「Uëda Mannenのこと」CES3
1. はじめに
1.1.上田万年とは
『平凡社大百科事典』(1984)の「うえだかずとし」(亀井孝執筆)には次のようにある。「国語学者。現代の国語学の生みの親と言うべき人である。江戸に生まれ、1888年、帝国大学文科大学を卒業。当時、大学の講師であったB.H.チェンバレンの愛弟子で、この師から言語学の手ほどきをうけた。90年さらにさらに言語学を深く研究するため渡欧し、当時言語学の本場であったドイツで、ブルークマンやオストホフらの一流学者のもとに学んだ。94年帰国して、帝国大学教授となり、博言学(当時、言語学をこう呼んだ)の講座をうけもった。98年文科大学内に初めて国語研究室を設けた。翌年、文学博士、1905年以後定年まで、国語学教授。その間、文部省専門学務長、文科大学長、神宮皇学館、臨時国語調査会会長を兼ねた。明治における日本の近代的な学問の啓蒙時代を築いた偉大な人物の一人として忘れることのできない学者である。自身の学問的業績は多くないが、よく学問を鼓吹し,後進を育てた功ははなはだ大きい。」 また『国語大辞典』(国語学界編・東京堂出版、初版1980)は次のように書いている(筧五百里執筆)。「うえだかづとし、慶応3年(1867)-- 昭和12年(1937)。国語学者。江戸大久保の名古屋藩下屋敷に生まれ、東京小石川駕籠町の自宅に没。墓所は東京谷中。幼名鋤太郎、祖父の名をつぎ、万年と改めた。明治21年(1888)、帝国大学の和文学科を卒業。初め同藩の先輩坪内逍遙(安政6年<1859>-- 昭和10年<1935>)に私淑し近世文学、ことに演劇研究を志したが、戸山正一(嘉永元年<1848>--明治33年<1900>)の勧めに従い、チェンブレンに師事して国語学を専攻。加藤弘之(天保7年<1836>--大正5年<1916>)・戸山正一等の推薦により、明治23年(1890)-- 同27年、主としてドイツに留学して言語学を修めた。同27年(1894)-- 昭和2年(1927)、東京帝大教授。その間文部省専門学務局長・国語調査委員会主査委員・東京帝大文科大学長・臨時国語調査会・神宮皇學館館長・臨時国語調査会長等を兼任、明治32年(1899)文学博士。昭和2年(1927)東大名誉教授。同2-- 4年国学院大学長。大正3--12年(1914 -- 1923)度欧米に出張。【業績】(1)留学中ドイツの印欧語比較言語学および言語史学を学び、帰朝ののち音声学およびパウルの言語史原理を講じ、国語の系統および国語史研究に先鞭をつけ、国語のハ行子音は p → f → h と変化したことを考証して、国語音韻史研究の道を開き、先人未踏の国語学史を講じて研究の発展と承継に系譜を立て、先人の業績の意義と価値を明らかにするなど、西欧の言語学・音声史学を導入し、わが国の言語学・音声学の開拓者たるとともに国語学の各分野に科学的研究の端緒を開いた。(2)国家・民族・言語の三位一体観に立脚し、国運の隆盛は国語・国字の改善がその基礎たるべきこと、国語を愛護尊重すべきことを機会あるごとに力説し、国語ならびに字音かなづかいの改訂、漢字の制限、ローマ字の普及など、国語政策上種々画策して、その実現に精魂を傾けた。(3)学徒の育成には、高邁な識見と該学な学殖をもって研究意欲を啓発し、各自をして学問の精神をさとり、問題と方法を発見せしめ、研究を助成して大成せしめた。明治・大正・昭和を通じ、言語学・国語学・国文学の最高峰たる泰斗の多くはこの門から出た。また隠れた英才を発見して、その研究を大成せしめた者の数も少なくない。主要な著書に『国語のため』(第一・第二)『国語の十講』があり、ほかに共著として『言語学』(セイスの訳、金沢庄三郎と)『日本外来語辞典』(高楠順次郎らと)『大日本国語辞典』(松井簡次郎と)『古本節用集の研究』(橋本進吉と)『近松語彙』(樋口慶千代と)などがある。
〔参考文献」〕「国語学の創世期」上田万年(『国語と国文学』11 - 8。『国語と国文学』(14ノ12)『方言』(昭和13年最終号)『上田万年言語学』新村出筆録、柴田武校訂)」
さらに大野晋は「日本語研究の歴史(2)」『岩波講座 日本語1 日本語と国語学』(1976)の5節と6節を上田万年に当て、上田を「その門下に多数の優秀な研究者を擁して明治大正の日本語学を主導した」と評価している。大野の論評の中でここで特に指摘しておきたいのは次の二点である。第一は上田のドイツ留学の成果に関する評言である。大野は次のように書いている。「上田万年は、ドイツでガベレンツなどの言語学者に学び、比較言語学・歴史文法など、当時の最新の知識を吸収した。帰国後はヘルマン・パウルの『言語史原理』などを講じ、江戸時代の国語学史について新しい視角からする研究を進め、新井白石の功績、富士谷成章の研究の価値などを明らかにした。」「上田万年の留学したのは、独仏戦争の大勝の後の興隆期にあるドイツであり、そこではドイツ語の綴字改良運動がはなばなしく進行していた。(中略)このドイツの統一国家への活力に満ちた進行は、明治維新によって新しく開国した日本の歩みに酷似するところがあった。そのドイツ統一と共に進む綴字改良の運動を見た青年上田万年はおそらく故郷日本国の言語と文字の改良に熱い思いをはせ、その推進を「自己の課題」と信じたに相違ない。」大野のこれらの評価はいずれも以下に見るように一見正当に見えて、少しずつ事実と食い違っている。 第二は上田の研究者育成の功績に関する評価である。上田の薫陶を受けた研究者のうち、大野がここで言及している者は次のようである(大野の言及順。生没、卒業年及び卒業学科名は『国語学大事典』(1980)による。)
東条操(1884-1966)。1910(明治43)年、東京帝国大学文科大学卒業。
新村出(1876-1967)。1899(明治32)年、東京帝国大学博言学科卒業。
金沢庄一郎(1872-1967)。1896(明治27)年、東京帝国大学博言学科卒業。
金田一京助(1882-1971)。1907(明治40)年、東京帝国大学博言学科卒業。
伊波普猷(1876-1947)。1906(明治39)年、東京帝国大学博言学科卒業。
小倉進平(1882-1944)。1906(明治39)年、東京帝国大学卒業。
藤岡勝二(1872-1935)。1897(明治30)年、東京帝国大学博言学科卒業。
橋本進吉(1882-1945)。1906(明治39)年、東京帝国大学文科大学言語学科卒業。
