ラテン式書記法始末記(CES3,2000)

ソ連建設の初期に少数民族の言語にラテン式の書記法が考案され、そして1930年代の末期には早々と廃止されたことは知られている.しかしそれがそもそもどういう動機で導入され、どういう経緯で廃止されたのは、少なくとも私にはあまりはっきりしなかった.1999年の初夏にアカデミーの招待を受けて6週間ほどペテルブルグに滞在した機会に、この間題を調べてみた。以下は私が見つけた限りでのラテン語式書記法の導入とその廃止にかかわる経緯の概要である。

1)Rabfakとボゴラス・タン

ボゴラス・タン(Bogoraz-Tan,V.G.1865-1936)は1920年代後半から1935年までのソ連建設の初期に北方少数民族の運命に関わったもっとも重要な人物であった。この名は1930年代初期の先住民族の指導者たちにとって恩師でもあり慈父であった碩学の紳士を指す名であった。ボゴラスと彼等との親愛な関係を示すのに誠にふさわしい文章がある。北方アジア(Severnaq Aziq)』(1925〜1928)(全ロシア中央執行委員会付北方諸民族援助委員会刊)の1927年第2号に載った「severnyj Rabfak(北方労働学部)」という報告文である。「北方労働学部」というのは、1925年にレニングラード国立大学に付属する形で北方委員会severnyj Komitet(後述)によって新設され、はやくも翌年1926年春には同大学現存言語研究所に付置されることになるのであるが、ボゴラスとその弟子たちの根拠地であった.授業は1925/26の冬学期から開始された。この学部の目標は、労働技術の教育を中心とする北方少数民族の入材育成であった。学部は、発足当初から直接ボロラス教授自身によって指導され、校舎の選定から飼い猫の世話に至るまですべて彼自身が面倒をみていたようである。校舎は最初レニングラード市内のクリュコフ運河沿いのマリン邸(現「労働宮殿」か?)に置かれていたという。しかしそこは寒い部屋が5室しかなく、30人を収容するにはいかにも手狭なので、交渉の末30キロほど郊外のジェツコェ・セロー(現プーシキン市、エカテリーナ宮殿のある村)に移されたという。

学部は当初1925年10月11日に授業を開始する予定であった。10月1日には、各地からボロをまとい、一文無しの学生たちが早くて一ヶ月半、多くは2ヶ月もかけてレニングラードに着いた。しかし着いた者はまだよい方で、アジア・エスキモーの青年のように、出発はしたが、ついに到着しなかった者もあったという。ギリヤークのモグチは一家四人でやってきた。上の子供は四歳だった。アムールからはナーナイの娘が一人でやってきた。

学生たちの知識はてんでばらばらで「多くは全くの文盲であって、大部分の学生は猟師の掘建て小屋やツンドラのユルタから直接出てきたばかりなので、都会生活は全くダメ、ロシア語も分かるものもほとんどいなかった。」最少年者はなんと六歳であった。もっとも中にはヤクートからやっきた年かさの青年のように、算数はできる代数も分かるというわけで、すぐに大学の一般の学生となじみになる者もいた。アレウト人ハバロフは最年長で、バルチック艦隊に勤務したこともあって、日本にもいったことがあるという。ボゴラスは、一人のチュクチ人学生について次のように書いている。「テブリャントは孤児であった。猟師の家に生まれたが、父親は別の女を見つけて出奔。母と喧嘩して、アナドゥル河畔に住むお祖父さん夫婦の元に走る。お祖父さんはシャーマンであった。お祖父さん夫婦はまもなく自分の親戚や近くの者たちによって殺害され、彼は再び独りぼっちになる。」しかし利発で物怖じしない青年だったテブリャントは地域ソヴィエトに労働学部に行きたいので推薦してほしい旨の手紙を書いた。この手紙にはいくつかの問題があった。なかでもが、ロシア語がまったくできないのが最大の難点で、一人でレニングラードまで行くのは到底無理と判断された。しかし再び幸運にも「ハバロフスクからはロシア語の分かるユカギール人学生パルファンチェフ君が同行できることが分かったので、二人とも痩せこけておんぼろの姿だったが、何とかレニングラードはモスクワ駅に到着した。」

