地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2009・11月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

シリーズ「よみがえる ことばたち」6
「ケルノウ語はいかにして「復活」したのか」


● 2009年11月14日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス513教室
● 話題提供:木村護郎クリストフ先生(上智大学准教授)


講演要旨

1. 少数言語復興例としてのケルノウ(コーンウォール)語

木村護郎クリストフ先生 これからお話しするケルノウ語はイギリスのコーンウォール地方の言語です。コーンウォールはイギリス・グレートブリテン島の南西部の端にある地方で、ウェールズやスコットランド、フランスのブルターニュなどと並ぶケルト地域のひとつですが、三方を海に囲まれ、温暖な気候で、保養地として人気があるところです。

 近年、少数言語の復興運動が各地で見られますが、ケルノウ語はいったんほぼ話し手を失って、100年ほどの中断期間の後、復興運動が始まって現在に至っており、言語の復興運動のいわば老舗のようなものともいえます。言語復興というと、すぐに頭に浮かぶのがヘブライ語ですが、ヘブライ語の事例は、このケルノウ語やあるいはアイヌ語などの少数言語の復興とはかなり違う面をもっています。今日はケルノウ語の復興の意味を考えるために、まず、ヘブライ語復興と対照して考え、それからケルノウ語の復興の歴史、さらに今日の状況についてお話したいと思います。


 ヘブライ語は儀礼などに使われていた「威信」のある言語です。一方、ケルノウ語やアイヌ語など多くの少数言語は近代化に乗り遅れた時代遅れの言語というイメージでとらえられてきました。通常、言語を学ぶのはコミュニケーションのためですが、たとえばアイヌ語を話すより日本語を話したほうがはるかにコミュニケーションしやすい現状があります。しかし、世界中から後にイスラエルとなるパレスチナ地方に移住してきたユダヤ人たちには共通語がありませんでした。コミュニケーションのために共通語を必要としたことが、それゆえにヘブライ語の順調な復興が実現した一因と思われます。

 ケルノウ語の場合は、英語でコミュニケーションができる状況の中で、なぜ復興運動をする意味があったのか。まずその復興の歴史を見ることにします。


2. ケルノウ語復興の推移
2-1. 言語使用の変遷

 18世紀末までには、ケルノウ語の話し手はほぼいなくなりました。いくつかの単語は、その後も話せる人がいたものの、それから19世紀の末までの100年間、ケルノウ語は死んでいる、あるいは眠っていたのです。20世紀の初頭にケルノウ語を学び始めるひとがひとり、ふたりと現れ、1940年代から50年代ごろにはその数が次第に増して行きました。そのころイギリス軍に徴兵された兵士の中に、ケルノウ語で手紙を書くものがいたということです。伝説や地名、家族名などがケルト文化を残していることに思い至った人々が、自分たちの祖先はアングロサクソン人などの祖先とは違うのだということを意識しはじめたのです。

 当初は主に文字でのケルノウ語学習・使用でしたが、1970年代以降、より自由に話せる人が出てきました。彼らはコーンウォールのさまざまな地方に点在するグループで、交通機関も限られた時代、文通で交流したり、それぞれが雑誌を発行したりして活動していました。残されていた資料は、中世の韻文(劇など)や手紙の断片などの雑多なもので、それをもとに言語を再生するのは極めて困難な作業だったと思います。ともかく、単語を並べることで文章にしていこうという状態でした。まったく手探りの状態で、なんとか自分の祖先のことばを使いたいと進んでいったのです。21世紀に入って、話者は300人以上となっています。


 言語使用の各段階がいつ頃から開始されたかを見てみましょう。固有名詞は地名や農場名などとして、復興運動以前からありました。この固有名詞の存在が、自分たちの文化への気付きとなったわけです。(アイヌ語の場合も地名への関心から言語に進むケースが少なくないのではないかと思います。)

 単語レベルの使用は「命名」というかたちで始まりました。自分の子どもや持ち物、家、船などにケルトの名前をつけるのです。現在コーンウォール地方でケルノウ語話者はまだ0.1%に過ぎませんが、ケルト系の名前はかなり多く使われています。たとえば、車のナンバープレートに英語の「コーンウォール」ではなく「ケルノウ」と記載する、また「子どもにつけるケルトの名前」といったタイトルの本が一般の書店などで売られているなど。ちなみに、コーンウォールはアーサー王伝説の地なので、ケルトの名前としてアーサーとかトリスタンなどが命名の本に挙がっています。

 次に文レベルの使用の段階ですが、儀式を上手く使って文の使用の機会にしています。毎年秋にその地域に功績のあった人や文化活動を推進した人を顕彰する式・ゴルセスがあり、そこでのやりとりはケルノウ語で行われると同時にそれを英語対訳のパンフレットにして参加者に配ります。また、教会の礼拝もケルノウ語で執り行われ、会衆もケルノウ語で讃美歌(聖歌)を歌って参加します。ゴルセスや教会ミサのように、誰でもケルノウ語を使える場を用意したことが、ケルノウ語の社会的存在感を増すことに貢献していると思います。言語復興というと、すぐに言語の学習と考えがちですが、実際に学習するにはかなりの意思や努力を必要とするものです。ケルノウ語の場合、そこまでの意欲や余裕を持たない人でもケルノウ語を実際に使用できる、という場面を用意した点が注目に値します。

