地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2014・12月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「私の見たイスラーム世界」


● 2014年12月6日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎423教室
● 話題提供:田中真知先生(作家・翻訳家)


講演要旨

田中真知先生 今日はわざわざお集まりくださり、ありがとうございます。今回はイスラームについてというテーマで話をさせていただきます。最初に申し上げておきたいのですが、今「イスラーム国」やシリア紛争といった「アラブの春」以降、イスラーム世界を騒がせているいろいろな出来事がありますが、イスラームについて学べばそれらの出来事がよくわかるようになるのでは、と思われるのではないでしょうか。
 でも、そうではないんです。イスラームがどういう教えであるのか、どういう宗教であるかを知ったからといって、今中東地域で起きている出来事は分かりません。中東で起きていることはイスラームという宗教内部の問題ではなくて国際政治の問題だからです。
 イスラームの中に、例えばジハードという教義があります。これは異教徒に対する戦いを意味します。しかし、ジハードという教義があるから中東で戦争が起きるというふうに単純には結びつけられません。イスラームという宗教と、イスラーム世界と、ひとりひとりのイスラーム教徒とは別の話です。
 今イスラーム世界で起きている出来事を解釈するのは、政治学者や地域研究の話になります。私はその方面は詳しくないので、そうしたことよりも私自身がイスラーム世界を旅したり、そこで暮らしたりしたときの経験の中で、どんなことを考えたり感じたりしたかということを中心にお話したいと思います。


私とイスラーム世界との出会い

 私が初めてイスラーム世界に足を踏み入れたのは学生時代です。ヨーロッパをバックパックを背負って旅していたのですが、たまたま出会った旅行者の言葉につられて、なんとなく好奇心でスペインから船でジブラルタル海峡を渡ってモロッコに渡りました。モロッコについても、イスラームについてもほとんどなにも知りませんでした。
 ところが、着いたその日に闇両替をしてやるといってきた男にお金をだまし取られました。ショックでした。初めて訪れた旅行者を平気でカモにしてしまうひとがいるのだ、世界ではこういうことが起きるのだという、あたりまえの事実にそのとき気づきました。
 途方に暮れていると、別の男に声をかけられ、闇両替でだまされた話をすると気の毒がってくれて、うちに泊まりなさいといってくれました。おまえをだましたやつはイスラーム教徒だ。おれはキリスト教徒だからそういうことはしない、と彼はいいました。ああ、そんなものなのか、と思いました。結局その男の人が家に泊めてくれたのですが、翌日になって、じつはこの人にもだまされていたことに気づきました。いっしょに食堂で食事をしたり、タクシーで案内してくれたりしたのですが、こちらが言葉がわからないのをいいことに法外な価格を請求していたのです。そのことに初めは気づかなかった。
 そんなわけで最初の印象はすごく悪かったんですが、そのあと親切なイスラーム教徒に世話になり、ああ、イスラーム教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、悪い奴は悪い、いい人はいい。宗教とは関係ないんだなと思いました(笑)。
 旅行から帰ってから、イスラームについて、もっと知りたいと思ってアラビア語を学んだり、本を読んだりしました。そのうちにアフリカにも関心が湧いてきました。「ことば村」の理事長をされておられる埼玉大学の文化人類学教授だった阿部年晴先生の本に出会ったのもその頃です。