労働学部の授業は予定通り、10月1日に開始された。少数民族の学生20人、他にズィリャン(コミ)とヤクートなどがあわせて9人、総勢約30人が初級クラスと1学年とに分かれて授業を受けた。初級クラスはロシア語10、数学6、政治3、地理2、絵画2、物理2(内1演習)の、計週25時間授業であった。「ある時、黒板に

NA-WA-KO-WI-KA

と書いて、テブリヤンにその意味を尋ねた。しかし分からない。そこヘネコが一匹。教室でネコを飼っていたのだ。<あれだよ。あれはチュクチ語でなんて言うの?> <あれ? リス・キツネかな?>」。

それから数ヶ月後1926年に入ってからのことであろう。「タイガとツンドラと称する壁新聞が出はじめた目その文章のいくつかは原住民語で書かれていた。ツングースの一人はそれをラテン文字で書いた。アレウトのハバロフにとっても壁新聞の文章は初めての文字であった。いまだかって誰一人としてアレウト語で文章や詩を書いたアレウト人はいなかった。」「絵描きもいた。ゴリドの娘オニンカが壁新聞に北方委員会会長スミドヴィッチの肖像画を描いた。」「またいつだったか、人類史の授業をしたときのことである。教室は奇妙な雰囲気につつまれた。誰かがいった。<北方は一万年遅れているぞ。俺たちはその遅れを一年で取り返すぞ。>ともかくも彼等の意気込みと熱気はすごいものだった。」

1927年になって壁新聞を編集して冊子にしようという計画がまとまった。」ボゴラス教授は北方委員会と交渉して、この話をまとめた。それが年報(後に季刊雑誌)『タイガとツンドラ(Taiga i Tundra)』の創刊であった。『タイガとツンドラ』第1巻の発行者は、全ロシア共産党中央委員会幹部会付北方委員会レニングラード支部、エニキゼ記念レニングラード東方大学北方学部,略称SEBFAK)北方サークル刊となっている。編集者は、編集主幹ボゴラス、副編集長にコーシキン Kowkin,Q.G、編集局はこの二人の他に言語学者のモル Moll,P.{、これに学生のハバロフ君他二名で構成された。発行部数は1000部であった。この報告に書かれているように、労働学部では当初から先住民族言語(tuzemnye qzykと言われていた)を表記するためにラテン式書記法を用いていたことは注目に値する。

労働学部は1926年末にエニキゼ記念レニングラード東方研究所北方学部と合体し、学生数も倍増した。壁新聞『タイガとツンドラ』も大きくなった。こうして彼等は次第にロシア語に習熟する一方で、自分たちの先住民族語はラテン式書記法で書いていた。ロシア語は学習の対象であり、自分の母語はあくまで別の言語であって、それに立派な表記を与え、一日も早く故郷の人々に伝え、自分の国から文盲を一掃すること、これが彼等の日々の学習の直接の目標となっていた。彼等は自分の故郷の習慣と革命後の変化についてロシア語で書くことも頻繁になった。壁新聞の発行回数も多くなり、その記事の中からおもしろいものを選んで年報ができあがったのである。年報の発刊と同時に実践活動も活発になった。1926年と1927年の4・5月に学生たちはそれぞれの出身地に一時帰郷して、現地の北方委員会の活動を支援した。この時に彼等はラテン式書記法を郷里に持ち帰ったのである。

1928年に刊行された『タイガとツンドラ』年報第1号には、アレウトのハバロフ、ニヴフのモグチ君など五名が北方委員会第五回総会に出席したのを受けて彼等のRabfak-Sebfakの北方サークルの「指令 nakaz」なるものが発表されている。その活動分野別の要約は次のようである。

a.ソヴィェト建設について(小項目略)

b.経済建設について(小項目略)

c.協同組合について(小項目略)

d.文化啓蒙活動について

1)冬夏授業可能な学校の建設

2)文盲一掃(特に夏遊牧・冬定住民の)

3)文化基地ネットの拡大

4)文献・教科書・文書の閲覧場所の創設

5)原住民言語のアルファベット及び原住民語の教科書の作成

6)全域的なSebfakの拡大への協力と地元青年の参加の拡大

e.医学・衛生・獣医について(小項目略)

