ユーラシア(徳永)文庫とシンポジウム開催

1.はじめに 吉田睦

本年度(平成21年度)早々、千葉大学附属図書館に「ユーラシア(徳永)文庫」

が開設された。これは言語学者でハンガリー語やハンガリー文学を中心とする専

門分野において著名な徳永康元先生の蒐集されていた蔵書の一部を、ご本人並び

にご遺族の無私無欲なご厚意により無償で寄贈していただいたものである。今回

整理が済み登録済みの図書資料類は3千件を超えている。しかし特殊語資料や雑

多な資料類も多いことから、未だ整理作業は進行中である。

本稿筆者は、一度生前の徳永先生にお目にかかったことがあった。金子亨先生

(現千葉大学名誉教授)を介してご蔵書の一部を本学附属図書館に寄贈していた

だけるというお話が出て少し時が経った頃、荻原眞子先生(帝京平成大学教授・

千葉大学名誉教授)と附属図書館図書情報係長(当時)の鹿島玲子さんと共に、

先生にご意向を確認するとともにご蔵書の様子を窺い、作業の目途をつけるため

であった。先生はすでに話に聞いていたような物静かな紳士という印象であった

が、ご蔵書の案内には誠意をもって対応していただいた。

残念ながら、その後先生にはお会いすることなく、2003年の訃報に接するに至

ってしまった。私どもは先生のご健在の間に、ご指示を受けつつ、寄贈のための

蔵書の移管の作業をするつもりであったが、金子亨先生他の方々のご尽力により、

今日「ユーラシア(徳永)文庫」の開設に立ち至ったのであった。(その間の経緯

は、以下の金子先生のご説明に詳しい。)

文庫の名称の通り、分野は言語学、民族学が中心であり、地域的には、ユーラ

シア大陸が中心であるが、その他の分野・地域のものも織り交ざっている。難解

な言語や特殊語の文献あり、絵本あり、という内容である。そのことがまたこの

コレクションの一つの特徴であり、また魅力でもあるといえる。

この文庫開設を記念して、2009年6月19日(金)13:00-17:00、千葉大学附

属図書館(4階ライブラリーホール)において千葉大学附属図書館「ユーラシア(徳

永)文庫」開設記念シンポジウム「徳永康元氏とその蔵書」(主催:千葉大学文学

部ユーラシア言語文化論講座、千葉大学ユーラシア学会)が開催された。そのプ

ログラムは以下のとおりである。

 

 第一部 徳永康元氏を語る

司会:中川裕(千葉大学大学院人文社会科学研究科教授)

冒頭挨拶(中川裕)

金子亨(千葉大学名誉教授)

徳永隆(徳永康元氏御子息)

 第二部 ユーラシア(徳永)文庫を語る

司会:金子亨(千葉大学名誉教授)

小網恵美子(千葉大学附属図書館)

南塚信吾(法政大学国際文化学部教授)

荻原眞子(帝京平成大学教授・千葉大名誉教授)

中川裕(千葉大学大学院人文社会科学研究科教授)

吉田睦(千葉大学文学部教授)

ディスカッション

第三部 展示紹介

於:千葉大学附属図書館本館1階展示室

案内:金子亨(千葉大学名誉教授)

懇親会(千葉大学生協喫茶「ヴィッセン」)

 

 特筆すべきこととして、本シンポジウムにおいては、ご子息の徳永隆様が足を

運ばれて、ご尊父の思い出などをお話しいただけたことを挙げておきたい。以下

において、上記シンポジウム出席者に当日のご報告を中心に再度当文庫に関する

説明、蔵書受け入れ・整理作業、その他の逸話等を含め語っていただくことにし

たい。

本稿筆者にとっても、また千葉大学文学部を中心にユーラシア大陸諸地域の民

族文化を研究する本学の研究者、学生にとって、千葉大附属図書館本館4階にか

けがえのないコーナーが出現したことはこの上ない喜びである。同時にこのよう

な大変貴重な図書類を一挙に引き受けた側としては、多くの研究者や学生に周知

させ、利用をはかっていく責任を負ったことになる。故人となられた徳永康元先

生には直接お礼を申し上げる機会を失ってしまったが、ご子息の徳永隆様をはじ

めご遺族の方々のご理解に篤く御礼申し上げるとともに、微力ながら今後の当文

庫の有効利用に努めていきたい。

最後に、本コレクションの開設のために様々な形でご尽力下さったご子息の徳

永隆様をはじめご遺族の方々、金子亨千葉大学名誉教授、荻原眞子帝京平成大学

教授・千葉大学名誉教授、千葉大学附属図書館の関係の皆様に厚く御礼を申し上

げたい。

(よしだ あつし・千葉大学文学部)

