「ケニア西部キプシギス民族のことばと暮らし―握手のことば・身体・政治」
●2007年2月17日14:00-16:30
●オフィス・ヘンミ会議室
●話題提供:小馬徹(神奈川大学教授・文化人類学)
話題提供者の小馬徹先生は、この3月いっぱい26回目のキプシギス民族調査をなさる予定で、現地の人びとには長老世代の者と目される方です。まず、文化人類学と言語学の対象の違いから、お話が始まりました。
● 文化人類学者は、「ことば」の専門家、言語学者は「言葉」の専門家
「言葉」は、二重分節された(音の)記号体系としての人間に固有の言語。「ことば」はそれ(言語内現象)を含みながら、より広く、「言葉」以前のさまざまな情報や、世界観、人間観を全体として捉える概念です。文化人類学はそれを対象とします。さまざまな次元の総体である人間の生きた現実は、常に、記号化され、用具化された「言葉」での表現と包み合いながらもずれています。その「言葉」からこぼれおちた現実を新たに問い直し、「言葉」を見直しつつ、相補的に自己を表現して伝え合おうとする営みが「ことば」だともいえるでしょう。
● 「手」という官能
内面をあらわすものとしての「顔」は、また、文化的な統制を受けて抑圧されがちな部分です。それに対して「手」は、比較的統制から自由で、豊かな表現性を持ち、時として顔の表情を裏切り、真の内面性を吐露することさえあります。その自覚のゆえに、「手」の官能性を日本の芸術―仏像彫刻・文楽・能・歌舞伎など―は重んじてきました。ところが、「手」の文化のひとつである「握手」は、日本そして中国などの東アジア文化圏では伝統的に見られなかった。そこに、身体接触を伴う挨拶を回避し、視覚的な挨拶だけを慣行としてきた社会の姿がうかがえます。
視覚というのは、主客分離の構図を作り出します。それに対して、触覚は主客をひとつに融合するものです。「手」を触れ合う「握手」では、自他の距離が失われ、いわば、小さなオーガズムの交流を互いに感じさせます。この身体的な感覚の働きが「握手の政治学」の基礎となります。
● 互いの距離をゼロにした上で、改めて関係を規定するキプシギスの「握手」
キプシギス民族は、出会いのとき必ず握手をします。目上が先に手を出して相手の手を握り、"Chame-ge?"- "Chame-ge"と挨拶のことばを交わします。「握手する」はkat-geで、kat(挨拶する、強いる)に再帰のgeがついた形。すなわち、自分と○○をkatするという意味です。挨拶言葉のChame-geは、(なにかと)調和して、その状態を好ましく感じていること、即ち自分自身(の社会的なあり方)と調和・一致して現状の中で安らぐことです。
彼らは「握手」という身体接触(官能)を通して、自他関係を一瞬解体し、しかし即座に自己のあり方を既成の社会秩序に合一せよという挨拶言葉(Chame-ge)の脅迫的な命令内容によって、自己の社会的責任を再確認しているといえましょう。こうして、出会い以外の場面でも、たとえば離婚儀礼や謝罪の時、村の長老による裁判でも「握手」は大きな意味を持っています。「握手」によって、現今の問題状況(犯罪・不幸な婚姻・係争など)はいったん無化され、新たに規定(定義)し直された状況を挨拶言葉の発話が現実化します。キプシギス民族は「握手の官能性の社会的な自覚」を持った人びとだといえるでしょう。
● 挨拶・握手とその政治学
キプシギスの握手にはいくつかの禁忌があります。境界をまたぐように握手してはならないとか、別れ際には握手してはならないなど。世代制による老人支配(ジェロントクラシー)の暗黙裡の社会統制を基盤とする彼らの集団運営の政治学にも、握手は大きな意味をもつのです。
ご自身の少年時代の記憶やリルケやソシュール、南伸坊などの例、日本の伝統芸術への言及など、小馬先生の自由で広い視野のなか、参加者全員が知の探検旅行をしたような楽しい時間でした。先生は、また、河童の研究やおならの人類学的研究でも知られています。おならと河童研究の新刊(2冊)が近々出版される予定です。また、あたらしいテーマでお話いただくことを楽しみに散会しました。