ここで見るように、労働学部・北方学部ではこの時期にすでに原住民言語のアルファベットを作りつつあった。そしてそれはラテン式書記法によるものであった。

セルゲーエフ(Sergeev,M.A.)という党官僚がいた。彼は50年代に北方少数民族に関して重要な書物を2冊残している。一冊は『北方少数民族の非資本主義的発展の道』AHCCP 1956という大著であり、この時期の北方民族の歴史に関する基本文献の一つである。もう一冊は『ソ連北方の少数民族』マガダン1957である。後者は,資料的価値は劣るが、大まかな姿勢を読みとるには適切である。セルゲーエフ自身は北方諸地域にいたことがなく、もっぱら報告を使ってこれらの本を書いたということであるが、特に前者は、膨大な第一次資料を駆使した労作である。ここで注目しておきたいのは、彼の先住民族出身学生の活動に対する評価である。セルゲーエフ(1957)はボゴラスの功績を称えながら、「少数民族の歴史において1925〜1930年代はまさに文化革命の年であった」と評価している。事実、1926年に北方全体で識字率はわずか6.7%であったものが、1934年には24.9%に、特にユカギールとエヴェンキでは45%にまで向上した。先住民族の活動家(教師を含む)は1925年にはユ9人であったが、1930年には195人、内女性50人に増えた。北方12地区で総計400の地区ソヴィェトが作られ、それぞれに文化基地が置かれた。学校が131校、内インテルナート(寄宿制)が70校、さらに医療施設が61箇所に作られた。この活動のすべてを支え、現実に活動家を供給したのが、北方委員会によって作られボゴラスによって指導されたレニングラードの労働学部・北方学部であった。初期の北方のソヴィェト的文化建設の最重要課題であった先住民族言語の書記法の問題もその出発点は彼が直接に指導したこの労働学部・北方学部にあった。彼等が自分の母語の表記をラテン文字で始めたのである。

2 北方委員会と『ソヴィエト的北方』

北方委員会は、ソ連邦初期のソヴィェト的行政機関であった。ここで「ソヴィェト的」というのは、縦割りの命令系統によって管理監督された政治的行政機関であると同時に執行機関としての性格をもつという程度の意味である。北方委員会の正式名称は「全ロシア共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会幹部会常任委員会付属北方少数民族協力委員会」である。
北方委員会は1924年6月に正式に構成され、1935年夏に解体される9年間生きていた。北方委員会の活動開始の時期において、その基本的任務は次の三つであるとされた。

第一、「北方地域に活動している全ての国家機関と経済機関に対して指令を与えること」第二、地方の労働組織の「規則性促進のための措置をとること」、
第三、「北方諸民族の慣習と状況に関して正確な情報を得て広範な出版活動を行うこと」

またこの時期の特徴として、北方諸民族に関する科学研究が強調され、それと情報活動を含む政治的実践との結合が計られたことが挙げられる。このことは,機関誌『ソヴィェト的北方)』(1930〜1935)第2号(1930)所収のスカチコー(Skahko,An.)の論文「北方委員会の5年間の活動」によると,1924〜1926年にかけて次のような活動方針が決定されていたという。(クカチコーは,共産党中央委員会幹部会代表であり且つ北方委員会会長であったスミトヴィチ(Smidovih,P.G)のもとで北方委員会の事実上の指導者としての役割を果たした人物である。)

(1)科学的データ収集の強化
(2)地方の知識と指令的役割の強化
(3)地方組織とセンターとの結合の強化
(4)原住民ソヴィエトなどの原住民組織の指導性の強化。
いわゆるコレニザーツィアというのはこの時期のこのような指導のあり方を指すのであろう。

