シリーズ「よみがえる ことばたち」7
「アイヌに生まれて」
● 2010年1月23日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス大学院棟342教室
● 話題提供:丸子美記子氏(関東ウタリ会会長)
講演要旨
アイヌ語から遠ざけられた子ども
私は両親共にアイヌの家系に生まれましたが、
母の夢は私をアイヌ民族文化・アイヌ語から隔離して「やまとなでしこ」を育てたいというものでした。何故かというと、アイヌへの差別が厳しい時代で、今も
北海道ではそうかもしれませんが、たまたま母方の祖父がアイヌ語を使ったということで権力機関につかまったということもあり、母はアイヌ語をほとんど口に
しない人でした。私達子どもについても、両親共にアイヌの家系に生まれて、アイヌ語が堪能で、アイヌ文化にも長けていてという子どもに育ててしまうと、自
分達以上に子どもたちが差別の対象になってしまうのではないか、と、私達子どもを守りたい一心でアイヌ語を覚える必要もないし、アイヌプリ(風習)を習う
必要もないし、と。ただ、子ども達に聞かれたくない会話―父は出会った人をみんな家につれて帰ってきて、食事を振舞うようなひとだったので、お金もないの
に、どうして連れてきた、みたいな会話などではアイヌ語を使っていました。でもふだんは父親がアイヌ語で言うと、母親は日本語で返すような不思議な夫婦で
した。ですからアイヌ語からは遠ざけられて育ったというのが本当のところです。
5歳で死に別れた父親が健在の頃は、民族を意識することもなかった。美幌という町で生まれて、小学校低学年までそこで育ったのですが、自分の親戚しか住
んでいない地域でした。ですから、アイヌということばを必要としないで住んでいた。たまに父親に連れられて町中に映画など見に行くと、そこは和人だらけの
場所でしたから、町はこういうところなんだ、と思っていました。自分達と違う顔のひとがいっぱいいるなぁ、と。父親は、出かけるときは、囲炉裏で、カムイ
ノミ(神様に祈りをささげる)をして、仕事の無事と留守宅の安全を祈り、仕事から帰るとまた、必ずカムイノミをして仕事が無事に終わった感謝、家族の無事
への感謝をささげているのを見てはいたのですが、ときどき自分の知らないことばを使うなぁと気付く程度で育ったというのが現実です。親戚が来て、父親と子
どもに聞かせたくない話をアイヌ語で始めることもあり、なに話しているの?と聞くと、大人の話を聞くもんじゃないと拳骨でコンと頭を押されたり・・・。で
もことばは分からなくても、悪口を言っているなというのは分かるんですよね。表情がみにくくなりますね。千葉大学の中川先生にアイヌ語を習っていて、初め
てお会いしたとき「丸子さん、アイヌ語でどんなことばを知っている?」と聞かれて、「私が知っているアイヌ語は口にできません」と言ったものです。
でも、アイヌ語が堪能だった上で日本語を覚えた年寄りと、日本語で育ってアイヌ語を習ったひとの発音の違いを聞き分ける耳は育ちました。昔の年寄りの発
音には殆ど濁音が無かったのです。昔の年寄りの話を聞くと、なつかしいな、と思うのですが、パ・ピ・ピュ の発音が苦手な日本語で育ってしまうと、正しい
アイヌ語の発音が出来ない。
なぜアイヌ語を習うようになったのか
あらためて考えるとどうしてかと自分でも思い
ますが、アイヌの踊りが大好きだった、踊りからアイヌの文化に入っていったというのが私の場合正しい言い方だと思います。両親ともにアイヌ語・アイヌ文化
を教えようとしなかった中で、唯一、姉妹として育てられた血のつながりの無い和人のお姉さんがいたのですが、その姉には父親が一生懸命アイヌ語を教えてい
たらしい。私は9人きょうだいの9番目で、記憶にないのですが、姉達から○○ちゃんには父親がアイヌ語を教えていたと聞いて、びっくりしました。なぜ、父
親は、姉妹として育てられてはいたけれど、顔つきも違う赤の他人に自分のことばを託したのだろう―その理由は、母が私にアイヌ語を教えなかった理由と同じ
なんですね。この顔で、アイヌ語が堪能で、というのはどう見ても差別の対象になる、でもどうしても自分の母語は残したかった父親は、どこから見てもアイヌ
ではない彼女にだから託せたのだな、と。わが子に託せない、託せば将来はいじめられる、でも自分のことばは残したい、だから、いじめの対象にならないその
娘に託さなくてならなかった。本来なら自分の父親からスムーズにことばを受け継げる環境にありながら、それができなかった時代背景にあった、その口惜し
さ。で、自分がアイヌ語を覚えようと思ったとき、今でこそ中川先生大好き、と言えますが、最初はめちゃくちゃ抵抗があった。なぜ!と。なぜ、私達からこと
ばも文化も奪った日本人から習わなきゃいけないんだろう、という口惜しさ。自分は父親から直接習える時代に生まれていたにも関わらず、それすら奪われて、
大人になって、なぜほとんど同年代の日本人である中川先生に習わなくてはいけないのか。アイヌ文化からわが子を遠ざけよう、遠ざけようとしてきた時代、明
治以来続いてきた日本政府の同化政策の中で、それをしなくては生きられなかった私達の口惜しさ。かたや中川先生はご自分が努力されて、ですが、大学を出て
学んで、ここまでアイヌ語を話せるようになれるのか。私達にとっては夢のまた夢の時代です。アイヌをつぶす方へ、つぶす方へ回りは動いていたのに、私達の
文化を奪い続けた日本人から、まだこうしてアイヌ語を習わなくてはいけないのか。その口惜しさ、ですね。学ぼうと思ったのは。