これらの研究者に関する大野の評言は十分ではない。とりわけ保科孝一((1872-1955)。1897(明治30)東京帝国大学卒業)が何故か挙げられていない。しかしいずれにせよ、これだけでも上田がいかに日本の言語学者の養成に貢献したかは十分に読みとることができる。冒頭に挙げた亀井孝の言をかりるならば、上田は国語学だけでなく、確かに近代日本言語学の産みの親である。
1.2. 上田万年の問題
上田万年はドイツ留学の最初の一年をベルリンで過ごした。当時ベルリンには、ライプツィヒ大学からベルリン大学(現フンボ-ルト大学)に移ったばかりのガベレンツ Hans Georg Conon von der Gabelentz (1840-1893) が東洋学・言語学の講座をもっていて、上田は最初の学期をガベレンツのもとで学んだのであった。ついで上田はライプツィヒに移住し、当地の大学の言語学科に3学期在籍した。この通算二年余のドイツ留学は彼の言語思想の形成に非常に大きな影響を与えた。そのため私は、ライプツィヒ大学で講義をするためだけにも、彼がドイツで何を学んだかを調べる必要があった。とりわけ私はガベレンツが創設した東アジア研究所Ostasiatisches Institutの後輩教授という勿体ないポストにあったし、ライプツィヒ大学言語学科(現同言語学研究所Institut für Linguistik)は隣の馴染みの学科でもあったので、上田がここで何を学んで帰ったかという問いは私自身にとっても私の学生達にとっても人ごとではなかったのである。
上田万年の言語思想の形成についてはもちろんさまざまな角度や観点から論じられる必要がある。イ・ヨンスクや安田敏朗らが問題にした論点はもちろん「留学効果」という観点だけから論じられたのでもなく、またそう論じれらるあるべきものではない。しかし私の体験からしても若い時期の国際的学術交流の経験というものは学問的思想形成に大きな影響を及ぼすことも間々あるのは事実である。その意味では上田万年がドイツ留学で何を学んだかを知っておくことは無駄ではなかろうし、彼の留学前とその後の思想とを比べておくことは日本の言語研究と言語政策の「初期条件」とその性格を知るためにも必要である。こうした観点から私はさしあたり次の二点を調べてみた。
(1)上田万年はドイツ留学で何を学んだと推定されるか(2章)。
(2)上田万年の留学はその前後の言語思想にどういう変化をもたらしたか(3章)。
以下はこれらの問題に関する調査報告である。
2. 上田万年のドイツ留学
上田はヨーロッパ留学の日程が次のようであったと書いている(上田万年「国語学の草創期」『国語と国文学』11-8, 1934)。
1890年9月 -- 91年6月 ベルリン
1891年夏 -- 1893年8月 ライプツィヒ
1893年夏 -- 1894年6月 パリ
このうち以下ではベルリンとライプツィヒの留学だけについて見る。
2.1. ベルリン留学
上田万年はベルリン大学(Königkiche Friedlich-Wilhelm Universität
Berlin、現フンボルト大学)に正規学生として入学登録をした。同大学文書館(Archiv)の学生登録簿には次のように記載されている。
氏名 Ueda Mannen
生年 1867
住所 Artilleriestrasse 4
学生番号 2395/81
登録期間1891年4月17日から1891年8月10日まで
氏名の記載は上のようにUeda Mannenとある。上田はドイツでMannenと自称していたようである。住居はベルリン市中央の博物館島にあるペルガモン博物館の裏手の街路で、現Tucholskistrasseである。家は残っていない。上田は正規の学生番号を取得していて、聴講生ではない。従って、同時期にベルリンに居た森鴎外などとは異なった身分であった。上田の本国での身分は、別の文書Album civium universitas literaraie berolinesisによると、文部省の部長(Abteilungsleiter)とされていた。しかしベルリンで上田は若い研究者として自由に研究者仲間と交流する立場にはなく、一人の学生として講義や演習に出席していたと思われる。上田と同日に学籍登録をした日本人が二人あった。Okada Kunitaro (学生番号2394、東京出身、公務員(台湾国立病院長)、医学)とIohito Yoschii(学生番号2396、鹿児島出身、東京大学教授、法学)である。両者は、上田よりも長く、それぞれ1892年, 1893年までベルリン大学に留まっていた。上田のベルリン大学留学は、学生登録を見る限り、上の期間であって、上田(1934)の記載とは若干異なる。おそらく1890年6月からベルリンに住み、1890/1891年冬学期にかけてはその土地に慣れるために時を費やし、1891年夏学期になってから登録をしたのであろう。なお東京都立大学刊『経済と経済学別冊 Japanese in the
German Language and Cultural Area』(1994)もこの留学期間をとっている。おそらく同じアルヒーフの記載に従ったのであろう。
フンボルト大学文書館にはこの学生登録一覧のほかに、学生一人々々の修学証書(Abgangs-zeugnis)が保管されている。これには入・退学(Im- & Ex-matriklation)に関する事項だけでなく、聴講科目及び、多くはその成績までもが記載されている文書である。しかし1891年度分の綴りには学生番号2394(Okada),2395(Ueda),2396(Yoschii)の三人分が何故か欠落している。修学証書綴の学生番号が2394から2397へ飛んでいるのであった。しかしページはつながっていた。この部分の綴じ込みは古いもので、文書館主任Dr. W.Schultze氏の判断によっても、前世紀末か、おそらくは1891年度終わりに綴じられ、一連番号(Nr.6.Vol.968)が付され、ページが打れたものである。誰が何時やった仕業かはまったく分からない。日本人三人分が欠如しているのであるから、日本人が関わっているのであろう。不快なミステリーである。(大学文書館といえどもこうしたことは稀にはあるらしく、例えばライプツィヒ大学中央図書館博士論文保管庫からはソシュールの博士論文「メモワール」原本が盗まれて、今日なお所在不明である。)従って上田が何を聴講しどのような成績を得たかについての公的な記録はない。