『ソヴィエト的北方』創刊号(ユ930)の巻頭には指導的論文が四編あげられている。北方委員会会長スミドヴィッチの創刊記念論文「北方のソヴィエト化」、実質的指導者スカチコーの「北方の諸問題」、第三論文はルクスの「北方原住民の書記法の諸問題」、第四論文はオルロフスキーの「北方の集団化」である。ここで特に問題にしたいのは第三論文、ルクス(Luks,K.Q.)の「北方原住民の書記法の諸問題」(pp.29-47)である。ルクス(1888〜1932)はラトビア生まれのボルシェヴィキで、国内戦中は極東で活躍した。1929〜1930年にはレニングラード北方民族研究所の学長を務めていた。広い学識と大胆な思考をもった人物であったらしい。彼は,ロシア革命以前には北方諸民族が独自の書記法をもたなかったこと、シュテルンベルグとボロラス・タンらが学問的な予備作業をしてきたことを述べた後で、次のように書いている。「今日、ソ連において、かっての少数民族に対する白ロシア帝国のロシア化計画と隷属化体制が終わり、完全な民族的同権と経的自立の時代がやってきたのであり、それはブルジョアジーや往事の民族の支配者からの解放を意味するだけでなく、自分固有の富の解放でもあるから、北方民族の民族語の問題、従ってその書記法体系の問題が早急な解決を求めている。」それがどのような方向に向かうべきかという問いに対する答えは次の発言によって与えられている。「ソヴィェトの学校に対して『初等教育においては母語、すなわち児童の親の言語によって教育されるべきである』という.

規定が宣言される。北方少数民族との関係においてこの規定を実行するためには北方原往民言語のための書記法の編纂が欠かせない。」なお、ここに続いて「自分の学校のコレニザーツイア」という言葉が出てくるが、北方委員会の公式文書でこの語が使われたのはこれが最初であろう。

彼はまた極小言語の維持のむずかしさについて十分に分かっていたようであって、方言の細分化について次のように言う。「原住民言語の方言的細分化に続いて原住民言語・方言の共通言語への接近の時代がやってくる。そこでは方言全てのよりよい特徴が継承されるのであって、これは言語的差異の時代の「到達」である。書記法の形成は共通語の強化と方言の除去にとって強力な一撃となる。」

彼は,言語の淘汰と書記法の制定がそれに与える政策的影響に関してこのように考えていたらしく、この考えは次のような「大胆な想像」と関係している。「すこし大胆な想像をたくましくすれば、こんな絢欄たる計画をめぐらすことも可能だろう。つまりエヴェンキとエヴェン(ツングースとラムート)、オドゥール (ユカギール)、チュクチ、コリャーク、イテリメン、ニヴフ(ギリャーク)、ナーナイ(ゴリド)及びその他のシベリア・極東のすべての民族はヤクート化され、サーミ(ロパール)はフィン化され、ネネツ(サモェド)、オスチャーク、ヴォグールはコミ化される。(中略)こうなれば姉妹言語をつないでいた語彙も原住民言語の書記法に関するやっかいな問題もすべて存在しなくなる。」マル(Marr,H.Q,1865-1934)やメシャニノフ(Mewanihov,I.I.生没年不明)が言語の発展段階説を広める以前においても、当時のマルクス主義者は言語の「進化」の速度がかなり速いと考えていたのであろうか。

ここで問題にしたいことは、先住民族言語の書記法をロシア文字とラテン文字のどちらをべ一スにして作るべきかという論点である。ロシア文字採用賛成派は次の四点をあげているという。

(1)ロシア式とラテン式の二字母を覚えるのは無駄である、
(2)ロシア文字はすでに部分的に知られている、
(3)近隣諸国との交流にはロシア文字が便利である、;
(4)印刷が安い。
これに対してルクスはこれらの意見に対して以下のように反論する。

(a)北方学部など北方民族言語に関係するところでは過去四年間にわたって何の問題もなくラテン式書記法を使ってきた

(b)原住民はこれまでロシア語字母で自分の言語を書こうとしてきた。自分の文字をもつことは民族性の自覚のために不可欠である。

(c)ラテン式書記法は外国文化に「接近」させるという意見があるが、それは逆で、チュルク諸民族と同様にラテン書記法をとることがむしろ平等の原則に従うものである。

(d)ラテン式書記法の印刷経費も高くつくとは限らない。ロシア文字はロシア語の音声用であって、それを加工すればむしろ高くつく。

(e)ラテン式表記のほうが北方原住民の言語音を正確に移すのに適している。

(f)「最後に、遅かれ早かれロシア語の表記もラテン式か何らかの国際的書記法に変わることになるであろうが、この巨大な意義をもつ文化的達成を待っことがもはやそう長くはない可能性もある。」

