地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2012・6月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「金子亨先生を偲ぶ」


● 2012年6月9日(土)午後2時30分-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎441教室
● 話題提供:中川裕先生(千葉大学)
● 司会:井上逸兵(慶應義塾大学・ことば村副村長)


中川裕先生


講演要旨

 千葉大学の中川です。「金子亨先生を偲ぶ」というタイトルで話をせよ、とのことなので、今日はアカデミックな話というより、エピソード集ということでお話することになると思います。私は千葉大学でいっしょにユーラシア言語文化論という講座をやっていたことで、金子先生とつながりがありましたので、千葉大学における金子先生の人となりを中心にお話したいと思います。


千葉大学以前の足跡―アイヌとの関わり

 まず、お配りした年表―金子亨先生の足跡にそってお話しようと思います。先生は1933年9月3日、北海道釧路市でお生まれになった。これがその後の、晩年にいたるまでの先生の活動の動機になったことだと言えます。というのは、この釧路の金子先生の生家は、何を扱っていたのかは忘れちゃったのですが大きな問屋さんで、先生はそこの御曹司でした。そこに、床ヌプリという有名なアイヌの彫刻家が今も活動中ですが、そのお母さんの床タミさん―このひとも有名な方なのですが―この床タミさんが、金子先生の子供の頃家政婦をしていた。つまり金子先生は子ども時代に床さんに世話になっていたということなのです。先生は晩年に床さんと再会を果たすのですが、「釧路の金子の家の息子だ」と言ったら「あぁ、そうかぁ」と思い出したそうです。ということで、金子先生は物心ついたときにすでにアイヌと深い関わりを持っていた。ここから先は本当かどうかわからないのですが、初恋の彼女がアイヌ人だった、で、ふられちゃった、ということもあったということで、最初っからアイヌに関しては深い思い入れがあった。
 釧路にはもちろん、アイヌ民族の血を引く人たちが数多く住んでいますが、北海道のアイヌとひとくちに言っても、地域によって性格とか気性とかがそれぞれ違うので、釧路の人たちは勇猛、かつ和人になびかない人たちとして知られている。金子先生はいわば、開拓民の中で成功した家柄に生まれている訳ですから、そこでの彼の葛藤というのはいろいろその後の彼の人生に、影―影じゃないな、光を落している。
 釧路湖陵高校を卒業しまして、57年に外語大に入りました。その時にもエピソードがあります。徳永康元先生、ハンガリー語の大家ですね、日本のハンガリー語の草分け的な先生ですが、その徳永先生が当時外語大でロシア語の担当だった。金子先生は受験の前に徳永先生のところへ行って、ロシア語をやりたいと言った。すると徳永先生はロシア語では食えないからドイツ語をしなさい、と言われたのだそうです。そこで、ドイツ語科を受けることにした。金子先生はドイツ語の専門家として知られていますが、実は、本当にやりたかったのはロシア語だった。それをよく言っていました。後になるとむしろロシア語―先生はロシア語も非常に堪能でしたから―の文献を熱心に読んでいました。彼にとって、アイヌ、ロシアというのは、ただ単に知的興味からやろうと思っていたというレベルではなく、もっと深く、最初からそれに思い入れがあった。それにも関わらずドイツ語の道に進むことになった。それが後々の活動に関係してきます。
 その後、極東書店という本屋に入社し、そのあとに北海道学芸大学(現北海道教育大学)の釧路分校の非常勤講師になります。故郷の大学の非常勤講師から助手、という流れで研究者の道を歩むわけです。そのあと、岩手大学学芸部講師になりますが、この岩手大学も彼にとって大変印象深かったらしく、時々なんの意味も無く、岩手弁を使うのですね。学生がわからんという顔をすると、ほくそえんでいる。そういう遊びをしょっちゅうやっていました。
 外語大のころのことだと思いますが、当時60年安保ですね、その闘争に深くかかわっていく。それも彼の自慢話のひとつとしてよく語られるのですが、デモをやって捕まって、本富士署に拘留された。何十回も聴きました(笑)。勲章ですね。あと、栗原小巻と肩を組んでデモをやった、とか。かれにとって学生運動というのは、当時の多くの人がそうだったかもしれませんが、青春の甘い思い出なんですね。
 そのように金子先生にも学生運動に傾倒した時代があったわけですが、そこにはもともと、アイヌを侵略した側の一員だったということ―太宰治のようにと言ってもいいかもしれません―なにか罪悪感のようなものがアイヌに対してずっとあったのではないか。学生運動に傾倒していったのも、それをなんとか自分の中で形にして解決していきたいという思いがあって、その思いがその後、我々の現在いるような講座を作っていく動機になったのではないかと思います。


千葉大学からマンハイムへ

 68年に千葉大に入って独文教室に配属された後、フンボルト財団講師給費生としてシュトゥットガルト大学言語学研究所に留学し、生成文法に遭遇することになります。いったん帰ってきて、日本の生成文法研究の比較的早い段階で『生成変形文法入門』(白水社)という本を出します。実は私はなぜか一度もこの本を見せてもらったことがない。ただ、彼は初期の段階から生成文法に深い関心を持っていた、熟知していたということは確かです。しかし、生成文法を批判もしていましたので、この生成文法入門の本を書いたことは余り彼の勲章にはならなかったのでしょう。そういう気がします。
 1972年にマンハイムのドイツ語研究所で「日独語対照研究」を指導するというので、政府からドイツに派遣されます。いつ帰ってきたのかというと1980年、8年間もドイツに行ったきりなんですね。千葉大学の教員の資格のまま派遣されて8年間帰ってこなかった。今だとほとんど考えられない話ですが、当時はありえたのですね。公的な派遣なので、千葉大から給与が払われていたのですが、だんだん年月がたつにつれて減額されていくんだそうです。千葉大で授業やってないんですからね。でも、ゼロにはならないのだそうで、年金とか共済の費用を支払うだけの分は給与として支給されなくてはならないということで、それ以上は下がらない。最低限は払われてた。そういう状態で8年後に帰ってきました。


