ウェールズ語(カムリー語)
イギリス南西部のウェールズを訪れると、英語と並べてもう一つのことばで書かれた標識が目に留まることだろう。このもう一つのことばとは、ケルト系のウェールズ語(カムリ―語)である。
ウェールズ語はブルトン語、コーンウォール語とともに、インド・ヨーロッパ語族ケ ルト語派ブリソニック語群に属する言語である。動詞が主語に先行するVSO型言語で、動詞前虚詞があることを特徴とする。「動詞前虚詞‐動詞‐主語‐述部 の残余」が基本的な語順である。例えば「私は読むだろう」という文は、"Fe ddarllena i"("fe":動詞前虚詞、"ddarllena":"darllen"(「読む」)の1人称単数未来形(語頭音は緩音化)、"i":主語人称代名詞) となる(水谷宏「ウェールズ語」『言語学大辞典』第1巻)。
かつてウェールズはローマ、そしてアングロ・サクソンの支配下に置 かれた。その後、11世紀半ばにやってきたノルマンの影響が落ち着く頃になると、今度はイギリスへの併合という道を歩み始める。1282年にウェールズ人 最後の "Prince of Wales" (その後英国皇太子の称号に)が殺害され、1536年にはついに「併合法」が公布された(水谷同上)。
「併合法」によって英語ができなければ公的な職業に就けなくなり、英語は支配者層の言語として社会的な威信を得ることになる。19世紀になると学校教育が 普及し、社会的威信や経済的可能性から英語が偏重された。ウェールズ語は学校から締め出され、授業は英語のみで行われたが、実際のところ、英語の習得には あまり効果的ではなかったという。しかし、英語の習得に対する人々の積極的な姿勢を背景に19世紀半ば以降、南部の工業地帯にイングランドから多数の英語 話者が移住してくると、人々の話す言語は英語に移行する(松山明子(1997)「ウェールズにおける英語の普及―国家語の拡大と教育言語政策―」(田中克 彦、山脇直司、糟谷啓介編『言語・国家、そして権力』、新世社))。一方、プロテスタント教会はウェールズ語の維持にかなりの役割を果たしていたが、それ でも20世紀初頭にはウェールズ語を日常的に用いる人は約半数となり、その後も減少の一途をたどった(水谷同上)。なお、人々がウェールズ語の衰退を望ん でいたかというと、必ずしもそうではない。彼らはウェールズ語に対して愛着をもっていた。ただ、日常的に用いられているウェールズ語が話されなくなること など、思いもよらなかったのである(松山同上)。
時代が下って1960年代に入ると、ウェールズ語の将来に対する危機感から、 ウェールズ語の復権運動が高まる。1967年にはウェールズ語の公的使用を認める法律が制定されたが、運動はさらに強まり、バイリンガルの地名表示や ウェールズ語のテレビ放送などを要求する運動が展開され、1970年代から80年代にかけて実現していった(原聖(1999)「少数言語の権利としての街 頭地名表示―ウェールズとブルターニュの事例から」『ことばと社会』1号)。
ウェールズ語の話者は1980年には住民の2割以下 となっていたが、ウェールズ語を話せる子供の割合はすでに1970年代から増え始めていた。現在では小学生の3人に1人がウェールズ語で教育を行う学校や バイリンガルの学校に通っているという(原聖(2001)「地域的言語文化の新たな広がり」(宮島喬、羽場久シ尾子編『ヨーロッパ統合のゆくえ:民族・地 域・国家』人文書院))。
歴史を通じて長いあいだ他民族の支配下にありながら、自分たちの文化やことばを守ってきたウェールズの人たち。神話に登場する神々の息づかいが聞こえてきそうな自然のなかで古城などを訪ねながら、人々の話すことばに耳を傾けたい。
《佐野彩:社会言語学、金子亨監修(2006年掲載)》