1999年の初夏に5週間ほどサンクト・ぺテルブルグに滞在する機会を得た。主な目的は科学アカデミーの図書館などで1930年代の北方少数民族関係の文書を見ることであった。科学アカデミー図書館はサンクト・ぺテルブルグ大学の後にある。厚い石造りの6階建ての建物であって、今年の6月は毎日30度の日が続いたので、日中は石が暑さを蓄めて、座っていても汗が流れる始末であった。閲覧手続きは結構面倒で、アカデミーの会員証とかぺテルブルグ大学の学生証(しかも多分特別な許可証が必要なのだろう)などを提示する必要がある。私は今回アカデミーの正式の招待であったので、人類学博物館(以下「クンストカメラ」と略称)の招待研究員として利用許可証をもらった。これを入り口で提示して、必要な書物を閲覧表に記入して、閲覧室の係員に見せる。私の求めた雑誌は古いものだったので、初日には出てくるまで午前中いっぱい待たされた。しかしその後はわりに簡単で、係員も慣れるにつれて親切になって、時間がかからなくなった。また科学アカデミーの図書館(BANと略称されているので、以下「バン」とする)だけでなく、クンストカメラの蔵書も大変良い。当然のことながら、ボゴラスのものはほとんどある。さらに招待してくれたチュンネル・ミハイロヴィッチ・タクサミ氏が館長であって、いわば内輪の親しみで本を見る手続きが簡単であったので、一番よく利用した。もうひとつ科学アカデミー言語研究所の図書室にも通った。ここには当然、北方以外にも多くの言語学文献があって、いつかまたじっくり見る必要がある。しかし今回のように北方少数民族の言語と民族にかんする多分に歴史的・政治的な目的にはむしろ前の二図書館が役に立った。
ペテルブルグ大学
私が今回集中して読んだのは「ソヴィエト的北方 Sovietskaja Severa」(以下CCと略称)と「タイガとツンドラ Taiga i Tundra」(以下TTと略称する)と称する雑誌とそれに関係する他の雑誌、「Sovietskaja
Arktika」「、Severnja Asija」などであった。さらに北方先住民族言語の書記法にかんする基本的文献を読んだ。
ここで特に紹介したいのは、主に北方委員会にかかわる話なので、他のことは別の機会にに譲って、CCとTTだけに話を限ってみたい。これらの雑誌は共に1930年代に北方民族の世界のソヴィエト化に重要な役割を果たした雑誌であるので、以下、書誌とともに、いくつか気が付いたことを記しておく。
1.『ソヴィエト的北方』と「北方委員会」
CCは北方委員会(Severrnyj Komitet)の公的な機関誌であった。発刊は1930年で、当初の発行部数は3000部である。年度ごとの号数は均一ではない。1930年は8号を、1931年は9号を出しているが、その後は1934年まで6号づつを出しつづけた。但し、どういうわけか、バンにもクンストカメラにも1933年度は1号と3号しかない。最終号は1935年の秋、第3・4合併号であった。この雑誌はその後、公的には雑誌「ëÓ‚ÂÚÒ͇fl
Ä�ÍÚË͇」(1935-41)に継承されたというが、実際は政治的な配慮による廃刊であったと思われる。 CCの第1号は1930年4月、198ページ、3000部の刊行であった。巻頭に、この雑誌は全ロシア中央執行委員会幹部会(Çñàä)所属の北方委員会の発行する総合科学誌である旨が明記されている。またこの雑誌の刊行目的は、北方におけるソヴィエト政策、北方の自然、北方の天然資源、農業と工業、住民、協同組合と交易、ソヴィエト建設、外国の北方、北方研究、北方雑報、文献などの情報を提供することであると規定されている。
第1巻の目次は事実このように配置されていて、巻頭の指導的な論文4点は次のようである。
(1) スミドーヴィッチ:「北方のソヴィエト化」
(2) スカチコ−:「北方問題」
(3) ルクス:「北方原住民族における書記法の諸問題」
(4) オルロフスキー:「北方の集団化」
これれらの論文の後に「原住民(ÚÛÁÂψ˚)の北方、協同と交易、北方の教育、住宅と文化基地、外国の北方、公報、編集部から」などの項目を立てて、それぞれにいくつかの論文を配置しているが、詳細は略す。ただ注目すべきものとして「住宅と文化基地」の項目に次の論文がある。
(5)ルクス:「北方民族委員会」
