バイリンガルは是か非か
子供はバイリンガルに育てたいと多くの親が考えています。特に外国で産まれたり、外国で学齢期を過ごす子供たちは、条件がそろっているのですから、バイリンガルに育つのがむしろ普通です。また日本国内の生活環境でも、日本の社会活動が地球化されてくるにともなって、バイリンガル教育への希望が高まってきています。外国語を話す必要と利益が一世代前とは比較にならないほど大きくなってきているのです。このような社会的なニ-ズに応えて、小学校教育に英語を導入する試みも始まりました。
最初のことば、いわゆる母語は、たいてい10歳台の始めまでに習得されます。その時期を越えると次に習得することばは、母語とは違う条件で学ばなければならくなります。比喩的に言えば、母語でフォ-マットされたディスクにフォ-マットが違う二つ目の言語を書き込むようなもので、母語と第二言語とは違う仕組みで習得されるようです。けれども父親と母親とが違うことばを話すような家庭環境では、幼児期からバイリンガルの子供が育つことがあります。また家庭のことばと小学校で使うことばが違ったり、学校内外の友達との会話もことばが違うという場合もあります。多くの海外勤務の家庭が経験するのはこの場合です。日本で働いている外国籍の両親に育てられて、日本の小学校に通う子供たちもバイリンガルに育ちます。帰国したときのために母国語を仕込んでおきたいと一生懸命になっている外国籍の人たちもたくさんいます。このような場合が近頃あちこちに見られるのですが、そこでは二つの母語をもつ子供達が増えてきています。そしてこの子供たちは「理想的な」バイリンガルとして育っているように見えます。
しかし一見「理想的な」バイリンガルにも深い蔭の部分があります。それは、もともと母語の習得過程が小学校低学年の学齢期までで止まってしまうという脳神経的な仕組みに関係します。この時期の子供たちがどこまで一般的な知能を発達させているかについて考えてみましょう。知性はことばに乗って発達します。従って、二つの母語を使う環境では、ともすれば知性の発達が跛行して、学齢期の子供たちが二つの母語を使って同じように知性を万遍なく発達させることができないことがよくあります。小学校高学年から中等教育にかけて育成される高度な知的操作を二つの言語で同じ程度に発達させることは時に大変難しいもので、多くの場合は駄目です。その結果、少なくとも一方の言語では、計算ができなかったり、読み書きの能力が聞き話す能力に比べて格段に低いなどの偏りがでてきます。二つの言語が共に知的未発達の状態に陥ることも多くあります。このような状態を「セミリンガル」と呼ぶことがありますが、極端な場合は言語治療の対象にさえなります。
ところが人間は、言語を発明して以来ずっと、いくつかの言語を時と場合によって使い分けてきたと思われるので、もともと多言語使用者なのかもしれません。どうしてそんなことが可能だったのでしょうか。秘密は「使い分け」にあります。子供はまず一番身近な環境で一つの母語を脳内に構築します。これで基本的に生きていくのです。次いで、人付き合いのことばを覚えます。このことばは、習得時期が早すぎたなら、一時忘れたり、棚上げしたりなどして、必要な時期までに取っておきます。しかし成長するにつれて、また別のことばが必要になってきます。身の回りの社会が広がるとともに順次に別のことばを覚えて使っていかざるを得なくなるのです。お母さんとは中国語、お父さんには英語、学校では日本語、あの店ではポルトガル語というようにことばをさまざまに使い分けるのです。そのとき最初に覚えた母語の習慣が干渉して、二つ目のことばからは発音や語順や語彙の使い方が少しづつずれてきます。それは仕方ありません。あとからゆっくりアップグレ-ドすればよいのですから、始めのうちは干渉の結果を個人差として認めておきましょう。この結果、第一の母語を中心として、母語、第二のことば、第三のことばと重なりあう「ことばの入れ子」ができていきます。ことばの順番はひとによってさまざまですから、ひとりびとりの社会環境に応じて違った「ことばの入れ子」が生まれます。人間本来の多言語使用能力とはこうして作られたものでしょうし、バイリンガルやマルチリンガルの能力はこうして伸ばしていけばよいのでしょう。
今の社会ではバイリンガルであることは、善し悪しを越えて、国際社会で生きていくために必要です。しかし今までの英語教育は口下手しか作らなかったから、小学校の一年生から英語を教えようと意見がありますが、バイリンガリズムの蔭の部分を配慮した方法を探さなければなりません。はっきりしているのは、今までの英語教育では駄目だということです。バイリンガルに関わる問題は多く、ここで触れただけではとうてい十分ではありません。議論は尽きませんが、私たち「地球ことば村・世界言語博物館」では、これからもこの論議は続けていきますので、是非ご意見をお寄せください。 《事務局》