でもね。どうしても覚えられないんです。子どもの頃まわりのジジババが話していたのを聞いていましたから、なんとなくニュアンスはわかる。でも日常会話
は日本語だけで生きてきていますから、どうしても覚えられない。教室で学んで家に帰ってくるとじゃぁ、家族と会話して、習った日常会話の延長で居られるか
というと、家族は日本語ですよね。子ども達も日本語だけで育てていますから、単語のいくつかは覚えてくれますが、会話としては成立しない。ことばって、必
要だから話すわけで、アイヌ語で話す必要があるという機会が持てない、実は自分の血を分けたきょうだいでも、アイヌ語の単語をまぜた会話をしても無反応な
きょうだいもいる。きょうだいの一番上の姉と一番下である私は、アイヌ語やアイヌ文化に興味があるけれど、中間の、私が一番話したいきょうだいがまるっき
りアイヌの歌も踊りもことばにも興味がなくて、私は日本人として生きるのでいいわ、ということになると、やはりアイヌ語の単語を交えても、わからないこと
ばを使わないで、日本語で言って、ということになって、なかなか身につかない。授業で習った瞬間は、よし!これだけ覚えたぞ!と思うのだけど、帰りの電車
の中で、あれ?今日はなにを習ったんだっけ・・・と。年代的に私の脳みそは受け付けないのかしらと思うくらいですが、でも少しでも習いたいと思ってはいま
す。ただ、仕事の都合などで現実にはなかなか行けていません。
本州でも差別を受けた
自分から子ども達へ伝承することは無理でも、
少なくともそのきっかけにはなりたい。アイヌ語の話者がいっぱい生まれて欲しいと思います。アイヌと名乗ることもイヤだから、アイヌの踊りや刺繍やことば
など、それをひっくるめてアイヌの文化だと思いますが、それを遠ざけたい、というのが現実なんですね。今自らそこへ進んで入ってくるひともいますが、北海
道で差別を受けて育って、それを逃れるために本州へ移り住んだという側からすれば、アイヌと名乗ることすらイヤだというひとがたくさんいます。北海道では
アイヌというこの3文字が差別用語だという考え方があって、ウタリ(仲間)協会と改称したのが、去年からアイヌ協会にもどりましたが、その時も、なぜアイ
ヌにもどすのかという反対意見がいっぱいあったと聞きました。私は、今はアイヌと名乗っていますからアイヌ協会でいいと思いますが、本当のところ、私は差
別から逃れたい一心で本州へ移り住んできたのです。北海道の観光地で働いていました。その時、本州のひとってバカだなぁと思いました。だから本州へ行けば
楽だなぁって。本州から来る観光客は私がアイヌだって気がつかないんです。私に聞くんです、どこへいったらアイヌに会えるの?アイヌの人って今でも山で熊
と暮らしているの?って。そういうことを平気で、年代関係なく聞いてくるんですよね。アイヌ人って、日本語をしゃべれるの?とかって。そういう質問を受け
ると、なんて本州のひとってバカなんだろうと思ってしまうんですよ。北海道の人間は私を一目みれば見分けて、あ、いぬ が来たぞーとか、そういうことばを
かけてきましたから、私は日本全国どこへ行ってもそういう目にあうのが自分達アイヌ民族だと思っていましたから。ですから、そういう質問をしてくる観光客
はどこから来ているかといえば、本州ですから。本州に移り住めば、石つぶてを投げられることも無い、熊が歩いているとバカにされることもない。アイヌだっ
て言われないで住める、それは天国のように思えたのです。それが本州に住もうと思ったきっかけでした。アイヌと言われずにあぁ楽、と思っていたら、今度は
「おねえさん、日本語がうまいねぇ」とほめられるようになったんです。「どこでそこまで流暢に日本語を覚えたの?」って。
でも本心ではアイヌであることがいやではなかったのです。アイヌの踊りが大好きでしたから。本当に嫌な思いをしたとき、私の頭に浮かぶのは日本語ではな
く、アイヌ語のバカヤロウだったんです。両親は教えなかったけど、こどもは悪いことばから覚えますよね。だからバカヤロウを知っていた。本当に腹が立った
とき、アイヌ語のバカヤロウが浮かぶのです。人前では言えないアイヌ語ではなくて、人前で話せるアイヌ語を覚えたいなぁと思いました。何かを伝えようとす
るときに、ことばって大切で、特に感情を表そうとするときにはアイヌ語のほうがしっくり来る、ということがあって、自分自身を説明しやすい。そういうこと
もあるので、できればこういう話も、私はアイヌ語で全部話し、通訳で日本語や手話でやる、というのが夢です。とても大きな夢で、今はまだちょっとした挨拶
や自己紹介ができる程度なんですが、夢のまた夢であっても、それを持ち続けないと未来が開けないのではないかと思うのです。
(日本人がアイヌ語・アイヌ文化について話しているのを聞いたりすると)大切なことを話しているなとは思うのですが、アイヌがアイヌ語を自分のこどもに
教
えられない、そういう社会を作った側が、偉そうにしゃべっているんじゃねぇよ!という思いがどうしてもおなかの底にあって、でも、そう思いつつも、日本と
いう社会に生きていて多数者であるみなさん、アイヌ語でいえばシャモなんでしょうが、そういう多数者の応援がないと私達の活動はなにも先には進まないとい
う現実がある、そのジレンマがあります。アイヌ文化について、高飛車に出してくる和人は、どうしても私には近づけたくないな、という・・・。アイヌ語に堪
能な日本人はたくさんいる。でも、「自分達の言語」を習わなくちゃいけない立場からいうと、このひとからなら習える、でもコイツからは絶対習いたくない!