最後の文(f)は、今となっては驚くほかはない。ロシア語も早晩ラテン文字化されるのだから、原住民族は先にやっておこうというのである。しかしこのような考え方は昔から(ペテルブルグの)ロシア知識人がもっていた考え方であって、それがソ遵建設初期のラトビア生まれの国際的な知識人革命家の発言であっても決しておかしくはなかったのであろう。ともあれ、ルクスのこの発言は責任ある立場からのものであり、この時期の北方委員会の公式見解とみなすべきであろう。

3 ラテン式書記法の制定

『ソヴィェト的北方』第1号(1930)のスカチコー論文「北方問題」は、北方委員会創設の時期における問題の所在を列挙し、活動方針の一覧を提示した論文である。スカチコーは、北方委員会会長スミドヴィチ(Smidovih,P.G.)共産党中央委員会幹部会代表のもとで北方委員会の結成から解散まで(1924〜1935)の実質的な指導者であった。しかし彼の名は、私の見た限りの版の『ソ連大百科』にも見あたらない。1930年代末の民族派粛正を生き延びられなかったのではないかと思われる。論文「北方問題」には、経済建設、文化基地創設などソヴィェト政権が北方でなすべき事業の数々を挙げている。そのなかで特に言語と書記法の問題について次のようにいう。

「言語の問題もある。北方諸民族は将来何語を話すのか、何語で教育されるのか、ロシア語か地元語か?原住民の言語のどれが維持・発展させられるか、どれが切除されることになるのか。教育と科学の建設がどの言語によって可能か、またそれはどのような規模においてか。」

「書記法と文字の作成の問題もある。民族の面子を守るという問題もある。小部族の脱民族化は避けがたいのか、それと戦うことは可能で必要なのか。もし若干の偶然的な脱民族化が不可避なら、それはどのような道を歩むことになるのか。」

いずれも新鮮な問いかけであり、今日の先住民族諸言語の状況から見ると、問題の根元がすでにこの時期にあったことを窺わせる。しかしここで問題にしたいのは、この問題提起が北方委員会の当時の北方少数民族に対する言語政策の出発点とその水準を示している点である。すなわち、1930年春の段階で北方委員会の指導部は書記法を含む言語政策に関して確定した方針はもっていなかった、むしろ大きく迷い、問題の行く末を探りながら、適切な政策を模索する状態にあったことが示されているのである。一方には、スミドヴィチの言うように,北方のソヴィエト化という大方針がある.この方針に従えば,一日も早く支配領域のすべてで協力kな政治宣伝が展開されてそれが理解され実現されなければならない。他方には、ルクスの論文にあるように、ゴボラスの指導になる労働学部・北方学部の原住民青年たちの情熱がある。彼等は故郷へ帰って、政治的にも経済建設の点でも、さらに文化建設の面でも速く着実に地域の指導者としてソヴィエト化を推進する努力を借しまなかった。この二つの側面を矛盾なく展開するには、早急にロシア語教育を徹底して、それを基礎にロシア語による政治宣伝と教育活動をすればよかったはずである。しかしそれでは「民族の面子がつぶれる」とスカチコーは考えたのであろうか。確かに、この時点でソヴィエト化とラテン語正書法制定との間の矛盾はまだ露呈していなかった。帰郷した青年たちのソヴィェト建設への貢献の成果が至る所ではっきりとあらわれ、それが矛盾を覆い隠していたのである。あるいはまたルクスの言うように、遅かれ早かれロシア語もラテン式になるのだから、北方民族はそれを先取りしておけばよいという考えが党の機関のなかで一定の地歩をしめていたのであろうか。レーニンの起草になる「民族同権法および少数民族擁護法案草案」(1914年)の思想がまだ隠然たる勢力をもっていて、非ロシア民族はその自立性を自覚し維持するために異なった文字をもつことが必要であるという考えがまだ支配的であったのかもしれない。セルゲーエフ(1957)によると、北方諸民族のための統一アルファベットを作成する計画が党の中央で決定されたのは1931年のことであったという。この統一アルファベットがラテン式かロシア式かと言う間題については党の中央ではすでに決着済みであったようである。ルクスの状況判断と主張が受け入れられたもののようである。事実、ボゴラスの指導による労働学部.北方学部ではすでにラテン式書記法が出来あがっていて,当然のことのように日常的に使われていたのであろう。その証拠に『タイガとツンドラ』年報3号(1931)の冒頭には「万国の労働者よ団緒せよ」が15言語でラテン文字表記されている。
参考までに言語名を付けないままで掲げてみよう。ちょっとしたクイズである.