(1)のスミドーヴィッチ(1874-1935)はボルシェヴィキの古参戦士で、中央委員会幹部会会員として北方委員会担当幹部であり、同時に北方委員会の会長であった。この創刊号巻頭の論文には、ソヴィエト新社会建設における北方委員会とCCの役割について格調高い気概があふれている。「北方委員会は常に自己の責務を新しい形態における文化と経済の勝利、経済と生活習慣の老いぼれた形式の打破、一言で言えば、新しいソヴィエト的生活建設の事業に向けて北方地域の少数民族の覚醒を促すことにあると理解している。」さらに運動主体については「原住民のためにだけではなく、原住民自身の手によってというのが北方委員会の基本方針である」と語って、初期のソヴィエト政権の民族政策の新鮮な姿を見せている。この思想と基本方針とは北方委員会の解体までは曲がりなりにも維持されたようである。
(2)の著者スカチコーは北方委員会の解散まで実質的な指導者としての役割を果たした。しかし彼の名は、私の見た限りの版の『ソ連大百科』には見あたらない。1930年代末の民族派粛正を生き延びられなかったのではないかと思われる。創刊号の論文には、経済建設、文化基地創設などソヴィエト政権が北方でなすべき事業の数々を挙げている。そのなかで特に言語と書記法の問題について次のようにいう。「言語の問題もある。北方諸民族は将来何語を話すのか、何語で教育されるのか、ロシア語か地元語か?原住民の言語のどれが維持・発展させらるか、どれが切除されることになるのか。教育と科学の建設がどの言語によって可能か、またそれはどのような規模においてか。」「書記法と文字の作成の問題もある。民族の顔を守るという問題もある。小部族の脱民族化は避けがたいのか、それと戦うことは可能で必要なのか。もし若干の偶然的な脱民族化が不可避なら、それはどのような道を歩むことになるのか。」これらの問いかけは実に新鮮であり、先住民族の言語の維持・再建を問題にするときに今も改めて自問しなければならないことばかりである。
(3)の著者ルクス(1888-1932)も古参ボルシェヴィキであって、ラトビア生まれ。内戦中はシベリア・極東を転戦した北方通である。この論文は初期のソ連言語政策に関するもっとも重要な論文のひとつであって、詳細は別に論じなければならないが、以下に大変注目すべき論点を二つ挙げる。責任ある立場から次のような認識が示されていることに、私は少なからず驚いた。第一は、言語の淘汰と人工的な言語連合創設とも考えられる将来図である。「原住民言語の方言的細分化に関わって原住民言語・方言の共通言語への接近の時代がやってくる。そこでは方言の全てのよりよい特徴が継承されるのであって、これは言語的差違の「達成」の時代である。書記法の形成は共通語の強化と方言の除去にとって強力な一撃となる。」第二は、ロシア語字母論への次のような反論である。論点は五つに分かれる:(1)ラテン式書記法は過去四年間にわたって北方学部(ë‚هÍ)<レニングラード国立大学に設置された新学部、後述>で用いられてきた。
(2)原住民はこれまでロシア語字母で自分の言語を書こうとしてきた。自分の文字をもつことは民族性の自覚のために不可欠である。 (3)ラテン式書記法はチュルク諸民族を含めて外国の諸民族との「接近」に有利である。(4)印刷の経費が安い。(5)ラテン式の方が原住民諸言語の音声を表記するのに楽である。(6)「最後に、遅かれ早かれロシア語の表記もラテン式か何らかの国際的書記法に変わることになるであろうが、この巨大な意義をもつ文化的達成を待つことがもはやそう長くはない可能性もある。」ロシア語も早晩ラテン文字化されるのだから、原住民族は先にやっておこうというのである。
論文(4)についてのコメントは省略して、ルクスのもう一つの報告(5)「北方民族研究所、その場所と課題」についてわずかに触れる。この研究所àçëは1927年に具体的に計画され、1930年には活動を始めていたようである。それはA.C.エニキゼ記念レニングラード東方大学の北方学部に付属して置かれた。その主な課題は(1)原住民族党幹部の養成、(2)工業生産機構の開示、(3)高等教育機構党細胞の建設、(4)研究活動、(5)出版活動であるとされた。北方地域の指導者養成機関である。この北方民族研究所は、今日の、ゲルツェン記念ロシア国立教育大学北方地方民族学部の前身であるとされている(同学部の諸文書による)。