という先生も、やっぱりいるんです。でもそういうひとからでも習わないと習えない口惜しさ。だから、このことば村という集まりがどういう気持ちでこういう
ことをやっているのか、それを知りたいということもあって、今回お引き受けした、ということも本音ではありました。ことば村のキャラクターはどうして外国
の民族衣装ばっかりで、日本の先住民族はいないの?と思ったり。
子どもたちへの思い
母親自身、アイヌ語が話せるから、父親のアイ
ヌ語に日本語で応戦できたわけじゃないですか。私が母親になってから母親と、母親対母親みたいに話したことがあったのですが、母親は、祖父がアイヌ語を
しゃべったことで役人に捕まって牢屋に入れられて、持ち物も没収されてきた、という記憶からアイヌ語を拒絶した。聞けば何を言っているかわかるけど、日本
語で対応した、で、話さないうちに話し方を忘れた、と言っていました。69歳で亡くなったのですが、しゃべっていないとしゃべれなくなるって。それも口惜
しいな・・・と。父親が私たちに教えられなかった口惜しさもあったし、母親が自分の中で拒絶したという口惜しさもあったと思います。両方の口惜しさも理解
できるのですが、今度は自分がしゃべれないという別の口惜しさが生まれるわけじゃないですか。ひとことでもふたことでもいいから覚えて、子どもに教えられ
る親になりたいな、と思います。娘は高校を卒業するまで中川先生の授業につきあってくれましたが、卒業と同時に、ちょっとアイヌから離れて日本人として、
普通の女の子として生きてみたいといわれて、どうぞと。幼稚園のころから踊りも楽器のトンコリも教えました。高校まで、強制的に中川先生の授業にも連れて
行きました。でも友達と話していて、あー、やっぱり私はアイヌだと思うって。どんなに仲のいいクラスメイトと話していても、あー、このひとたちは日本人だ
と思うって。別にいじめとかけんかとかじゃなく、感覚として、やっぱり自分はアイヌだなと思うと娘に言われたんです。お母さんと付き合うのではなく、周り
の女の子と同じように普通に暮らしたいって。でも今では刺繍の展示会で、展示が大変だというと、じゃ、展示まではつきあうよ、と。おととしアイヌ・ウタリ
連絡会で「アイヌはここにいるよ」というタイトルで都内で講演と歌とか踊り、民族楽器のイベントをやったとき、舞台でいっしょにトンコリの演奏をしてくれ
ないかなぁと頼んだら、いいよ、と演奏してくれたりしています。
なぜ強制してまで、彼女を連れて行ったかというと、独身時代にはアイヌと名乗らなくても生きていけるのだけど、結婚するとなるとどうしても相手は日本人
の確率が高いじゃないですか。そうなると、子育てをするときに、ある程度基礎ベースの文化を身に着けていないと、自分の子どもを守れる母親にはなれないだ
ろうと思ったんです。将来結婚しようというときに、民族がからんで結婚の妨げになったりするかもしれない。連れ合いがいいよと言っても、その親族とかが、
なんであんなアイヌと、といわれるかもしれない。自分も丸子家に入るとき、親戚からなんで丸子の家にアイヌの血を入れるのかって。相手は私に惚れていた
し、なにより舅が私を気に入って、もし離婚しても自分の位牌は私に持っていて欲しいというくらいでしたから。でも、その親戚からは非難されましたし色んな
ことがありました。実際そういうことは、特に結婚などが関わってくると、今でもあります。そうなった時に、そういうくだらない(私はくだらないと思います
が)ことから自分を守れる力をつけさせたいなと思ったのです。なぜ私が今こんなことをしているかといえば、子ども達を守りたかったからです。
外国人あつかいされて、日本語がうまいね、といわれてもめんどくさくて、いちいち説明なんかしませんでした。説明して、えぇ?そんなひとがうちの近所に
いるの、なんていう人もいますから。そういうふうに過ごしてきたときもありました。でも、息子が外国人の子どもということでいじめにあったのです。「じゃ