1.Hawamnil upkattuk dunnelduk umunupcekllu!
2.Agunas tannam usudin illagnin terin atakasehtyri
3.Sehke madest robetnexk 1ated!
4.Zoqboi sinadu davuse jacududi!
5.Cebetsen we1denlleen gustige ingusin!
6.Koside hemu teresi be havben!
7.Kovhsall-heit kamah 1uni nunnalkavnoh sema!
8.Zoboyise1 eme derae buga dukkou amahun!
9.Tit iox mu1ovat e1ttax tysat!
10.Sovonimi xibiri mallids!
11.Embgenutekin ocin remkin numekerkin!
12.Witatsin varat uptpo nnanno gamallin!
13.Colanigevn sik kurmuh vopure!
14.Vetatkkalar vseh ksen utmellos!
15.Hellil aydutuvduk repkapti1v!

1931年の党の決定後まもなく1932年の3月には第一回全ロシア北方民族言語書記法制定会議が開催された。これを受けてレニングラードとモスクワで早速に公的な検討が始められた。早くも1933年には『書記法と革命』と題する論文集がソ連邦民族省付属全連邦新字母中央委員会編として出版された。この論文集の巻頭にはマルが文盲追放の運動の成功について述べた後で、「今日すでにラテン化の作業は完了した」「残っている部分は術語、正書法、文語、辞書と文法の製作である。」と書いている。

この間に、セルゲーエフ(1957)の語ったように、全国的な規模の文化革命が起こったのであるが、その様子を物語る報告がある。『ソヴィエト的北方』(1935,4+5号)に載ったオルレヴァ(Orlev,E.)著「北方極東地区社会文化建設の十年」がそれである。彼女によると、極東地域の言語の書記法に関しては1930年から検討され始め、この年の末からは現地で実際に導入されたという。それはまず革命初期に大規模に創設された小学校の現地語教育の教室に導入された。この時期の児童数の増加はめざましいものがある。彼女のデータによると極東地域における北方民族の学校は次のように発展したという.

1913 1923/24 1924/25 1925/26 1926/27 1927/28 1928/29

学校数28    37      44      58      49       52      60

生徒数712  1.120  1.299   1.563   1.515    1.650    1,750

統一的な正書法が決定される前までは現地での言語教育は自前の文字でさまざまに行っていたらしい。この地域では1930年にトカチェクという教師がロシア語べ一スの文字を作り、翌年にはレピンがラムート語にラテン文字の文字を、コリャーク語についても何人かの教師が共同で文字を考案したという(何をべ一スにしたかは不明)。こうした中で「レニングラード発のラテン文字が極東に到着したのは1933年であった」と彼女は書いている。事実その頃には北方諸民族の言語のすべてについてラテン式書記法が出来上がっていたことはマルの書いているとうりである。

ラテン式書記法の制定の公的な出版物アリコール編『北方諸民族の言語と書記法』が刊行されたのは!934年であった。この本はもともとは三巻ものであって、第三巻に記された編集局の出版予定によると、第一巻がプロコフィエフ編集のフィン・ウゴル諸語及びサモディ諸語、第二巻がツングース・マンチュウ諸語、第三巻がクレイノヴィッチ編のパレオアジア諸語である。第一巻は1937年に刊行された。この内容については別に触れる機会があろう。第二巻は今回見ることができなかった。第三巻の書誌的なデータは次のようである。
『北方諸民族の言語と書記法』総編集者:アリコール(Al;kor,Q.P.)