ベルリン大学にはHajim/Heyman Steinthal (1823-1899)、A(ugust?). Kirchhoff (1826-1908)、Johannes Schmidt (1843-1901)、Paul Kretschmer (1866-1934) などの言語学者がいたといわれるが、上田が入学したとき前二者はすでに70才を越え、シュミットは没年である。またクレチマーは34才で、後にマールブルク大学に職を得る以前の立場であった。上田がこれらの人々と触れる機会があったとしてもシュミットだけだったであろう。少なくとも帰国後の上田の論にはこの人々との交流の形跡は明らかではない。しかし大野(上掲1976)が書いているように、上田がベルリンでガベレンツに触れたことは確かである。上田自身がガベレンツを「もと私の師匠でありました」(「言語学者としての新井白石」(1895)と呼んでいるのであるから、ベルリン大学で彼がガベレンツに学んだことは間違いない。もっともイ・ヨンスクが田中克彦(田中克彦「ヒフミの倍加説」『国家語を越えて』1989)を援用して書いているようなこと(イ 上掲1996.p.106)、つまりガベレンツの『言語学』中の日本語数詞の記述が上田の教示によるというような実質的な研究交流が成り立つ関係ではなかったのではないだろうか。なぜなら一方では上田の学生としての身分と多分まだ未熟であったドイツ語運用能力、他方ではガベレンツの本来のひろい学識、とりわけロドリゲスなどの日本語に関する西洋の諸文献への深い造詣などから判断して、ガベレンツは「ヒフミ」の話くらいは知っていたであろうし、上田とガベレンツとの関係は基本的に若い留学生と碩学の教授とのそれであったと考えられるからである。ただのインフォーマントとしてならばともかく、上田からガベレンツへ学問的情報が直に伝わるという状況にはなかったのではないだろうか。 ガベレンツは、1878年ライプツィヒ大学にドイツ最初の東洋学の講座を開らき、12年にわたって中国語、日本語、満州語、マレー語などの文法を講じた。しかしライプツィヒでの彼は終始正任教授ではなく、中国学者として高い名声を得ながら、学部内での地位と権限に恵まれず、印欧言語学の同僚ともうまくいかなかったという(Barschat,B.,Methoden der Sprachwissenschaft 1996及び同著者との対話から)。従って1989年にベルリン大学が「東アジア諸語と言語学」と称する講座を新設して、その正任教授として彼を招聘したことは卓見であったし、ガベレンツにとっても幸運なことであった。
上田万年がベルリン大学に学んだ1891年夏学期(4月16日-- 8月.15日)、ガベレンツは次のような4本の授業を開講いた(『ベルリン大学アルヒーフ「講義録」』による)。
(1)Malaisch, Mi.5-6. öffentlich
(マレー語、水5−6,公開)
(2)Chinesische Lektüre (Ku-wen-p'in-cu), Mo.4-5,
privatim
(中国語講読()、月4−5,少人数)
(3)Altjapanische
Grammatik,Di.,Fr.4-5, privatim
(古代日本語文法、火・金4−5,少人数))
(4)Sprachwissenschaftliche Übungen
zu verabredeten Tagen und Stunden,
privatissme und ungeltlich
(言語学演習、日時は話し合いで、ごく少人数、無料)
また当時ガベレンツの15才年下の同僚(講師)としてグレーベ(Grebe, Wilhelm (1855-1908)がいた。彼はすでにギリヤーク(ニヴフ)語語彙集、ゴリド語語彙集を公刊し、女真語の研究を進めていたし、大学では1891年夏学期次の授業を開いていた。
(5)Erklärung ausgewählter
chinesischer Texte
(中国語文献選解釈(曜日等不明))
(6)Mongolische Grammatik, Di.Fr.
9-10, privatim.
(蒙古語文法、火・金9−10、少人数)
さらに文学部(Philosophische Fakultät)には東洋諸言語セミナーという一連の授業があって、中国語、南部中国語、日本語(Lange教授及びSenga講師担当。Sengaの先任者であった井上哲次郎は前年に帰国)が初級から講読まで開講されていた。
上田万年はこれらの授業のうち少なくとも(3)と(4)とを聴講したのであろうし、グレーベとも話をする機会をもったに違いない。しかし上田がこれらの学問的経験から得たのは、ガベレンツやグレーベの専門分野の知識、東アジア諸語の構造と歴史に関する具体的知識ではなく、むしろこれら東洋の諸言語が学問的研究の対象とされ得るという事実、及びその研究が訓古学的ではない近代的方法論によって行われているという事実であったと思われる。帰国後の上田が日本の漢学に対して、おそらくは「支那語」そのものに対してさえ、ときに激しい攻撃的態度をとったことをを考えると、上田はガベレンツとその優れた同僚の学問の内容と意義について十分な理解をもたかったのではないかとさえ思われる。
2.2. 国家と国語と
ベルリン滞在中に上田が東洋言語研究よりもむしろ強い関心を持ったと思われることが二つある。その一は、ビスマルクによって主導されたドイツ統一(1871)以降の言語的国家統一運動であり、その二は、多民族国家における言語問題、より一般には、国家とその言語、すなわち国語、国家語の問題であった。
2.2.1. 第一の運動は二つの異なった形をとって現れた。第一の形は全帝国的な統一正書法を作ろうとする運動であり、第二の形は言語醇化運動であった。
統一正書法制定の運動が本格的に始まったのは、1876年の第一回正書法会議であったが、その後、ビスマルク自身の反対などの紆余曲折を経て、1880に刊行されたドゥーデンの『正書法辞典Orthographisches Wörterbuch』がスイスとオーストリアで高い評価を得た後、ついに1901年の正書法会議でプロイセンとドイツ帝国によって承認されるにいたったものである。正書法論議自体は日本語かなづかい程度のお話であって、上田がこの問題そのものに大きな関心をもったとは思われない。問題はむしろ正書法をめぐる論議のあり方であったろう。しかしこの運動は終始ドイツ語の書き言葉に対する全帝国的な規制を作るという国民的立場で推移した。ポーレンツが正当に名付けたように、「言語的国民主義Sprachnationalismus」(von Polenz, Peter, Deutsche Sprachgeschichte.
