徳永先生の蔵書のこと

『古書通信』
937号(20078月号)pp..8-10

 徳永康元先生(1912.04.02.2003.04.05.)は大変な蔵書家であった。先生がご逝去されたとき、新宿区大久保百人町に在るお宅には2万冊とも3万冊ともいわれる蔵書が残された。お宅はJR大久保と新大久保をつなぐ早稲田通りを北に2筋ほど入った辺りにある。これが先生のご生家でもあった。その木造平屋のお宅は関東大震災(1923)でたいして被害を受けなかったという(『古書通信』875)。やがて先生は大学を終えて、第二次世界大戦開戦の前年ブダペシュトに留学するのだが、たちまちにヨーロッパの戦火に巻き込まれ、念願のフィン・ウゴル諸語、とりわけハンガリー語の研究は全く妨げられ、19425月にはハンガリーを退去せざるを得なくなった。先生は一ヶ月あまりをかけて歩いて中央アジアを横切り、なんとか同年6月中旬に命からがら帰国することができた(『古書通信』874‾876)。しかしこのとき、留学中に集めた本はすべて捨ててきたという。戦争末期から敗戦直後の時期にかけて、先生ご一家は奥多摩に疎開されていた。そしてその疎開の間に大久保のお宅は1945525日のアメリカ軍の空襲によって新宿大久保一帯とともに灰燼に帰した。ご父君の蔵書もご母堂の詩集の類も救われなかった。いま稀に蔵書の中に散見されるのは、疎開のお陰で生き残ったわずかな遺品に過ぎない。

 残されたご蔵書はだから基本的に先生が1947年に文部教官東京外事専門学校教授に任官されてから、先生ご自身で集められたものである。先生はお買いになった本の表紙の裏左肩に鉛筆で小さく購入日と場所とを書き記すのが常だった。例えば、レセップス『カムチャトカ旅行』1790には上巻の表紙裏に「1961 XI 22 Tokyo (徳永)」という鉛筆書きがある。しかしこの記載がない本も少なくない。例えば、フンボルト『人間言語構造の多様性とそれが人類精神発達に及ぼす影響について』1836/19351907復刻版)には裏表紙に「徳永蔵書」の朱印があるが、購入日の記載はない。国外で買われた本も多くの場合その旨の記載がある。例えば、メシチャニーノフ『動詞』1949の裏表紙の見返り左肩には「1965.X.2.Moskva(徳永)」のようである。これらの古典的著書に混じって、驚くべき分量の小冊子がある。例えば、文学博士小倉進平口述『諺文の起源及び朝鮮語の特質』中央朝鮮協会昭和10年非売品31頁、北方産業研究所『東部シベリア民族誌』(一)昭和一九年(秘)83頁というような貴重なパンフレットの類が古新聞の束のなかに埋もれて残された。いずれもどこかの古本屋で掘り出したものらしい。しかしそれは神田とは限らない。日本国内といわず世界中あらゆる田舎村の古本屋を漁って集めたものである。例えば、坪井良平『梵鐘』国史講習会発行 は奥付がないが、町田鶴川の古書店から4000円で買ったものらしい。書店の付箋がついたままである。またツェルナ・シュピッツェンベルク『あるカイザーの死』B6、48頁には「1988.VII.6.Wien」とある。あの時の旅の時あの古本屋で買ったものと知れる。

 いずれにせよ、これらの大変に貴重な文献がまったく無秩序に少なくとも二棟の書庫と母屋二部屋の書斎兼寝室にいっぱい詰まっていた。それが先生ご逝去のときのご蔵書のありさまであって、その様子は、ごく一部ではあるが、上の写真(旧書斎入り口)からも管見できよう。