第三巻「パレオアジア諸民族の言語と書記法』
第三巻の編集者:クレイノヴィッチ(Kreinovih,E.A.)。

ソ連邦中央執行委員会付属北方民族委員会科学研究協会編国立教科書教育出版社刊モスクワ・レニングラード1934年
編集主幹:クレノヴィッチ、副主幹:イワノヴァ、助手:グランスタン、出版部数3200,価格3ルーブル25。

担当は以下のようである。

ボロラス,B.F:ルオラヴェトラン(チュクチ)語
ステブニツキ,C.H.:ヌムラン(コリャーク)語
:イテリメン(カムチャダール)語
ボロラス,B.1二:ユイット(アジア・エスキモー)語
ヨヘルソン,B.H.:ウナンガン(アレウト)語<新規以来原稿>
:オドゥール(ユカギール)語<英語からの翻訳>
クレノヴィッチ,E.A:ニヴフ(ギリヤーク)語
カルチェル,H.K:ケット(イェニセイ・オスチャーク)語
チェルニャコフ,Z.E.:ソ連邦北方諸民族言語配置図

これらの論文はいずれも単にラテン式の書記法による音声表記を提示しているだけではなく、30〜50ぺ一ジに及ぶ詳細な言語概説となっている。例えばクレノヴィッチの「ニヴフ語」は、音声と音韻に関する解説から始まり、「クマネズミとカエル」の物語テキストに終わる70項目に及ぶ優れた言語概説である。

.ラテン式書記法始末『北方諸民族の言語と書記法』第三巻が出版された年の『ソヴィエト的北方』誌の第4号にサーロフ(Salov,P.G.)なる人物の「北方民族学校」という論文が載った。この人物は重要な決定権をもつ教育関係の要職にある党役員らしく、まず北方民族学校の目的を次の三という.

(1)総合的知識の普及
(2)学習と実践の結合
(3)共産主義思想の拡大

第一次五カ年計画に適合した教育活動を推進することを強調する。ついでラテン式書記法の制定が成功したことを評価し、原住民の子供にロシア語を教えることはむずかしいから、小学校1年程度は現地語でラテン式書記法を使って教育するにはやむを得ないと語る。しかし現地語の教育は1・2年に限るべきで、一高学年用にはすでにすぐれたロシア語教材『わが北方』などが出ているのでそれを早急に導入するべきである。まだ教材の作られていないところでは初級読本、『ソヴィェト北方』、『私たちの本』、『算数教科書』などを低学年から用いるべきであるともいう。同時に既刊の教材に対する批判を行っていて、ボロラスとステブニツキ編の初級読本(チュクチ語用か?)は素材も表現も叙述も非ロシア系の子供には難しいので、再版は禁止する。他の教材でも挿し絵が不適切であったり、他民族の絵が入っていたりするものの多いなどの改善点がある。結論として彼は、低学年へのロシア語の導入がむずかしいから当面は現地語教育を行うのであるが、数学を含めその他の教科はもちろん、高学年ではすべてロシア語で教育を行うことを求めている。彼においては、レーニンが主張したと言われるような、民族の言語文化の尊重という観点は全くない。積極的に先住民族の言語文化を尊重するとか、あるいはそれを抹殺するとかという問題は考えているようすもない。現地語教育と新書記法の導入はあくまでその場凌ぎの方便であって、ロシア語による地均しの機会を虎視眈々と待っているだけであると思われる。しかし一般に、この思想がレーニン死後の民族教育政策の基本的路線だったのではないだろうか。

1935年に北方問題は大きな曲がり角を迎えた。『ソヴィエト的北方』1935年3・4合併号(8月刊)は北方委員会の指導者スミドビッチの追悼号であった。巻頭の追悼文に続いてスカチコーが「北方新作業組織形態」と題する論文を書いている。ここで彼は
(1)16言語の書記法が出来、300の学校が建設され、60%が文盲を脱した
(但し、ナーナイ地区は30%が文盲)、
(2)シャーマンの衣装が博物館送りになった、
(3)医療基地300の建設,1500人の原住民職員の就労、
(4)職能別各種協同組合の建設