文学基礎論の開講準備~私と金子先生の出会い

 ここでひとくぎりです。ここからは千葉大に戻ってきてからの話になります。まだ、私は金子先生と出会っていません。80年にドイツから戻ってくる前、1976年に早稲田大学に北方言語文化研究会という会―北方研と略称で呼んでいましたが―が、早稲田大学の田村すゞ子さんというアイヌ語の専門家、それから桜井清彦さんとか菊池徹夫さんとかいった考古学関係の先生方によって、立ちあげられました。このころは金子先生はまだドイツだったので、この会には関わっていなかったのですが、私は、76年当時学部の4年生で、その立ち上げの直後から、ただ聴きに行くだけじゃなくて、お手伝いの学生という雰囲気で月に一度の定例研究会の準備やその後の懇親会の支度とかをやっていました。
 北方研がスタートして4年くらいしてから、金子先生が日本に帰ってくるわけですが、そのときにちょうど千葉大学では人文学部を改組して文学部と法経学部に分ける、という動きが起こっていた。金子先生は文学部立ちあげに関わって、できあがったと殆ど同じ時期に文学部教授になったわけです。しかし、文学部を新しく作るにあたって文学科ドイツ語ドイツ文学講座というのが出来るんですが、それまで金子先生はドイツ語学が専門だったのに、そちらには入りませんでした。その代り新しい講座をひとつ作っちゃった。それがそこに書いてある文学基礎論という講座で、文学の基礎をやるという講座ですね。そこにもうひとり志部昭平先生という方が加わります。志部先生は中期朝鮮語、朝鮮語の古いほうの研究者なんですけども、実は非常に多彩な方で、朝鮮語学だけでなく卒論は満州語について書いたという話で、トゥングース語学に非常に造詣が深い方ですね。つまりただの朝鮮語の専門家ではない。そこで金子先生が志部先生を引っこ抜いた。トゥングース語をやっているということが重要なポイントだったんだろうと思います。この方も言語学者ですから、言語学の専門家が二人、この文学基礎論の専任になったわけですね。じゃぁ、文学の方はどうなっているのかというと、仏文とか独文の先生が兼担でやるという形になっている。専任ふたりはどういうわけか言語学の専門、という格好になっていたんですね。

 さてそこで、3人目のポストが空いているので、なんとかしようということになって、目をつけたのがコイツ(中川先生ご自身の写真を指して)だったんですね(笑)。なぜ、コイツに目をつけたのかというと、さっきの、早稲田大学の北方研でして、私は北方研で定例会をやるたんびに、うろうろばたばたしていたわけです。そこでアイヌ語について発表もしたりしていました。その北方研に、いつのころからか分かりませんが、金子先生と志部先生が来て見ていたらしいんですね。で、毎回懇親会というのがありまして、早稲田大学の内外で11時ごろまでやっていました。そこに来ていれば間違いなく顔を覚えているのですが、どういうわけかふたりとも懇親会には来ていなくて、私は金子先生の顔も知らなかったんです。それがある日、突如として電話がかかってきました。要するに、なんで私なのかというと、アイヌ語の専門の奴をいれようと考えたわけですね。なぜアイヌ語かというと、先ほどの話がおそらく一番深く関係していて、彼のアイヌに対する思いは子どもの時から強かった。それで、自分が人事をコントロールできる状況になったら、アイヌ語関係者を入れようと、どうもハナから考えていたらしい。で、トゥングース語をやっている志部先生とアイヌ語をやっている私とで、日本の北方の少数言語の研究のセンターみたいなものを、この文学基礎論で作ってしまおうという、非常に乱暴なことを考えたんですね。
 で、ある日、どこに電話がかかってきたかというと、どうやって調べたんですかね、そこにおられる峰岸先生と同期の、今や有名な町田健先生、私の1年後輩なんですが、その町田先生がフランスに2年ほど留学するので、借りていた家の留守番をしてくれ。家具が痛まないように風通しをするためにそこに住んでいてくれ。家賃も彼の方から送ってくるので払っておいてくれ。という話だったんです。で、その町田先生の家で、二日酔いで朝、寝てたんですね。そこへ電話がかかってきまして、大概だったら私は寝起きが非常にいいので電話がかかってきたら取りますし、それで起きちゃうのですが、その時はだいぶ飲んでいたので、なんか全然知らない人から電話がかかってきた、で、千葉ナントカ大に来ませんか、という。はぁ、わかりましたとか言って切って、そのまままた寝ちゃった。で、起きたら、いったいどこの誰からかかって来たのか分からない。チバダイと言っていたけど、まさか千葉大じゃあるまい、と。千葉商科大とかそういうところから、英語の非常勤をやれ、とかそういう話だったのかなぁ、と思って、ともかく、誰からかかってきたか分からないから、かけ直そうにもどこにかけ直していいか分からないわけですね。ということで、ま、いいやとほっぽらかしておいたら、しばらくしたらまた電話がかかってきまして、金子先生だということがわかったわけです。
 金子先生と志部先生が、まず最初にちょっと会って話がしたいということで、その時私は東大の言語学研究室の助手だったので、本郷で仕事をしていたのですが、本郷まで学部長を連れて行くからそこでちょっと話をしましょう、と言われたんですね。学部長と就職の話をするっていうんで、私は背広にネクタイを着けて東大に仕事に行きました。当時私は非常にラフな格好で助手業をやっていまして、ネクタイ締めたことなんて殆ど無かったんですね。ところがある日、ネクタイを締めて現れたもんだから、学生が皆不審がりまして、今日なにかあるんですか、と非常に怪しまれたんですけど。とにかく昼休みに指定された本郷近くのレストランに行きました。そうしたら、二人してすでにビールを飲んでいるんですね。ジョッキをどーんと置いて。坐るなり、初対面ですよ、ビール飲みますかって言うんですよね。いえ、飲みませんとは言いづらい雰囲気があったので、じゃぁ、いただきますと言ってそこでジョッキを2杯ほど空けまして。学部長は?っていうと、今日はなんか用があるんで来ないと。それで金子先生と志部先生と私の3人でビールを昼間っから飲んで、じゃぁ、これでって、それ以上何の話もしなかった。あとから金子先生が言うには、その時にビールを飲めって言って僕が断ったら、じゃぁこの人事は取りやめようと(笑)そういう話を志部先生と決めてたと。まぁ、どこまで本当か分からないけども。で、僕が躊躇なく、ええ飲みますと言ったので、これで合格と決めたという話なんですが。