Bd.III, 1999,6.6.)の発露としての性格を持っていた。帝国の国語、唯一の国家語の制定に関わる問題として論じられたのであった。上田はこの帝国の国語Nationalspracheの制定にたいする国家と民間との関与のあり方、「新しい帝国国民意識」(von Polenz同上)の発揚のありさまに感動し、そこから多くを学び、日本の国言語的統一と統一国語のために献身することを決心したのではなかろうか。
「全ドイツ協会der Allgemeine Detusche Verein」を中心とするドイツ語醇化運動が大きな昂揚を見たのも上田万年のドイツ留学前後のことであった。この排外主義的運動がフランス語を主なターゲットにしていたのもこの時期の歴史的状況に依存している。しかしこの協会を中心とする民間諸団体の強烈な言語的国民主義の昂揚にも拘わらず、大学関係者は全体としてこの運動に対して消極的であって、目立って積極的な発言をした者はわずか歴史家のトライチュケ(Heinrich von Treitschke)など数人を数えるに過ぎなかった。しかし上田万年は、初めて外国にあって、世の常のように愛国心を高めていたのであろう(3.2.の「国語と国家と」(1894年10月4日)からの引用を参照)。初めての異国体験において母国への愛国心を培っていたそのさなかに、新生ドイツの排外的国民主義の運動に出会ったのである。彼はこの運動をおそらく主に大学外で見聞きしたのであろう。ドイツ帝国の排外主義の対象はとりわけフランスであり、それはまた反ユダヤ主義とも結合していた。上田の排外主義の対象は、時あたかも日清戦争のさなか、はげしく中国に向けられた。上田がもしベルリンでガベレンツやグルーベのような中国学・東洋学の研究者と真に大学人的なつき合いをしていたとすれば、ドイツ語醇化運動の根底にあった排外主義と反ユダヤ主義に汚染されるどころか、逆に少なくとも「大学的自由」に基づく非政治的立場を尊重するという点で共通の理解に達するだけの余地はあったであろうし、とりわけ中国とその歴史的文化財に対して「開闢以来比類のない支那征伐」云々(「国語研究に就て」(1894年11月4日)(3.2.参照)のような野蛮な思想を持ち得たとは思われない。上田はフンボルトの創設したベルリン大学に学んで、フンボルト的な大学創設の理念を学ばなかったようである。上田もまた、たとえ山田孝雄のような神道的・皇国史観的狂気にまではいたらなかったとしても、明治30・40年代の国家的エリートに共通する思想的制約に終始つよく緊縛されていたのであろう。
2.2.2. 上田はすでにベルリン留学中に初めてヨーロッパ帝国主義諸国の相克と多民族国家の実体に触れて、国家と国語の問題に目を開らき、以後この問題について思考をめぐらし続ける。上田の思考の中で異境での母国への憧れが単純な故国への愛の域を超えて、皇国史観的な忠君愛国心にまで成長していった。同時に上田の言語思想は大きな転換を見る。留学前に持っていた「大日本帝国の国語」という概念が「皇国の国体を維持する精神的血液」に転化して、「帝室の臣民、国民の慈母たる」日本語への献身をもって一生の課題と考えるようになる。そのような国語は国体に見合って醇化されなければならない。上田は、長年にわたって漢語に侵されてきた日本語から漢語を排除し、漢学を排斥し、果ては中国侵略に諸手を挙げて賛美するにいたる。上田の帰国後の発言を見て、当時中国侵略を賛美し朝鮮介入を進言した福沢諭吉などの明治のエリートの発言を思い起こすとき、上田もまた「時代の子」であったと理解せざるを得ないのかもしれない。
2.3. ライプツィヒ留学
上田万年はベルリン大学を一学期で辞めて、1891年の冬学期からライプツィヒ大学に移った。当時ライプツィヒ大学はヨーロッパの言語研究、とりわけ印欧語比較言語学の中心地であり、クルトゥネ(Jan Baudouin de Courtenay, 1845-1929)、ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)をはじめ多くの言語学者がこの地で学んだ。ライプツィヒ大学をめぐる当時の主な言語学者は次のようであった。
Leskien, August(1840-1916)、1876年以降スラブ学の正任教授
Brugmann,
Karl(1849-1919)、1887年以降Georg Curtiusの後継者として古典学・印欧語講座の主任教授
Osthoff,Hermann(1847-1909)、1875年ライプツィヒで教授資格(Habilitation)、印欧語比較研究、1877年ハイデルベルク大学正任教授、
以後もブルクマンと共同研究
Paul, Hermann(1846-1921)、1872年ライプツィヒで教授資格取得、ゲルマン語の史的研究、1874年フライブルク大学へ招聘、1877年以降
正任教授。1893年ミュンヘン大学正任教授
上田万年は1891年秋にライプツィヒ大学に正規学生として入学した。『大学文書(Universitäts-archiv)』には次のように記載されている。
氏名 Ueda Mannen
学生番号 1201
入学日 1891年10月15日
年齢 25才
宗教 仏教
父の職業 自営(privativ)
前滞在地 東京大学
研究分野 言語学
住所 Haydnstrasse No.3
ライプツィヒ大学文書館には上田の行状証書記録(Protokoll erteilter Sittenzeugnisse)、つまり学生調書がマイクロフィルムで保管されている。フィルム番号71、1893年1-6月、7-12月分の431ページに次のような記載があった。
1)学生の氏名、出生地、学籍取得日、研究分野
Uëda Mannen, Tokyo, 15.Okt.1891, Philosophie
2)行状証書発行日
18. September 1893
bz. 12,VIII 93
3)行状証書公布日及び受領書
Erhalte 18. Sept. 93
Uëda Mannen (自署)
4)聴講講義録(財務表によるauf Grund der Quästurliste)
1891/92: Interpretation von Stenzlers
Sanskrit.Chrestmatie. P.d.Windisch
Grammatik d. moderenere russ. Sprache P.d. Scholvin
1892:
Sanskrit. Grammatik für Anfänger P.d. Windisch
1892/93:Elemente der Sprachwissenschaft P.d.