このようにCCは1930年に創刊され、北方委員会の解体にいたる1935年まで刊行されつづけられるのであるが、そこで論じられた問題は初期のソ連北方建設の全体にわたっていた。それは経済建設・工業化、狩猟・漁業やトナカイ飼育の集団化の開始、北極海航路開発などの「下部構造」のソヴィエト化だけでなく、文化基地の創設、医療・婦人の地位の向上、学校開講などについての詳細な報告を含んでいた。またいわゆるクラークとシャーマンの撲滅に関する具体的な活動報告であることも注目すべきである。しかしこれらの報告からこの時代の歴史を個々の側面について再構成することは、私の力量の及ぶところではないので、それはそれぞれの専門家に委ねることにして、ここでは北方委員会の誕生と解体について以下の点を書き留めておくだけにしたい。
CC第二号にはスカチコーによる北方委員会の誕生記録「北方委員会の五年間」が含まれている。この報告によると、北方委員会は1924年6月に全ロシア共産党中央委員会幹部会の決議に基づいて、それに直属する機関として構成された。正式の名称は当初「北方少数諸民族協力委員会(äÓÏËÚÂÚ
ëÓ‰ÂÈÒÚ‚Ëfl χÎ˚ı ̇�Ó‰ÂÌÓÒÚflı ë‚Â�‡)」であった。
北方委員会の最初の仕事は、第一に「北方地域に活動している全ての国家機関と経済機関に対して指令を与えること」、第二に、地方の労働組織の「規則性促進のための措置をとること」、第三に、「北方諸民族の慣習と状況に関して正確な情報を得て広範な出版活動を行うこと」であった。なぜなら北方委員会という組織は「典型的な革命的ソヴィエト的な機関だから」であるという。またこの時期の特徴として、北方諸民族に関する科学研究が強調され、それと情報活動を含む政治的実践との結合が計られたことが挙げられる。このことは次のような活動方針にも示されている:
(1) 科学的データ収集の強化
(2) 地方の知識と指令的役割の強化
(3) 地方組織とセンターとの結合の強化
(4) 原住民ソヴィエトなどの原住民組織の指導性の強化。
いわゆるコレニザーツィアというのはこの時期のこのような指導のあり方を指すのであろう。
北方委員会は毎年一回総会を開き、活動方針を決めていたが、その年度ごとに問題の重点が異なっていたことが分かる。
第一回大会は1924年10月。この時期の最大の問題は原住民幹部の養成であった。レニングラード国立大学労働学部(ꇷهÍ、後述)に対する大きな期待があった。
第二回大会は1925年5月。北方地域への資材供給、産業基盤の育成、文化基地の建設、徴税免除が問題になった。また極北地域の開発問題も論じられたらしい。
第三回大会は1926年4月。地方貸付資金、原住民による行政機構の確立、経済建設の関する計画の策定などが主要な決議であった。
第四回大会は1927年5月。この大会には新しい問題が提起された。第一は民族別の地域化を進めるという方針であって、従来の細分化を軌道修正したものである。第二は原住民組織を攪乱破壊活動から防衛するという方針であって、いわゆるクラークとシャーマンの撲滅運動が開始された。第三は北方地域にも五カ年計画が実施されたことである。
第五回大会は1928年5月。この大会では三つの分野での困難が指摘された。経済建設のための基本的資金の不足、幹部の不足、さらに文化建設における不足、特に学校と病院の建設の不十分が指摘された。一方で一国社会主義建設に向けて次第に重大になる問題、北極海航路の建設が論じられている。北方特有の産業としてのトナカイ飼育の集団産業化が困難に遭遇していることも問題にされた。
第六回大会は1929年5月。少数民族内部での階級分化が問題になった。クラーク撲滅運動に関する論議であったろうが、詳細は分からない。経済の「再建」が論じられたが、どこからの「再建」であるのかは分からない。あるいはソヴィエト建設がすでに実際に経済基盤を破壊していたのかもしれない。しかしいずれにせよ、集団化と自己課税制度、五カ年計画にそった原住民経済の形態再編成が求められたらしい。
スカチコーは北方委員会結成以来の六年間を総括して、行政・経済・文化の三分野において問題も任務も変化してきたが、どの分野においても北方原住民組織が各地に建設され、基本的なソヴィエト化が推進されたと見なしている。具体的事実として注目すべきは、次の数字である:
(1) 原住民学校数
1925/26
1929/30
6校
123校(生徒3,000人、教師 158人)
(2) 幹部数(教師を含む)
1929/30
北方学部卒業生だけで325人(地方養成者を含む教師数)
(3) 予算
1926/27
1929/30
1,56,900R 3,829,329R
スカチコーはこの報告を「北方における社会主義建設の問題は結局のところ原住民幹部の問題である」と結んでいる。事実そのとおりであったろうが、その彼らの多くは北方委員会そのものと運命を共にしたのであった。
CCは第4巻1932年号からA5判からB5判の大きさになり、表紙も青と黒の2色刷りになった。同時に発行部数もほぼ常に3500部を維持した。地方の現場からの報告では、地方の原住民幹部がソヴィエト建設に向けて懸命に自分の部署で戦っているありさまを描き出しているし、科学アカデミーの北方研究も進んでいて、毎年、北方委員会の計画と予算による現地調査が行われた。特に1932/1933年度にはネネツ地区からチュコト半島までの殆どの地域に調査隊が送られたことが報告されている。しかし、この時期から毎号きまって巻頭にスターリンの肖像画や演説の引用が入るようになる。同時に、スミドヴィッチやスカチコーの論文にも思想的なお説教の風味が増してくる。党の統制も細部に及ぶようになる。その一つの典型は1934年第4号に掲載されたサーロフの論文「北方民族学校、その計画と教材」である。彼によると北方民族学校の基本的任務は、総合的知識の付与、学習実践の結合、共産主義思想の拡大であり、「なによりもまず第二言語(ロシア語)の導入が急務であり、北方学校の教科言語であるだけでなく、教育言語にすることが不可避である」と主張される。ヤクートなどの大民族を除いて初等教育で初めからロシア語の教育が必要であるとも主張された。ここにはすでに1920年代の末に原住民言語の表記法としてラテン式書記法を導入したことが全くの偶然的な誤りか、少なくともごく暫定的な政策的措置であったという判断が示されている。ロシア語を教えることがむづかしいから、現地語で一二年教育して政治教育に役立たせることが急務であっただけのことであって、先住民の言語と文化を擁護するという思想は初めから問題にしていなかったといわんばかりである。これと呼応して、ボゴラス編のチュクチ語教科書(ラテン式表記)などが難しすぎる、挿し絵が不適切であるなどの理由で再販禁止にされたのである。
CCの転機はキーロフ暗殺(1934.12.1.)とともにやってきた。CCの1934年6号(1934年12月刊)はキーロフ追悼の特集号である。しかし内容はすでに編集が済んでいたものらしく、巻頭のスカチコーの論文「北方民族内での労働の方法と実践」はキーロフには言及せず、一般的な思想的説教に終始している。そしてこの号でなによりも注目すべきは「北方海路管理総局É·‚Ì˚È
ìÔ�‡‚ÎÂÌË ë‚Â�ÌÓ„Ó åÓ�ÒÛÓ„Ó èÛÚË, Éìëåè」についての論文が発表されたことである。この計画は北極海航路の政治・軍事的重要性を強調し、その開発に全力を挙げようという党機関の決定に基づくもので、その後の北方の開発の方向付けに決定的な意味をもった。 CCの1935号はスミドヴィッチ追悼号であると同時にCCの最終号となった。
追悼文はスカチコーが書いている。それに続く彼の論文「北方における新組織形成」は北方委員会の解体宣言である。彼は、16言語に文字を与えた、300の学校を作った、北方住民の60%を非文盲化した、シャーマンの衣装はすでに博物館行きになった、医療基地300を建設した、機能別の協同組合を作り、諸産業分野で20,000にのぼる企業体を作ったなど、北方委員会の業績を列挙し、「しかしその成果と地域組織ともども北方委員会は連邦国家計画局の総合計画にそって解体されるべきであり、」「建設されるべき北方海路管理総局の政治路線に移行する。」と書いた。
CCは、北方委員会とともに、この1935年3・4号合併号で終わる。形式的には、これをもって、北方委員会は北方海路管理総局に移行し、『ソヴィエトの北方』は『ソヴィエトの北極』発展解消したことになる。しかしこれは実はレーニン的民族政策の解体であり、後の北極圏核開発に直結する冷戦型北洋開発への始まりでもあった。