文学基礎論講座の日々―学生と金子先生

 ということで、めでたく私は千葉大に行くことになりまして、金子先生と志部先生と僕の3人で文学基礎論講座の専任になったのです。さて、私はそれまでアイヌ語以外のことは殆ど研究したことがなかったんですが、そこへ行って何をすることになったかというと、文学基礎論講座の中で金子先生と志部先生は言語学の担当である。ということで君は文学を担当したまえ、と(笑)。実はそれは入るまで聞かされていなかったんですね。その上、入った年に志部先生は1年間韓国へ行ってしまいまして、金子先生と私と二人しかいない。1年目は入ったばっかりでなにがなんだか分からない感じでしたが、2年目には文学概説、これはオムニバスの授業なんですが、そのまとめ役というか世話役をしろというので、すごい困ったんですね。今、私は口承文芸の仕事のほうが言語学の仕事より多く、7割がた口承文芸の仕事をしているんですが、それはそもそも文学やれって言われて、しょうがないから、少しぐらいはかじっていた口承文芸の授業をやっていたんですね。それがいつの間にか自分の専門になっちゃったんですが。

 そのようなことで、文学基礎論講座がスタートし、85年に私が入ったのですが、その時の学生は2年生になったところです。つまり、私が赴任する1年前から学生をとっていて(合宿の集合写真)この学生たちは一期生でこの上に先輩はいないんです。当時私は29歳でしたので、比較的歳が近い。ですから学生と教員という感じではなくて、先輩後輩という感じでした。そしてまたこの金子先生というのが学生対教員という感じで学生と付き合うのを非常に嫌うひとなのです。
 これ(写真)はどこかというと山梨県の勝沼のお寺です。講座の夏合宿です。なぜこのお寺で合宿をすることになったかというと、このお寺はワインを作っているんです。このお寺には国宝の薬師如来像がありまして、薬師如来は葡萄を手に持っているんですね。葡萄ってのは、伝わった当時薬と考えられていたので、だから、薬師如来なんですが、ここではワイン作りの仏様ということになっています。このお寺は金子先生が前々からよく知っているお寺だったらしくて、行くと、住職らしい人が子どもをおぶいながら出てきまして、ここを使ってください、いくらでもワインを飲んでいいですし、ドンチャン騒ぎやっても結構ですから、と言うんですよ。金子先生は着くなりワイン出して飲んでますけど、中庭の向こうで法事やってるのが見える。向こうで法事やってるのに、こっちでドンチャンやるわけにいかないなと思うのですが、ともかくどんどん学生に飲ましちゃう。合宿の内容は以上です(笑)。なんか討論とか、勉強会とかってするのかと思うと、いきなり、もう、着いたなり、ワイン飲みはじめますから、ただ一日中ワイン飲んでるだけ。あと、見学でそこらへんぐるぐる回ったりしますけどね。というようなことで、学生との距離の非常に近い人なんですね。このあと、金子先生は何回も何回も学生を連れてあちこち合宿をやりましたけど、驚くべきことは、二十歳前後の学生、よく考えたらコイツら成人だったのかな(笑)? 成人じゃないのも混じっていたと思いますが、彼らよりはるかに酒が強い。学生たちが酔いつぶれて全員寝たのを見澄まして、最後に寝る。で、学生が起きた時にはもういない。どっか行っちゃっている。誰よりも遅く寝て、誰よりも早く起きる。そういうことを合宿のたんびにやっていた人ですね。
 このときの合宿もさんざん飲んで、ワインを注文して一升瓶でどんどん出してもらっていたのですが、それを全部飲みほしちゃった。で、朝起きたら、日本酒の一升瓶がころがっているんですね。なんでワインを飲んでいたのに、日本酒の一升瓶がころがってるんだ、というと、夜中にワインがなくなっちゃったんで、そのお寺の台所に忍び込んで(笑)あげ蓋あけて、下にしまってあったその家用の日本酒を出してきて、飲んでしまったものらしい、ということが分かって、そんなことがあって、翌日はほとんど全員が二日酔い。その二日酔いのまんま、夏の暑い時に勝沼の坂をひぃひぃ言いながら下りて行って、途中のレストランに立ち寄って、ここで一休みしましょうといったら、よし!じゃぁ、ビール飲もう!って言い出しまして、みんなでそれだけはやめてくれ、と言ったということもありました。