ぱゆきの子」といういじめに。丁度今年三十歳になる息子が小学生のころ、ワイドショーでじゃぱゆきということばが氾濫したことがありました。息子が学校か
ら泣きながら帰ってきて「お母さんはじゃぱゆきなのー?」と聞くのです。私はテレビをあまり見ないし、特にワイドショーは苦手なので、そのことばを知りま
せんでした。「からゆき」ということばは知っているけど・・、と近所の奥さんに「じゃぱゆきってなに?」聞いたんです。すると「テレビを見れば分かるわ
よ」って。「外国人に間違われるのなら、東南アジア人じゃなくて白人に間違われるようだったらいいのにね」って。それはそれで、また、別に腹が立ちますけ
どね。
息子が外国人の子どもといじめられなかったら、アイヌの活動に取り組まなかったと思います。ことばも大事、とならなかったかもしれません。息子がいじめ
られなければ、踊りや刺繍だけを楽しんで、それでよかったのかもしれません。
アイヌについて教えないという問題
世の中理不尽だなぁと思いますよ。学校そのも
のが差別の場で、先生はいじめっ子の親分でしかなかったですから。アイヌを使って観光施設を開いている日本人にしても、アイヌは人寄せパンダで、従業員と
して欲しいけど、親身にはならない。使い捨てですよね。小ばかにしていました。
本州の人間はバカばっかりと私に思わせるほど、この国は本州の人間にアイヌの事を教えてこなかった。開拓以前からでもアイヌ民族にどういう仕打ちをして
きたかを知らない。ほんとうに世間でであう人達は、例えば作品展に来てくれたひとから「わざわざ北海道からいらしたのですか」と聞かれる。今でもアイヌは
北海道にしかいないと思っているのですね。極端な例ではおととしの作品展に来てくれた女性、28歳で都内在住とおっしゃってましたが、「すみません、アイ
ヌって国はどこにあるんですか?」って私に聞いてきたんです。「アイヌっていう国はもうないのよ」と答えると「えー、じゃ、難民なんですか?」って。「ア
イヌの国は昔はどこにあったと思う?あなたにもすぐ分かるところにあるのよ」「へぇ、どこですか?」「北海道よ」「やだ、おばさん、北海道は日本じゃない
ですか」と。「あのね、北海道はアイヌモシリだったのよ、昔はアイヌの国だったの。アイヌ民族や琉球民族を同化政策で日本に取り入れて文化もなにも奪っ
て、その実験台の成功例が北海道で、日本はその成功例を、太平洋戦争で色んな海外植民地で応用して、日本語を強制したり、日本人にしたりして。それで今で
も色んな国から謝罪しろっていわれているのは知っているかなぁ?」そうしたら「へぇ!」って。太平洋戦争の事も知らないのですからね。これは突飛な例では
なくて、普通なんですね。
アイヌ民族は日本の民族で、対等・平等な日本人だと広めてほしい
どうやってもどこに行っても私は日本人には見
られないんです。沖縄ですか?と聞かれることはありますが。いいえと答えると、じゃ、もしかしてアイヌ?と聞かれたことは今までに2回だけです。アイヌっ
て昔居たひとたちでしょ、と思うのが大多数です。警備員の仕事をしているのですが、忙しくなって車が詰まって、危険な状態になった時など、ダンベェ調で怒
鳴っている私に、「ほんとに日本語がうまいねぇ!」と言う。私はアイヌ民族だと言ってあるし、かれこれ7,8年もつきあってそういうことを言うか!と思い
ます。本当にアイヌのことを理解しようとしないひとが一杯居すぎるとウンザリします。だから、皆さん、ことばの勉強をした上でアイヌに関心を持っているみ
なさん、お願いだからアイヌ民族は日本の先住民族だということを、ひとりでもいいから広めていただきたいと思います。日本人は単一民族ではなく、日本語の
堪能なアイヌ民族もいるんだぞと言って欲しいなぁ、と。
参加者の感想・質問に答えて
■私はレラ・チセというアイヌ料理店でアルバイトをしているときに丸子さんに出会ったのですが、今日の話でその頃の丸子さんを思い出しました。質問です
が、差別に会いながら、それでもアイヌであることはイヤではなく、踊りが大好きだったと言われましたが、東京に出てきて、踊る機会はあったのですか?