2.『タイガとツンドラ』とボゴラス・タン
ボゴラス・タン(1865-1936)に美しい報告文がある。『北方アジア』1927年第2号」に掲載された「北方学部」と題する一文であって、レニングラード国立大学生きた言語研究所北方部労働学部の創設に関わる三年間の経験を見事な文で記したものである。労働学部というのは、北方少数民族の人材育成のための新設機関であって、彼が発足から直接に指導した。この学部は1926年10月11日に授業を開始したが、10月の1日には各地からボロをまとった学生たちがレニングラードに着いた。ギリヤークのモグチは一家四人でやってきた。上の子供は四歳だった。学生の知識はばらばらで「多くは全くの文盲であって、大部分の学生は猟師の掘建て小屋やツンドラのユルタから直接出てきたばかりなので、都会生活は全くダメで、ロシア語も分かるものもほとんどいなかった。」中にはヤクートからやっきた年かさの青年のように、算数はできる代数も分かるというわけで、すぐに大学の一般の学生となじみになる者もいた。アレウト人ハバロフは最年長で、バルチック艦隊に勤務したこともあって、日本にもいったことがあるという。最少年者はなんと六歳であった。チュクチ人「テブリャントは孤児であった。猟師の家に生まれたが、父親は女を見つけて出奔。母と喧嘩して、アナドウル河畔に住むお祖父さんの元に走るが、お祖父さんはシャーマン、まもなく近所の者たちによって殺害され、独りぽっちになる。」利発な子供だったので、地域ソヴィエトが労働学部に推薦して、いくつかの問題があったが、幸運にも合格。しかしロシア語がまったくできないので、レニングラードまで行くのは到底無理と判断された。再び幸運にも「ハバロフスクからロシア語の分かるユカギール人学生パルファンチェフ君が同行したので、痩せこけておんぼろの姿だったが、何とかレニングラードはモスクワ駅に到着した。」「ある時、黒板に
k o sh k a と書いて、彼にその意味を尋ねた。しかし分からない。そこへネコが一匹。教室にネコがいたのだ。<あれだよ。あれはチュクチ語でなんて言うの?> <あれ?リス・キツネかな?>」。本当にこんな具合だったらしい。それから数ヶ月後「タイガとツンドラと称する壁新聞が出はじめた。その文章のいくつかは原住民語で書かれていた。ツングースの一人はそれをラテン文字で書いた。アレウトのハバロフにとっても初めての文字であった。いまだかって誰一人としてアレウト語で文章や詩を書いたアレウト人はいなかった。」「絵描きもいた。ゴリドの娘オニンカが壁新聞にアムールの岸で働く漁師を描いた。」「またいつだったか、人類史の授業をしたときのことである。教室は奇妙な雰囲気につつまれた。誰かがいった。<北方は一万年遅れているぞ。俺たちはその遅れを一年で取り返すぞ。> その意気込みと熱気はすごいものだった。」1927年になって壁新聞を編集して冊子にしようという計画がまとまった。」ボゴラス教授は北方委員会と交渉して、この話をまとめた。それが『タイガとツンドラ』の刊行であった。
『タイガとツンドラ』(=TT)は1928年に創刊された。第一巻の発行者は、全ロシア共産党中央委員会幹部会付北方委員会レニングラード支部発行、エニキゼ記念レニングラード東方大学北方学部北方サークル刊となっている。編集者は、編集主幹.ボゴラス、副編集長にコーシキン、編集局はこの二人の他に言語学者のè.û.モルåÓÎÎ、これに学生のハバロフ君他二名で構成された。発行部数は1000部であった。
創刊号の巻頭にスミドヴィッチの「親愛なる同志諸君へ」と題する文が置かれている。「私は君たちを見た、私は君たちの情熱と君たち自身の責務への用意を見た。この新しい条件のもとで、遠い寒い野生の北方に、この火花から新しい生活の炎が燃えさかるだろう。」という挨拶を送っている。