 

2. 徳永康元先生とユーラシア(徳永)文庫  金子 亨

徳永康元先生(1912 - 2003)は日本におけるフィン・ウゴル学の草分けであった。ご専門はハン

ガリー語学であったが、時にご自身で「僕は文学者になりたかったんだよ」と述懐されていたように、

とりわけハンガリー文学を愛好されて、『リリオム』、『ラチとライオン』など何冊もの名訳書をおも

ちである。

徳永先生は愛書家で知られ、『古書通信』や『窓』などに見事なエッセイをお書きになった。ご自

身の蔵書も数万冊にのぼり、90歳になられるまで黒い風呂敷を小脇に神田の店を訪ね歩いては本を

買い続けておられた。

徳永先生は1939年から1942年までハンガリーに留学された。しかし第二次大戦の末期、戦時下

のブダペシュトを逃れてブルガリア、トルコ、カフカース、シベリアを汽車を乗り継いで逃亡し、一

年近くをかけて日本にたどり着いた。ブダペシュトで買い貯めた本はおいてきたままだった。しかし

この旅の途中でも本を買うことは怠らなかったようである。ここにバクーで乗り継ぎをまっている間

にかった『フィン語・ロシア語小辞典』がある(陳列台1)。いつもどおり1942. と購入日が鉛筆で

記載されている。

帰国後もじっとしてはおられなかった。1943年には文部省民族研究所の助手としてに江上波夫氏

などと共にモンゴル調査に出かけ、張家口で終戦を迎えて3ヶ月をかけて帰国されたという。

徳永先生が教職についたのは1948年東京外事専門学校(現 東京外国語大学)教授としてであった。

外語大で言語学と民族学を講じ、アジア・アフリカ言語文化研究所の2代目の所長も務めた。定年退

職後は2001年に関西外国語大学を辞任されるまでの50年に近い期間に実に多くの人々に接してこ

られた。しかし弟子を作ろうと思ったことはなかったのではないだろうか。一方、学生の方は先生を

慕って、毎週のように先生の書斎兼書庫に入り浸ったものであった。

1991年の冬のことだったと思うが、千葉大学文学部にユーラシア言語文化論講座が作られたこと

を報告にうかがったとき、大変に喜ばれて、「僕の持ってるユーラシア関係の文献を少しあげようか。」

と言われた。「ユーラシア(徳永)文庫」のきっかけであった。しかし徳永康元先生は毎週のように

新幹線で京都に通われ、千葉大学のわれわれもまた海外調査や改組などにかまけてとうていユーラシ

ア文庫を作るだけの時間を見いだせないままに何年もの歳月が流れた。それでも徳永康元先生はその

お話を忘れずに、1998年春には数百冊の本を千葉大学用に抜き出してくださり、「またひまを見て選

んでおくから」と言われた。「ユーラシア(徳永)文庫」が実現し始めたのであった。さらに数年を

経て、2003年の金子宛年賀状には「身体の調子が小康を得ましたので、この春休み前後に千葉大へ

の本の発送を再会したいと思っています。」と添え書きがある。その春休み後のある日、大久保のお

宅近くの風月堂で先生と待ち合わせをしていた。しかしその雨の朝、待っていたのは訃報であった。

それから再び2年ほどの紆余曲折の後、残された蔵書の整理が始められた。その数万冊の本を仕分

けするには、2年ほどが必要であった。徳永康元先生のお心積りどおりの分配ができたとは思えない

が、それでもユーラシア関係の文献を5千点ほど千葉大学附属図書館蔵「ユーラシア(徳永)文庫」

としていただくことになった。この間のいきさつについては、別に『古書通信』937号に書いたとお

りである。 (かねこ とおる・千葉大学名誉教授)

 

3.徳永先生の蔵書のこと『古書通信』937号(2007年8月号)pp..8-10(金子 亨)

