母語と国語と母国語と
                    ことばの「内向きの民族主義」に抗し

  

母語、国語、母国語などの用語を勝手に解釈して短絡的な論議をすることが流行っています。これらの概念を意図的に混同して我田引水式に眉唾ものの立論に誘い込むことさえもあります。ここでは今日流行のいかがわしい誘いに乗らないように、これらの概念を整理しておきましょう。

1.母語と個別言語

母語=母の胎内で聞いたことば
母語は母の胎内で聞いたことばです。私たちがまだ母の胎内にいたときに何をどう聞いたについてその詳細は今のところよく分かっていません。しかし周りの人達の話し声やその響きを感じてとって、母の話す言語、例えば日本語盛岡方言の独特の音に慣れ親しんでいたのだと思います。その独特の音の特徴をとらえるために特有な脳神経組織がつくられて始めたのでしょう。もちろんそれで盛岡方言の音素体系が出来上がるまでには到りません。しかし少なくとものそのための生理的準備はこの時期に既に始まっているのでしょう。

ことばの遺伝形質
人間の子供はことばを話せるという遺伝的形質をもって生まれてきます。コンピュータに例えて言えば、何かのことばを話すことのできるための汎用性のOSを仕込まれて生まれてきます。しかしそれだけではまだことばは出来ません。このOSに日本語とか中国語のようなソフトをインストールする必要があります。健常者ならば誰でも生まれてすぐにその仕事にかかります。しかしこのソフトはかなり大きいので、きちんとインストールするに7年から13年かかります。この期間が言語習得期間と呼ばれています。

ことばの遺伝形質のことを「普遍文法」と名付けた人がいます。ノーム・チョムスキーです。ヒトという種に固有で、しかも誰でもが所有する性質だからです。この普遍文法は日本語とか中国語などの個別の言語に触れないと発現しないと考えられています。普遍文法に個別言語をインストールしてはじめて或ることばが生まれるということになります。

ことばと個別言語
「ことば」ということばはあいまいです。これを「言語」と言い換えてもまだはっきりしません。ヒトの遺伝形質としての普遍文法、つまり言語使用能力も、それが具体的に発現した個別言語もことば、言語です。ことばというもの、言語一般という概念も必要です。ですから概念をはっきりさせる必要のあるときには、用語の意味を特定する必要があります。
まず、ヒトの言語使用能力をいう場合、シジュウガラのことば、バンドウイルカの言語などと区別するために「ヒトの」言語というように限定詞をつける必要があります。次に、それが母語習得によって特定の言語集団に参入したときには、その言語集団の言語を「個別言語」と言い慣わしています。日本語や英語などの具体的な言語です。しかし日本語には単数・複数を示す標識がありませんから、ひとつの、幾つかのという単複の個別言語を示すときは不自由です。単複いずれも個別言語と言わなければなりません。第三に、いわゆる言語という意味の「言語」は、ヒトの言語能力を指す場合も一つの又は多数の個別言語を指す場合もあります。「ことば」や「言語」を使うときには特に誤解の起こらないように注意して、必要に応じて適切な限定詞をつける必要があります。

母語は一つ
 生みの母は一人ですから、母語は一つの筈です。しかし普遍文法に個別言語を刷り込むとき、母の母語がインストールされるとは限りません。何らかの事情で別の人の言語が刷り込まれることもありますし、父や身内が違った(個別)言語を話すときには、それが刷り込まれる場合もあります。刷り込みが言語習得期の0才〜7・13才までに行われると、母語が二つになることもあります。異言語夫婦の子供達が二つの言語を使い分けているはよく見かけられます。しかし母語が三つになることはわりに稀です。祖父母が夫婦と違ったことばを話す場合とか父母の使う言語と初等教育の言語が違う場合にみられる程度です。
 母語はいくつの個別言語まで可能かという問にははっきりした答がありません。また二つ以上の母語習得が他の能力にどんな影響をあたえるかもはっきりしません。しかし言語習得期が終わる頃になると、そこで新しいまた(個別)言語を覚えようとしても、最初の刷り込みとは違ったプロセスが起こると考えられています。脳内の長期記憶機構に別のファイルを作らなければならないからかもしれません。