ドイツ語研究の集大成から北方の少数言語へ

 さて、年表にもどりますと、もともと金子先生はドイツ語学者で、理論言語学者でもあったわけですが、特にマンハイムで何をやっていたかというと、動詞価の問題を扱っていました。動詞価というのは動詞を原子にたとえて、動詞が持っている手のようなもの、名詞項を要求する「手」というものを考えて、それが動詞によって決まっている、と。それを使って、日独の自動翻訳のシステムを作るというのが、この「日独語の対照」研究のひとつの目的だったらしいんですが、このように動詞の意味と文法の関係を理論的・形式的に規定するという研究が金子先生の専門分野だったわけで、それの成果が84年―86年のStickelというひとと共同研究のDeutsch und Japanisch im Kontrast(日独語の対照)3巻本です。本当は4巻本なんですが、4巻目はものすごく後になって、つい最近発行されたという話です。これがドイツ語研究者としての金子先生のいわば集大成という感じなのですが、この当時金子先生は先ほど言った文学基礎論講座を作って、そこを日本の北方の少数言語の研究の拠点にしようということをすでに始めていた。ですから、この本が出たのは84年から86年ですが、彼の中ではすでに終わっていた事業なわけでして、彼の興味というのはロシア領内の―当時まだソ連ですが―ソ連領内の少数言語の研究に向き始めていた時期です。

 93年に科研費で「北方ユーラシアの先住諸民族の言語文化の資料データベース作成とその類型論的研究」を始め、本格的にチームを作ってロシア、中国などの少数言語の研究―そこにはアイヌも入っていますが―を始める。これ(写真)は89年、そういう計画をどんどん進めている最中の1シーンです。ここ(サロン会場)に来ている長崎さんの、まぁ、若き日ですが、今とあんまり変わっていないじゃないかと思いますが。金子先生は特に、パレオアジア―北方の所属不明の諸言語をひとまとめにして、地理的にひとつのグループにしてパレオアジア(古アジア)諸言語と名前がつけられているのですが―それに注目していました。古アジア諸語と言っても系統的な関連はほとんどないので、ただ地理的によくわかんないものがそこに固まっているということでそういう名前がついているわけです。どんなものかというと、長崎さんが専門にしているユカギール語、あるいはこの(写真)90年の合宿の写真に写っている小野さん、この人は、カムチャツカ半島で話されているイテリメン語の研究者として、今、アラスカ大学と共同研究ででっかいお金を取って、イテリメン語辞書を作るという事業をしています。あと、ニヴフ語、ケット語、チュクチ語、コリャーク語、このへんの言語がいわゆるパレオアジアという言語なわけです。大体、東シベリアからカムチャツカ半島、それからサハリン、そのあたりにかけて話されている言語ですが、これをパレオアジア、あるいはパレオサイベリアン(古シベリア諸語)とも呼んでいます。これは純粋に地政学的な名称なんで、ここにアイヌが入っていないのは単にソ連圏内でアイヌ語が話されていなかったから、ということに過ぎません。アイヌ語をこれらの言語から切り離して考える必要はないのです。さらに言えば、極東の系統不明の言語ということになれば、日本語だって、朝鮮語だってそうなんですね。その辺の言語は全部、いわゆるアルタイと呼ばれているトゥングース、モンゴル、テュルク、とも関係づけられなければ、中国語と関係づけることもできない、そういう大言語グループと関係づけられない一群の言語が極東のすみっこのほうにごちゃごちゃっと固まっているわけです。そういう見方をすれば、パレオアジアもアイヌも日本語も朝鮮語も同じ目線でみるほうが、ここら辺のダイナミックな言語の関係がよりとらえやすくなるはずである。ところが、そのパレオアジアは日本ではほとんど研究者がいない分野で、まずパレオアジアの研究者を、日本の中で育てちゃおうというのが、金子先生の計画でもあり、そのためにまずトゥングースとアイヌをそろえたんですね。志部先生は朝鮮語の専門家でもありますから、朝鮮語とトゥングースは志部先生でOK。金子先生は日独対照研究をやっているわけだから日本語の文法に関してはすごく詳しい。となると、あとはパレオアジアだ、ということで、着々とそれを増やす計画を始めたわけです。幸いにして順調に育って行ったわけで、ここにその一人が来ておりますけど。