略(別項参照)

 

4.父徳永康本のこと 徳永隆

このたびはこちらの千葉大学図書館に文庫という形で、父の集めておりましたユーラシア関係・シ

ベリア関係の書籍を公開・利用できるように整備して頂き、誠に有難うございました。金子先生はじ

め千葉大学文学部の研究室のみなさん、そして千葉大学図書館のみなさんの大変なご尽力に深く感謝

申し上げます。特に金子先生には3年前の2006年秋より2年近く、わざわざ千葉・成東のご自宅か

ら新宿・百人町の私の実家まで週に2日も通って頂いて、膨大な量の書籍と書類などを分類・整理し

て頂きました。その間、2006年末には母が急逝したりしまして、金子先生にはいろいろとご心配・

ご迷惑をお掛けいたしました。さらに、整理の目処のついた時点で金子先生が入院され、大変心配い

たしました。この整理作業は相当な重労働であったことは間違いのないことで大変申し訳なく、ここ

に改めまして御礼とお詫びを申し上げます。

 父が亡くなって6年を迎えましたが、私も生前から千葉大学の図書館に蔵書の一部を寄贈し始めて

いるという話は聞いておりました。父も家のなかにあふれかえっている本をどうにかしなければなら

ないとは考えていたようで、分野ごとに大学の図書館なり、研究室なりに寄贈しようとしていたよう

です。その一環としてユーラシア関係・シベリア関係の書籍は金子先生のおられる千葉大学と決めた

のだと思います。ただ、その後本人にはその意志があっても体が思うようにならない状態となってし

まい、途中で整理自体が頓挫して膨大な書籍の山が残されてしまったわけです。父の死後、すぐに早

稲田大学図書館の方々が見にこられましたが、あまりの量の多さに驚いて手を出しかねて帰ってしま

うといった経過のあと、様々な事情によって金子先生に全面的に整理をお願いすることとなりました。

そしてさらに皆さんのご努力により、本日このように文庫のお披露目という日を迎えることが出来ま

した。本来でしたら父がご挨拶申し上げるべきところではございますが、それもかなわない今このよ

うな形で完成した姿を拝見しますと、なによりも父にも見てもらいたかったと痛切に感じました。本

当に有難うございました。

ここで、皆さんに少し伺いたいことがあります。それは大学の教員という職業についてどのように

感じているかについてです。このなかに親や親戚が大学なり高校で教員をなさっているという方はい

らっしゃると思います。したがって、これは私に限った話なのかもしれませんが、子どもの時には、

父が起きてくる時間は昼ごろと遅いし、さらに、大学に出ていく時間も毎日ばらばらでしたから、決

まった時間に出勤していく他の家庭とは少し違うなと感じていました。しかも、火曜日を授業のない

日と決めた上、お客さんの日と称して一日中家にいて、その日は朝から晩まで多くの知人や教え子が

次々と訪れてきていました。せまい家でしたので、父の部屋に家の中を通らずに入れるよう窓から出

入りすることもありました。当時はこういうことが当たり前になっていましたので、今にして思うと、

私の家は変わった家庭環境だったのだろうと思います。

さて、前置きはこのぐらいにしまして、金子先生より父に関して何か話をしてほしいといわれてお

りましたので、少し考えさせて頂きました。これまで父の愛書家として面はもちろんのこと、文学や

映画・演劇、音楽などの話につきましては、父自身もそちこちに書き散らしておりますし、皆さんも

いろいろな形で触れておられますが、一つだけそれほど触れられていない趣味の分野があるように感

じましたので、その点について少し述べたいと思います。

父の趣味のうちであまり知られていなかった分野とは鉄道に関するもので、父自身は『ブダペスト

日記』のなかに収録されているように雑誌「東京人」に外濠線のことなどを書いていたようですが、

その他にはあまり見かけることはなかったように思います。いわゆる市電、路面電車に関するものに