 言語学習という段階については、1930年40年代に少しずつ講座が開かれるようになりました。30年代には通信講座でしたが、第二次大戦後には週末などを利用した公開講座があちこちに出来、現在は大小合わせて数十の講座が開かれています。

 こうした講座などで学んで、教材に出てきたフレーズを日常で使ってみよう、という教材依存の言語使用も講座数の拡大とともにかなり広まってきました。

 さらに進んで、創造的な使用、つまり自分で文章を書く人々も出てきました。英語からケルノウ語に翻訳する、また、ケルノウ語で詩や小説を書く人々もいます。上に述べた秋の顕彰式・ゴルセスではケルノウ文学賞も授与されます。

 定期的に曜日を決めてパブの一角を借り切り、そこではケルノウ語だけで会話するという集まりもあります。ケルノウ語の合宿もあり、初級者から上級者まで海外からの参加も含めて開かれています。

 日常的な使用、つまり家庭でケルノウ語を話すという段階ですが、これは1970年代ごろからケルノウ語を通じて結婚し子どももケルノウ語で育った数家庭があります。


 彼らをここまでケルノウ語使用にかき立てるものはいったい何なのでしょうか。


会場の様子


2-2. ケルノウ語復興の「理念」から「資源」へ

 これまで見てきたケルノウ語使用の復興と、復興の理念は相互作用のプロセスとしてとらえることができます。

 まず、19世紀末から20世紀初頭にかけて、固有言語の残存(中世の文献・地名)の基礎の上に、ケルノウ語復興の発想が生まれました。この時期は、コーンウォール地方の経済的地盤沈下の時代と重なります。産業革命後、地下資源に恵まれていたコーンウォールはいち早く工業化が進みましたが、産業構造の変化に伴って、地域経済が衰退します。その中で人々は産業革命以前の輝かしい過去を取り戻したいと感じるようになりました。自分たちは単なる周辺の人々ではなく、独自の文化即ちケルト文化をもった存在である、と。(この機運はほかのケルト地域でも見られると思いますが。)そしてコーンウォール文化の中枢とされたのがケルト系の言語であるケルノウ語だったわけです。

 そこで、ケルノウ語の文書の出版や、上に述べたゴルセスの活動が始まり、言語使用のレベルが上がりました。これらの活動がさらに、コーンウォールの地域意識を推進します。

  

 現在コーンウォールはイギリスのほかのケルト地域(スコットランドやウェールズなど)と違って、イングランドの1州です。イングランド全体からみてコーンウォールが実際に目に見えて違っているところはほとんどありません。コーンウォールの住人もかなり、自分たちはイングランドの一員だと感じています。そういう中でケルト文化を推進しているひとびとにとって、イングランド(の他地方)との違いを出していくときに、言語が重要になったわけです。従ってケルノウ語は使っている人数が実際にはごく限られているといっても、地域意識を推進するという大きな意味があるのです。現在ではコーンウォールの州役所ではコーンウォールの旗を掲げるまでになりました。


 触媒としての言語復興に刺激されたこうした地域意識の高まりが、今度は逆に言語学習の推進力になります。もともと地域意識が高かったのではなく、言語を復興する中で地域意識が高まり、その意識の高まりが言語復興をさらに進めるという相互作用です。

 言語学習が創造的使用にまで進んだ80年代にケルノウ語は次第に政治的な役割を持つようになりました。たとえば、コーンウォールには大学がない。我々にも大学がほしい。なぜならここは独自の言語・文化を持つ地域だから、と主張します。また、コーンウォールはイギリスのほかの地域と比べて観光以外の産業に乏しく所得が低い。政府の支援が必要である。なぜなら、我々は独自の文化をもつマイノリティーであるから、など。ケルノウ語が地域の資源となり、州政府もこうした意見を活用し始めます。

 ちょうど今週(09年11月第2週)州議会が新たにコーンウォール語政策を可決、今後は州全体で二言語政策(ケルノウ語を第二公用語に)を実施することになりました。まずは地名表記など簡単なところから、ですが。その背景として、2002年までに州および各郡がケルノウ語政策採択。2003年に欧州評議会「欧州地域少数言語憲章」第二部(すべての少数言語に共通の最低限度を保障)の対象として認知。ケルノウ語発展戦略の実行を調整する半官半民のケルノウ語パートナーシップの設置(欧州評議会からモニターされることに対応)、などがあります。次の段階としては学校教育への導入が念頭に置かれています。


3. 現在のケルノウ語使用状況

 単語だけを使っている人は数多くいますし、文レベルの形式的使用(簡単な案内など)ができる人もかなり多いです。言語学習レベルで数千人程度、上級試験にパスして創造的使用のできる人になると300人程度、その上の日常的に使用する人は数十人だといわれています。


