「故国を逃れて日本で暮らす ということ」
● 2010年12月4日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス第1校舎110教室
● 話題提供:タン タイ 氏
私は1965年、ビルマのヤングンで生まれました。父は公務員でした。ビルマは1974年から社会主義の国になり、私は物心つくころからその中で育ったわけです。高校卒業後、父のつてで公務員になり、働きながら通信制大学を卒業しました。しかし、1988年8月に学生たちのデモに端を発した民主化運動が2週間続き、私はそれに参加したことで1989年軍事政権が誕生して以来、職場での昇進は止められてしまいました。
軍事政権は民主化運動に参加した私のような人々に、二度とそういう行動はとらないと誓約書を書かせ、1週間に一度は集会があり、そのたびに民主化運動について非難されて周囲から差別的な態度をとられたりしました。1990年に総選挙が行われ、私の投票したアウンサン・スーチーさんが勝利したにも関わらず、結果は無視されました。
私はこの国に居ても自分の未来がないと考え、親戚のいるアメリカへ行くことにしました。公務員には禁じられているパスポートを内緒で取り、飛行機のチケットを用意して、いざ出発という時点でアメリカの外国人入国に関する方針が変わったことで、アメリカへ行けなくなってしまいました。私はせっかく獲得した貴重なパスポートを無駄にしたくなかった。そこで、やはり親戚のいる日本へ行こうと、1991年に来日したのです。4月のゴールデンウィークの頃でした。
私はビルマにいるときから、日本語を学んでいました。ですから日本に来てもことばに不自由がなかったのです。その点で、私はとてもよかったと思います。たくさんの日本の友人が私を支えてくれました。そのころに詠んだ俳句「いつの日か わが故郷へ 春つれて」は先生に褒められました。
清掃員などをして働きながら在日ビルマ民主化組織に参加し、民主化運動を支える活動をしてきました。世界中にいるビルマ民主化活動家が日本に来たときに、私の家に泊めたりしていました。そういう活動を通して、次第に私が本国政府から監視されているとわかりました。偶然、ひさしぶりに再会した友人から、そういう活動をやめろとひとこと言われたり、ビルマの実家からかかってきた電話で、泊まった活動家の名前を出した瞬間に回線が切られたり、ということがありました。
オーバーステイになりながらも、1996年にはビルマから呼び寄せた女性と結婚し、1997年に日本政府に難民認定を申請しました。オーバーステイでも婚姻届は出せるし、私の場合は保険にも入れました。
申し上げておきたいのは、難民というと、困っている人々というイメージがありますね。たとえば最近タイとビルマの国境近くのカレン民族などの難民を日本政府が受け入れました。彼らは家を焼かれ、家財道具を失って、難民キャンプにいた人々で、実際困っている人々です。しかし、私のような人間は困っているわけではありません。ちゃんと生活していけます。しかし、本国には帰れない。帰るとどうなるかわかりません。そういう意味で難民申請をしたのです。
2度の申請の結果、不認定となり、その処分に対する不服の裁判を集団で起こしました。日本のビルマ弁護団が支援してくれていた、その裁判中にもかかわらず、妻も私も2004年12月に入国管理局に収容されてしまいました。いつ解放されるかわからない状況だったのですが、日本の友人たちは毎日手紙をくれ、しょっちゅう面会に来てくれました。幸いに翌年2月に解放され、5月に特別在留資格を与えられたのです。
現在は法廷での通訳や翻訳、グラフィックデザイン、NHKラジオ日本のビルマ語短波放送のアナウンスなどをしながらビルマ民主化の応援活動をしています。そのひとつ「チンバウン会」はビルマ料理に欠かせない野菜、チンバウンを山梨で育て、売って得たお金をタイ・ビルマ国境の難民キャンプ、病院、学校に送っています。私はビルマに入れませんが、タイには時々出かけて現地支援をしております。
私は在日ビルマ人の中では、かなり特殊な例だと思いますが、これまでのことをお話ししました。
Q 社会主義の中で育って、それ以外を知らないとおっしゃいましたが、なぜ「民主化」という考えを持つようになったのでしょうか?
A 最初から「民主主義」を目指したわけではありません。ただ、この政府のやりかたはだめだということは分かっているわけです。で、情報は完全にコントロールされていますが、BBCやVOAのビルマ語放送は聞くことができます。公務員が聞いてはならないことになっていますが。そこから、別のやりかたがあるらしい、どういうものかははっきり分からなくても、ともかく、「今のやりかたとは違う方法」ということで「民主化」を言うようになったのだと思います。
Q 日本に居ると、社会主義というものが実感としてよくわかりません。どういう感じなのでしょうか?
A 全てに許可がいる、しかも賄賂が必要ということですね。きちんとした法システムが働かない。ですから、国を頼れないと感じる。いたるところにスパイがいますから、人も頼れない、そういう不安が常にあります。
Q ビルマから普通にパスポートを持って来日する人もいますね。そういう人とのつきあいはどうしているのですか?
A つきあわないわけではありませんが、私たちはビルマ大使館前でデモをする側です。先方はなるべく関わらないようにしています。
Q 入国管理局に収監された時はどんな生活だったのですか?
A 品川の入管は新しい建物で、エアコンもあるし、非常に快適に過ごせました。私は10人部屋にイラン人、ベトナム人、中国人、カンボジア人など様々なひとといっしょに生活していました。食事もきちんと出てきました。入所して1日2日は落ち込んでいましたが、次第に楽しい気分になって過ごすことができました。本職のマジシャンもいるし・・・。(笑)みな日本語で話します。あるベトナム人は、日本語があまりできなかったのですが、とても人にやさしくて、いろいろ気遣ってくれる。いつも笑顔で接してくれる。でも夜中にはずっと起きたまま、じっと考え込んでいましたね。
妻は女性のフロアにいたので、会えませんでした。一ヶ月たったら会えるということを聞いたので会いたいと申し出たら、なんで?と聞かれて。夫婦ですからいろいろ話したいと言っても通じない。許可できないというのです。ですから、許可しないのなら、許可しないでください、でも毎日申請しますから、と言いました。そうしたら、一度だけ10分間会えるようになりましたけどね。
Q 日本で生まれたビルマ人もいるわけですね?
A 今は一万人くらいの在日ビルマ人がいますが、大半は学生だと思います。少ないですが、ビルマ人夫婦の間で日本に生まれた子どもの場合、親よりも日本語が上手になります。そのうち、ビルマ語を話したがらなくなる、母国を嫌うようになる場合もあります。それが非常に問題です。
Q タン タイさんは日本語がはじめから使えて、それがとても幸いした、とおっしゃっていましたが、日本語を学べるしくみというのはあるのでしょうか?
A あることはあるようです。地方自治体などで教えていますが、ことばができないと、出来る仕事が限られます。皿洗いとか夜間の仕事とか、ともかく暮らしていくためには長時間働かなければならない。学校へ通う時間がないのです。
以上
(文責:事務局)
来日した外国人が日本語を学びやすくする仕組みを、どう作ったらいいのか、最後に考えさせられました。若い参加者が多かった今回のサロン、現代日本とかけ離れた社会主義・軍事政権下の日常に、あらためて感じるところがあったようです。(事務局)
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