マリア・ニコラエーヴナ・プフタ著
『ロシア語・ニヴフ語会話帖、ニヴフ語ロシア語語彙集』(G.D.ローク+金子亨編)


マリア・ニコラエーヴナ・プフタさんが2004年8月に亡くなりました.深くお悔やみ申し上げます


  プフタさんはニコラエフスク・ナ・アムーレに長く住んでおられて,ニヴフ人の子供の教育にたずさわっておられた方です.10年ほど前に『ロシア語・ニヴフ語会話帳,ニヴフ語・ロシア語分類語彙表』を書かれました.この原稿を,私のニヴフ人の友人ガリーナ・ヂェレミャーノヴナ・ロークさんと私は日本語付きにして文部科学省特定領域研究(A)「環太平洋の「消滅の危機に瀕した言語」にかんする緊急調査権研究」の報告書として出しました.「現地還元用」の出版物です.この本は250部作られ,200部はプフタさんに送ることになりました.残りの50部をロークさんと私とで折半して,いろいろな所に寄贈しました.プフタさんあての200部のうち,プフタさんからの依頼で,彼女の生まれた町の小学校に30部,北サハリンのニネクラソフカの小中学校に30部,ニコラエフスクの北方民族の家に20部という風に少しずつニヴフの子どもたちがニヴフ語を勉強している所に送りました.
この本はもともとテープを添えて作ろうと思っていました.プフタさんもすこしずつ吹き込んでくれていました.しかし間に合いませんでした.まだ亡くなるお年ではなかったのです.確か70歳までまだいくつかあったはずです.何時かプフタさんのお宅で,「じゃぁ,あなたの方が上よ」と言われたことを覚えています.
大切な人に会えなくなるというのは悲しいことです.
  左端 プフタさん
右隣はタクサミさん

『ロシア語・ニヴフ語会話帳,ニヴフ語・ロシア語分類語彙表』 はまだ何部か残っています.金子あてお問い合わせください.
この本の表紙を揚げておきます:

FOR NIVKH CHILDREN

Maria Nikolaevna PUXTA wishes that her younger generations speak their national mother language as frequently as she did about a half century ago. She was born in Kalima, in a small town in the lower reach of the Amur river some years before the World War II, and grown up as Nivkh-Russian bilingual. She taught her mother tongue to V.Z.Panfilov who wrote the most detailed description of Nivkh grammer, Grammatika nivkhskovo jazyka (I:1962&II:1965). In every page of this book we find the sentences of the Kalima dialect of the young Maria Nikolaevna. She went then to Leningrad (now Sankt Petersburg) to study in the Nothern Faculty of Pedagogical University in Memory of Gerzen. She became a teacher of Russian language, as was usual for students of nothern peoples who were inspired to perform the mission to convey the soviet idea and Russian culture to their native children.

Maria Nikolaevna sat quite and looked like to meditate something important when I met her for the first time in 1995 in the dining room of the House of Nothern Peoples in Nikolaevsk-na-Amure. When the reception was almost over, she wispered me how about I could help her to publish a Nivkh-Russian conversation book for Nivkh children. She said she has found herself in the last years too impatient to see that children have already forgot their national culture and language almost completely. She made up her mind to write a conversation text for them before it would be too late. The manuscript was now almost ready, but there exists no financial means. I understood her ardor to rescue her endangered mother language. But I could not answer promptly, for our ELPR-team thought at that time to make audio-visual teaching materials for Nivkh children, but not any traditional textbook. However, the situation is serious and her hope is genuine. What is now useful is an effective and urgent assistance. I made up my mind, too, to do something for the people and language as prompt as possible, that matches just what she wishes. Next summer I visited her with the word to work with her.

The manuscript was, of course, not ready for digital editorial work. Moreover, there were details which can be cleared up only by native speakers, besides many difficult problems about dialect differences. I thank my friend Galina Demyanovna Lok, cheaf curator of Nogliki Museum, who promised me to cooperate in this work. We discussed the problems and elaborated the original style without changing any original notations. The only change we made was the Japanese translation added to the text; for we wish that Japanese readers could learn this old neighbouring language without any intermediate language.

The text consists of two parts: Nivkh-Russian Conversation and Nivkh Thesaurus with Russian interpretations. The first part, the Conversation, begins with the sub-part, Nivkh-Russian Conversation for Children from 1 to 1.5 age. Here we see the intention of Maria Nikolaevna to teach the mother tongue to babies, i.e. to teach mothers at first in order that they could have to teach it to their babies. The second sub-part of the Conversation contains 17 topics which are most useful for daily life: visit, family, living, school, ships, fishing, hunting, gardening, house-building, shops, transport, art-working, wishes, health, sports, music and berry-gathering. The topics are selected from traditional ethnic styles of daily life. But this does not mean that they were old-fashioned. Nivkhs are now living a modern daily life, but they do not abandon their own traditional ethnic conventions like Nivkh cooking, berry-gathering, etc.