限られていますし、車両の形式など細部にこだわるとか、乗り方にこったりすることはなかったよう

ですので、最近話題となっているいわゆる「鉄チャン」ではなかったと思います。金子先生が整理を

進めておられる際にも、JRはじめ鉄道各社の種々のパンフレット類が大量に含まれていたことに驚

かれたことと思います。これも映画・演劇のパンフ・ちらし類、音楽会のパンフなどとは一応分けて

はあったようですが、資料の山のあちこちに紛れ込んでいて整理の妨げになったのではないかと思い

ます。なにしろ1種類のパンフを必ず4,5枚ずつ持ち帰っていましたから、それだけでも相当量に

なっていました。どういう種類のものであっても、必ず複数枚収集し保存しておかなければ気が済ま

ないという癖がこうしたところにも十分でているのだと思います。

こうして金子先生に整理して頂いたもののなかには、主体であった書籍やパンフ類のほかに紙袋に

入った元原稿やメモ類も大量にあり、私にとってはひとつ気になるものが出てきました。ごく小さな

ものでしたが、そこには都電(市電)の路線の一部について開通年代がいくつか記してあり、私の書

いたメモも一緒に出てきました。大塚仲町(のちの大塚三丁目)・護国寺前間、大塚仲町・伝通院間、

江戸川橋・矢来下間など、都電の系統でいえば、大塚駅前から錦糸町駅前までの16系統(父はこの

系統で小学校・中学校に通学していた)、池袋駅前から数寄屋橋までの17系統、江戸川橋から須田町

までの20系統に当たる部分のもので、確かにこの件では調べておいてくれといわれたことをうっす

らと覚えていました。といいますのは、私が都電ファンで路面電車の同好会に加わっていることを知

っていたからでしょうか。ただ、これをどういう形で利用したのかはわかりませんが、以前このすぐ

近くの茗荷谷には東京教育大学がありましたし、昔風にいえば高等師範付属小学校・中学校もありま

したから、ここに通っていたころのことか、あるいは東京教育大学に講師として通っていたころのこ

とを書いたのかもしれません。ただ、開通年代を問題にしているとするならば、やはり子どものころ

のことを書いたのでしょう。このうち私も現実に見たことのない矢来下と江戸川橋間は短い区間であ

るし、1928(昭和3)年12月から1944(昭和19)年5月までのわずか15年半しか営業運転して

いなかったので、そのことが気になっていたのかもしれません。いずれにしても、こうした細かいこ

とにもいちいち当たっておかなければ気が済まないという性格の一面が出ているということだと思

います。

このような父の趣味の一端を受け継いで、私もいろいろと収集しています。なかでも音楽に関して

はクラシックではありませんが、レコード・CDは合わせると5000枚ほどになります。ただ、父の

収集していたレコードはどの位であったのか、間に戦争を挟んでおり戦災で家が焼け、ほとんど焼失

してしまったようですので、よくわかりません。ただこうしたなかでも、特に鉄道に関心を向けさせ

た意味では無言の勧めがあったように思います。先ほどの鉄道会社のパンフ類の収集や写真撮影(後

述する街並の中の電車など)を永年続けているのを見ていた影響か、いつの間にか鉄道、なかでも路

面電車に関心を抱くようになり、全国を飛び歩くようになりました。ちょうど全国で路面電車の廃止

が相次いでいた時期にぶつかったこともありますけれど、ベースには父の姿があったかもしれません。

遺品整理をしておりましたところ、写真類も相当数出てきました。日本各地はもちろん、ヨーロッ

パに出かけた折のものも多数あり、まめにあちこち出かけていたことがよくわかります。学会でどこ

かの街に出かけた折に、またいつも家に来ていた方々と史跡などを訪ねた時に、街並や寺社などの風

景を写したものが多いのですが、そうしたなかに必ず路面電車・汽車・駅などを撮ったものが含まれ

ています。このあたりにも昔から鉄道への関心が強かったのかなと感じさせます。これらの写真やア

ルバムにも後年のものには撮影年月日や撮影地がメモってありませんので、いつ頃の、またどこの街

