●「今に生きる 茶道のことば」
●10月14日(土)午後2時_4時
●慶應義塾大学三田校舎303教室
●話題提供:村上瑛二郎氏(茶道家)
●今の暮らしに生きる 茶道のことば。もてなしの心を学ぶ。
村上さんはテレビプロデューサーとして活躍後、趣味が嵩じて茶道三昧の生活に。特に歴史に興味を持ち、茶道が時代に果たした役割など研究。
▼ 「さどう」か「ちゃどう」か?
はじめにお茶と茶道の歴史ダイジェストから。
南アジア山岳地帯原産のお茶は、始めは薬でした。奈良時代に日本に渡来、鎌倉時代に栄西禅師が南宋の禅寺での「茶礼」と抹茶を持ち込み、それ以来、お茶と禅は切っても切れない関係に。
寺の外では、酒宴や音曲の集まり、お風呂(ごちそうのひとつでした)などの際にお茶を飲む風習ができ、お茶を飲み比べて産地を当てる「闘茶」なども盛んに。
室町時代なかばから、現在の茶道の形式が完成されて、千利休のように、大名家にお茶で奉仕する「茶頭・さどう」という階級が生まれました。この「さどう」と区別するために、茶道は「ちゃどう」というべきだという説があるそうです。
▼ 本来の茶事はお客さま5人まで
現代では何十人ものお客様をひろい会場でもてなす大寄せ茶会が主ですが、本来の茶事は4畳半ほどの部屋に、上限5人のお客様を4時間程度かけて、もてなすもの。懐石とよばれる食事を出し、濃茶、薄茶を楽しむものです。
招待状が届いたら、正式にはご亭主の家まで出向いて、招待のお礼を言い(前礼)茶事の次の日にはまた、出かけていってお礼を述べる(後礼)。現代では、ほとんど手紙ですませるそうですが、それにしても丁寧なことです。
▼ 「侘び 寂び」「一期一会」「一座建立」
「侘び」とは、もともと不自由・不如意という意味。「南方録」にある「家は漏らぬほど 食事は飢えぬほどにて足ることなり。これ仏の教え、茶の湯の本意なり」に通じるようです。「寂び」は清潔で美しいこと。すっきりと物の少ない日本家屋の風情はこの「侘び寂び」なのですね。
「一期一会」は今このときは2度とないという気持ちで、もてなしもてなされること。そういう茶席は別世界だとして、世間の雑談はしないこと、宗教(わが仏)家庭内の愚痴(婿舅)政治(天下の軍)悪口・批判(人の善悪)などはつつしむようにとされています。これは、私たちの会話でも同じかも。「一座建立」は亭主と客が心をひとつにしてその場をつくることを言っています。「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」これも、なるほど。
木戸番の番太郎が飲むような粗悪なお茶だから「番茶」、地味で汚らしいことを「じぼたれる」中国語でお茶をいれることを「点茶」といい、そこから、お茶を「点る・たてる」という、などなど、お茶のことばにはおもしろいものがたくさんありました。
村上さんによれば、「飲食を芸能にしたものは世界中で茶道以外にない」その意味でも、茶道は日本が世界にほこれる芸術だといえるでしょう。