となったようです。
 このアマゾン司教会議は10月下旬最終文書を出しました。その中に教皇に対する注目すべき提言が2つ入っていました。まず第1に、広大なアマゾン地域に分散的に点在する多くの村々で日常的かつ普通にミサをあげることを可能とするためには、司祭数を大幅に増やすことが急務であることから、アマゾン地域に限っては、既婚者が多い助祭の司祭(神父)への昇格を認めるようにと提言しました。第2に、同じ理由から、同地域では女性の助祭への登用も必要と言うことで、検討を求めました。これに保守派は大反発しています。
 今後、教皇がどういう裁定を下すか、目が離せません。因みに、フランシスコ教皇の盟友であるブラジルのウメス(Hummes)枢機卿は、「アマゾンにはアマゾン人による教会があってよい」と言っています。教皇同様、分権主義に立つ同枢機卿ならではの発言ですが、この発言、「日本には日本人になじむ教会があってよい」という遠藤周作の発想とそっくりですね。かつて、日本のカトリック教会の大司教が同旨の発言をしましたが(アジア司教会議、1988年、ローマ)、バチカンからは無視されたことが思い出されます。今回は、ブラジルという周辺から中央へチャレンジが行われたということです。

●教皇への反発
 このようにフランシスコ教皇はいくつもの新方向を打ち出しています。先に触れた「3つの特異性」を有する教皇でなければ、そのような挑戦はあり得なかったことと思われます。これにバチカンなどの保守派が大反発していることも、既に触れました。ここ数年、教皇に退位を迫るポスターがローマ市内に張られたり、高僧から同旨発言が出されたりで、NYタイムズのさるコラムニストは、カトリック教会は500年前と同じような大分裂の危機にあると書いていました。


会場のようす


IV 本論2・・・・・フランシスコ教皇の来日

 最後に、11月の教皇来日を振り返って、5点お話しします。


IV-① 主要行事

 2019年11月23日(土)から26日(火)まで、フランシスコ教皇は日本に滞在されました。今回の来日を貫くテーマは「全ての生命を守ろう(Protect All Life)」というものでした。具体的には、環境保全と核廃絶、このふたつが中心です。加えて、中絶問題、これも生命を守ることで、力が入っていました。
 それらに沿い、24日には、長崎、次いで、広島を訪問し、被爆地での行事に参加しました。翌25日には、天皇陛下や総理との会見や、東日本大震災の被災者や青年代表との会見があり、後楽園球場でのミサが行われました。更に26日には、イエズス会、上智大学を訪問、学生に話をされました。


IV-② なぜ38年ぶりの来日か

 ところで、教皇訪日は38年ぶりのことでした。なぜ38年もブランクがあったのでしょうか。答えは簡単です。カトリック教徒が人口の1/200にとどまる日本は、バチカンにとり、優先順位が低いためです。では、今回日本政府はなぜ招待したのでしょうか。また、教皇はなぜ招待を受け入れ、来日を決意したのでしょうか。