丸子
東京に住むきっかけをくれたのは、今は亡き日川善次郎さん夫妻なのですが、北海道は冬場観光の仕事がない。東京・新宿に当時「蝦夷御殿」というアイ
ヌの踊りや楽器演奏を見せる店があって、そこに冬だけ踊り手として来ないかと誘ってくれたんです。ところが、ジジババの歌・踊りの横で手拍子をする役目し
かなかった。ここでもやっぱり人寄せパンダだったわけですね。独身時代は自分の部屋でテープを流してひとりで踊ったりはしましたが。それでも足りないとき
はディスコに行って踊ったり。
アイヌということで自殺を考えるほどでした・・・・。流氷の裂け目に落ちて死のうと思って、流氷の上を歩いていったら、漁師さんがみつけて、首根っこを
捕まえて岸にもどされて、死にそびれたり。いじめにあって、アイヌを否定するというより、いじめられている自分を否定したのですよね。自分という存在がい
けないんだと。
でも踊りが大好きだったから、その中のひとつのアイヌの踊りも大好きで、それがアイヌが大好きということに繋がったんだと今は思いますね。
結婚してから、関東ウタリ会に関わってから、それこそ沖縄までも踊りに行ったことはありますが。独身時代は北海道に帰らないとアイヌの踊りを踊る場はな
かった。北海道で観光地の踊りに参加させてくれというと、カネはやれねぇぞと地元の人に言われて。カネなんかいらないから踊らせてくれ、と言って。多分踊
りをやっていなかったら、アイヌのことは一切やってなかった、ただいじめられて、アイヌは嫌いといってひねくれていたかもしれない。
■1933年(昭和八年)釧路生まれなんですが、アイヌ語を学べる環境ではありませんでした。ずっと後に何人かの同僚とア
イヌ語を復興しようと語り合っ
て、千葉大をアイヌ語・アイヌ文化研究のセンターにしよう努力しましたが、それはある程度はできたのだと自負しています。
■私はことば村村長で人類学者、専門はアフリカなんですが、さきほどの「ひとりでもいいから、アイヌについて伝えてほし
い」ということ、それはひとりとい
わず、やります!質問ですが、ことばや踊りのほかに、娘さんにはアイヌ文化についてなにを教えられましたか。
丸子
先祖供養、通り道、峠を通るときの先祖供養ですね。お酒やたばこを持って、自分はだれだれの末裔でここを通らせてもらいます、という。母からは美幌
峠についてはここ、という場所でやるんだよと教わりました。それから、夢見の悪いときに、そこに捨てに行く。私は夢で誰かが亡くなるというような予知夢を
よく見ていた子でした。そういうとき、母はあわてて酒やたばこを持ってその場所へ行って、供養し、悪い夢は口に出すことで捨てるということをしていまし
た。私は北海道に帰った時にしかできないので、特に娘には集中してそのことを教えましたね。彼女の記憶に残っているかしら??ちょっと不安・・・。
それから子どもの頃に普通の料理と思って食べていた家の料理が大きくなって、あれ、あれはアイヌ料理だったんだ、と気付いて、その料理を今度は自分の家
庭
の料理として、あえてアイヌ料理とは言わずに娘に教えました。普通の女の子として生きたい娘にはちょっと抵抗があるかな、と思って、我が家の料理だと思え
ばいい、あとで気付くこともあるかもしれない、それでいいと思って。
■踊りの話はとても印象的でしたが、踊りのほかに、それに次ぐもの、支えになったものはなにかありますか。
丸子
踊りたい一心で17歳のころから刺繍を始めたんですよ。踊りの衣装の刺繍ですね。体が弱かったから、じっとさせておくことがこの子を守る道だと思っ
たのかどうか、残り毛糸とか、端切れはおもちゃで、針は自由に使わせてもらいましたから、そんな中で自分で刺繍した衣装で踊りたいな、と。踊りも、母親は
そんなものするな、といっていましたから、観光地に出かけて、そこで身につけたんですが、そこのおじさんが母親に「みよおばさん、あんたんとこのポンペは
跳ねるのうまいぞ」ってほめちゃったんですね。それでばれて、しこたま怒られたんですね。余計なものを覚えたって。タスケのジイにしても日川のジイにして
も、ちっちゃな私が踊りを盗み見てまで覚えて、楽しそうに踊っていることが嬉しかったんだと思います。母親としてはそういうところへは近づけないように身
に着けないようにしていたのに覚えちゃったのがショックで、めちゃくちゃ怒られました。ただ、それが後になって、観光地でのアルバイトになることがわかっ
て。母子家庭で貧しい家だったから、踊り子として一人前に日当がもらえる、そうなったときにお金が入ってくるほうに母親の喜びが代わってくれたんで、刺繍
を教えてくれたんです。そんなに踊りたいのなら、自分の着物は自分で作りなさい、ということばに変わりました。最初の着物は縫ってあげるから刺繍は自分で
しなさい、と。道東のアイヌの刺繍は糸刺繍が主だったのです。とてつもない時間がかかるのです。踊りをきっかけに、次に自分に自信を与えてくれる針仕事、
刺繍。母親から娘へ伝わる手仕事、女の文化の手仕事は直接母から習った。それが私の中では誇りです。母親から習えなくて、ほかの人から習ったというひとも
一杯居る、でも私は母親からじかに習った。そこが私の嬉しいことであり、自慢なことなんです。道内いろんな技法がある中で、これからの時代、母親からじか
