地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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ことば村・ことばのサロン

2008・7月のことばのサロン
▼ことばのサロン

「なる」言語と「する」言語―日本語の思考と英語の思考


● 2008年7月19日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田校舎108教室
● 話題提供:多々良直弘先生(桜美林大学言語学系専任講師)
● 日本人はなぜ英語が苦手なのか。日本語と英語の考え方が違うからではないか、というところから、それぞれの言語の持つ思考法について話していただきました。世界における英語の現状から話が始まり、これまで池上嘉彦先生や國廣哲弥先生など多くの研究者によって指摘されてきた日本語と英語の特徴の紹介、そして両言語の新聞報道の特徴まで多くの例文を用いて説明していただきました。


講演要旨

英語話者は世界にどのくらいいるか

 16世紀には500万~700万人の人が英語を話していたとされる。20世紀半ばには英語が母語の話者2億5000万人、非母語の話者1億人の計3億5000万人、そして21世紀中には37億人になるだろうという予測がある。世界人口の増加を計算に入れても急激に増えている。英語が母語の国はイギリス・アメリカ合衆国・カナダ・オーストラリアなど、公用語の国がインド・フィリピン・ガーナ・シンガポールなど、外国語として学習されている国が日本・中国・スペイン・トルコ・フランスなどである。(統計はCrystal (2001)より)


Be動詞的な日本語とHave動詞的な英語

 ある言語での「人間の視点」の取りかたを研究する言語学の分野を「認知言語学」という。その立場で見ると、おなじ出来事や事態を日本語ではBe動詞的な見方、英語ではHave動詞的な見方でとらえていると言える。例えば―

私には妹がいる
I have a sisiter.
熱がある
I have a fever.
ハンバーガー。(注文のとき)
I’ll have a hamburger.

それぞれの言い方がそのことばらしい響きを持っている。


状況中心の日本語と人間中心の英語

 日本語では、どういう状況だったかに主点があり、英語では誰が行為したかに主点がある。例えば―

今日は鶏肉だった。
They gave us chicken.
あ、こわれちゃった!
Oops, I broke it!

(例文は國廣(1974)、池上(2006)より)


現象志向的な日本語と因果志向的な英語

 日本語の新聞と英字新聞のヘッドラインを比較すると、同じ試合の報道でも違う内容の文章になっていることがよく分かる。日本語のヘッドラインでは記者の印象が語られ、印象を繋ぎ合わせることで状況ができあがり、全体にひとつの雰囲気が醸成される。英字新聞では出来事の間の論理的な関係が記述され、結果が明示される。この差は外山(1973)が指摘する「点の論理」と「線の論理」ということもできる。また池上(2006)は以下の例を挙げて説明している。

旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る
Ailing on my travel
Yet my dream wandering
Over withered moors.

英語では「旅に病む」という事態と「夢が枯野をかけ巡る」という事態の間に論理的な接続詞(Yet)が必要なのである。


視点と言語表現

 ある言語表現がどのような視点でなされているのか。その観点から日本語と英語を比べてみよう。例えば―

外に出ると 月が輝いていた。
When I went out, I saw the moon shining.

(池上 2004)


 日本語では、状況の中に語り手は埋没し、表面から消えて、状況だけが表現されている。一方英語では、語り手がはっきりと存在したままの状況が、第3者的に表現されている。いわば、「神の視点」で語り手を含む状況を客観的に記述しているといえよう。この視点は、英語の独りごとでは自分をしばしば2人称で呼んだり自分を対象化することにも表れている。例えば―

私、何をしているのだろう・・・?
What are you doing?
もっと勉強しなくちゃ。
You must work harder.
だれもいないなぁ。
Nobody is here except me.

(池上 2006)


まとめ―言語の背景にある要因の重要性

 以上のように、日本語は主観的な視点で、印象を点的に並べ、全体の雰囲気を醸成することばであり、英語は客観的な視点で原因と結果を線的に並べていくことばだと考えられる。英語らしい表現とは、動作主をはっきりさせ、因果の線をたどって記述される表現ということになるだろう。これは言語そのものの背後にある文化的な要因、そのひとつである視点の取りかたがその言語らしさを形作るものだということである。

 一方、英語はそれが話されている地域の母語の影響を受けずにはいられない。「母語の香り」(吉村 2007)ともいうべきものが、インド英語、フィリピン英語などに独特の響きを与えている。日本英語もそうであってかまわない、と私は思っている。

以上
文責 事務局




 豊富な実例を使っての、大変わかりやすくナットク!のお話でした。終了後の質問第一声は、「おもしろかったけど、やっぱり英語が上達するにはどうしたらいいしょう?」という切実?なもの。それに対して多々良先生のアドバイスは「たくさん英語の本を読むことをお勧めします。読んで、それを英語で要約して、だれかに伝える、この方法は利きます」とのこと。参考になりますね。

 日本語と英語の違いは他の言語ではどうなるのだろう、という疑問が出て、参加者のおひとり中国語ネイティブのかたが、例文:外に出ると 月が輝いていた を中国語に訳してくれました。
中国語では 我走出去。一輪明月掛在天上。 となるそうです。(輪と掛は簡体字です)
「外に出ると」には動作主がありますが、「月が輝いていた」は月が主語で、日本語の視点と共通するようです。英語でも When I went out, the moon was shining. と言えなくはないが、英語らしくない、とのこと。

 また、川端康成の「雪国」の冒頭の文章のサイデンステッカー訳は、原文の視点と違う点で誤訳ではないか、という質問もあり、それに対して、確かにそういう見方もできる、最近は英語翻訳者も、できるだけ原文の視点を生かすようにしているとのことでした。

 点的表現と線的表現、主観的表現と客観的表現と進むにつれて、日本美術と西欧美術の差とも通ずるなぁと感じました。余白を残し、ある雰囲気の中に対象が点として描かれる日本画と三次元空間を表現するルネサンス絵画の差も、ことばと同じくそれぞれの「文化」に根ざしているのでしょう。そう考えると、母語と第二言語がまったく同じに話せるようになるのは土台無理だし、それでいい、ということになるのかもしれませんね・・・。

(事務局)