ユーラシア言語文化論講座の開設

 93年の下で、年表に線が引いてあります。ここでまた、一区切りになります。94年に文学部の改組が行われます。なぜ文学部が改組になったかというと、みなさんご存じのように、94年に(大学設置基準の)大綱化があり、世の中の大学の教養部がみな、解体してしまうことがありましたね。千葉大でも教養部が無くなってしまった。で、教養部に居た人たちはいろんな学部に分属することになったわけです。文学部はかなりの人数の教員を受け入れることになり、今までの文学部の在り方だと非常に膨れ上がってしまう。ということで、文学基礎論のあった文学科を真っ二つに割る、という話になったのです。その計画で進んでいったのですが、そこで大きな事件が起こりました。92年に志部先生が亡くなられてしまったのです。まだ49歳という若さで、49歳の誕生日に亡くなってしまうのですね。我々は文学基礎論という何だかわけがわからない名称のものをやめて、本格的な言語学講座を作るという方向で動いていたのですが、志部先生に亡くなられてしまいました。改組案も名前を連ねたものを文部省に出さなくてはならないというときに、中核になる人がいなくなっちゃった。当時志部先生は中期朝鮮語の研究で博士号を取ったばかりでした。ご存じのように、当時のことですから文学博士号を持っている人は非常に限られているわけで、今のようにわさわさ量産されてはいない。その文学博士号を持っている人がいるっていうことは、改組の時に大変重要なことなんですね。我々の望んだ改組を通すためには志部先生は不可欠の方だったのですが、亡くなられてしまった。
 さて、どうしよう、困ったということで、いろいろあたってみたのですが、博士号を持っていて、我々の狙っている地域の研究をやっていて、すぐ千葉大にきてくれる人なんてそんな簡単に見つかりゃしないので、我々は言語学講座という構想を断念することにしました。もうちょっと間口を広げるということで、白羽の矢を立てたのが荻原眞子さんという文化人類学者、この方はロシア、特にシベリアの少数民族の叙事詩とか神話の研究をずっとしてきた方で、ロシア語がものすごく堪能な方です。我々も86年という非常に早い時期から荻原先生に千葉大に来てもらって、授業をやっていただいていた。文学基礎論ですからね。文学の授業をしなくちゃいけない。口承文芸の専門家に来てもらって授業をしてもらうということで荻原先生に来てもらったんですね。そこで、荻原先生は博士号を持っているし、言語学ではないけれどなんといっても我々のターゲットとしているロシアの少数民族の研究者である、というわけで、この際言語学にこだわらないで間口を広げてしまえ、ということで出来あがったのがユーラシア言語文化論講座というものなんです。この講座を作るための準備段階で、志部先生の後任として荻原先生を千葉大に迎えました。ということで、ここがもうひとつの転機になってくるところで、我々は少数言語の研究ではなくて、少数民族の言語と文化の研究を目指すという方向に転換したわけです。
 それが出来たのが94年なんですが、今まで3人だったのが改組の時に5人に増えることになり、その上に実験講座になりました。ユーラシア言語文化論なんていう講座が、何だって実験講座になったのか不思議なんですけど、本当かどうかわかりませんが、後で聞くと文部省にこれこれこういう名前のものは実験講座にできないという一覧表があるんだそうです。だから国文学とか英語学とかいった名前のところは実験講座にできない、しかしユーラシア言語文化論なんて、その表のどこにもないので、実験講座にしてよろしいということになった。本当かね?(笑)ということで、人数は増えるわ、実験講座になるわで、大変めでたいわけなんですけど、困ったのは、その改組の時に金子先生が大ナタを振るって、いろんなことをやっちゃった。まずは、それまで独語独文学講座というのがあって、彼はもともとそこの人だったわけです、それをまず、そんなものはいらないって言って、解体しちゃった。独文学も仏文学も英文学も全部解体しちゃった。もちろんすごい抵抗があったわけですけども。金子先生は多分、千葉大の中で実践的に最もドイツ語が良くできる人なわけです。で、その時の学部長がたまたま東ドイツ史の専門家だったのですが、その人もまた独文なんかいらないって同調したんですね。独語独文学を先頭に立って守ってしかるべき二人が、こぞってそんなものはもういらないじゃないかって言ったので、とうとう抵抗できなくなって全部解体しちゃったわけです。そこで、そのように辣腕をふるったことが、どうやら学長に評価された。で、外国語センターというものを作って教養の語学を教える先生をそこに配属することになり―その案自体を金子先生が言いだしたのかもしれないけど―そのセンター長にされてしまったわけです。されてしまったという言い方は変ですが、我々としては困るわけですよ。せっかく新しい講座が出来て、新メンバーも入れてやりましょうという矢先に、トップの人間が忙しくなって、講座の仕事が出きなくなってしまった。大変困ったことになったわけですね。


外国語センター教授時代

 で、金子先生は、独文の先生でありながら独文を解体したことで分かるように、もともと大学に語学教育は要らんという考え方の人で、語学なんて自分でやればいい、語学学校へ行ってやりたい奴はそこで勉強してくればいい。大学の中で語学のトレーニングなんかやる必要はない。もともとそういう考え方の人だったんですね。なのに、外国語センター長になっちゃったので、180度方向転換しまして、それだったらありとあらゆる語学の授業を立てよう、と。人間が極端ですから(笑)そういうことになるんです。そこでまず、アイヌ語を第二外国語にしたんです。いろんな外国語を第二外国語にしまして、独、仏、露はあたりまえですが、中、朝鮮語、ここまであたりまえかな? スペイン語、ハンガリー語、ブルガリア語、古典ギリシャ語、もちろんラテン語、全部思い出せませんが、アイヌ語も入れちゃったんですね。本部から問合せが来まして、「あの、アイヌ語って外国語じゃないですよね?」って。「外国語の中に入れちゃっていいんでしょうか?」って聞かれたんで。「じゃぁ、外国語っていう枠をやめちゃったらどう? 第二言語という名前にしたらどう?」と私は提案したんですが、本部の方では「履修要項のところに、アイヌ語は外国語ではないが、便宜上外国の中に位置づけるという一文を入れていいですか?」というから、私は「ダメ」と言いまして、外国語じゃないんだから、外国語という枠を無くしてしまえ、と。要するに第二言語とすれば、その中に日本語を入れちゃってもいいわけですね。外国人に対する日本語教育だって全部そこで出来るじゃん、と言ったのですが、無視されまして、ずーっと10年間アイヌ語は未修外国語の中に入っていました。で、どこの大学でも英語が必修の単位になっている学部が多いはずですが、千葉大文学部はつい最近まで英語は必修の単位じゃありませんでした。英語を一切取らなくても、語学の単位は全部埋めることができる。早い話が、アイヌ語4単位、朝鮮語4単位 合計8単位でOKという状態だったんです。それでいいじゃないかと言っていたんですが、ついに上から強い圧力がかかってきて英語を全学部で必修にしなくてはいけないというお達しがきまして、文学部も英語が必修になっちゃいましたけど。

 ということで、金子先生のおかげで、アイヌ語は10年間ドイツ語、フランス語なみの扱いを受けていたわけです。これは金子先生の功績なので、当時アイヌ語の授業を取っている学生は最低で毎年80人、多い時は百数十人いたんですね。そんなにまさか来ると思っていなかったので、非常勤のコマを付け、初級クラスをふたつに増やし、というかたちでやっていたわけです。ところが、99年に金子先生が退官されると、センターの方針も全然変わってしまいまして、英語中心にする、英語以外の語学は要らんという方向に転換していきます。英語以外の非常勤の枠を25%削減せよ、というのがドーンときまして、いっぺんに25%削減するってえらいこっちゃ、ですね。その上、どこを削減するかは未修外国語の担当者で決めなさい、というむちゃくちゃな指令が来るわけです。で、未修外国語の教員の集まりでどこを削るか考えろっていったって、自分のところを削りたいなんてやつはいないわけですね。延々と膠着状態が続く。その時点でばかばかしくなって、アイヌ語が引っ込んだって2コマ分にしかならないんだけど、アイヌ語なんていらないんじゃないのって理事が言っていると話も伝わってきていたので、そこまで言われるのなら、無理に普遍(かつての教養)の授業のために力を使うことはないっていうことで、アイヌ語を外国語の授業としてはやめることにしてしまいました。それで今、アイヌ語は学部の専門の授業の中に組み込んであります。金子先生からはちょっと離れた話になりましたが、金子先生がいたからこそ、一時の間生み出された状況という話でした。