かがよくわからないもの多くなっています。さらに、他にも記念乗車券やら都電の本なども散見され

ますので、そこまで手を出していたことがわかりました。ただ、父はこうした鉄道関係の同好会のよ

うな組織には加わることはしていなかったことは確かで、これは群れることの嫌いだった父らしい一

面だと思います。この性格は私も少なからず受け継いでいますが、唯一の違いは私が同好会に加わっ

ていることでしょうか。

なお、残されたなかでもう一つ量のかなり多かったものに映画関係のパンフレット類や冊子があり

ました。これについては、生前から映画に関していろいろと意見を交わしていた方が関西外国語大学

の図書館におられることがわかりましたので、その方に数回に分けて段ボールなどで寄贈しました。

こうしてこれらの収集品もゴミにならずに好きな方の手に渡り、活かされる道が開けました。

以上、とりとめもないことを話しましたが、まだまだ遺品整理が遅々として進んでおりませんので、

これからも整理しているなかで父の新しい面の発見があるのではないかと、期待しています。

本日はわざわざこのような席にお招き頂き、誠に有難うございました。

5.ユーラシア(徳永)文庫の整理作業に関わって (小網恵美子)

附属図書館学術情報課の小網恵美子と申します。徳永康元先生の寄贈図書の整理作業を担当した一

人として簡単に感想を述べたいと思いますが、その前に私とこの寄贈図書とのかかわり?というよう

な話をしたいと思います。

 千葉大の図書館に初めて金子先生から徳永先生所蔵図書の寄贈の話があったのが1998年のことで

した。1999年春には新大久保駅の喫茶店で寄贈担当者として金子先生、荻原真子先生たちと一緒に

徳永先生にお目にかかって寄贈の話を伺ったことを覚えています。翌年の春には金子先生は退職後ド

イツへ、私も本館から亥鼻分館へ異動となりました。

後任者が引継ぎ徳永先生から一部図書の寄贈がありましたが、その後はそのままになっておりまし

た。2006年に金子先生が帰国してから展示紹介にも書かれていらっしゃるように本格的に寄贈図書

整理の話が動き出しました。偶然私も寄贈図書担当に戻っており10年ぶりの徳永先生寄贈図書との

めぐり合いに縁といったものを感じ、また定年後もこの文庫の整理をお手伝いすることになりました。

この整理という言葉、いったい図書の整理とはどんなことをするかと申しますと、図書館では図書

のタイトル、著者、出版社、出版年等の書誌情報を規則に従って記述し(これを目録と呼んでいます)、

どんな主題の図書かという分類番号(千葉大では「日本十進分類法」を採用しております)を付け、

登録番号を付与して背ラベルを貼り書架に配架するという一連の流れをいいます。まあ図書1点1点

に住所を与えるようなものです。 これにより利用者の皆様が探したい図書の有無や配架場所がオン

ラインで検索できるようになるわけです。同時に「国立情報学研究所」の総合目録DBに所蔵を登録

して全国的に千葉大に所蔵が有るか無いかわかるようになります。

さて、前置きはこのぐらいにして本題です。

徳永先生から寄贈された図書・雑誌は合わせて約7000冊弱で、図書だけでも5000冊にもなるで

しょうか。これは寄贈・購入分を含め図書館で受入れる年間平均冊数が約7000〜8000冊ですからそ

の約6-7割にもなります。

和書と洋書の割合は、およそ1:3で、分野も言語学、文学、民俗学、民族学、地理学、歴史、は

たまた映画、演劇にとそれこそ多岐にわたっております。

運び込まれた100個近いダンボールを開け、理解できない背文字が並ぶブックトラック20台にも

及ぶ大量の図書・雑誌の山を前にした時には、どこからどうやって手を付けてよいのか思わずため息

がもれたものです。

2008年4月より始まった整理作業は、これまでに和書約850冊、洋書約2000冊になりますがま

だ終了しておりません。(2009年6月19日現在の冊数です)