 先生は生前、やはりご自分の蔵書のことをたいへん気にかけて、膨大な蔵書をどう分けて将来にどう生かすかについてこころを砕いておられた。先生ご自身は愛蔵書の「嫁入り先」にある程度の見当をつけておられたようでもある。それを1990年代末以来のお話から推測すると、だいたい次のようなことだったと推測できる。
1.「ユーラシア文献」
 先生はかねてから、ヨーロッパから北東アジアにかけての諸民族の言語文化について深い関心を寄せて、その関係の書物をほとんど無差別にというほどに蒐集しておられた。とりわけソ連という国家が存在していた頃、東欧からシベリアにいたる地域で刊行される本は世界の何処に居てもまことに得難かったものである。だから先生ご自身おっしゃるところの「ユーラシア文献」はご自慢に値するものであった。1990年代の末に千葉大学文学研究科・文学部にユーラシア言語文化論講座という国際的ユーラシア言語文化研究の最初のセンターが出来たとき、先生はことのほか喜ばれて、その「ユーラシア文献」をその講座に寄贈すると決心なさった。千葉大学の方も図書館に「徳永文庫」を創設して、先生の「ユーラシア文献」をいただく準備を整えていた。2003年の私宛の年賀状に「身体の調子が小康を得ましたので、この春休みに千葉大への本の発送を再開したいとおもっています」と添え書きがある。しかしそのお心積りの実現は、はるか没後に引き延ばされてきたのであった。
2.「フィン・ウゴル文献」
 先生の蔵書はさらに広く多くの分野に及んでいた。ユーラシア文献に並んで大切に蒐集されていたのは、ご専門のハンガリー言語文化と民族学に関する文献である。その中心はウラル学に関する言語学文献、ハンガリー文学、民族学的文献、それにハンガリー文化に関する評論、まとめて「ハンガリー文献」とでも名づけるべき類である。先生は、日頃これは「僕の分身だから最後までここに置きたい」と話しておられた。殆どがハンガリー語の書物である。
3.「ハンガリー文学コレクション」
 徳永先生は90歳を越えてもまだまだ文学青年だった。東京大学図書館の時代に田宮虎彦と親交を結んでいたこと、奥様の祥子さまが歌人であることも、いわば象徴的で、お体の具合が許す限り、映画に、芝居にと出歩いておられた。モルナール『リリオム』訳はご自身でもお気にいりの先生自身の文学的労作だった。それが上演される劇場には、必ず原作訳者として一階正面の席に座っておられたものである。先生は、小倉進平、金田一京助に直接の薫陶をうけた厳密な言語研究者でありながら、「本当は言語に向いていなんだよ」などとしばしば呟いておられたように、一方では文学、特にハンガリー文学をこよなく愛して、小さなパンフレットにいたるまでよく読んでおられた。ハンガリー文学の先輩である飯島正氏とは長く親しく付き合っておられた。そのためにかねてから氏ゆかりの早稲田大学の図書館にご自分のハンガリー文学に関わる蔵書の一部を寄贈される計画をもっておられた。これにはとりわけお芝居と演劇に関する内外の文献の多くも含めておられた。先生はハンガリー文学を訳すとき、その作品の英語訳・フランス語訳・ドイツ語訳・ロシア語訳を集めて読んで比較するという作業を前置きにしていた。そのためにありとあらゆる言語による翻訳が集められている。先生のハンガリー文学文献は、日本語などの訳本が含まれる貴重な多言語的ハンガリー文学作品コレクションである。
4.「趣味的コレクション」
 先生の蔵書の中には日本文学作品のコレクションがある。例えば、上林暁の作品は何でも集めておられたのではないだろうか。その他にも、よくもこうした本を見つけてこられてものだとでもいう本が書斎の至るところにうずたかく積まれ、隅っこの箱の陰に押し込められている。これらは先生の生き方の豊かな部分、趣味的人生の部分であって、固い言語学を専門とするわれわれ弟子達には把握しがたい先生の「多彩な文化遍歴」の足跡である。本好きの先生の面目躍如たる蔵書である。この本を一括して便宜上「趣味的コレクション」と呼んでおこう。『ブダペスト日記』2004(新宿書房)のIII章「古書・読書を語る」に言及される蒐書の類である。