にならったということは少なくなっています。私は母親から習い、娘にも伝えられる、ひとにも伝えられる。いろんな人のやりかたの違いを身につけて自分のス
タイルをつくればいい、そう思っています。
■美幌のお隣にある女満別の出身です。10歳ぐらい私の方が上でしょうか。加害者の立場にどっぷりつかっていたので、当時
は意識しませんでしたし、50年
もまえで記憶もはっきりしませんが、やっぱり自分は加害者だったのだろう、とそのことをもう一度一生懸命考えてみよう、と思います。
丸子
女満別空港で飛行機と人間が綱引きしたのを覚えていますか?エンジンをかけていたと思いますが、大きな飛行機と人間がウンウン言って綱引き、無駄な
(笑)綱引きをしているその光景をはっきり覚えていますよ。
■アイヌとは全く接点が無く過ごしてきました。小学校時代、「コタン」のなんとか、というお話を読んだこと、大学時代言語
学を専攻していたので、将来役立
つかと思ってアイヌ語辞典を買って持っていること、くらいです。この年になって、お話しを聞き、衝撃でした。これから自分でどう考えていけるか、と思って
います。
■私も母親が外国人なので、よく日本語がうまいとほめられる、似たような経験をしています。質問ですが、「先住民の権利宣
言」、国会決議などのあとで、な
にか変化があるか、ことばとか文化についてどのような進展がありそうか、そこらへんをうかがいたい。
丸子
現実はまだ何も変わっていません。宣言のあと、麻生内閣で有識者懇談会が生まれて、去年の7月にその答申が出て、国の中にアイヌ民族も入れて色んな
施策を考えようという話が出ていますが、現時点では何も変わっていません。去年の12月25日に閣議決定でアイヌ民族も含めた施策室のメンバーが官房長官
から記者発表があった。メンバーにたまたま私も入っているのですが、初会合が今月開かれる予定になっています。そういうニュースが流れたとか、「その時歴
史は動いた」に私の顔が出た(笑)ということはありますが、民族全体として何か変わったかというと、まだ、変わるとしてもこれからです。これからの話し合
いの中で、こういうことが生まれて欲しいという自分達の思いと、それを実行しましょうという国の思いが一致するかどうかもこれからなので。ただ、自分がア
イヌに生まれて、幸せな環境では育っていないという現実、それを子どもには味合わせたくないという一心で、本州にくればのびのび子育てできると思って本州
に来たのだけれど、こどもは違う差別を受けて、それも、アイヌのことを知らないからそういう差別を受けたという、差別じゃないですか、半分は。本州でも子
ども達を守れなかった。その口惜しさ。それを孫の代まで続けたくないという思いがあるんですよね。
今現在で言えば、アイヌへの施策は北海道限定なんですよ。本州にいる私達はアイヌ民族でありながらアイヌ民族としての権利はなにも有していないんです。
文
化振興法から生まれた財団も北海道にあって、こちらに住む私達が何か活動するために北海道へ行きたいと申請しても、それはできない、今現在は。ですから、
北海道に居ようが、本州、沖縄に居ようが、どこに居ようが、差別されることだけは平等で、権利は北海道一辺倒という今の現実を見て、どこに居ようがアイヌ
はアイヌなんだ、等しくアイヌなんだという権利を私達も欲しい。私達のことを本当に正しく、この国の国民に理解してもらわなくてはならない。風貌が日本人
離れしてるけど、もしかして、アイヌかしら、という発想が自然に日本人の中にできるように、アイヌなの?と普通に会話できる日本人が一杯生まれてほしい。
名乗っても名乗らなくても関係なくなるのが一番なのですが、アイヌであることを隠してくらしているアイヌが一杯居る、私はアイヌですと言ってアイヌとして
活動している、しあわせなアイヌなのかもしれないと首都圏に住んでから思うようになりました。
北海道で飲み会で大きな声で話していると、頼むからアイヌアイヌと連呼しないでくれと。それくらい北海道ではアイヌがタブーとされていた現実がありま
す。
本州ではアイヌのアの字すら知らない。そのギャップをなくしたい。アイヌについて正しく知って、私があちこちで涙を流して辛い過去のことを話さなくてもす
むようになってほしい、それを願っていますね。
■歴史とか言語の問題には年をとってから興味を持って、アイヌ語も習ったのですが、動詞の活用も英語なんかとは全然違っ
て、動詞の中に目的語代名詞が入っ
ていたり、動詞の中に主語がわかるようなものが入っていたり、想像を絶する言語だなぁと思っていたのです。アメリカでも黒人差別があったりして、いろいろ
の考えがありながら、でも人権に向かって動いていて、日本はどうも動きが鈍いのではないか、と。今日の話をうかがっていて、言語、民族、国家などを本だけ
で考えながら読んでいたのが、生身の人間から伝わってきたと感じて、私はこの会に来させてもらって本当によかったと思っています。ありがとうございまし
た。
■少数話者言語の言語維持に関する研究や活動をしていて、人間にとってなぜことばが大事なのかということを考えるのです
が、今日のお話をお聞きできてよかったと思います。これから自分がどのように活動していくのか、ということについて改めてよく考
えないといけない、と思いました。
■兵庫県から来ました。出張で来て、ネットでこういう会があると知って、ことばについて興味があるので参加しました。アイ