Brugmann
1893:
Phonetik P.d. Sivers Auf
Grund d. Quästurliste:
Einleitung
in d.Studium d. Geographie P.d.Ratzel
この表に記載されたのは、有料の講義だけで、少人数のゼミナール及び無料の私的講義の分は含まれていないようである。一方『ライプツィヒ大学講義目録』(Verzeichnis der (im Winter-hnalbjahre 1891/92 auf der Universität Leipzig haltender Vorlesungen, Leipzig in Commission bei Alexander Edelmann, Universitätsbuchhandlung )の「B Systematische Übersicht -- IV Philosophische Fakultät -- B Philologie」には当時の開講授業科目が残りなく記載されている。上田が在学していた期間に開講された言語学関係の授業は次のようである。もちろんこの科目のどれに上田が参加したかは分からない。
WS(=Wintersemester)
91/92
Jacobi,D.E.über Etymologie
(Ö)(註 共通科目か)
a) altclassische Philologie
Ribbeck,P.O.:Geschichte der lat. Sprache (P)(註P=公開)
Lipsium,P.O.:Attische Staatsaltertümer (P)
Brugmann,P.O.:Einführung in die homerische
Gedichte und Erklärung von Ilias B
Ribbeck, P.O.:Geschichte der attischen Tragödie
und Erklärung von Sophokles' Oedipus
Tyrannos
Immisch: Griechische Dialektologie
Holzapfel: Erklärung von Plutarchs Themistokles
und Perikles
Zarnicke,P.E.: Horaz' Leben und Dichtungen nebst
Erklärung der literaturgesch. wichtigsten
Sermon (P)
Buresch: Erklärung der Andreia des Terentius nach
dem Texte von Dziatko"königliches philologisches Seminar:"
Brugmann, P.O.: Übungen der sprachwissen. Gesellschaft
(Erklärung der Iguvinischen Tafeln nach Bücheler's Umbriea und Vorträge) privattissme
aber gratis (註 極少人数 無料)
b) orientalische Philologie
Delitsch: Die Keilschriftdenkmäler und Alte
Testamente
Windisch,P.O.: Interpretation von Stenzler's
Sanskrits-Chrestimatie für Anfänger
Windisch,P.O.:Einführung in den Buddhismus
Delitsch:Curiosische Lektüre und kurzgefasste
Erklärung der Psalmen
Delitsch: Assyrische I Cursus
Delisch: Erklärung des TV-Banders des Londoner
Inschriftenwerkes
Windisch: Curiosische Lektüre von Böthling's
Sanskrit-Chrestmatie
Windisch.: Upanischad
c) deutsche Philologie
略 (Bahder とZarnicke などの講義が開講された。)
d) neuere Philologie
Windisch: Celtisch
Wülker: Angelsächsisch
Flügel: Altenglisch
Sebtegast: Italienisch
Birch-Hirschfeld,P.O.:französiche Literatur
Wollner: Byzantinische Literatur
Leskien,P.O.:Vergleichende Grammatik der slavischen
Sprache (P)
Scholvin,D.E.:Grammatik der mod. russ. Sprache
Scholvin: Lektüre und Erklärung der cechischen
Sprache
Leskien: Übungen im Erklären altslavischen Texte
(publice)
以上の表にあるP.E.とP.O.はそれぞれProfessor Emeritas(退官教授)、Professor Ordinarius(正任教授)のことであろうか。JacobiはHermann Georg (1850-1937)のことであろう。またZarnckeはFriedrich
(1825-1891)で上田が入学した年の秋に逝去したゲルマン学者であり、彼が学部長の時、ソシュールに「君はあの有名なソシュールと親戚筋か」と聞いた例の人物である。共に長老であった。正任教授のうちでは、Brugmann, Windisch, Leskienが興味深い講義をしているのが分かる。
この時期ライプツィヒ大学では非常に豊富なメニューの講義が開かれていたが(CES4参照),そこから上田が選んだと公的に認められたものは上に挙げたようにあまりにも少ない。もっとも少人数のゼミナールにどれほど出席していたかどうかについては、公式の記録がないので分からない。上田は、サンスクリット初級文法に出席した他は、西洋古典学の知識を前提とする授業には出ていなかったのではないだろうか。またロシア語に関心を持ちながら、レースキエンの授業を聞いていなかったのではなかろうか。上田の聴講の仕方はどうも入学したての学生のようである。これは上田の素養からして無理からぬことであったろう。