IV-③ なぜ日本(政府)は教皇を招待したのか

 今回、日本からは2つの招待状が発せられました。1つは、日本のカトリック教会から(5年前)、もうひとつは、日本政府(安部首相)から(4年半前)でした。因みに、38年前のヨハネ・パウロ2世来日の際は、日本政府からの招待状はなく、日本の教会の招待のみでした。では、カトリック教徒が人口の1/200にとどまる日本の政府が、なぜ招待状を出したのでしょうか。
 一言でいえば、それは教皇が「スーパー外交官」だからです。先に申しましたが、教皇は「聖」(宗教指導者)と「俗」(国家元首、外交官)の2面性(ふたつの顔)を持っています。教皇は「絶えず発信する外交官」です。私はバチカンで何度となく体験しましたが、例えば、毎年1月に教皇は「王の間」(1585年にグレゴリオ13世に天正少年使節が謁見した部屋)に各国大使を招聘して、外交演説を行います。2007年には、ベネディクト教皇は40に及ぶ諸テーマ(貧困/市場主義批判/平和/核廃絶/難民・移民/国際機関活用/多国間外交などなど)につき、教皇・バチカンとしての所見を披露しました。宗教色は希薄です。カトリックを超えて、世界全体に関わる世俗の問題につき、所見を述べる。主旋律は平和主義、国際協調主義です。当時それを聞きながら、ローマ教皇の「やる気」というか、「意欲」を感じました。教皇はカトリック世界を超えて、国際社会全体の「ご意見番」、「国際社会の良心」、「平和の宣教師」だと。そう感じたわけです。まさに「スーパー外交官」、「スーパー・ソフトパワー」です。
 ですから、教皇との関係強化を図ることは、日本外交にとり理にかなったことです。その立場から、今回安部政権は教皇を招待したと私は理解しています。日本は「スーパー・ハードパワー」のアメリカと親しい訳ですが、それとのバランスを取る意味から、「スーパー・ソフトパワー」であるローマ教皇とも親しくすることで、日本の外交カードを増やすことは有意義なことです。


IV-④ なぜ教皇は訪日を決意――3つの「思い」

 それでは教皇はなぜ招待を受け入れ、訪日を決意したのか。直接お聞きした訳ではありませんが、私は3つくらいの「思い」があったのではと思っています。
 一番強いのは「核廃絶」への思いでしょう。歴代の教皇が、核廃絶には強いこだわりを持っていましたが、フランシスコ教皇はその思いが特に強い。ですから、2年前には、各国の教会に対し、被爆地長崎の火葬場で弟の火葬を待つ少年の写真が載ったカードを人々に広く配布するようにと指示しました。教皇は、この写真ほど核のむごさを雄弁に語るものはないとしており、世界的話題になりました。教皇は、「自分の目が黒い内に」非核化問題の原点である長崎、広島に行き、鎮魂し、メッセージを発することは教皇たる自分の責務であるとの見地から、招待を受けたということだと思います。
 第2に、教皇が就任以来進めて来た「南」(アジア、アフリカ・・・)への重心シフトを挙げておきたい。この新しい文脈の中で、アジアにも累次にわたり積極的に出向き、今回の訪日に至ったと言うことです。
 第3に、イエズス会士としてのベルゴリオさんは、若いときから日本と中国に対し特別の思い入れ(イエズス会士としてのDNA)があったことも挙げておきたい。500年前先ず同会士ザビエルが日本の扉を叩き、続いて、マテオ・リッチが中国の扉を叩いた。若きベルゴリオはこの二人のイエズス会の大先輩に続くべく、自分も日本で宣教の仕事をしたいということで志願したのですが、健康上の理由から却下されました。が、ブエノスアイレスの神学校長として、5人の弟子を日本に送りました。その多くは、現在なお日本で活躍しています。他方、昨年(2018年)9月には、教皇は中国との間で、長年の懸案であった司教任命問題につき合意文書を交わしました(バチカン保守派からは大きな反発が出ていますが)。今回の来日、あるいは、中国との和解につき教皇に決断を促したものは、このイエズス会士としてのDNAだったのかもしれません。


IV-⑤ 訪日の成果、意義

 最後に、今回の訪日の成果、意義につき、4点ほどお話しします。

●核廃絶
 現役の教皇が被爆地に出向いたこと自体、大きな意味があった。その上で、教皇は、長崎、広島から国際社会に向け、非核化問題につき強いメッセージを発しました。訪日のハイライトでした。発せられたメッセージを振り返れば、
・核の使用は「犯罪」である。
・核の保有は安全保障にはならない(核抑止論はすでに破綻)。
・国連で纏められた核禁止条約を成立させなくてはならない。
・破壊的な軍拡はテロ行為である。
・軍拡資金は貧困救済に向けられるべきだ。
など、よく整理され、明快かつ力強いメッセージが強い印象を残しました。世界の指導者に発信したことで、国際社会にどのようなインパクトがあるか、注目されます。

