鉄とダイアモンド


「「危機言語」といわれているものには、どうしてダイアモンドのような希少価値がつかないのでしょうか」という質問があった。今年一月末に開かれた言語学会の「危機言語」シンポジウムでのことである。確かに「危機言語」といわれていることばはどれをとっても惚れ惚れするような見事な言語である。触れると、はまり込んでしまう。そして惚れ込んだ美人の薄命を知って、これは何とかしなければと思う。
 言語は情報や意思を伝達し合う手段だから、通用範囲が広いほど役に立つ道理である。だから人の交易が密になるほど、広い地域で役立つ言語が好まれる。そして狭い範囲にしか通用しない言語を話す人たちは、いきおい広域の通用語を習い覚えなくてはならなくなる。それだけではない。力の強いよそ者の言語が優勢であるところでは、先住者が先祖伝来の言葉を話すだけで抑圧を受けることが多い。そこへ「ことばの経済学」がやってくる。侵入者の言語に乗り換えないと生活に困る。果ては、抑圧の元凶とも思える自分の文化とその中心にある母語を葬り去ろうと頑張ってしまうひとさえ出る。親のことばなど、希少価値どころではない、出世の妨げにしかならないと言うわけである。背に腹は代えられないから、古きを捨て新しきに就くわけである。こうして先祖の言葉は媼に守られてやっと命脈を保つという仕儀になってしまう。こうして出来たのが「危機言語」であって、その圧倒的多数は侵略者に押しまくられた先住民族の言語である。
 一方、やたらに押しの強い言葉もある。英語、スペイン語、ロシア語、漢語などがそれで、『銃・病原菌・鉄』(J・ダイアモンド)に倣らえてこれらの言語を「鉄の言語」とでも名付けておこう。これらの言語の多くは、本物の銃・病原菌・鉄と一緒に先住民の言語を壊して広がったのであるから、つまりは侵略者言語である。今日流行の鉄の言語は、それ自身がとうの昔に「純血」ではない、遠征の途中と土着化の過程で多くが本来の体質を変えたからである。筆頭は何と言っても英語であって、見かけや味をどんどん変えて、もともとの音も文法も半ば失ってしまいながらも、浸食の手をゆるめない。最近では軍事・経済・技術のグロバリゼ−ションに乗って、世界の人々の日常必需品にまで成り上がった。   
 生物多様性の在るところ言語も多様であるという観察がある。それは種の交流が不便であったことの結果を見ただけでしかない。生物の種と違って、言語は交易の用具であるから、広く巧く使える方がいいにきまっている。だから、不便なものは淘汰されるべきあるという使用価値優先論も一面の真実を言い当てている。言語の文化的精神価値だけを見て、使用価値の効用を見ないならば、言語多様性の賛美は、つまるところ少数者言語を使う当事者の気を推し量ることを知らないような象牙の塔的な思い上がりに過ぎないという批判も正当である。
 しかし、しかし、それでも先祖伝来のこころの言葉をどうしても守ろうという人々が居る。そしてそういう人が一人でもいる限り『危機言語を守れ!』と懸命に助力する言語学者達も居る。
 ではどうしたらよいか。確かに負けはこんでいる。この局面を打開するには、どう見ても、時と場合によって、こころの言葉とメシの言葉を使い分けるという方策を追求する以外にはない。二つ乃至三つの言語を使い分けるのである。そしてヒトはずいぶんと昔から三つくらいの言葉を使って交易をしてきたのではなかろうか。確かに安定的な多言語使用を維持するのは非常に難しい。賢明な政策と地道な努力を積み重ねなくてはならない。個人的にも社会的にもかなりのコストが要る。だが他に道はないのではなかろうか。
 ある時、スイス東南のク−ルという町の駅に降り立った。見ると看板がすべてドイツ語・イタリア語・ルマンチ語の三言語表記である。このグラウビュンデン州の条例では、公文書はすべて三言語表記、公務員は三言語ができないと不採用、移住者は少なくともルマンチ語が分からないと住民登録ができないということであった。
 またある時、千歳空港で旧知のアイヌ文化研究者(和人)とばったり出会ってお喋りをしていた。そのとき発着便のお知らせが響いた。日本語と英語である。「アイヌ語で『ようこそ
北海道へ』という挨拶くらいあってもいいじゃないね」と意見が一致したものであった。

「鉄とダイアモンド」『言語』2004-11所収


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