整理する上で苦労だったのはやはり言語の多様さです。英語、ドイツ語はいうに及ばずハンガリー

語、ロシア語、ロシアの少数民族の言語等たくさんあります。

私は主にハンガリー語、ロシア語を担当しましたがこれまでの少々の経験など役に立たず、ハンガ

リー語は、昨年までは人社研の院生だった姉川雄大さんに、そしてロシア語北欧語などの言語につい

ては金子先生にご協力をお願いすることができました。

 簡単な目録記述、どんな内容の図書なのかを予め記述していただき、それを基に目録作成、分類と

作業を進めました。おかげさまで比較的スムーズに作業は進みましたが

チュルク諸語のバシキール語、ヤクート語、ウズベク語、カザフ語、アゼルバイジャン語、フィン・

ウゴル諸語のコミ語、マリー語等の図書が目白押しで、今まで聞いたことも無い言語と格闘する日々

でした。

それでもNACSIS-CAT(国立情報学研究所の総合目録DB)に書誌があるものはまだしも、無いも

の、つまり全国で千葉大にしかないものについては書誌を一から作成しなくてはなりません。因みに

これまでに洋書約350冊、和書約80冊をオリジナルで作成しました。つまりこれだけの図書はここ

にしか所蔵がなかったということです。

次に大変だったのは分類です。分類とはその図書がどのようなことについて書かれているのか主題

ごとに番号を付与するものです。もとより私たちは研究者ではなく図書館員で、しかもはなはだお寒

い知識しか有してはいないものですから図書の内容を理解するのが大変でした。和書なら内容を読む

こともできるのですが言語が読めないのですから苦労です。百科辞典、言語辞典、地図、WEB等で

きる限り調べ、教えを請いながらなんとか分類しましたが、今後目録を含め間違いなどご指摘いただ

ければ幸いです。

 こうして整理作業を段々とすすめていくうちに、NACSIS-CATに書誌があったとしても、東大、

北大、阪大等わずかな機関にしか所蔵がなく、ユーラシア関係研究者にとっては大変重要なコレクシ

ョンであることは私どもでも理解できるようになり、おのずと整理作業にも熱が入るようになりまし

た。

いろいろ調べながら目録・分類作業をすることは苦労と同時に知る喜びを味わうことでもありまし

た。これまで知らなかったロシア連邦を構成する国々や民族の名前も、新聞、テレビなどで目にする

と思わず見てしまったりと急に関心を持つようになったのが我ながらおかしいのですが、人間幾つに

なっても知らないことを知るのは嬉しいことです。たとえ書物の上からだけでも世界がこんなにも広

く、こんなにも多くの国、民族があるのか、こんな人もいたのかと、毎日毎日がこうした発見で満ち

溢れ夢中で整理した一年でした。それはまた今思うと1年間週2回図書館に通ってくださったその道

の研究者であられる金子先生の隣でさまざまな教えをいただいた贅沢な時間でもありました。

最後に、徳永先生にご覧いただけなかったのが残念ですが、このユーラシア(徳永)文庫が千葉

大ばかりでなく全国の利用者に必ず役にたつことを信じております。

また私の図書館員人生の最後にほんの少しでもこの整理にかかわれた幸せを味わっております。あ

りがとうございました。 (こあみ えみこ・千葉大学付属図書館)

 

6.徳永さんとハンガリー史研究 (南塚信吾)

1. 徳永さんと私

私は、1972年10月から1974年3月まで、ハンガリー政府留学生としてブダペシュトで研

究生活を送った。留学する前に、たしか百瀬宏さんの紹介だったかと思うが、徳永さんを新宿百人町

のお宅にお訪ねして、いろいろと話を伺った。初対面だったのに、ずいぶんと親しく話をしていただ

いた。あの、書庫の本の谷間で。今、当時の手帳を調べてみると、9月23日(土)の秋分の日、午

10:30にお尋ねしているようである。確か事前にお電話して、道をお聞きして伺った覚えがある。

その時のメモから判断すると、大使館関係の人たちや、モンゴル語研究をしている松本幹男氏や、

バルトークの研究をしている岩崎肇氏らを紹介してくださったようである。だが、わたしが今更驚い

たのは、そういうことよりも、もっと基本的な問題を示唆されたようである。それは、私が手帳にメ

モしているところによると、

 

1) ハンガリー人とルーマニア人の関係(「少数民族問題というのがあってね))

2) カトリックとプロテスタントの関係(「デブレツェンはプロテスタントの町ですよ」)

3) ハンガリーとロシアの関係(大国と小国という関係)

4) ハンガリーとドイツとの関係(「ハンガリー人は反ソ・反独でね」)

5) ユダヤ人の問題(ユダヤ人が多い)

6) 亡命という問題

7) 歴史における連続性

 

といった問題について強い啓発を受けたようである。とくに1956年の事件について、「カーダールと

ナジは近かったのにね」といった理解を聞いて、やや驚いた記憶がある。そして、最後に、「これで

僕はハンガリーの歴史はやらなくていいね」とおっしゃったのが印象的であった。

 