理論言語学者と社会言語学者が融合した存在として

 さて、外国語センター長だったころから、金子先生自身がロシアに調査に行ってフィールドワークをする方向で動き始めます。センター長の任期が終わってやめるころから本格的に動くのですけれども、その時期の95年に『言語の時間表現』という本が出ます。この本は彼の理論言語学者としての真骨頂ですね。論理学的な、形式学的な言語の記述方法を使って、その上に立って自然言語をできるだけ一般的に記述する、そういう記述法を考えて行く、これはとても難しい話なんで、つまり、あらゆる言語の時間表現を記述できる方式を記号論理学のシステムを使って構築していく試みなんですね。金子先生の言語学者としての特徴とは何かというと、こうした非常に形式的な構築のできる理論言語学者であり、かつ、社会言語学者でもある。少数言語話者に非常にシンパシーを持っていて、実践的に現場に行って調べようという気概を持った社会言語学者でもある。理論言語学者にして社会言語学者というのは、そうそういる人材ではありません。その理論言語学者としての真骨頂がこの『言語の時間表現』という本なのです。
 一方、社会言語学者としての真骨頂はというと、99年に出した『先住民族言語のために』という本で、ここにはそれまで彼が先住民や少数言語について考えたものがまとめられていますが、中でも特筆すべきなのは、金子先生は長年ドイツに居て、特にアルザス地方にいたことがあってアルザス語と呼ばれている言語を話せるのですが、『先住民族言語のために』の中にはそこでの状況に照らし合わせたアルザス語論が収録されています。皆さんの知っているドーデの「最後の授業」という小説、あの小説のいかがわしい部分をはっきりと、現地の言語状況を見据えながら論じたものです。要するに「最後の授業」という小説は、ドイツ軍に占領されたアルザス地方の子どもたちが、フランス語を学んじゃいけない、ドイツ語を学ばなくてはならないという状況になる。そこでフランス語を教えていた先生がそこを去ることになった、その最後の授業の話です。フランス人作家が書いているわけですから、フランスに肩入れした小説であるのは当然ですが、そのまやかしというのは、そこの子どもたちはもともとアルザス語をしゃべっている―つまりアルザス語が母語なのです。しかし、アルザス語はドイツ語の一種なのであって、そこへフランス人がアルザス語の代わりにフランス語を教え込もうという、そういう状況だったのをドイツ軍がドイツ語を教えろと言ってフランス語をやめさせたという話になるということなので、そのように考えたら、むしろフランスの方が母語以外の言語を教え込もうとしていた侵略者ということになりますね。そのような指摘は田中克彦さんがすでにしています。ところが、実態はもっと複雑なんだというのが金子先生の主張なので、問題は何かというと、彼らの母語はドイツ語の一変種であるアルザス語だが、彼らのアルザス人としてのアイデンティティは17世紀半ば以降ドイツ文化から切り離され、フランス文化世界の一員となるという過程で形成されてきたものだという議論で、つまり、話しているのがドイツ語の方言だからドイツにアイデンティティがあるというような単純な話ではないということです。そのことは多分、金子先生が日本では初めて指摘したことだろうと思います。そういうような非常に緻密な、民族と言語と国家に関する関係をいろんな形で議論したものが『先住民言語のために』という本の中のかなりの部分を占めています。


ニヴフ語の調査へ

 こういう言語学者としての一見して二面性に見えるものは、二面性じゃなくて、彼の中でひとつのものに融合して追及されている。それが金子先生の特異性ということになります。そこで彼は今までずっとやろうやろうと考えていたロシアの少数民族、特にニヴフの調査に動き始めるわけです。いくつかの写真を見せましょう。これはユジノサハリンスク、サハリンの昔日本領だったところ、豊原と呼ばれていたところのホテルです。我々がニヴフ語の調査をするひとつの大きな原動力になったのが、この真ん中に立っているこの人、チューネル・ミハイロヴィッチ・タクサミという有名な文化人類学者ですが、この人はニヴフ人です。ニヴフ人というのはロシアの先住民族でロシア全体で4700人くらいしかいない。アイヌなんかよりずっと数が少ない少数民族ですが、言語はアイヌより比較的保たれていて、この当時は母語話者を見つけるのはそう難しい話ではなかった。ただ、サハリンでもかなり北の方に住んでいますので、簡単には行きつけないところにいる。我々のチーム、この人は佐藤知己さん、今は北大の教授です。この彼(丹菊逸治さん)も北大の准教授になっていますし、こっち(白石英才さん)は札幌学院大学の准教授になっていますが、彼らは当時大学院生です。このチームで調査に行くってんで、バスをチャーターして行くことになりました。そのバスを待っているところの写真です。バスを日本でチャーターしたんですが、いっこうに来ない。朝出発するはずだったのが、昼過ぎても来ない。ロシアではよくあることですが、だいぶ遅くなってからバスが来て出発した。その結果、途中宿泊する町に着いた時には真夜中になっちゃったんですね。そこのホテルも日本から予約していったんです。予約が取れてるという確認を旅行会社からもらって行ったにも拘らず、ここにあったはずなんだがというところを訪ね歩いたら、すでに廃業していた。なんで、廃業しているのに予約が取れたんだかわからないんだが、ホテルが無いっていわれたんですよ。で、もう真夜中なんで、どこか泊まれるところを探すったって、ロシアの片田舎ですよ、簡単に見つかるわけはありません。でも結局、寝られるところを見つけたのです。警察署。警察の廊下で、ソファーの足をはずして、そこに寝ているんだが、寒いは寒いし、鉄格子の鍵を開けてそこに入っていくわけですが、我々がそこへ入っていく前に、警官が「早くしろ!」ってひとりゴツい奴をひきずって入って行った、そのあと我々が同じ鉄格子の中へ入っていくわけで、(笑)大丈夫かいな、と。ここに留置されたまんまで1か月くらいいることになるんじゃないか、と思ってろくろく寝られりゃしないですよ。これが1日目の出来事なんで、先が思いやられる、まぁそういった調査をしてきまして。

