残された夢−リージア・ジェレミャーノヴナ・キーモヴァさん−
リーヂア・ヂェレミャーノヴナ・キーモヴァさん(1939.02.14-2003.08.28)が亡くなった。まだ64歳であった。肝臓腫瘍だったという。去年の末にユージノ・サハリンスクのシュテルンベルグ会議でお目にかかった時は、変わらず美しく太っておられて、「これイタリアものよ」とワイングラスを結構傾けておられたから、もうお目にかかれないなどとは到底想像もつかない。
リーヂアさんは四人姉妹の長女であった。次女はナターリアさん、手芸家である。三女がガリーナさん、民族学者でノグリキ博物館副館長、私たちの研究グループの古い仲間である。四女がアレキサンドラさん、ニヴフ語月刊新聞『ニヴフ・ディフ』の編集長である。リーヂアさんはアムール河口に面した樺太北西海岸の小村テニギの生まれ、北樺太方言(アムール方言に近い)で育った。「ロシア語はペテルブルクで習ったの」と言って、今も本物のニヴフ語を闊達に話していた。
リーヂアさんは17歳でレニングラートに赴き、ゲルツェン教育大学で数学と製図を学び、その後しばらくはウランバートルなどの高校で教えた。しかし1970年代にサハリンに還ってきた時、関心は専らニヴフの文化にあった。教職の傍ら、まず白樺樹皮や魚皮の手芸に打ち込んだ。たちまちに才能が顕現して、見事な刺繍長衣までもが次々に作られ、国際的な賞賛を受けた。いくつかの作品はペテルブルクの「クンストカメラ」などのほか、大阪の国立民族学博物館や北海道白老町のアイヌ民族博物館でも見られる。
リーヂアさんは絵描きでもあった。私が何週間も泊めていただいた部屋には斬新な色調のアブストラクトが何枚も掛かっていた。一方では、おとなしい水彩もよく描いた。戴いて私の家の玄関に掛けてあるのは、トゥミ川の冬の魚釣りを描いた美しい水彩で、リーヂアさんの優しさを偲ばせる。
リーヂアさんはニヴフ民族の文化を広め知らせることに一生懸命であった。自分の作品を持ってフィンランドやイタリアで何度も個展を催してきただけではない。知り合いを総動員して民族芸能団体を作り、ロシア各地や北海道で公演を行ってきた。しかし本当の目論見は、ノグリキに「ニヴフ民族文化センター」を作ることにあった。半地下式のニヴフの冬の家を実物の何倍も大きく堅固に作って、この建造物の周りに博物館と教育施設を配置する。教育施設では、民族芸能の伝承だけでなく、もう殆ど消えかかっているニヴフの母語を、方言それぞれに分けて教える計画であった。施設の中心を成す「ニヴフ冬の家」はもう模型ができていて、ノグリキ民族博物館に展示されている。「これを中心にして、ここに学校を作って、ここは刺繍教室になるの・・・」とリーヂアさんが説明してくれたものであった。「ただニヴフは皆貧乏でしょう。オランダやアメリカやそれに日本の企業がノグリキのすぐ沖で石油を掘り返して儲けているでしょう。地域民族還元分として資金をだしてくれないかな?」私はこの話をサハリンに支店を持つ銀行やジャーナリズムの知り合いに話してはみた。不景気の最中のことであったから、「地域少数民族の小さい望み」などに聞く耳を持つ人は無かった。ニヴフの人たちの間にもさまざまな異見はあるが、リーヂアさんの夢に共鳴する人は多い。北サハリン沖地下資源開発について聞く度に、私にはリーヂア作「ニヴフ冬の家」が記事を覆って黒々と重なって見えてる。リーヂアさんと多くのニヴフの人たちの夢を実現する道はまだ何処かに在るだろうか?
「残された夢」『言語』vol.33.no.1.(2004-1)所収