などの成果が過去10数年で達成されたことをあげ、結論として「今日北方は多かれ少なかれ平常なロシア・ソヴィエト的国家生活に参入したと言える。しかもこの過程はまだ完全に終結した訳では決してない」と結論する。そしてこのような成果を達成した以上、新五カ年計画を遂行するためには、従来の形態の北方組織は不十分であるので、「北方委員会とそれに関連する組織は解体されべきである」。機関誌『ゾヴィエト的北方』も新雑誌『ソヴィェト的北極圏(Sovetskij Arktika)』に改められ、国家事業としての「北方海路主局」の事業に貢献すべきものとするというのである。こうして北方委員会は解体され、機関誌『ソヴィェト的北方』は生命を終えた。事実、『ソヴィェト的北方』はこの巻が最終号であり、『ソヴィェト的北極圏』が1935年8月から月刊誌として発行され始めた。北方委員会の中央は活動を停止した。ただ地方の北方委員会はその後も活動を続けたものがあったという。これらの活動が最終的に停止したのは、1937・38年にその活動家達が民族主義者として「処分」されたためであった。スターリンのソ連が北方民族を見捨て、北極海の海洋開発へと政策を大きく転換したのである。
ラテン式書記法の運命も同様であった。セルゲーエフ(1955)はその過程を総括して次のように書いている。「ラテン式書記法の導入は北方諸民族をロシア語から異化する効果をもたらし、彼等がソヴィエト的社会主義文化に参加することを阻害し、彼等の後進性を強化した、つまり事実上の不平等をもたらしたのである。北方の学校では部分的に二重の文字と二重の書記法が一般教育とロシア語学習を非常に困難にしたのであった。こうして当然のことながら、ラテン式正書法は世論から見放され、ロシア語表記に道を譲った。この結果として北方諸民族の書記法は1937年にロシア式アルファベットに変えられたのである。この時期にロシア式のアルファベット・システムができていたのはケット、マンシ、ハンティ、ネネツ、セリクープ、エヴェンキ、エヴェン、ナナイ、ウデ、チュクチ、コリャーク、エスキモー、ニヴフの13少数民族であった。」彼はさらにこの時期の北方の言語状況の特徴として次の5点をあげている。

(1)近代的語彙が新生活とともにロシア語から大量に入ってきた。
(2)公的生活でロシア語の使用が増えて、若い積極的な人々の中ですでにロシア語のほうが堪能であるものが生まれた
(3)「古い語彙の貧困状況」が克服され始めた。
(4)特にネネツ・ドルガンでは全体がロシア語を使用できるようになった。
(5)都市部だけでなくコルホーズでのロシア語使用が普通になった。

北方でのソヴィエト建設は確かに以外な速さで進んだようである。とりわけ初期の労働学部卒業生の帰郷とその活動は30年代の始めにすでにめざましいものがあった。彼等はラテン式書記法とそれによる先住民族言語文化の教育を志しながら、実は地域のソヴィェト化に挺身することによって、ボロラスのもとで学んだロシア語をもっとも効果的に彼等の郷里に広めていたのであった。その結果はセルゲーエフの書いたとうおりであった。

ラテン式書記法はできあがった時にはすでに無用の長物だったのである。ルクスが描いたロシア語のラテン式書記法のような国際主義はロシア的ソヴィェト化とスターリン的一国社会主義建設路線によってただの夢物語とされたのであった。ラテン式書記法そのものが実は一場の夢であった。それはボゴラスが思い描いた北方民族解放の夢であり、彼の多くの学生達の社会主義的民族文化建設の見果てぬ夢であった。

5後始末

ボゴラス教授は1936年に他界した。彼とともにチュクチ語のラテン式書記法を書いたステブニツキも8年後にレニングラード包囲のなかで死んだ。この人の博士論文が公刊されたのは実に1994年のことである。戦争と戦後の困難な時期が続き、北方諸民族の言語の正書法の問題は事実上1960年代まで棚上げにされていた。間題が再び国家的な規模で検討されたのは、1950年代の末であった。19595月全連邦用語協議会の決議にもとづいてソ連アカデミー言語研究所が統一音声表記委員会を構成した。問題とする言語はイラン語、チュルク諸語、ウゴル・フィン諸語、カフカーズ諸語、北方諸語、ロシア語諸方言であった。北方諸語のうちパレオアジア諸語に関してはクレノヴィッチ編になる『パレオアジア諸語のための統一音声表記プロジェクト』(1961年、A540ぺ一ジ)が刊行されている。これはもちろんロシア語べ一スの表記法であって、提案された表記システムの一例をあげると次の
ようである.


(文献等は略しました.お問い合わせください.)



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