2.国家のことば・教室のことば

「国語」は意味が二つ
「国語」という用語は少なくともはっきりと違う二つの意味があります。

(1)或る国家の公用語 (以下、必要に応じて国語1と表します)
(2)教科としての「国語」(以下、必要に応じて国語2と表します)かです。

 仮にこれらがたまたま同じ個別言語、例えば日本語であっても、互いに違う社会的な分野で働く概念です。一つの国家で幾つかの国語や公用語を制定することがあって、そのうちの一つしか学校教育用の教材になっていないという場合もありますから、この二つを混同すると複数の個別言語を抱えた国家では言語政策を理解したり、立案したりすることが難しくなります。
 またある人の母語やある民族の(個別)言語が国家の制定した国語とは違うことがあります。先住民族の言語は多くがこのような目に遭っています。
 言語というものは意思・情報伝達手段ですからそれぞれにかなりの広さの通用範囲を持ちます。そ社会的単位は普通民族とかエトノスといわれる集団で、その言語が民族語です。これが大抵の場合に個別言語をなします。一方、国家というものは自然的な人間集団ではなく、人為的な権力の単位ですから、原則として民族やエトノスなどの個別言語の範囲とも地域的な方言の範囲とも一致しません。この不一致は政治的恣意による囲い込みの結果です。民族やエトノス集団が恣意的に作られた政治的な国境の中にたまたま住むことになってしまったわけですから、もともと国家の中にはいくかの異なった集団の個別言語が含まれているはずです。少なくとも一様に見える場合もいくつかの方言を含みます。ひょっとしてその方言も昔の異言語の名残かもしれません。ですから、国家語と民族語・エトノス語とはもともとそれぞれ違ったものです。それが同じ時はむしろ偶然の一致と考えていいでしょう。そうすると次の式が成り立ちます:

(3)母語≒個別(民族・エトノス)言語国語

国語は一つとは限らない
 国語(国語1)は、近代国家が定めた国民の公用語のことです。それは17世紀末にヨ−ロッパで国民国家が作られたときに生まれた制度の一つです。フランスでは、フランス革命直後にフランス語を新生国家の唯一の国語(ラング・ナシオナ−ル)と定め、ブルトン語、カタルニア語、アルザス語などは地口(パトア)とされて、公的には使えなくなりました。以来現在では多民族を含む国では、多くの場合にいくつかの言語を国家の公用語と定めたり、一つを共通公用語、そしてその他の幾つかの民族語を地域的に限定して第二公用語とすることがあります。
 公用語を使かう領域は、その決め方によって違います。全ての公用語を同じ資格で通用させるわけではありません。公文書、地名、教育言語などで差をつけることも行われます。例えば、スイスの一州グラウビュンデン(グリシュン)では、この州で公務員になるためには土地の民族語レト・ルマンチを「分からなければならない」という州の条例があります。
 国家が一つか幾つかの個別言語を公用語にするときには、人権に配慮した綿密な規定が必要です。使い方を限定した言語法を制定する必要があります。一方、国家は特定の個別言語を禁止にすることもあります。その場合、法的にではなく、権力的に抑圧するなどのさまざまな程度があります。アイヌ語のように公的使用を禁止されたような場合も、一時期のソ連のように路上で民族語を話しているだけで検挙されるような場合などがあります。

日本国の国語
 日本で「国語」という表現が行き渡るようになったのは、明治の始め頃です。当時の多分に国家主義的な国語学の権威、上田万年(19671937)の政策や研究計画がその源でしょう。特に1894年の講演「国語と国家と」が象徴的です。ここからしても、「国語」は始めから国家主義的な概念でした。しかし日本国の公用語が日本語であるとは、日本帝国でも日本国でも憲法にも教育基本法にも書いてありません。自明の理とされて、不文律に決められてきたのです。
 従来から日本で使われていた個別言語は、日本語の諸方言、アイヌ語、それに、もし独自の言語だとすれば、琉球語又は沖縄語の三つでした。アイヌ人は旧土人と規定されて、同化の対象とされたので、為政者の念頭には、アイヌ語を公用語とするなどという発想は全くなかったようです。沖縄は第二次琉球処分ですでに1872(明治5)年には、独立の言語社会とは見なされなくなっていましたから、当時の為政者の関心はもっぱら日本語諸方言から統一日本語を作るかという問題でした。その過程は『国語元年』(井上ひさし)ような面白可笑しいお芝居ではなく、特に地方の教育現場では「方言札」を使った厳しい差別教育を伴っていました。

