地球ことば村 メルマガ 書評 2008.04
書評:吉本隆明『日本語のゆくえ』光文社
2008

 この本は、気楽に新書本の日本語ものかと思って買ってしまうと一行も読めないで、文字通り棚上げにしてしまいます。まずは著者名から40年ほど前に評判を呼んだ二冊の本、『言語にとって美とは何か』(1965)と『共同幻想論』(1968)とを思い出してみましょう。これらの著作は「70年安保」直前の「大学紛争」の最中、バリケードの中でさえも熱心に読まれ、さまざまに論議されたものでした。しかしその頃、私はプラーハの春がソ連の戦車に踏みにじられた直後にヨーロッパに渡ってしまいました。そのために『共同幻想論』その後の国内での論争については又聞きほどの知識があるに過ぎません。しかし『言語にとって美とは何か』の提起した問題については、その地で新しい見方を得ることができました。そこでは、特にパリーとドイツ各地の大学紛争を経て、ユルゲン・ハーバマスを中心として社会思想の転換が始まっていました。言語・文学の分野でも、1930年代プラーグ学派の伝統をローマン・ヤコブソンが再構築した後に、新構造主義の克服という視野をともなって、「言語学と詩学」(ビァビッシュ1965)、「言語学的詩学の方法的状況」(バウムゲルトナー1968)などの記念碑的な論文が論議の中心になっていました。そしてその視野から吉本隆明『言語にとって美とは何か』の依拠した言語理論を振り返ると、それはあまりにも惨めなものと言わざるを得ませんでした。あたかも吉本隆明自身が「共同幻想」であったに過ぎないという思いがしたものでした。言語学の分野で私たちは当時既に国際的な論議のただなかにいました。しかし吉本的な詩学は言語学的詩学の分野で国際的論議ができる水準に達していたのでしょうか。はなはだ心許ない気がします。私と同年配の谷川俊太郎さん(74歳になりましたか?)などは独自の詩の作法を築いて今日も詩人達の先頭に立っているのに、83歳の吉本さんは今なおかつての幻想に浸っているのではないかとさえ思います。40年前に闊達な論陣を張った頃の気概だけが生きているのでしょうか。

 『日本語のゆくえ』という表題の新著は吉本隆明が母校東工大で最近行った集中講義に手を入れてまとめたものです。講義は主に「芸術言語論」に関わる三つの論点をもっていたらしく、その第一はやはり『言語にとって美とは何か』に関わる問題で、旧著の背景がいくつか明かされています。その一つが詩の価値の拠り所についてです。ここで「意識の自己表出」の価値という概念が表明されます。そこで詩的言語表出が神話の素材になり得るかどうかという尺度が提起されます。ここで「神話」とは共同幻想一般と理解すべきなのでしょう。旧著になかった観点です。第二の論点は『共同幻想論』に関わっています。共同幻想とはもともとタブーから神話にいたる社会的な心的組織を指すのですが、吉本さんはこの講義で何故か天皇制と天皇家にこだわります。旧著では国家の起源が共同幻想の一つとされていますが、国家そのものとか、ましてや天皇制が共同幻想とは規定されていませんでした。そこでは国家の起源について語りながら、マルクスが1848年に考えた国家の死滅について一言も触れていません。そしてそのことが私のこの旧著を評価しない理由の一つだったのです。そしてまた、この新著で天皇家を「共同幻想」の関係で話題にするとは、その意図が分かりかねます。今日の世界で天皇制の存立を問題にしたいのなら別のアプローチがあるでしょうに。

第三の論点は今の若い人たちの詩作についてです。吉本さんはこの機会に20代・30代の若い詩人の詩集を30冊ほど読んで、そこからこの世代の詩が「神話」を構成する力をもたない、「過去・未来・現代」ももたない、そこには「無」しかないと判断しています。従って吉本さんの目からすれば、若い詩人の使う日本語のゆくえには「無」しかないことになるのかも知れません。しかし若い詩人の詩に存在する「無」を「日本語のゆくえ」の運命と直接に結びつけるには無理があります。例えば詩人ではないとしても20歳に満たない若い作家達の言語作品を見て、そこに若い人たちの「無」の生活世界をみることはあっても、その世界を語ることばは往々にして見事です。今日の世界が神話的であるかどうかは別に論じるとしても、そのような世界を立派に構成する言語作品を作っています。例えばの話、今日日の万葉集はブログで書かれるかも知れないのです。吉本さんはひょっとしてそのような「無」的世界を評価できないほど老いてしまったのでしょうか。どうして『共同幻想論』的な神話世界の方がとうに死んでしまっていると判断しないのでしょうか。やはり吉本さん自身が共同幻想の一つだったと思わなければならないのでしょうか。

                                        (金子 亨記)