エヴェンキの学生ヂオードロフがTTの歴史について次のように書いている。「10月革命のおかげで、北方は完全な自由と保護権を受け取った。そしてここでは1925/26学年度にレニングラード国立大学労働学部北方科が結成された。ここで北方諸民族の学生26人が学んだ。」この年の末「コーシキンの指導のもとで東方大学北方学部に北方サークルが結成された。」「1926/27学年度には北方サークルがãÉì生きた言語研究所北方部労働学部に編入され、ジェツコエ・セロ(現プーシキン市夏宮殿)に移った。学生数は70人であった。」「1927/28学年度には学生数は130人に増え、ツングース・マンヂュウ班、古アジア班、フィン・ウゴル・サモディ班の三班が作られた。」「この年、北方委員会第五回大会にハバロフ(アレウト)、ヂオードロフ(ツングース)、モグチ(ギリャーク)、アラチェフ(オスチャーク)の四人が出席した。
この報告に続いて、「夏の仕事」「コンダ川のオスチャーク」「どうやってキツネを捕らえ飼ったか」「ハタンゴーアナダール地方」「ナーナイ人の中の中国人」「エヴェン人の生活」等々の地方報告12編が続く。ボゴラスの語ったように、その多くは生まれて初めて書いた作文である。この号の後ろの方に「質問」という項目がある。それに「大金持ちのクラークやシャーマンにはどう対処すべきか」とう質問が出た。返答の欄には編集局からの次のような返事が載っている。「自分の労働で生きていて同族者の精神的搾取からの果実が自分の収入の中で基本的役割を果たさないような者は発言権を奪われるべきではない。」いかにも1928年の思想状況を反映する回答である。
巻末には北方サークルの政治的任務についての決議と指令が掲載されているが、そこにはこのグループの新鮮な意気込みが感じられるので、いかにその項目を揚げる。
(1) ソヴィエト建設について
特に行政組織の確立の問題についてー
(2) 協同組合について
特に多面的協同組合組織建設の問題についてー
(3)文化・啓蒙活動について
a. 冬夏授業可能な学校の建設
b. 文盲一掃(特に夏遊牧冬定住民の)
c. 文化基地ネットの拡大
d. 文献・教科書・文書の場所の拡大
e. 原住民言語のアルファベット・教科書作成の促進
f. 全面的なë‚هÍの拡大への協力と地元青年の参加の拡大
(4)医・衛生活動について
a. 医療・獣医地点ネットの拡大
b. 薬品供給
c. 地元医療獣医への援助
d. 病院の開設
TTの刊行は必ずしも安定していなかったようだ。1928年(第1号)、1930年(第2号)及び1931年(第3号)は文集ë·Ó�ÌËÍで、1929年は発行されていない。第2号で注目すべきは、まず、編集部にサヴェレヴァ뇂Â΂‡,Ä.Ä.とツィンツィウスñË̈ËÛÒ,Ç.à.とが加わったことである。ボゴラスのもとに若い研究者が集まってきたことを示している。この時期にグループの活動の第一の重点は、文化戦線の強化、学校建設、婦人の地位とシャーマンの問題に置かれていた。従って、この号には原住民の学生活動家から46報告が集められているが、特に学校教育関係の報告が多い。ロパール(サーミ)からは、1929年に学校が開かれ、生徒は男子10,女子29人、この地域でこれまで完全に文盲であった者は男子8人であったこと、さらに昨今子供たちがロシア語を習いはじめたことが報告されている。オスチャークからの報告では、1924年にインテルナートが開かれた。しかし最初は生徒集めに苦労したが、今では40人の生徒がいる。教育はロシア語でロシア語の教材を使っている。「しかしラテン式のアルファベートが導入されてそれで原住民語が教育されるようになっても事態は変わらないだろう。」なによりも生きた教材を使って漁・猟を教えること、その中で共産主義の心を教育することが肝心だという。またネネツ地区からは、ツンドラで学校を作るのは大変だ。しかし、やっとステップにもいくつかの学校ができた。学齢期の子供がよい働き手であるという事情が実はむづかしいところで、生活の場から学校までの運搬手段をどうするかも問題だ。しかし「活動の成否は人々の言語知識にかかっている」ので、なによりもまず文化教育活動を強化しなければならないという旨の報告がある。ここにもインテルナート制度の導入がソヴィエト建設の軸であったことが示されている。