 徳永さんは、翌1973年の春にハンガリーへお見えになったと記憶している。これはメモがないの

だが、その時には松本氏やハンガリーの日本研究者ハラ・イシュトヴァーン君らと楽しく語らったの

だった。

2. ハンガリー文庫との関係

1998年であったと思うが、ハンガリーの文化省から、ケペツィ・ベーラ氏が来日し、日本にぜ

ひハンガリー文化のセンターを作りたいとうので、相談を受けた。その時、氏には、日本の国立大学

でそういうセンターを作ることは極めて難しいので、「ハンガリー文庫」といったものであれば、作

るのは比較的容易であると申し上げた。そして、千葉大学においてそれを作る可能性はあるのではな

いかと言ったところ、氏はその際にはハンガリー側から図書を寄贈することができると答えて帰国さ

れた。

たまたま当時の丸山学長がセント・ジェルジとの関係で、セゲド大学といくらかの交流を持ってい

たこと、おりからデブレツゼン大学との交流協定が結ばれたことなどがあって、宇野俊一図書館長の

後押しを得て、図書館内に「ハンガリー文庫」を設置することができた。これには、文学部史学科に

既に購入していた図書、ハンガリー大使館寄贈の図書、学長裁量経費によって購入した図書をまとめ

て、かなりの質のものができた。

この「ハンガリー文庫」の設置を機に、日本のハンガリー研究者の最初の全国集会を図書館で開催

し、また「ハンガリー文庫ニュース」も発行したのであった。このとき、このニュースを聞きつけて、

徳永さんからも数冊、図書の寄贈を受けたように思う。ただ、徳永さんとしては、ハンガリー関係の

本はまとめてどこかに寄贈したいご意向であったに聞いていたので、われわれとしても働きかけるこ

とは遠慮していた。

3. 徳永さんと日本のハンガリー研究

ハンガリーの言語・文学関係は私としては判りかねるところが多いので、岩崎悦子、

粂栄美子、深谷志寿の各氏に尋ねるほかはない。ここでは、ハンガリー史研究との関係でいくらか、

話してみたい。

われわれは、1976年に東欧史研究会というものを設立した。そして、1978年から「日本と

東欧諸国の文化交流に関する研究」というテーマでトヨタ財団から助成金を受けて、1981年に国

際シンポジウムを開催した。この間、徳永さんに報告を依頼した。正確な題は記憶にないが、たしか、

「私とハンガリー」といった題だったと思う。話は、1930年代から戦後までのご自分の体験であ

った。1938年に日本とハンガリーは日洪文化協定を結んだが、徳永さんはその協定に基づく第一

回留学生としてハンガリーに渡ったわけであった。ハンガリーでの友人関係や本屋の話を興味深くし

てくださった。そして、第二次世界大戦がはじまり、ハンガリーも戦争に突入すると、帰国せざるを

得なくなった。その際、バルカンのブルガリアでしばらく滞在し、それから中央アジアを超えて、長

い旅をして帰国する間の体験を、淡々とおもしろく話されたのを覚えている。

この話は、のちに『ブダペスト日記』(新宿書房、2004年)に収録された「ハンガリー留学日

記」に沿うものであった。

実は、徳永さんは今岡十一郎氏の話はあまりされなかった。敬意を表してはいても、どこかに距離

を置いていたように思う。そして思うに、徳永さんは今岡さんのように頑張らなかったのがよかった

のではないだろうか。

ともかく、今から見ると、文化史という面で、ハンガリー研究をする我々を、我々が知らないうち

に啓発してくださっていたのだった。

 

その他、「徳永文庫」のなかで注目すべき蔵書について次のような発言があったが、これらは

CES12号本誌に譲り、ここでは省略する。

 

(1)徳永先生のご蔵書から、とりあえずはロシア語の書について一言 (荻原眞子)

(2)徳永文庫のアイヌ関係蔵書抜粋 (中川 裕)

(3)シベリア・極北地域 (吉田睦)

(4)徳永文庫の先住民族言語教科書(金子 亨)

 

なお、CES12が編集され終わってから、徳永先生の遺稿がまとめられて出版された:

 

徳永康元『片目考−徳永康元言語学論集』汲古書院 2010.02.

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