スーダンへ

 当時、イスラームについて書かれたものでとくに興味深く読んだのが、慶應義塾の生んだ著名な哲学者の井筒俊彦先生の書かれたものでした。井筒先生はギリシア哲学の研究からはじめられて、イスラーム哲学や東洋哲学の研究をされ、「コーラン」の翻訳もされています。
 イランで教えておられた井筒先生は70年代のイラン革命で日本に帰国され80年代にたくさん本を出されました。井筒先生が特に関心をお持ちだったのが、イスラームの中でも神秘主義と言われる一派・スーフィーです。井筒先生の本を読むと、スーフィーの哲学は非常に高度で、仏教やギリシア哲学に通じる深いものであると書いてある。戦争ばかりやっているようなイメージがあるけれど、これほど高度な哲学を発展させてきたのか、と感心しました。
 それで1980年代の半ば頃、スーダンという国を訪れました。エジプトの南にあって、南はケニアと国境を接しているアフリカ最大の国で、民族や文化も多様です。ここならブラックアフリカとイスラームという二つの世界をともに見られるのではないかと思ったのです。
 当時スーダンはイスラームに基づいた法律であるシャリーアが敷かれていました。そのため飲酒が禁止されていたり、いろいろ細かい取り決めがあると聞いていました。そういう国に行くのだから厳しいことがあるのだろうな、と思っていたのですが、聞くと見るとは大違い。たしかにお酒は売られていませんが、地方に行けば地酒はある。イスラームではあまりいいことではないとされている音楽や踊りもたくさんやっている。井筒さんの本を通して知ったスーフィーの儀礼も見る機会がありました。けれども、どうもそんなに哲学的に深そうな感じには見えない(笑)。これはスーダンが、イスラーム世界でも辺境にあたる土地ということもあるのでしょうが、本などから得た知識と実際との間には大きなギャップがあることを知りました。実際のイスラーム世界は一枚岩ではないのです。
 私たちは知らない土地の知らない習慣に出会うと、それをどう理解しようかと考えますよね。そのときそこに暮らしているのがイスラーム教徒だと、そこで目にした習慣をイスラームと結びつけて考えようとします。けれども、ひょっとしたらイスラームとは関係なく、国民性としてこうなっているのかとか、あるいはここの村固有の習慣だろうとか考えます。でも、じつのところ、どこからどこまでがイスラームに由来していて、どこからどこまでが国民性や民族あるいは個人の個性に由来しているのかはなかなか区別がつきません。日本人の性格や文化について外国の人が、これは禅から来ているのだろうとか、サムライ精神からきているのだろうとか言うことがありますが、そういわれてもわれわれはピンとこない。それと同じで、イスラームだからこうなのだと理解したつもりになると、大きな勘違いをしてしまいます。


外国人へのホスピタリティー

 日本でイスラーム世界というと紛争など好戦的・暴力的なイメージが浮かんでしまうかもしれません。しかし、現実のひとりひとりのイスラーム教徒は、外国人に対してはとても親切であることが多いです。
 スーダンの話に戻りますが、例えば首都ハルツームの街中でバスに乗ると、車内の前の方からチケット売りが来る。チケット代を払おうとすると、お前の分は要らない、すでにもらっていると言う。誰が払ってくれたのですかと聞くと、そいつはもう降りちゃったよ、と。どういうことなのでしょう。払ったことで僕と関係性を作りたいわけでもない。
 街中でお茶を飲んでいると、代金は要らない、もう誰かが払ったから、と。こういうことが一度や二度ではありませんでした。あるとき市場にグレープフルーツを買いに行き、1個くれ、と言うとキロ単位で売っているから1個では売れないと断られた。では要らないというと急に怒り出して、全部持って行け!と4個か5個のグレープフルーツを押し付ける。お金を渡そうとすると金なんか要らないという(笑)。どういうことなのか、いまだによくわからないのですが、そういう予期せぬ好意にずいぶん助けられました。
 スーダン国内をあちこち歩き回った末に西部のダルフールという地方の山村にしばらく滞在しました。ダルフールでは90年代から2000年代にかけて大きな紛争があり30万人くらいの人が亡くなっています。けれども、私が行った当時は平和そのもので、スーダン人がダルフールはスーダンでいちばんいいところだ、食べ物や水も豊富で楽しいぞ、と自慢するほどでした。実際、ダルフールの人たちのホスピタリティーはただならないものでした。

ダルフールの村
ダルフールの村

 電気も水もない山の中の素朴な村なのですが、突然やってきた外国人に家をただで貸してくれて、毎食食事に誘いにきてくれる。とくに見返りを期待しているわけでもない。もちろん、しばらくいると、いろんな人間関係のややこしさがあることは見えてくるのですが、それでも朝起きれば家の中でお祈りをして、昼間や日没は木の陰でお祈りして、日没や就寝前にまたお祈りをする、という暮らしが、まるで自然の中に書かれていることをそのまま実行しているかのように淡々とつづいているのが、とても不思議な気がしました。
 ところが、その後の紛争で私のいた村もふくめて、多くの集落が焼かれたり、略奪されたりしてしまいました。人びとも大勢亡くなりました。いまは少し落ち着いているようですが、いまでもインターネットでダルフールと検索すると悲惨なニュースばかりが出てきて、まるでアフリカでもっとも悲惨な場所であるかのような印象を受けるかもしれません。しかし、最初からそうだったわけではないし、そこに暮らしている人たちが殺戮を望んでいたわけでもありません。