国語賛美のお話し
 国語を賛美する話しは沢山あります。それは一面では国家の内向的な統一のために、他面ではそれと裏腹に国家の対外的行動のために利用されることが多くありました。そこでききまって引き合いに出されるのがアルフォンス・ドーデーのお話し(「最後の授業−アルザス一少年の物語」『月曜物語』1783(岩波文庫など)です。この短編ほど誤解と曲解が横行してきた作品は稀です。要注意です。この作品はつまりは普仏戦争(1870−1871)末期の敵愾心・愛国心高揚のための宣伝文にすぎません。その歴史的意味については田中克彦『ことばと国家』(岩波新書175)、具体的事実については金子亨「アルザス語の現在」『先住民族言語のために』1999草風館が役に立ちます

小学校の教科としての国語(=国語2)
 小学校では「日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと」(学校教育法2−18−4)が教育目標の一つと定められています。そのために教科として国語が社会・算数・理科など並んでおかれています。この教科国語で実際に何を教えるかは、小学校学習指導要領[国語]によると「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる」と定められています(第2章第1項1「目標」)。
 ここでいわれている国語とは、日本国での日常に必要な国語というのですから、日本の今の社会で普通に使われている日本語の共通語のことでしょう。これが教科国語の中身です。そして国語教育の目標は今日の日本共通語の理解・運用能力の開発ということになります。

小学国語の教材
 小学国語教育の目標がこのように日本共通語の理解・運用能力の開発ですから、教材の中身はもう古い教養主義的な古典を中心にしたものではありません。それに不満をもらして教養の衰退を嘆く人もいます。たしかに小学国語のなかで日本語をめぐる文化を継承することは大切です。しかしこの仕事は日本語を使う人々が一生をかけて培っていく仕事です。小学国語はその手がかりをあたえることで十分でしょう。

教室で使う言語
 日本の小学校では教室で日本語を使うことが当たり前で、話題にさえなりません。しかし教室にいくつかの民族語を使う生徒がいて、教育言語がそれと違うときには、深刻な問題があります。例えば、いわゆる帰国子女のなかには、数の計算は英語でしかできない生徒がいました。これから小学校で英語が必修化される可能性もあるのですから、日本国内の小学校でもこのような問題が起きることを知っておく必要があります。

3.母語と母国語

母国語のなまりなつかし
 母国語は「母国の語」であって、「母の国語」ではありません。また「母語と国語」や「母語即国語」の縮約とするのはどうみても無理です。母国語が母国の語であるとすると、それは国語でも母国内の(諸)民族語でもいいわけです。自分の生まれた国で使われている言語であれば母国語と呼んでよいことになります。ところで『広辞苑』第一版(1952〜1973)の該当項目には「主として外国にあるものの言う語」というコメントがあります。ですから、外国にいる者が自分の生まれた国のことばを指すいうのが一番素直な読みでしょう。外国での長逗留のとき日本語が聞きたくなって空港にいってみるという感じ一番使い勝手のよいことばです。
                                                     
母国語と「祖国語」
 『広辞苑』第三版(1983〜)の「母語」の項には、括弧付きで「母国語というと国家意識が加わる」とう注記があります。「私の母語は琉球語(沖縄語)です」はごく普通ですが、「私の母国語は琉球語(沖縄語)です」と言われると、はてと思います。この人は琉球語(沖縄語)にたいして特別な思い入れがあるなと感じられるからです。母国語という表現は少なくともこの程度の思い入れを伴いますから、母語とすっかり同じ意味の語ではありません。そのために、「母国語は民族としてのアイデンティティであり、民族の文化伝統そのものである」というようなこじつけまでまかり通ることにもなります。
 母国語という表現に国家意識が感じられるとして、「祖国」という表現に対する思い入れは世代や体験によってさまざまです。しかし「祖国語」という男っぽい合成語にはなかなかお目にかかりません。軍服とか日の丸鉢巻きとかが連想されるからでしょうか。    
                              
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