上田が帰国後ヘルマン・パウルの『言語史原理』を講じていたことはよく知られている。しかし上田はライプツィヒ滞在中パウルとは会っていなかったと思われる。パウルは1872年ライプツィヒ大学文学部ドイツ語文献学に提出した論文Über ursprüngliche anordnung von Freidanks bescheidenheit. Zur kritik und erklärung von Gottfrieds Tristan.によって教授資格を取得する。その後1874まで同講座で講師(Dozent)を勉め、その後フライブルク大学の非正任教授としての招聘を受けて赴任し、1877年にドイツ語学文学の正任教授になる。1893年にはミュンヘン大学の教授として招聘され、眼病に悩みながらも70才の誕生日までその大学のゲルマニスティクを代表する学術的活動を続けた。この間の彼のドイツ語学に対する貢献は確かに先人未踏というべきである。彼の印欧言語学の分野の業績は主としてゲルマン語の言語資料によって方法論的な問題を提起したことにある。彼がいわゆる青年文法学派の論客の一人に数えられるのはこの点での業績であった。レースキエンやブルクマンが彼を評価したのも、ゲルマン語学からの印欧語比較言語学への理論的貢献という側面であった。ライプツィヒを去って以後の彼は折に触れて文書による交流をしていた程度であったという話である。たしかに彼の理論的著作『言語史原理』(1880年初版)は、明快で時に先鋭な論議によって同時代の歴史言語学の研究者を引きつけた。その理論的な鋭さがパウルを印欧語比較言語学の代表者の一人と見なすという風潮を作り出したのであった。とりわけこの著作がほとんどの語例をゲルマン語からとっていることも多くの読者を得たことの原因になったと思われる。ライプツィヒ時代の上田がこの著書に触れ、のちのちまでこの著書を用いたのも、それがまず読み易く分かり易く使い易かったからであろう。上田自身は結局ブルクマンやレースキエン、もちろん『メモワール』のソシュール等を理解するには到らなかったのであろう。何分本式の印欧言語学に触れた最初の日本人言語学者であったのだから。
3. 上田万年の言語思想に対する「留学効果」
上田万年の著作は多くない。重要な著作のいくつかは講演原稿或いは講演記録である。これらを広い意味での著作として見なして、上田が留学前の論考と留学後の著作に現れた発言の特徴を比較するならば、留学の四年余りの間に上田の考えがどのように変化したかをおおまかに推論することが可能である。そのために、ここでは以下のような留学直前の論考とその直後の著作各三点をとろう。
留学直前の著作
前1:「言語上の変化を論じて国語教授の事に及ぶ」(1889年大日本教育会演説記録)
『国語のため 第2』富山房 1903
前2:「日本言語研究法」(1889年皇典講究所講演記録)同上
前3:「欧米人の日本言語学に対する事績の一二」(1890年1月稿)同上
留学直後の著作
後1:「国語と国家と」(1894年10月8日哲学館において)『国語のため』富山房 1897 2版
後2:「国語研究に就て」(1894年11月4日国語研究会に於いて)同上
後3:「今後の国語学」(1895年7月)同上
3.1. 留学の初期条件 前1は、日本語もまた「言語変化上の二大勢力、保守力と改新力」によって「古代の国語と後世の国語との間には、いろいろ差違があ」ることを示し、「この国語に対し、真生の方向を立てヽ、よく開拓し、善をとり、悪を去り、不便を捨て、便利を求め、そうして後秩序井然たる大日本帝国の国語を造り出すことは、幾多の心力と幾多の時日を要することであるが、これは実に吾々の奮って為すべきことだろうと考えます」と主張した講演である。
前2は、「皇国学者」の言語研究を糾弾し、「言語そのものを研究する学問、博言学」を鼓吹した講演である。「我帝国大学は、既に二三年前より博言学科を文科大学の内に設立して、以てこの言語研究の道を開かれました」が、「私は及ばずながら、言語の上には力を尽くすつもりであります。乃ち,ここへ出て、諸君と共に、日本言語を研究したいと願うものであります」と決意を述べて、結論として、「今日の日本の学者は、単に学理のみに深入りをして善い時ではありませぬ。これと同時にこれを実用に供して、世間を益し、世間にその学の効用勢力をしらしむるようせねばならぬ時であります」と国語問題にも関与するべきであると語る。
前3は論文である。「現今我国の言語を講究すつ学者界に二大学派」「古学者」「科学者」があり、後者が博言学に基づく言語研究の国際的な本流である主張する。この立場からロドリゲスに始まり師チャンバレンにいたった系譜に連なる日本言語研究を推進したいと語ったものである。
これら留学直前の論文は、総じて次の二つの課題に対する上田の決意表明の域を出ない。
(1)大日本帝国の国語の創設
(2)博言学的日本語研究
これが上田のヨーロッパ留学の初期条件であった。
3.2. 帰国後の論調
後1:上田の帰国後初の講演「国語と国家と」(1894.10.08)は、激しい皇国史観的愛国心と自国語への強い思い入れを吐露したものであって、留学直前の講演、前1などのもつ冷静で真摯な学問的態度と比べてみると、上田が留学中に何を体験したか、何を考えたかをよく示している。この講演の主な主張は次の四点である。
(1-1)近代国民国家の存立要件に関して
四つの要件として土地、人種、結合一致、法律を挙げている。このうち結合一致とは今日のアイデンティティに相当し、ここに言語が含まれ る。「欧州諸大国の政府が其自国語を尊敬し、熱心其勃興に尽力しつつあるは、正に此上より全国民を結びつけんが為なり。」留学第一の知 見である。
(1-2)国民と国語の結合に関して
欧州で見た多民族国家の言語問題に関する見聞から、次のような結論を導く。