インシャアッラーの精神

 イスラーム世界ではこのようなホスピタリティーに感激させられることは多いのですが、なかなか慣れない部分もありました。例えば約束。待ち合わせの時間はたいてい守ってもらえない。将来的な物事について確約したようでも、あてにならないことが非常に多い。これもイスラームからなのか、それ以外の原因に由来しているのか、はっきりとは区別ができません。
 イスラーム世界でよく言われる言葉に「インシャアッラー」というフレーズがあります。これは「神がお望みになれば」という意味で、日常のいろんなときに使います。例えば、明日ここで3時に待ち合わせましょうというと、相手に「インシャアッラー」と言われます。また、タクシーをつかまえて、どこそこへ行ってくださいと言うときも、運転手さんが「インシャアッラー」と返事する。字義どおりにとれば、「神が望めば明日ここで会えるでしょう」「神が望めばタクシーは目的地へ着くでしょう」ということになり、最初はいかにも無責任に聞こえました。約束を破っても、これを言っておけばお咎めなし、みたいないいわけに思えました。
 でも、イスラーム圏を旅していると、「インシャアッラー」とは深い叡智をはらんだ言葉だということがだんだん分かってきました。イスラームの考え方のベースには「人間にはすべてをコントロールすることはできない」という思想があります。それに対し、日本人や欧米人は、自然や世界をコントロールしようとして、そこに価値を置こうとします。その考えからすれば、インシャアッラーというのは非常に無責任に聞こえます。
 私が旅行しはじめた頃は日本がバブルな経済成長期だったということもあると思いますが、努力がちゃんと実りをもたらす、勉強すればしただけの成果が得られるといったことに対して、我々は一種、神話的な確信を持っていたのではないかと思います。そういう時代にインシャアッラーなどと言われると、これは自助努力を放棄している言い方じゃないか、と思えたものです。
 しかし、世の中には自分がどれほど努力してもどうしようもないことが起きます。特にイスラーム圏やアフリカではそういうことが多い。今のシリアを見てもそうなのですが、一所懸命がんばっても、なにか事件が起こるとすべてが無に帰してしまう。インシャアッラーは、人間が制御できることには限界がある、そういう言葉だと思うのですね。
 いまの日本ではうつ病になる人がたくさんいます。それは物事がうまく行かないと自分を責めてしまったり、あるいは社会の仕組みを責めてしまったりして、その責任をどこか自分たちの中に見出そうとすることと関係している気がします。イスラーム世界では、どうしようもないことがあったら、だれのせいだという犯人探しはある程度のところで打ち切って、最後は神にゆだねてしまう。「神が望んだんだ」といって、それ以上自他ともに責任を問わない。そういう意味でもインシャアッラーは非常に深い、含蓄のある言葉だと思います。


カイロで感じた人々の懐の広さ

 1990年から私はエジプトのカイロに住みはじめました。カイロはナイル川の下流の都市で、私が住んでいたのはナイル川の西岸のモハンディシーンという地区です。物価が安いということもあって週に一度メイドさんに来てもらって掃除をしてもらっていました。彼女はウイダードという名の40代半ばくらいの女性で、4人の子どもと働かないダンナを抱えた苦労人でした。おしゃべりで、掃除の仕方も適当でしたが、私に庶民的な形でのエジプトを教えてくれました。
 彼女の暮らしている地区は貧しい人たちが多く、人口密度もすごく高いところでしたが、あるとき、自分の家に居候が来たというのです。しかもそれがロシア人の女性だという。「なぜロシア人女性がウイダードの家に来たの?」と聞くと、ウイダードの親戚のエジプト人男性が数年前からウクライナへ出稼ぎに行っていて、向こうでロシア人の女性と結婚していたそうです。でも、そのエジプト人男性は先にエジプトに帰って来ていた。
 ところがその後ソ連が崩壊し、旧ソ連から大勢の人たちが職を求めて世界に飛び出しました。かつて社会主義国家だったエジプトはソ連との関係が強かったので、エジプトにも旧ソ連領からたくさんの人がやってきました。そのときウイダードの親戚と結婚したロシア人の奥さんも夫を追ってエジプトにやってきたのです。
 しかしエジプト人の旦那はすでにエジプト人女性と結婚して子供までいたのです。しかも、エジプト人の奥さんは、ロシア人女性を第二夫人にすると遺産の取り分が減ると言って家にも入れませんでした。わざわざエジプトまでやって来たロシア人女性は途方に暮れたことでしょう。そこでウイダードは、困っていたそのロシア女性を自分たちの生活がとても大変であるにもかかわらず自分の家に居候させたのです。
 そういう懐の広さに私は驚きました。ウイダードは、そのロシア人女性が自立してエジプト人のボーイフレンドを作って出ていくまで、ずっと家に置いて面倒を見ていました。エジプトの人間関係にはひじょうに冷酷で、無慈悲なところもあるのですが、一方で、このような底知れない寛容さもある。そのギャップの大きさに、よく圧倒されました。