 こういう(写真)きれいなところもあります。何かっていうと外でたき火してバーベキューやるのがロシア人は好きなんですが、ここ(写真)が次に我々が寝泊まりしていたところでして、小学校です。ネクラソフカというサハリンの一番北の方の町なんですが、ホテルなんてものはそもそも存在していないので、泊まれるところというと小学校くらいしかないんですね。ベッドなんかあるのかっていうとあるんです、救護室。小学生を寝かせるための救護室なんで、えらく小さい。そこへ大の大人が数名、夏休み中寝っ転がっているわけですよ。それは校長が協力してくれたから、そうなっているんだけど、救護室の先生がいて、いい顔しないわね、外国人のおっさんが何人も、子どもが寝るためのベッドを占拠してずっとひと夏いるわけだから、すごく嫌な顔しているわけ。ニヴフ人が主に通っている小学校です。そこから調査に出て行くわけです。
 これは(写真)、タクサミさんの故郷、カリマというところに行こうっていうんで、トィルという町の船着き場でチャーターしたモーターボートを待っているところです。これはサハリンではなくて、アムール川です。このアムール川の一寒村がタクサミ先生の故郷なのです。言い忘れましたが、タクサミ先生というのは大変偉い人で、ペテルブルグにあるロシア人類学民族学博物館―クンストカーメラという名前で知られていますが、そこの館長だった人です。このクンストカーメラは日本で言うと上野の国立博物館にあたるといっていいところで、ロシアで一番古くて伝統ある博物館の館長です。それが4700人くらいしかいない少数民族の出身者で、しかも生まれ故郷はとんでもない田舎の寒村です。よくそこからのし上がってきたなという感じですね。で、まずメチョールという船でこのトィルまで来るんです。メチョールというのは水中翼船ですが、ここまで来るのがおおごとで、朝、夜が明けたか明けないかくらいに乗り込んで、アムール川をずーっと遡ってくるんですけども、一日目に行こうとしたら霧が晴れない。出航が出来ない。そのうち日が高く昇って、まだ霧は残っているけどもこれ以上待てないというので出航した、そうしたらなんかぶつかる音がして止まっちゃたんですね。日本だったら只今これこれのことで一時停止をしておりますとかってアナウンスがあるんだが、一切何もない。ロシア人がいっぱい乗っていているにも拘わらず、誰もそれを確かめに行こうとしないんですね。さっぱりわからない。そのうち甲板を見ていたら、何かを引きずりあげている。見ると人を引き上げている。そのまま船は180度向きを変えて、もとの港に戻っちゃった。後になってわかったのだけど、霧がまだかかっていて見通しが悪いのに出発したら、あちこちにいる小さな釣り船のひとつに衝突してしまって、ひっくり返してしまった。漁をしている連中はウォッカを飲んで釣りをしていたので、おっこちゃったらそのまま助からない、それを引き上げて、もうその日は出航しない、ですよね、当然のことながら。で、次の日に行ったら、その船はもう止められたまま、別の船に乗り込んだ。聞いていたら、その水中翼船の船長もウォッカを飲んでいたという話(笑)。飲酒運転で船長が逮捕されてしまった。それで別の船長が別の船を動かすことになった。で、翌日ここ(トィル)に着いた。メチョールではここまでしか来られない。そこから今度はモーターボートをチャーターして行くことになりました。(写真)これがカリマという村ですね。アムール川って、日本の川とちょっと違って、日本の川は河岸段丘といって、川から岸までが崖みたいになっているのが普通なんですが、アムール川は(写真)こんな感じで、いつ溢れてもおかしくない、そういう川岸がずーっと続いているんですね。

