地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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言語・文化・歴史のエンタングルメント

―西ケニア・マラゴリ調査から―


東アフリカの雄大なサバンナ地帯と、西アフリカからつづく森林地帯が交わ るところに、私がかれこれ四半世紀近く通っているフィールドがある。現在 のケニア共和国西部州ビヒガ県の南西部にある村々だ。そこで暮らす人々は、 中央バンツー語に属するルヒャ語系の言葉であるマラゴリ語を母語にしてい る。ルヒャ語系の言葉を母語とするのは、西部州に住む17の民族集団であ り、彼らは、1940年代に自らをルヒャ人として緩やかな民族形成を行い、 今日ケニア第二の大民族となっているが、標準語化されたルヒャ語は未だ成 立していない。マラゴリ語は、隣接するイダホやブニュレ語と7割から8割の 語彙を共有するものの、他のルヒャ系言語がみな備えているKH音を持たない 点で、大きく異なっている。だから酒場などでルヒャ語系言語がとびかって いても、マラゴリ語だけは容易に識別できる。

マラゴリの人々とつきあいはじめてから、村々を泊まり歩くようになった。そ こで村の生活のリズムが、人の死にまつわる諸行事で律せられていることに気 づいた。とにかく葬式や死者祈念儀礼(それもやたら種類が多い)に出会うこ とが頻繁なのだ。マラゴリのひとびとは、たとえナイロビなどの都市で死んで も、遺体にホルマリンを注射しドライアイス詰めした棺桶に入れられて、村ま で移送されたうえでそこに埋葬される。村に戻された遺体は、生前暮らしてい た住居の戸口の前に置かれ、三日三晩の通夜をしてから埋葬される。埋葬後も 「髪を剃る」儀礼、「戸を開ける」儀礼、「泣く」儀礼などを行い、最後に 「思い出す」儀礼をして区切りをつける。

こうした儀礼のさいに、村の長老たちが「Aziri rigali, atirana dave」(向 こうにみな行ってしまえ、戻ってくるんじゃない)」とか「Azie kabsa atirana dave(完全に行ってしまえ、戻るな)」あるいは「Oheleyo utakwirana dave(そちらにくらせ、こっちに来るんじゃない)」と判で押し たように唱える声が耳に残った。また葬儀参列者を乗せてナイロビに戻る途中 の山中で、運転助手が遺族から受け取ったニワトリを「Ivimanyi vilely yeyo (イビマーニ、これをそこで食らえ)」と叫んで投げ捨てる現場にも何度か立 ち会った。

これらは死者が死霊(ケゲンゲ kegenkge)となって、残された生者に害を与 えることを防止する儀礼なのだが、ここでおやっと思ったのは、この悪さをす る死霊を説明する語りのなかにオムサンブワ(omusambwa)という言葉が頻繁 に登場したことだ。たとえば悪夢や女性の不妊といった災厄の原因として、オ ムサンブワはケゲンゲと同じように語られ、排除・追放のための儀礼が要請さ れる。

ではオムサンブワとは何か、と村人に問いはじめると、話はよけいにわからな くなる。ある人は「犠牲に捧げるニワトリなんかがオムサンブワだ」と言うし、 他の人は「それは蝙蝠のことだ。今は違うけれど、昔は蝙蝠はニャサイ (Nyasaye 全能の神)のお使いだった」と説明してくれる。ある若者に聞く と「蝙蝠じゃないの。ほかには知らない」と興味なさそうに答えてくれた。古 老のなかには、「呪術師(Omulogi)が自分の小屋のなかで飼っている豹 (engo)や蛇(enzoka)が化けてオムサンブワになるんじゃ」という人も少な くなかった。

1930年代末にマラゴリ地方を調査した人類学者G.ワグナーは、西ケニア一帯に 祖霊信仰が広がっていることを指摘した上で、オムサンブワが祖霊を指す語と してルヒャ系諸言語に共有されていることを明らかにした。西ケニアの文化や 歴史・言語を研究するものにとって、そのことは「常識」だった。ではなぜ、 今日、村人たちは古老も若者も、男も女も、その「常識」を答えてくれないの だろうか。その「歪み」のなかに、言語と文化、それに歴史が絡み合った現実 の一断面が確認できる。

1940年代にクェーカーのフレンズ伝道団が編集した語彙表には、オムサンブワ の項目に「Idol」(偶像)と記されている。マラゴリ語訳の聖書においても、 偶像の訳語にはすべて「omusanbwa」があてられている。マラゴリは、キリス ト教化が進んだケニアのなかでも、もっとも初期から伝道組織がターゲットと し、布教に成功を収めたところである。今日でも、わずか人口数百人の村に5 から10の教会が密集しているキリスト教化地域だ。20世紀初頭からはじまる 猛烈なキリスト教攻勢のなかで、植民地以前に人々が信仰していた祖霊(オム サンブワ)は、消滅し歪曲される運命にあった。まずは各屋敷内にあったオム サンブワを祀る祠が破壊され、祖霊と交感することを生業としていたオムサリ シが消滅した。そして残されたオムサンブワという言葉は、キリスト教の言説 世界のなかでは否定的意味を強く持つ偶像という語に置き換えられた。そして 生活世界に対する聖書の教えの浸透の過程で、オムサンブワは自動的にオリジ ナルな意味を喪失させられたのである。

ひとつの文化的タームが、外部の圧倒的な巨大な力によって、生活世界のなか で意味を変形させられていく過程は、実はマラゴリの人々がより大きな世界の 周縁に組み込まれていく歴史そのものであった。この問答無用の歴史の力のな かで、彼らはときいきわめて巧妙に自分たちの世界をそれなりに築いていった。 ロマン主義、楽天主義と決めつけられようが、この人間的努力にふれ、学んで いくことが、私の地域研究の出発点となっている。

《松田素二:京都大学(2005年掲載)》