第3号には、言語と書記法問題に関して注目すべき記事がいくつかある。その第一は、巻頭に置かれた「万国の労働者よ団結せよ」のラテン式書記法による15種の原住民語訳である。例えば、ニヴフ語ではColanigevn sik kurmuh vopure! というそうである。これはサハリン方言らしい。この号の発行の時期には、北方委員会の主導で北方原住民言語のラテン式書記法の問題が盛んに論じられ、ほとんどの言語について公的に承認されたラテン式書記法が作られた。その結果はすぐに教育の現場に導入されて、新書記法による教科書(一・二年用に限って)が作られ、早速に各地で用いられた。学術的には、その成果は『北方諸民族の言語と書記法』全三巻(1934)としてまとめられている。この問題については別に論じるつもりである(『千葉大学ユーラシア言語文化論集』第3号に所収予定)。この文集で第二に大切なことは、北方民族研究所àçëのこれまでの歴史が総括されていることである。このこと自体でこの時期がひとつの大きな転機であったことが分かる。しかしここでは論点を拾うことも割愛して次の点だけをメモするにとどめる。研究所に各地からやってきた学生の数が、1928/1928学年度では289人、1929/30学年度では322人であった。また奨学金は36ルーブル、支度金が100ルーブルであったという。
TTは1932年に変身する。判がA5からB4に大きくなり、年4号、2000部の発行予定になる。しかし文集ではなくなった分、毎号70ページ程度の厚さになり、紙質も悪くなった。表紙には毎号各地からやってきた学生が描いたと思われる北方地域の線画を飾り、表題は赤、地は青とか茶色の二色刷りである。このような外見よりも大きな変化は、表紙を開くと、まずスターリンの言葉が見開きを飾るようになったことである。曰く「プロレタリア独裁と社会主義建設の時代は民族文化繁栄の時代である、内容において社会主義的な、形態において民族的な。」
この年の号でも、北方における社会主義建設、北方経済、文化・学校・生活習慣などと題する地方報告はこれまでと変わらないが、報告の内容には、以前のような新鮮さが感じられない。しかしいくつか興味深い報告もある。その一は、「アムール下流におけるギリャーク・コルホーズの活動」と題するレポートであって、ブリガードçË‚‚ÛıÓ‚と称する活動家集団(ニヴフ8人とユカギール1人)の共同執筆による。このレポートはこの地域のニヴフ居住地にも昔からクラークと規定され得る金・土地持ちのニヴフが居て、彼らがことごとにソヴィエト建設を妨害してきたので、集団的に撲滅したというものである。そのほかにもいくつかの地域からコルホーズ建設の苦労と成功とが報告されている。その二は「第一回全ロシア北方民族言語書記法会議」の報告である。この会議は1931年末に開催され、16民族言語に新書記法を制定したものであるが、この会議にオニンコ(ナーナイ)など数人の北方学部学生も出席していたことが分かる。
1933年No.2(5)という号がある。1933年5月9日刊である。巻頭に北方民族学部にはすでに500人もの学生・院生が学んでいること、14言語で教科書ができたこと、民族語による学校が多くの地域で開設されたことなどが報告され、新五カ年計画の達成のために一層の戦いが必要であると強調し、スターリン万歳で締めくくられている。しかし地方報告などは従来通りに編集されている。1300部の発行部数であった。巻末に次号は10月に刊行することが予告されていた。しかしこの10月刊行予定の『タイガとツンドラ』1933年No.3(5)はどこにも見つからなかった。
レニングラード国立大学労働学部と東方大学北方学部は、ボゴラス教授の暖かい指導のもとで、何千人もの優秀な北方民族出身の学生を育て、帰郷させた。彼らは生まれ故郷に帰って文字どおり革命的な情熱を傾けて産業を興し、学校を作り、医療に取り組んだ。1926年から1933年までの7〜8年間レニングラードと北方の各地でそのような原住民青年の活動が続けれられたのであった。そしてこの活動こそが北方委員会の上からの革命を下支えしてして、現実化した本当の力であった。しかし北方委員会は1934年に解体され、翌年にはラテン式書記法が無駄であったと判断されて、その後はロシア語教育と原住民族語のロシア語表記が進められる。ボゴラス教授は1936年に他界した。彼の薫陶を受けその情熱を受け継いだ学生たちの何人が果たして1937〜1938年の粛正を生き延びたであろうか。また、まもなく始まる第二次世界大戦に生き残った青年たちはさらに少なかったにちがいない。
「北方委員会」の理想と情熱のすべてが書き込まれた『ソヴィエト的北方』と『タイガとツンドラ』はあの時代の彼等の記念碑である。
先住民族言語へ