シンポジウム『多言語社会 日本 I』

司会(金子亨):はじめに「ヨーロッパの経験と日本の少数言語政策」

                               

このシンポジウムは「多言語社会 日本」の第一回の企画です。次ぎからは在日韓国・朝鮮人、在日中国人の言語問題、日本語諸方言の問題、そして外国語学習の問題などについて順次シンポジウムやフォーラムを開催していく予定です。

 

1.ヨーロッパはつい50年ほど前まで日常的に戦火の巷でした。しかし今そこは非戦の広域共同体ができて、統合された一つの多国的な政治経済的な機構として、内的にも外的にも進化の途上にあります。今日のシンポジウムではこのヨーロッパのかかえている問題の一つ、多言語状況と多言語政策の問題を検討して、それを日本の問題の解決に役立てようと考えます。そこでまず前半に、ヨーロッパ連合EU(European Union) とヨーロッパ評議会CE(Council of Europe)の言語政策の基本的な論点について山川智子さんに紹介していただきます。ついでヨーロッパ内の地域・少数言語の具体的な事例についていくつか佐野彩さんにお話しいただきます。休憩を挟んで後半では日本の問題について考えます。第一に日本の固有な先住民族であるアイヌの言語問題について中川裕さんからお話をいただきます。第二に日本語と同系の琉球語の一番南の方言について下地理則さんに問題を指摘していただきます。最後に4人の方を中心にして短いパネル・ディスカションをいたします。

 

2.討論の前置きとしてEUに加盟していないヨーロッパの国、スイス連邦内の少数言語の話しを少しいたします。

 スイス南東部ライン川源流地帯にRaeto-Rumantsch(ルマンチと略称)という少数言語が行われています。紀元前15年にシーザーの軍隊が南からサン・モリッツ峠を越えて侵入してきて、その後何世紀かにわたってドナウ川上流に大きな国を建てたことがあります。いわゆるレーテ国です。そしてその時代の言語がライン川源流のいくつかの谷間に今日でも生きています。19世紀の80年代に有名なフランスの言語学者がこの言語は1920年までには死滅すると公言したことがあります。しかしこの言語は21世紀の今もまだ生きています。それはスイス連邦東部のGlaubuenden/Grischun州の公用語の一つとして認められるようにさえなりました。クールという町にLia Rumantschaという立派な研究機関もあって、そこが編纂した辞書と教科書が地域のすべての小学校で使われています。放送も公用文書もルマンチ、ドイツ、イタリアの3言語の使用が義務づけられています。この土地で公務に就くものは「ルマンチが理解できなければならない」という法規まであります。

もちろん、この言語の地位をここまで高めるためには過去一世紀にわたって大変な努力が積み重ねられてきました。そして今日でも相変わらず若年層でますます使われなくなってきたという深刻な問題があります。しかし重要な問題は、このヨーロッパの民主諸国の一角で少数言語に対する言語政策が地域のレベルで的確に作られ、実践され、次いでそれが国のレベルでも承認されてきた、この地域から州へ、州から国へという政治的な運動と地道な収集・記録の研究活動、それに基づく教育と出版、さらの主要四方言を超えた「共通語」辞書の作成など、こうした努力がこの50年間にわたって一定の成功をおさめたという事実です。確かに、ルマンチ再活性化にたづさわった人々の努力は並大抵のものではありませんでした。そしてその努力と討論の歴史はクールの研究所の文書にすべて記録されています。

 

1980年代の末に、私はこの研究所で文書をひっくり返しながら、アイヌの村を心に描いていました。細いライン川のほとりの小さな村の暖炉のまわりでは土地のおじいさんの話を聞きながら、阿寒湖のアイヌのおばあさんの顔を思い出していました。そして今日「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」の報告やそれに対する「世界先住民族ネットワーク・AINU」からの提言をみると、あのスイスの山間の経験がいまこそこの国でも役立ちそうだと思います。北海道で、そして沖縄で。北海道の二部谷で、南の海の八重山諸島で人々がアイヌ語や八重山方言の再活性化に懸命に取り組んでいるならば、きっとかつてのクールの研究所での討論と同じ問題がいま論議されているに違いないと思うからです。

 

それではヨーロッパの話しを聞きましょう。そしてそこからアイヌと琉球の人々の将来について考えてみたいと思います。

               

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