 先生が2003年春に逝去されて、早晩これら蔵書の整理分配をしなければならないことは分かっていた。ご遺族もそれをひどく気に病んでおられた。しかしあるときそのための相談と、早稲田大学図書館の係員をお宅に招いて、とりあえず一番古い書斎を見てもらったことがある。しかしそのときの書斎は、上の写真よりさらにひどい状態だったので、係の人たちは書斎の戸を開けたとたん中を覗き見て、ただのけぞって呆れ返って、お帰りになってしまった。そのためその後しばらく整理と分配の話は沙汰止みということになっていたのである。
 しかし200545日、先生没後3年を記念する仲間内の会が開かれたとき、お弟子さん筆頭の佐藤純一さんの発議で、貴重な蔵書をやはり何とかしなければという話がむし返えされた。埃をかぶった膨大な本の山を思い描ける人たちが居並んでいたので、しばらくは沈黙が支配した。誰しも想像できるのは長時間の重労働である。それを引き受けるだけの時間を持っている者はいなくて当然である。ただ私は先生ご生前のいきさつから、ご遺志に従ってユーラシア文献を選び出して整理し、それを基にして、千葉大学図書館に徳永文庫を整備するという明確な公的責務を負っていた。そこで、まずは上の「ユーラシア文献」を選び出すという仕事を引き受けると手を挙げたのであった。
 作業は200610月から始めた。ほぼ一年は覚悟していた。しかし、作業を始めてみてすぐに、この仕事は埃まみれのきつい肉体労働ではあるが、実は宝の山で遊んでいるのだと分かった。それからは作業が楽しみになった。たまに奥様(20061226日ご逝去)が書斎の入り口を開けて慰問に来られる。そう言うと、「主人とあなたは共通してどこかがおかしいのよ」と呆れられたものであった。しかしそれが真実である。とまれ、こうして3万冊に迫る本の山を上の4類に仕分けして、段ボール詰めにする仕事が始まった。そしてその作業も10ヶ月を経て、現在(2007年夏)やっとなんとか目鼻がついた状況である。
 しかし敢えてここに書き記して大方の許しを乞うべきことがいくつかある。その第一は、「ユーラシア文献」を選び出すというのは、ほぼ無秩序に堆積した蔵書の山々から一冊づつを取り出して埃を除き汚れた表紙にいちいち「人定尋問」をして、これは千葉大徳永文庫用、これは早稲田図書館用、などと選り分け、縛り分け、別々の箱に入れるという仕事である。そのために分類整理に多少の揺れが生じた。不適切な選別が避けがたい。まずそれを許容されたい。第二に、最大の問題は、上の2の類「フィン・ウゴル文献」の処置である。先生はこの本を最後までご自分の分身として手元において、その行き先を決めておられなかった。しかし私はこれをいただくことにした。その一部の言語学関係書を徳永文庫に、その他の主に民族学的書籍は千葉大学に既存のハンガリー大使館寄贈「ハンガリー文庫」に合体させた。これはご遺志にそった分類だと思うので、これもお許し願いたい。第三の問題は上の「趣味的コレクション」の類の行き先であった。これには稀覯本が無数に含まれている。それを処分するなどは素人のできることではない。私はご遺族の徳永隆さん、中島由美さんなど信頼する友人と相談をした結果、ひとまず先生が生前一番親しくしておられた『古書通信社』のお世話になることにした。そこで樽見博さんのお力で、先生の愛蔵書のかなりの部分に「リサイクル」の途を用意していただいた。

作業を始めて10ヶ月余りを経て、先生の愛蔵書の多くはこうしてなんとか然るべき落ち着き先を得たのではなかろうか。さらに残されている大仕事は徳永文庫の整理である。5千冊余の図書が段ボール詰めで千葉大学図書館の倉庫に収まっている。この整備にまだ何年かかかるだろうかと思う。また先生の旧書斎にもまだいくつかの大切な遺品が残っている。幸い、かの有名な日記はすべて救いあげることができた。しかしまだ購入図書記録のノートなどの記録の類、無数の寄贈論文、果ては私達の学生時代の成績表までが整理を待っている。とくに小さな学術論文やその原稿らしきものがまだ多数残っている。これらも整理してなんらかの形で生かしたいものである。

追記

 千葉大学図書館に堆く積まれた数百個の段ボール箱は、2007年の暮れになって大勢の図書館員の手で開かれて、数十台のキャリアに並べられた。勘定してみると、頂いた本は、雑誌などを含めて総計6800冊に及ぶことが分かった。この本の一冊づつに書誌をつくる仕事が2008年の始めから始められた。図書館職員を手伝って何人かの専門家が整理に当たったが、いろいろなことばで書かれた珍しい本が大多数なので、書誌作成の作業も並大抵ではない。さすが優秀な図書館司書連中も大変な苦労である。それでハンガリー語の良くできる院生を頼んだり、ときに電話で不明な箇所を聞いたりなど苦労は絶えない。私自身も「面倒な」書物の書誌作りの手伝いをして、いまやっと半年が過ぎたところである。しかしこの仕事もまた先に触れたように実は宝の山に遊ぶたぐいであって、毎日とんでもない本を見つけては喜んでいると言ってよいのかも知れない。
かつて北海道で助手をしていたころ、学会ごとに東京に出てきて、きまって先生のお宅にお邪魔したものだが、いま書誌を作っていると、見慣れた本が何冊も出てくる。昔お借りしてリックサックに入れて担いで帰った覚えのある本である。次の学会にその本を返しにあがると、「この本にこんな事が書いてあったよね。どこだったっけ」などと聞かれて冷や汗をかいたことを改めて思い出す。これは意地の悪い尋問ではない。必ず読んだはずだと思うから、本気で何となくそう聞いてしまわれたのだと確信するのだが、聞かれる方はたまったものではない。また冷や汗をかないようにと、次の回からは読み方が違ってきたものであった。

 書誌作りにはもうしばらくかかる。それが終わったら、稀覯本の展示会を開きたいと思っているところである。

(1970年当時の徳永先生、書斎にまだ座る余地のあった頃でご愛用の机が見える。この机は、上の写真では右端に存在するのだが、本の山の下敷きになっている。)