In the second part of the book, in Thematic Thesaurus of Nivkh Language, contains a variety of ethnic terms, too. The Thesaurus begins with Nivkh cooking. We surprise to find ethnic words showing how artificially they cut and dry salmons, cook various types of deserts and embroider traditional dresses. It includes also terms to express mental life of Nivkh, e.g. how they name natural phemomena, interprete spatial circumstance, temporal/seasonal variations of nature and numbers with famous variety of classificators. It is needless to say that they have their own ethnic features of naming, e.g. special classification of fishes, birds and animals. The Thesaurus contains not merely names, but also verbs and verb phrases related to them. We can, therefore, peep into the cognitive world of Nivkh at least partially.

This book is written in the dialect of the writer herself, namely, in the Amur dialect. She does not refer to the other dialects, two/three dialects in Sakhlin, which are different from hers in various important aspects of grammer. This book is intended for the children in Amur district; she wishes that corresponding books will be made for the Nivkh children in Sakhalin. I think her wish is realizable relatively easily, because the situation is something better in Sakhlin, where culture movement of Nivkh people is recently progressive, e.g. the monthly newspaper in native language Nivkh Dif is published for more than 10 years.

Maria Nikolaevna is ready to provide with an audio material to this book in the near future. For the purpose my colleague Itsuji Tangiku is now preparing to work with her.

We, editors of the book, are very glad to have realized her wish in this form and, with her together, to be able to help Nivkh children in learning their beautiful native language.
              

ニヴフ語のために

 ニヴフ語はまだまだ生きている.といっても実際にはニヴフの子供たちはもうロシア語しか話せない.ニヴフ人が多く住んでいる地区のいくつかの小学校低学年の授業にはたしかに選択科目としてニヴフ語の授業がおかれているのではあるが,それは母語の教育というよりも外国語教育みたいなものであって,子供たちはせいぜいいくつか面白いニヴフ語の単語を覚えたり,簡単な文が話せる程度の知識を得るにすぎない.もちろんニヴフ人が住んでいるところならどこでもニヴフ語教育を受けられるというわけでもない.小学校でニヴフ語を教われるのは大陸のアムール川下流地域ではカリマ村,イノケンチェフカ村など,またサハリンではネクラソフカ村,ノグリキ市などほんのわずかの小学校だけである.

 母親が子にニヴフ語で語りかけることも滅多にない.ソ連時代の末期ブレジニエフ時代には,ソ連人創成という教育方針に沿って親が子にニヴフ語を教えることがなくなったのである.そんなものを教えたって何の役つはずがない,むしろ出世の妨げになるだけだといって,母語の継承を止めてしまった親がほとんどであった.それから30年あまりもたった今ではその頃の子供たちが親になって,早いところではもう二世代も経っている.この親たちの子供はとうに親からニヴフ語を教えてもらっていない.今日まで少なくとも二世代にわたってニヴフ語の母語継承は途切れてしまっているのである.

 こうした様子を見て,私は先の戦争の最中の北海道でアイヌがやっぱり同じようにアイヌ語を子供に伝えることを止めてしまったのを思いす.それは親たちの辛い悲しい腹立たしい決断であった.しかしアイヌはとりわけ1980年代の終わり頃からアイヌ語とアイヌ文化をなんとかしようという懸命な努力を具体的に始めた.すぐれたアイヌの人たちが愚かな代議士たちの抵抗にうち勝って,不十分ながらアイヌ文化振興のための法律も作った.アイヌとその努力を支える和人にはこれからたくさんやるべきことがある.そして今これは何とかなるかもしれないという希望が芽生えてきている.

 そしてニヴフにも希望がある.たしかに母語の継承は途絶えたままではある.しかしニヴフ人たちの住んでいるところへ行くと,割に歳をとった女性たちの多くが気楽で自然にだいたいニヴフ語で話し合っているのに出会うことが多い.たしかに面倒くさい文や語にはロシア語を使うが,仲間内の気楽な話にはニヴフ語を頻繁に使っている.どっちが楽なのかなと思って聞いてみると,どっちでもよいという.ほぼ完全な二言語使用者が結構居るということなのであろう.どの村にも立派なニヴフ語の話し手が何人かが居るのだが,彼女たちは何人か寄り合っては魚を開いたりイクラをほぐしたりしながら達者なニヴフ語でおしゃべりをしあっている.名の通った口承文芸伝承者がニヴフ語の達人であるのは当然だが,その影響でそうした媼に育てられた若い世代の人たちも結構上手にニヴフ語を話す.そうした家庭では30代の娘たちに至るまで立派なニヴフ語の話し手がいる.月刊ニヴフ語新聞『ニヴフ語』の記者アレキサンドラ・フリユーンさん(ネクラソフカ在住)もサハリン博物館のレーナ・ニトククさん(ノグリキ生まれ,ユージノ・サハリンスク在住)もそうした家庭で育ち,私達のニヴフ語は駄目よなどと言いながら,立派なニヴフ語を話す.こうした若い世代がもっと増えて,社会的条件が改善されたならば,ニヴフ語の将来も捨てたものではない.私達よそ者の言語学者は,実はニヴフ語の生徒の分際であるくせに,ニヴフ語の教育と普及に少しでも役に立ちたいと思って,小学校にテレビやビデオデッキなどを贈ったりしてできることからすこしづつお手伝いできればと願っている.楽しい映像教材を作ってニヴフ語に対する子供たちの関心を高めようと計画しているのだが,そのための音声・映像資料は結構集めたとはいえ,実際に役に立つ映像教材を作るにはまだちょっと時間がかかりそうである.ニヴフの若い研究協力者や有意の若い学生たちと一緒にあせらずに急いでやっていこうと思っているところである.