ヌ語についてのよもやま話なのか
な、と思ってきたのですが、とんでもない誤解で、こんなに深い重いお話からうかがって、ほんとによかったと思います。幼稚園のころなんですが、アイヌの親
子連れが幼稚園に来てくれて、唄ったり踊ったりしてくれたのを思い出したのですが、そのとき、そばによるとなんか圧倒されるような怖い感じを受けたのを思
い出しました。
丸子
もしかしたら、たわわな髭とか、あったのかもしれませんね。
■これを機会に、単なることばへの興味だけでなしに、もっともっと深いところを勉強していかなくてはと思いました。ありがとうございます。
■私は遺伝の研究者で特に生物の進化を研究しているのですが、言語の進化と生物の進化とパラレルなところがあって、世界中
の言語について勉強しているので
すが、そのひとつとしてアイヌ語についても勉強しているのです。
先ほどのお話の中で、東京都の職員の話が出ましたが、その人を責めることができない、僕は38なんですが、学校教育の中でアイヌについて習ったことが全
く
無いんですね。東京で育ったのですが、本州のひとは大体そういう問題が存在することを知らないという状況なんじゃないかと思うわけです。そういう歴史を知
ることはもちろん大事ですが、一方で、未来、というか、例えばアイヌの若い人達が文化を伝えていこうと、差別を乗り越えて、アイヌの文化がかっこいいもの
だという。伝統文化そのものではなくてそれをアレンジして若者をひきつけていく、そういう活動もあったらいいのじゃないかなと。
丸子
そういう活動をしている人達もいます。でも、アイヌに関わらず、世界中そうだと思うんですが、伝統は伝統として身につけているからこそ、それをアレ
ンジしていけるのだと思うんです。まずは自分の民族の文化を誇れるからこそ、それをアレンジして世界にどう?と見せていくのは大いにいいと思う。首都圏で
も、北海道でもそういう活動は生まれてきています。
学校教育の話しが出ましたが、まず授業ではアイヌについて取り上げていません。自分が義務教育の中、9年間の中でほんとに1,2分でしたよ。昔アイヌが
いました、と過去形にされて、すみません、私は今でもここにいるんですけど、と言ったら、先生は生意気なこと言うんじゃない、と分厚い教科書の角で私の頭
をたたきました。
本州の人間はバカだと思ったといいましたが、バカじゃない、無知なんですね。30年前となんら変わっていない。子どもの中2の英語の教科書に、北海道に
行ってアイヌの踊りを見た、ということが書いてある、アイヌについてふれたのはそれだけです。娘の担任が「君、アイヌって知ってる?」と娘に聞き、娘が
「知っているよ、だって私アイヌだもの」と答えた。そのことに担任はすごく感動して家庭訪問のときにしゃべっていましたが。そういう関心のある先生でも、
授業の中でアイヌを取り上げることは一切ない。
ただ、知らなかったですよとあんまり得意げに言われると、じゃぁ、知ろうとする努力をしろよ、という反発も差別された側には生まれてくる。この悲しい連
鎖
をどこかで断ち切って、本当に対等に、平等になりたいですよね。この国の国民として登録されてしまっているんですからね、アイヌも!人口比率では少数者
で、だから多数決では負けちゃうわ、という現実の悲しさ。それをなんとかしたいな、と。だからこれから始まる会議にも訴えたいと思っているのです。
なんでアイヌに産んだんだよ、って母親に言って泣かしたことがあるんです。あんたが私をアイヌに産まなければこんないじめにもあわないって。天に吐いた
自分のツバは自分に帰ってくる、息子に私がそれを言われましたよ。じゃぱゆきの子っていじめられたときに、あんたはじゃぱゆきの子じゃない、アイヌの子だ
よって言ったら、じゃぱゆきだろうがアイヌだろうがどっちでもいい、お母さんの子どもに産まれなかったらこんな目にあわなかったって。子どもにとって両親
は大好きな存在ですよ、特に小さいときは母親ほど大切な存在はない、その母親にそういうことを言わなければならない悲しい子どもをなくしたいし、言われる
母親の苦しみ、自分もそれを言った過去を持っていて、自分の母親の苦しみもその時わかったのですが、をなくしたい。どうしても私達の事を正しく、正しく、
この国の中に浸透させなくては、この悲しさと口惜しさはなくならない。あの民族は嫌いだというひとがいるのは結構。でも、アイヌだというだけで理不尽に、
道を歩いているだけで石をぶつけられたり、あ いぬ が来たといわれたり、私達の何処がいぬに見えます?熊のくせに、とか。反論しようものなら、当時の教
員は生意気をいうんじゃない、という理不尽な権力。そういうものを残したくない。
習わなかった、のは現実です。でも、授業で教えないのがおかしい。そういう方向に持っていっていただきたいですね。
■ことばが無い、というか。なにか言うと涙が出てきそうで・・。こどもがことばを覚える、それは自分を気にかけてくれるひ
と、自分を愛してくれるひとのこ
とばを覚える、それが本当。そして、そのことばを愛しているこどもに伝える。それをもぎとられてしまった。そういう時代というか、日本の政策というか、そ
れができなかった。本当に辛かったと思います。
■今東京で大学で言語学を勉強しています。僕は沖縄で18まで育ちました。差別の話をうかがって、今東京で、僕の世代だ