4. ケルノウ語復興の到達点

 現在のケルノウ語復興がどこまで進んでいるかをまとめてみましょう。まず、学習をしていない人でも、日常的にケルノウ語を使う機会があります。教会の礼拝などの儀式への参加や、あちこちに存在する合唱団に参加してケルノウ語の歌を歌う(歌集も出ています)など、です。

 言語教室もコーンウォール各地にあり、学びたい人はいつでも学べるインフラが整備されていると言えます。学習者・使用者のネットワークも発達しており、互いに交流がはかられていて、日本にいるケルノウ語学習者も雑誌やネットで資料や情報を得ることができます。

 以前は文章を作ることができる、という程度だった創造的使用のレベルも上がってきて、現代ケルノウ語文学として文学的価値が認められ、アンソロジーが編纂されるなどの動きもあります。

 現在、日常的使用まで進んだ人々も現れてはいますが、現在のところ、町で偶然にケルノウ語話者と出会う、ということはあまり期待できません。人口の1%以上のひとが話者であるというのが到達のひとつの目標点となっているようです。

 また、公教育では正規の科目としては教えられていません。公教育で学習できるようになるのも将来の目標点でしょう。ケルノウ語の現在の到達点としては、「特定の機会における意識的な使用に限定された/学習された第二言語」と言えると思います。これをどう評価したらいいか。つまり、かなり復興が進んだ言語という側面と、まだふつうの言語というには程遠い側面とをどう評価したらいいか、を次に考えてみます。


5. コーンウォールにおけるケルノウ語復興の意義

ケルノウ語復興の評価のキイワードは「資源」です。復興したケルノウ語は、1.社会的資源 2.政治的資源 3.経済的資源だと考えられます。

 まず、ケルノウ語復興運動によって新しい人間関係が生まれました。新しいコミュニケーション圏の創出です。これにより、近隣地域を超えて人々がつながる可能性が生まれました。また、ケルノウ語はアイデンティティーの根拠となり、人々の自尊心の支えとなりました。ケルノウ語復興の主要団体が集まって出した「ケルノウ語のための戦略」(2004年)には「ケルノウ語使用はより強いコミュニティーおよび土地感覚(sense of place)とアイデンティティーを築くことを助ける手段としてみられている」とあります。これらが1.の社会的資源としての復興ケルノウ語です。

 さらに2.政治的資源として、ケルノウ語は地域の一体性、独自性、自主的な決定権の維持・獲得の論拠となっています。これまでほとんど独自性を認められず、隣のデヴォン州に併合される可能性がないともいえなかったコーンウォールの人々は、ケルノウ語を中心にみずからの自主性を訴えたのです。

 3.の経済的資源として、ケルノウ語は援助を獲得する論拠になっています。この地域は特別なものである、というブランド化です。観光産業としても、見慣れない表記や聞きなれないことばを前面に出すことで、観光地としての魅力を高めようとしています。


6. より広い文脈への示唆

 ここまでお話ししたケルノウ語の復興運動が、ほかの少数言語復興に示唆するところがないかを考えてみます。ケルノウ語の場合、復興に有利な条件がいくつかありました。たとえば、中世のものとはいえ、資料があったこと。運動の初期段階から、熱心な活動家が存在したこと、地域が比較的狭くて、学習者・活動家が会って話す機会が持ちやすかったこと、などです。それにもかかわらず、日常的な言語使用にはなかなか至ってはいません。ここからも「言語復興」が困難な企てであることがうかがえます。

 しかし、ごく一部ながら日常的な使用の場を創出したことは画期的だと言えます。言語復興に関して、言語社会学者ジョシュア・フィッシュマンは「家庭や地域で使われない言語は復興されたとは言えない。それは穴のあいたタイヤで走る車のようなものだ」と言いました。つまり家庭や地域で自然に継承されることがないから、常に(タイヤに空気を入れるように)新しく学習されないとならない、というわけです。これまでのところケルノウ語は常にタイヤに空気を入れながら走り続けているようなものです。しかし、それでもともかく、走り続けている。母語話者集団のない地域言語は不可能ではないのです。

 また、ケルノウ語の場合、すでにあった地域共同体の中で言語復興が起こったのではなく、言語を復興することで地域共同体ができあがっていった「市民活動としての言語運動」でした。そういう能動的な役割を言語が持っているということは、ほかの言語の復興運動を考えるときにも注目に値すると考えられます。一種の村おこし、地域おこしのときに言語をどう使うか、ということです。

 多数派の役割も大切です。コーンウォールの場合、ケルノウ語使用者はほんの一部です。しかしケルノウ語を話さない多数者もケルノウ語をポジティブにとらえています。実際には話さないけれど、こどもにケルトの名前をつける、建物にケルトの名前をつける、そういうことにも言語復興に肯定的な雰囲気をつくるうえで大変意味があると思います。

 さらに、ケルノウ語パートナーシップの役割が重要です。これはさきほどご紹介したように半官半民の組織で、公共の標識のケルノウ語表記推進や翻訳のアシスタンス、言語振興のプロジェクトへの支援などを担当しています。このように、地域に言語運動の相談窓口がある、ということは非常に重要です。こうしたケルノウ語の取り組みが、ほかの言語復興運動にさまざまなヒントとなればいいと考えています。

以上

(文責:事務局)