●その他のメッセージ――環境、震災、差別
 核の問題に加えて、環境、震災、差別についても発言しました。例えば福島の原発について、特別な思いを持っていると言い、帰りの機中では原発廃止の希望を表明しました。温暖化防止や弱者の擁護についても、国際社会あるいは日本社会にメッセージが発信されました。
 非核化を含め、これらのメッセージの中に今回の訪日の意義が凝縮されていたと言って良いでしょう。

●日本人へのインパクト
 それから、日本政府に対してだけでなく、日本人一般にとっても今回の来日はかなりインパクトがあったと思います。後楽園ドームでのミサや、被爆地でのミサやセレモニーなどは、TVでも盛んに報道されましたので、教皇が身近に感じられ、その役割への理解が進んだのではないでしょうか。
 11月初めに私が外国人特派員に教皇来日についてブリーフィングをした際、ある特派員から、「日本での教皇への関心は、アイドルというかセレブへの関心みたいなものにとどまるのでは」と聞かれました。私からは、「大半はそうかもしれないが、長崎・広島を中心に、特に西日本では人々は教皇のメッセージを深く受け止めることと思う」と答えました。実際、そのようなことだったのではないでしょうか。NHKは特に熱心に報道し、私も海外放送(NHKワールド)のスタジオに缶詰になって、縷々発言しました。25日午後には後楽園ドームのミサに出席しましたが、その直前の民放のワイドショーに出てくれと頼まれました。ですが、その前日、茨城で少女の誘拐事件が解決したため、各局ともそちらに転換し、出番はなくなりました(笑)。さすがの教皇も誘拐犯にはかなわない(大笑)。何はともあれ、各メディアが大きなスペースを割いて報道したことには意味があったと思います。
 重要なことは、今回得られたものが、持続するかどうか、さらには、どう将来に繋がるかだと思います。

●アジアとの距離感
 フランシスコ教皇は、この6年間の間に、アジア7カ国を訪問し、中国とも歴史的和解をしたことから、バチカンとアジアとの距離感はいくばくか縮まったと言えるでしょう。今回のタイ、日本訪問を通じて、おそらく更に縮まったことと思われます。
 ロンドン・エコノミスト誌は、少し前、世界の重心が「南」にシフトしているが、それと同じ事がカトリック教会でも起きていると語っていました。経済の重心シフトは、北米から東アジアへ、カトリック教会の重心シフトは、アジアだけでなく、アフリカ、中東、南米を含めた「南」全体へと言う点が違うが、世俗的な経済・政治の重心シフトと、カトリック教会のシフトは、同根のようだと、同誌は言っています。まさにそういう文脈の中で、フランシスコさんが登場したと言うことです。
 西ヨーロッパの教会では、世俗化・教会離れ、さらには、キリスト教離れが進みつつあります。ですから、バチカンから見ると、マーケットとしてのヨーロッパは将来性が低い。将来性があるのは、アジアとアフリカです。アジアでも、分母の大きなインドと中国が、やがて大きな地位を占めるでしょう。今から中国に楔を打ち込んでおくことは、バチカンから見れば理にかなったことと言えます。30〜50年後にはバチカンには中国とインドの司祭が溢れ、100年後には、インド人か中国人の教皇が出る、そういう感じがします。

●結び
 全体を通して、今回の教皇来日は良い成果を収めたと思います。重要なことは、それを一過性のイベントに終わらせず、日本、アジアに持続するものを残したかどうか、あるいは、それを継承していくことができるか、それに尽きると思います。以上で私のお話を終えます。


【参考】上野先生自著
「バチカンの聖と俗:日本大使の一四〇〇日」(かまくら春秋社・1500円+税)
「現代日本文明論:神を呑み込んだカミガミの物語」(第三企画・700円+税)

★ 2019年7月のことばのサロン
 「ある外交官OBのつぶやき①―アニミズムからバチカンまで」(上野景文先生)
 講演要旨とYouTube映像
 http://www.chikyukotobamura.org/forum/salon190727.html

(文責:事務局)

2020/7/7掲載