「日本の如きは、殊に一家族の発達して一人民となり、一人民発達して一国民となりし者にて、神皇蕃別の名はあるものヽ、実は今日となりては、凡そ此等を鎔解し去たるなり。こは実に国家の一大慶事にして、一朝事あるの秋に当たり、われわれ日本国民が協同の運動をなし得るは主としてその忠君愛国の大和魂と、この一国一般の言語とを有つ、大和民族あるに據りてなり。故に予輩の義務として、この言語の一致と、人種の一致とをば、帝国の歴史と共に、一歩も其方向よりあやまり退かしめざるよう勉めざるべからず。かく勉めざるものは日本人民を愛する仁者にあらず、日本帝国を守る勇者にあらず、まして東洋の未来を談ずるに足る智者にはゆめあらざるなり。」「之を日本国語についていへば、日本語は日本人の精神的血液といいつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ、日本の人種はこの最も強きもっとも永く保存されるべき鎖の為に散乱せざるなり。(中略)而して一朝慶報に接するときは、千島のはても、沖縄のはしも、一斉に君が八千代をことほぎ奉るなり。もしこのことばを外国にて聞くときは、こは実に一種の音楽なり、一種天堂の福音なり。」留学で得た第二の知見である。注目すべきは、留学前の論調には見られなかった大日本帝国の国体に対する強烈な忠君愛国思想が臆面もなく表明されていることである。
(1-3)国語の尊重に関して
「されば国民が、其国の言語を尊む事は一の美徳にして、偉大なる国民は必ず其自国語を尊び、決してそれを措いて他の大国語を尊奉せず。」「如何に亦現今の独逸が、其国語を尊奉し、其中より外国語の原素を棄て、自国語の良き原素を復活せしめつつあるかを見よ。」統一国民語の制定と国語醇化論である。留学第三の認識である。しかし上田はこの域を超える。この認識を皇国的国体思想及び帝国主義的侵略の賛美と結合するのである。「嗚呼世間すべての人は、華族をもって帝室の藩屏たることを知る。しかも日本語が帝室の臣民、国民の慈母たる事にいたりては、知るもの却りて稀なり。」
「日本語は四千萬同胞の日本語たるべし、僅々十萬二十萬の上流社会、或いは学者社会の言語たらしむべからず。昨日われわれは平壌を陥れ、今日又海洋島に戦い勝ちぬ。支那は最早日本の武力上、眼中になきものなり。」(註:日清戦争の宣戦布告1984.08.01、平壌占領 同09.16、黄海海戦 同09.17)
(1-4)国語研究計画に関して
「或はいはん、国語に対する手入れは充分なされ居らずやと、予はこの答えに向かひて否との早答を与うると共に、左に箇条を列挙して、かかる質問を出すものに示すべし。
1 如何に歴史的文法は研究せらるヽか、
1 如何に比較的文法は研究せらるヽか、
1 発音学の研究は如何、
1 国語学の歴史は如何、
1 文字の議論は如何、
1 普通文の標準は、かりにありとするも、そは実際の言語までをも併せて支配し得べきか、
1 外来語の研究は如何、その輸入上の制裁力は如何、
1 同意語は研究せられたるか、
1 同音語は研究せられたるか、
1 辞書は如何、専門に、普通に、
1 日本語の教授法は如何、
1 外国語の教授法は如何、」
この部分に対する留学の影響は明白である。留学前に構想した博言学の具体的な研究計画が出そろったのである。
後2:「国語研究に就て」は、新設した国語研究会開会の記念講演であるので、論旨は明確である。(2-1) 第一の論点は、生きた日本語を「この大日本帝国の国語」として、その地位を高めるべく努べきであるというにある。ここで地位を高めるというのは「日本語は国語でありながら、まことに情けない次第にも、支那語及び支那文脈の「つま」となり下りて居る」からであるという。上田は言語の問題を越えて、次のような神懸かりの帝国主義的侵略思想をあからさまにする。「開闢以来比類のない支那征伐に、我陸海軍が連戦連勝で、到る処朝日の御旗の御稜威の靡き従わぬ者はないのに、我国の国語界、文章界が、依然支那風の下にへたばり附きて居るとは、なさけない次第であります。今は大和魂の価直は、世界の与論の上で定まりました。しかも大和魂の外のあらわれとも申すべき、大和詞は未だに価直がきまりませぬ、東洋に於てどころか、我国中でさえきまりませぬ。」このような愚かな思想は留学前の論考にはまったく見えなかったものである。ドイツ留学が皇国史観的忠君愛国思想と侵略的排外思想を育てた、或いは少なくともそれを顕在化させたとしか考えられない。
(2-2)第二の論点は、「国語研究の、比較的であるべきこと」の主張であるが、この主張では比較言語学の比較という概念が誤解されている。上田は上古、中古の日本語の研究だけでなく、「国語の現在及び未来を論じようとするのに近代の国語の状況がわからんで、何がわかりましょうか。」「国語学の研究には他の国語の知識を要します」と言うのであるが、比較言語学に於ける比較とは、推定同系言語の共時的或いは方言的二状況を音則に基づいて比較することによって通時的前段階の言語状況を再構する操作を言うのであって、通時状況の研究を揃えるとか、異系統言語の対照とかということとは異なる。このことは彼の好む『言語史原理』にも明言されている。
(2-3)第三の論点は、国語研究と国文学研究の分離の主張である。「世の国語学国文学を混同した学者達」の方法論的及び目的論的な誤りを除去して、国語学を言語研究として構築しようと言うのである。「私は明治の大御世の言語には立派に一の新しき文法が制定せられる得る事を信じる一人であります」という信念に基づいて、上田は「四千万同胞の標準語を定むる」ことを求める。これは彼が留学で得た最も重要な重要な知見である。上田の創設した「国語研究室」はこの主張の具現である。
(2-4) 第四の論点は、先達の学問の評価と学理の探求という問題である。「兎角国語学者の中には(中略)門派のよりて好き嫌いをする人があ」るが、「一つの学理というものがあるばかり」なので、学問の研究は先達の業績を踏まえて、偏りなく真理の追究に進むべきであると主張する。同時の学問状況を推察させる文であり、上田の主張は正論である。
後3:「今後の国語学」は帰国一年後の著作である。何に発表したものかは分からない。しかし論調は帰国直後の演説に比べて、落ち着きを取り戻しているように思われる。論旨は国語学研究のためのプログラムの提案である。先人の業績と文献の研究、問題目録の策定、国語学の自立などが論じられ、学際的視野を求める。ここで特に注目したいのは、次の発言である。日本語の起源に関する研究が周辺諸言語の研究とともに国語研究上最も重大な課題であるとした上で、上田は「なお、日本語の沿革、動詞変化の源因、音韻論、また国語学の組織、辞書の組織等につきて攻究するも、正しく現在必須の事業なりとす。」「彼の普通教育上の国語問題、標準語問題、新語彙、新文法の制定問題、新国字問題、新領地の国語問題、及び外国語教授問題等は、皆将来の為に必ず研究せざるべからざる事なり。」と語る。ここから、上田がヨーロッパ留学からとりわけ次の点で重要なインパクトを得たと推察される。
