動いている方言 ~「使う」方言・「使う」人
フォーラムのパネリストは多彩な顔触れだった。様々な形で方言と関わってきた方々とご一緒できて、出演者の一人として実に楽しいもの
だった。その中で私は異質な存在だったと思う。私は社会言語学という学問を専門としているが、特に方言の実態を研究対象としているわけではない。方言や様
々なことばを用いて人と人とがどのように関わりをもっているか、人と人との関わりがどのようなことばのしくみやその変革をもたらしているか、また、ことば
がそのような関わりをどのように示しているか、それが私の関心事である。
このような私の研究上の立場から言うと、方言はただ「美しい」、「おもしろい」、「貴重である」などいうことだけは済ませられない。私にとって方言が興味
深いのはそれが「動いている」からである。一般に、方言や言語状況を思い浮べる時、それが定まって動かないものと思いがちだ。ところが、実際はそうではな
い。方言は、そしてことばは常に動いている。そして、その「動き」はまさに人と人との関わりのあり方を示している。ことばはつねに変化をするが、決してひ
とりでに勝手に変わっているわけではない。誰かの号令だけで変わっているわけでもない。人間の様々なレベルのネットワークが、ある方言やことばを失わせ、
新しい方言やことばを生み出しているのである。
若者ことばは「社会方言」と呼ばれる方言の一つである(一般にいう方言は「地域方言」)。若者ことばがおもしろいのはその変革のサイク
ルが非常にはやく、しかも比較的その変化が見えやすいということである。ここで重要なことは、その変化を生み出す要因に着眼することだと思う。フォーラム
では、私はその一つの要因を「連帯と排除」に求めた。女子高生たちはしばしば新しいことばを生み出し、そのいくつかは広く使われるようになるが、女子中学
生にまで浸透すると使うのをやめる傾向があるという。その理由を考えるのはそれほど難しくはない。
世界中には消滅の危機にさらされている言語がいくつもある。日本における方言においても同様である。このような言語や方言を「標本」としてとっておくこと
も非常に貴重なな仕事だ。しかし、それがどのように使われ、人がどのようにそれを使って「生きている」かに目を留めることも重要だと思う。馬にいろいろな
仕事をさせる光景は、動物愛護的な見方をすれば非道なものかもしれないが、馬に仕事をさせなくなった文化では確実に馬の数は減る。「使う」言語、「使う」
人という視点が重要なのである。
《井上逸兵、社会言語学》
◎当日の井上先生のご発言に関して、ご意見が 寄せられました(事務局)