と、沖縄出身だというと、逆に、すごいとかいいなぁとか、言われるんですけど、沖縄の歴史を勉強したり、おじいちゃんお
ばあちゃんの話を聞くと、やっぱり昔は本土に行って差別があったと。通じるところがあるなぁと。沖縄にいると北海道はすごく遠い。今すごく多様化といわれ
る時代ですが、アイヌにしても沖縄にしてもやまと民族と、どういう歴史をたどってきたのか、みんなが共有していくものだと思いました。
■遅刻して質疑応答のところから参加したのですが、みなさんの話を聞いて、本当に自分の無知を知った、というか。自分の無
知が、いかにひとを傷つけてしま
うのか、自分が勉強をはじめて、気づき始めてはいると思いますが、やはり無神経なことを言ってしまうのではないか。私はヨーロッパの少数言語政策について
研究しているのですが、日本の中の盲点というか、それを感じさせられました。質疑応答を聞くだけで、はっとさせられる点がたくさんありました。
■ことわざを研究しています。大学の授業を一こま持っていて、前期に沖縄のことわざをとりあげたら、南のほうは分かったか
ら今度は北の方を、という学生の
リクエストがありまして・・・。私は北海道出身ですがアイヌについてあまり知らなかったので夏に少し勉強したりしまして。質問ですが、こどものころ、お父
さんお母さん、近所のお年寄りからよく言われて、印象に残っていることばにはどんなものがありますか。単語というより中身として、ですね。
丸子
カムイノミのときなど、男性陣が火の前に座って、その後ろに女性陣が連なりますよね。当然目上から順番に座っていきます。「一分でも一日でも、この
人が先にうまれているんじゃないかと思ったらその人を前に出しなさい。自分は後ろにさがりなさい」と言われました。こどもの時は母親の横に座らせたり、後
ろに座らせたりしてくれましたけど、刺繍をはじめたころ、かな、うしろへ行けと言われました。これは一人前になったということなのでしょうね。
また、これは教えられたわけではないのですが、人の家を訪ねるときに、ドアをたたく前に、せきばらいする。ひとが近付いていますよという合図なんです
ね。
それがマナーなんです。東京でやると偉そうに、となるので、やりませんけど。それと鼻の下を人差し指ですっとなでる。アイヌの女性のありがとうございま
す、というようなときのしぐさなんです。母親は私にやまとなでしこになれと言っていたけど、結構自分ではアイヌプリをしていたじゃないと思いますねぇ。
■札幌出身です。最初はアイヌの歴史を勉強して、今は口承文学を研究しています。今日のお話にも再三出てきたように、北海
道ですら、アイヌについて公的な
教育では教わらないのです。アイヌということばを始めて聞いたのは、小学校3年生の社会の授業で先生が北海道にはアイヌという人達がいて、と話したときで
す。自分の経験としてはその前もあともアイヌに出会ったことが無くて、そういうとアイヌの方に本当は出会っていたんだよって言われますけど。感覚として
は、もともと北海道に住んでいて、今でもどこかにいるはずなのに、目には見えてこない・・・そういう状況自体に疑問を抱いていました。地名にはカタカナの
アイヌのことばがたくさんありますし、観光地にいけばアイヌもどきのおみやげが積まれているし、伝説も碑などになって建てられている。そういう痕跡だけ
で、実際の人間が見えてこない。出会えてこない。そこが出発点です。現在はふたつの大学で非常勤で歴史とか文化についてお話する機会を持っているのです
が、大学3,4年の学生は今日のお話のとおり、教えられてこなかったのだから、アイヌについては知らないのはあたりまえと思っている。他人の問題ではなく
て、自分の問題だということを考えていまして、教えられなかったということ自体が日本が歴史的に持っている問題、現代の社会問題であって、その渦中にあな
た達がいるんですよ、というと急にシンと静まる。知らないということが自分の中に内在する社会問題だというと結構伝わる実感があります。ひとりでも多くに
アイヌの事を伝えて欲しいということばが印象に残って、私もがんばろうと思いました。
質問ですが、アイヌの口承文学を読むときと、和人に伝わる伝説とかを読むときと、丸子さんに伝わるものに違いがありますか。
丸子
ユカラなどを読んだときと桃太郎さんを読んだときの違い、ですか?桃太郎さんのほうが付き合いが長いんですよ。アイヌのサコロベなんかは年寄りと
いっしょにいるときに流れていたのかもしれないけれど、聞いてはいなかった。絵本の出会いはこぶとりじいさんなんですよ。しつこくしつこくそれを読んで。
サコロベなどには教訓が詰まっている。なんでこんなに理屈っぽいのかな、と。アイヌそのものが理屈っぽい民族なんだと、アイヌ語を学んだときに思いまし
た。「見る」ということでも、ばくぜんと見ているかその対象を見ているかでことばが違う。「食べる?」でもひとりに聞いたのか、全体に聞いたのか、使い分
ける。ことばを学んでしみじみ思いましたね、アイヌってなんて理屈っぽい民族なんだなぁ、こどものときに母親がお前は小理屈をこねると言っていたのは、私
がアイヌである証拠なんだ、と。(笑)
お話は尽きないのですが、時間になりましたので、これで終了にしたいと思います。本当にありがとうございました。
以上
(文責:事務局)
|