(3-1)比較言語学と言語史
(3-2)国語研究、特に音韻論と文法
(3-3)国語政策
3.3. 「留学効果」
上田万年の留学直前の主要な関心事は次の二つであった。
(1)大日本帝国の国語の創設
(2)博言学的な日本語研究の推進
この時期の論調は全体として冷静であって、「秩序井然たる国語」創設と国語問題に「及ばずながら」尽力すると決意を語り、一方では「皇学・古学」に対する批判と博言学研究の唱道も節度を守ったものである。
しかし帰国後最初の講演「国語と国家と」の論調はこれとは全く異質である。上掲第三論文(後3)にはいくらかの落ち着きが見られるが、これにも留学前の論調には見られなかった熱情と自信が満ちている。留学後の上掲三論考に現れた上田の言語思想の柱を大まかにキーワード的に分類すれば、次のようになろう。以下ローマ数字は分類項目を、アラビア数字は上掲論考の特性の番号を示す。
(I)「四千萬同胞の日本語たるべし」
(1-1) 近代国民国家の存立要件「結合一致」の要素としての国語
(1-3) 国語の尊重 -- 統一国語と国語醇化 --
(2-3) 「四千萬同胞の標準語を定むる」こと
(II)「忠君愛国の大和魂とこの一国一般の言語を有つ大和民族」
(1-2) 「日本の国体はこの精神的血液によりて維持せられ」、「千島のはても沖縄のはしも、一斉に君が八千代をことほぎ奉るなり。」 (1-3) 「支那は最早日本の武力上眼中になきものなり」
(2-1) 「開闢以来比類のない支那征伐で、我陸海軍が連戦連勝出、到る処朝日の御旗の御稜威...」
(III)「皆将来の為に必ず研究せざるべからざる事なり」
(1-4) 研究計画項目12箇条
(2-2) 国語の史的比較研究
(2-4) 一つの学理の追求
(3-1) 比較言語学と言語史の研究の推進
(3-2) 日本語の総合的研究
(3-3) 国語政策と国語問題の研究
(I) の統一国語制定に対する意欲は上田が既に留学前にもっていたものではある。しかしそれが近代国民国家の「結合一致」にとって如何に重要であり、協力に維持醇化されるべきものであるかという認識は留学の重要な成果である。この認識はすでにベルリン留学の時期から培われてきたものであろう。上田は、大日本帝国の国語の創設が急務であるという認識を持って留学し、「秩序井然たる標準語」が国家と国民の「結合一致」の要件であり、それが国語醇化計画を含む国家の国語政策によって達成されるものであるという認識を獲得して帰国した。ここには国語問題に関する認識のおおきな深化が見られる。
上記(II) は不思議な現象である。外国生活が「母国語」と「祖国」とを美化させることはよく知られた現象である。それにしても留学後の上田の論調にこれほど激しい忠君愛国思想と対中国排外思想が現れていることには驚くほかはない。おそらくは初めて触れた外国が新生ドイツ帝国であったこと、当時周囲に多くの問題を抱えたヨーロッパの、特に東欧の多民族国家についての見聞を得たことが影響したものであろう。上田は最初の留学地ベルリンで国家と国語の問題に開眼し、以後この問題について思考をめぐらし続けた。初めてヨーロッパ帝国主義諸国の相克と多民族国家の実体に触れたからであった。その体験はあまりにも強烈で、それ以後の上田の思想に大きく影響を与えた。国家の存亡の問題、国家と言語の深刻な問題が上田の視野に初めて現れたからであったろう。上田はおそらくベルリン滞在期間中だけでなく、比較的短いパリ滞在を含めて四年余の留学期間中終始この問題と格闘していたに相違ない。上田の精神的葛藤の結論が「国語と国家と」に見られるような強烈な皇国史観的愛国主義と植民地戦争賛美であったとみてよかろう。或いはまた日清戦争の最中を生き、まもなく日露戦争を体験する明治30年代のエリート官僚に共通の心情であるのかもしれない。留学後の上田の発言をみるとき、彼もまたもともとこのような時代の思潮を共有していて、それが留学体験によって増幅されたと理解せざるを得ない。今日「ポストコロニアリズム」の世代に生きるわれわれにとって、彼らの植民地侵略に対する無条件の賛美は理解を超えたものがある。我々からすれば、上田もまた疑う余地なく、山田孝雄などと共に、以後半世紀続いた凶暴で愚かな大日本帝国の最初の旗手たちの一人であったといわざるを得ない。
(III)の言語研究計画に関する認識にはライプツィヒ大学での経験が重要な役割を演じていると思われる。上田はチェンバレンの薫陶を受けて、近代言語学の方法に触れ、それをさらに学ぶべく留学した。しかし留学に当たってすでに博言学の研究を唱道していたとはいえ、その具体的な研究計画と方法についてほとんど無知のままであったと思われる。まず彼はベルリンでガベレンツとグレーベに触れて、東洋の諸言語が博言学の研究対象であること、さらにおそらくは日本語の博言学的な文法研究の方法をガベレンツ等から学ぶことができた。その後ライプツィヒに移ってからは、印欧語比較言語学の何たるかを、少なくともその大凡を学ぶことができた。後1末尾に掲げられた(1-4)の研究計画は、彼がそこで何を学んだかをよく示している。上田が学んだのは、印欧語比較言語学の具体的な内容ではない。むしろ印欧語比較言語学とはどういうものであるか、言語学は如何なる研究計画をもつべきであるかという概括的知識に過ぎなかったのではないかと思われる。しかし当時の日本の言語研究の状況においては、その概括的知識が博言学の具体的内容が研究プログラムとして提示されたことだけでも重要であって、それが上田の留学の重要な成果の一つであった。もちろん上田は印欧語比較言語学そのものを学びに行ったのではないから、本来の研究計画である国語研究の戦略を立てるに十分な知識を得て帰ったことで十分であった。日本における印欧語比較言語学の本格的研究は次世代と次次世代に受け継がれるべき課題であることは、上田自身よく知っていたと思われる。つまり上田は、将来の博言学研究の具体的課題を提起するだけの知識を得て帰国した。上田はその課題を彼の弟子達に分配した。その弟子達がその後の日本の言語研究を指導した。このような弟子達を育てたことは上田の最大の貢献であったといってよかろう。
文献略.お問い合わせください.
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