 もう数年も前に私はアムール河口の町ニコラエフスク・ナ・アムーレでマリア・ニコラエーヴナ・プフタさんに出会った.プフタさんは大陸ニヴフの「首都」カリマ村の出身で,1960年代にパンフィーロフがニヴフ語文法を書いたとき,主なインフォーマントとして彼の研究に協力した.我々が今日彼の本で出会うニヴフ語文の多くは若いプフタさんのものである.彼女はその後レニングラード(現 サンクト・ペテルブルグ)で学んでから郷里のアムール河に帰り,当時多くの先住民族の才媛がそうであったように,ロシア語・ロシア文学の教師として働いた.その仕事のかたわら,プフタさんは母語ニヴフ語のことを一日も忘れなかった.ペレストロイカが始まって自発的行動に対する制約が溶けかかってからは,どうしてもニヴフ語を子供たちに伝え残そうと決心して,この子供宛の本を書きはじめたのであった.1997年の夏にニコラエフスクの「北方民族会館」でニヴフ料理をご馳走になっているとき,隣の席に座っていた小柄で上品な媼から小声で,実はニヴフ語会話帳の原稿をもっているんだけれどなかなか出版に漕ぎつけられないで困っているというお話をいただいた.プフタさんであった.私は映像資料によるビデオ教材の作成という計画で頭が一杯だったものだから,そのときは色よい返事ができなかった.しかし帰国してもその話が耳に残ってしようがない.いまはビデオ教材でなくもよい,物語のパンフレットでも会話帳でもなんでもよい,できるだけ多くの多彩なニヴフ語の教材がニヴフの子供たちにはすぐにでも必要なのだという声が聞こえる.手始めにプフタさんの会話手帖を作るという仕事に手を貸そうと決心したのであった.次の年の夏,私はプフタさんをお宅に訪ねた.昨年の非礼と短慮を詫びて,原稿をお借りした.プフタさんは大変喜んでくれて,同行の丹菊逸治君と私とにニヴフ式にイクラとサケとチョウザメをごっそりご馳走してくださった. 私はその後一年ライプツィヒ大学へ客員教授に行く約束があったので,あっちで暇を見つけて作業をしようと気楽に考えていたのだが,大学での仕事が意外に忙しくて,その当てはすっかりはずれてしまった.帰国後に早速,原稿のデジタル化を始めたが,これが予想以上に面倒な仕事になった.問題も改善点もたくさん見つかった.未整理や不整合の箇所も少なくない.こうしたたくさんの問題を解決するためにまず私は旧知のガリーナ・ジェレミャーノヴナ・ロークさんに相談することにした.私はノグリキの彼女のお宅に通って,日に8時間10日ほどをかけて,原稿をチェックして,なんとか大体の問題について処理の見当をつけた.最大の問題は,ここに書かれたアムール方言を,場合によっては個人語かもしれないとしても,プフタさんの書いたままに残すことであった.方言の域を越えてイデオレクトかもしれないもの,ひょっとして書き間違いかもしれないもの,どう見ても順序を入れ換えたほうがよさそうな箇所など多くの問題があった.しかし私達はこれらをそのままにしておくことにした.未整理や不整合までも原稿のままにしたのである.さらにプフタさん自身が手書きで書き入れた訂正や注記らしい記述がいくつかあるが,これらすべてを斟酌することは敢えて避けた.不十分な箇所の訂正は次の版に委ねたいと思ったのである.何と言ってもこの本をできるだけ早くプフタさんとニヴフの子供たちに手渡したいというのが私達の願いだからである. プフタさんのニヴフ語の表記は月刊新聞『ニヴフ語』などで今日ひろく用いられているものと基本的に一致している.それはまた,箇々の単語の表記にいくつかの違いはあるが,音声表記としてみる限り,Ch.M.タクサミ、M.N.プフタ、ヴィンギン共著の初級教科書『ニヴフ語文字』、サンギ・オタイナ共著のサハリン方言初級教科書『ニクヴン・ドゥフ・ピトフン』,さらにタクサミ・ポレーチエヴァ共著の中級教科書『ルイ・ベタシ』などの表記とだいたい同じである.さらに少し修正を加えれば、タクサミ編『ニヴフ語・ロシア語,ロシア語・ニヴフ語辞典』も使える. プフタさんの本で用いられた文字のうちニヴフ語に特有の文字については前のページに揚げたプフタさんの解説とその和訳に書かれているとおりであるが,この項の締めくくりとしてニヴフ語の子音音素の特性に関するエカテリーナ・グルージェヴァの表にプフタさんの表記を書き入れて,対照的に揚げておく.この表自身にもニヴフ語音韻論そのものにもまだまだ問題はある.この問題の解決はニヴフ語の研究者の将来の課題である.

(以下略)

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