 さて、ここに何をしに行ったのかというと、タクサミ先生の故郷のこの村の小学校にテレビとビデオの機械をプレゼントしてあげよう。我々が集めて取ったニヴフ語でしゃべっているおばあちゃん方などの映像を、ビデオで見られるようにしてあげよう、というような発想でビデオ機器を買って持って行ったのです。ところが、タクサミ先生がいくら小学校に電話をかけても全くつながらない。小学校へ行ってやっと分かったのですが、大火事があって、送電線が焼けて、今全く電気が使えないという状況。せっかくビデオを戴いたのはありがたいが、いつ復旧するか分からない、今は見られませんという、そういう状態。だから電話もつながらない。小学校も焼けてしまったので、(写真)校長先生の家で子どもたちを集めて、ニヴフ語を教えている。そこで実習の様子などを見せてもらったりしていたんですが。
 問題は帰る時でね。モーターボートを着けた船着き場まで行ったわけです。そうしたら、今度はロシア人の民兵、ミリツィアがモーターボートをそこへ着けて止まっている。で、民兵というのは警察なんですけど、明らかにウォッカを飲んでぐでんぐでんに酔っぱらっている。で、一目で外国人と分かる見慣れない連中がわらわらといるもんで、こっちに近づいてくるんですね。それが自動小銃を持っているんです。銃口をこっちに向けてよろよろよろとこっちに来るわけです。その時、我々はロシア語が全然分からないふりをして逃げちゃおうと、そういう算段をしていたのに、金子先生が「我々は日本人である、ニヴフ語の調査に来たんだ」とロシア語で言っちゃったわけです。当然向こうはお金が欲しいわけですよね、言葉が通じると思うから、「日本人? ウソつけ、パスポート見せろ」と言ってくる。その時に、金子先生に向かって行くんだから、銃口を金子先生に向けて行きゃいいのに、私の方に銃口が向いているんです(笑)。安全装置がかかっているのかどうかもわからない、迂闊に動くと反射的にぱっと撃っちゃうかもしれないから、じりじりじりじりと体を動かして、なんとか銃口の線からどいて。そこへ小学校の校長先生たちがやってきて、これは私たちの客人なんだから変なことをしないで頂戴、みたいなことを言いながら、手で逃げろ逃げろ、みたいなしぐさをするわけね。そこで、さっとそこから自分たちのモーターボートに乗り込んで逃げてきた。確か金子先生と僕が同じモーターボートだったんですが、先に着いて、後からすぐもう一台、学生たちが乗ったのが来るはずなんだけど、いっこうに来ない。さんざん待って、探しに行こうかと言っていたところにやっと戻ってきて、どうしたのかっていったら、途中でエンジンが止まって、しかも下から水が入ってきて、沈みかかったというんですね。いっしょけんめい水を掻い出したんだけど、エンジンがかからない。そうしたら、やおら操縦していたニヴフ人がガソリンを抜いてコップに入れてエンジンの上にざばっとかけて、マッチで火を付けて、ボーンとエンジンを燃やしちゃった。こうするとかかるんだって。本当にそれで動きだしたっていうんですね。で、帰ってきましたというんです。下手したら、それが沈んだ日には、学生連れてって、二人ほど死なせて帰って来たということになるところで、大変な騒ぎだったんですが、ニヴフ語の調査をするっていうのは、毎回どこへ行ってもそんな調子で、半ば命がけになっちゃうんですね。その中で金子先生はサハリン、アムールに2回ほど行って調査報告をいろいろ書いています。
 金子先生の一番の問題は、集団行動ができないっていうところなんです(笑)。みんなで前もって日程を決めてそれに沿って行動しようとしているのに、勝手にどっかへ行っちゃうんですね。いなくなっちゃう。それを探すのにえらいエネルギーを使うので、もう一緒に動くのをやめようということにしまして、金子先生を切り離して―ただ切り離すと心配な面もあるんで、院生をひとり付けまして、ふたりで行って来いといって送り出しました。 金子先生は金子先生の好きなようにということで、我々は予定通り行動する。ところが、あとで聞いたら、その学生をまこうとするんだそうです(笑)。ちょっと油断していると、いなくなっちゃうっていうんですね。とにかく一人で動くのが好きな人なんですね。なんでもひとりでやろうとする。まぁ、なんでもできるからいいんだろうけども。


千葉大退官の前後 そしてそれから

 そんなこんなでアムールに調査に行ったりしている時にすでに退官の時期を迎えて、99年に退官されました。ここら辺の写真は退官された時の写真です。これ、何月の写真だと思いますか。8月28日。8月も後半になるとこういう格好をしていないといられない、非常に寒いところ、特にサハリンは1回曇ると当分晴れません。晴れたり曇ったりということは無いので、曇っちゃったら、曇ったきり。曇ると8月でも気温は10度以下に下がっちゃいますから。なおかつ暑い日はむちゃくちゃ暑い。大半が湿地帯なので、蚊がものすごい量、一年にいっぺん、そのシーズンだけドドドと生まれてきます。この蚊が千載一遇の生きるチャンスだってんで、日本の蚊なんかメじゃない行動力で人を刺してきます。まず、ジーパンなんてのは何の役にも立たない。ジーパンの上から刺してくる。着ているもので防ごうとするとよほど厚いものじゃないと。日本の蚊よけスプレーなど何にも効きません。そんなものは無視して刺してきます。頭にもたかって髪の毛の中に潜り込んできて刺します。というわけでサハリンに夏行くと蚊が大変。蚊が大変じゃない所は寒い。千葉大の定年は65歳ですから、65になってよくそんな大変な所へいったなぁ、という気がします。
 そこまでが千葉大にいたときまでの金子先生のエピソードですが、99年に退官されてからはライプツィヒ大学に客員教授で行ったり、2000年に千葉大で言語学会をやったときに「言語学は少数言語の維持・復興に寄与できるのか?」という講演をしたり。・・・そうだ、見せようと思っていたのをひとつ忘れました。94年まで遡っちゃいますが、こういう人を千葉大に呼んで話を聞いたりしました。バーナード・コムリーですね、言語類型論で有名な。金子先生はいろんな方面に顔の広いかたなので、言語学者の知り合いもたくさんいて。この会はどちらかというと論理的な方向のものですが、こういうものをやったり、さっきお話ししたようにロシアへ行って死にそうな目に会ったりとか、いろいろやった人ですね。
 これは(写真)千葉大の大学院の修了式です。この彼(北原次郎太さん)は、今北大の准教授になっていますけど、これは樺太アイヌの民族衣装です。つまり、彼自身が樺太アイヌの血を引いている人ですが、アイヌの文化研究で博士号を取りました。ということで、わが千葉大学の大学院からアイヌ人のアイヌ文化研究者というのを生み出すことができました。金子先生の最初からの目論見である、北方の少数民族の研究と、実践的に文化を復興して行くその動きになんらかの寄与をするということで、このような人材を生み出すことも出来まして、金子先生としては、生涯考えていたことを実現できたのではないかと考えております。雑駁な話でしたが、今日は最初から雑駁で行こうと思っていましたから、とりとめのない話ですが、ここでひとまず終わりにします。(拍手)


会場のようす


以上

(文責:事務局)