窓を開ければモスク

 当時私が住んでいたのは庶民的な地区と隣り合わせのアパートの10階で、窓を開けると彼らの暮らしぶりがよく見えました。目の前にモスクがありました。モスクはイスラーム教徒の方々が礼拝、つまりお祈りをする場所です。よくイスラーム寺院と書かれていることがありますが、お寺ではなく共同の礼拝所です。モスクにはお坊さんのような聖職者もいません。イスラームには聖職者はいないのです。みんな平等に神様に対してお祈りをする。お祈りといっても、日本ではお寺や教会でお祈りをするときとは、かなりちがいます。お寺ではたとえば、病気が治りますようにとか、お金が儲かりますようにといった個人的な願いをしますよね。しかしモスクでの礼拝は個人的な願いのためのものではありません。何を祈るのかというと、ひたすら神様を賛美する。神様への感謝の祈りなのです。その礼拝の時間を告げるアザーンという呼びかけが一日五回、モスクの塔(ミナレット)から大音量で流れます。
 住みはじめてまもない頃は夜明け前の礼拝の呼びかけがあまりに大きいので目が覚めてしまいました。一つだけならまだしも、狭い範囲に何十というモスクがあって、それらがいっせいに巨大なスピーカーから礼拝の呼びかけをするので、それはそれはすさまじい音です。最初は、引っ越そうかと悩んでのですが、だんだん慣れてくるもので眠れるようになりました。

カイロのアパートの窓から
カイロのアパートの窓から


人間は弱い

 こういう礼拝の時間はみんなモスクに行って礼拝をしなくてはいけないかというと、かならずしもそうではありません。本来は礼拝しなくてはいけないのだけど、出来ない場合は、まぁしょうがないね、と。そのかわり、その補償としてこれこれのことをしなさいと。そういうことが決まっているのです。我々はイスラームというと戒律が厳しそうだというイメージや、守らないと罰を受ける、みたいなイメージがありますが、実はイスラームにはそういうことはありません。ほとんどの罪は来世で裁かれることになっているので、現世での罰というのは限られています。アラブ遊牧民の研究をされていた片倉もとこさんは、イスラームという宗教の性格を表すのに「性弱説」という言葉が比較的よくあてはまるのではないかといっています。人間は本質的に弱い。誘惑にも弱い。なにかをやろうとしても挫折するという考えです。それが人間だという見方が根本にある。
 一方西洋の合理主義では、人間は強い。「性強説」ですね。人間はすべてをコントロールする。自然も思い通りにする。その、思い通りにする、ということが善である。我々日本人も、高度成長期にその考えで来たわけです。努力をすれば必ず叶う、努力をしないのは自分が悪い。先ほどもいいましたが、それが今、日本人を苦しめている部分だと思います。
 イスラームではそうは考えません。どんなに努力しても絶対に叶わないことがある。理不尽なことも起こるけれど、それはどうにもならない。理屈で納得はできないけれどそれもまた神の意志である、とする。イスラームは厳しいと言われますが、実際にイスラームという宗教の持っている性格は人間のだめな部分や弱さを大目に見てやろうという「寛大さ」です。弱いからといってだます、というケースもありますが、基本的には弱さに対して果てしなく寛大です。さきほどのインシャアッラーの精神もそれに通じると思います。
 ちなみにおおまかにいってアジア人の場合は「性善説」ですね。人間は基本的に善だから、心を割って話せばきっと相手に伝わるだろう、という考えです。ヨーロッパなどはそうじゃないですね、「性強」であると同時に「性悪」です。人間は放っておくと悪くなるから、理性でコントロールしなくてはいけない、という考え方です。イスラームの場合は性善ではない。人間は不完全な存在である。放っておくとダメになるけれど、そのために神様が、こうすれば天国へ行けるよという救いの道をイスラームという宗教として残しておいてくれた、ということです。

ラマダン明け、路上で供される食事
ラマダン明け、路上で供される食事


結婚式、葬式、ラマダン

 窓を開けると目の前がモスクと申し上げましたが、そこはカイロの庶民生活を垣間見るための窓でもありました。人口が密集している地域なので、夏になるとそこらじゅうで結婚式をやるんです。規模はさまざまなんですが、中には楽団や踊り子まで動員する大がかりなものもあって、深夜まで生演奏が続きます。これがモスクのアザーンをはるかに上回る音量でなかなかつらい。結婚式がある日は昼間からマイクのテストなどをするのですが、それを聞くと覚悟せざるをえない(笑)。
 夏には結婚式も多いのですが、人もよく死ぬので葬式も多い。ときには葬式と結婚式が重なってしまうこともあり、モスクからは追悼のクルアーンの朗唱が流れているのに、すぐそばで結婚式の生演奏をやっていたりする。人間関係も濃密で、たいていみんな知り合いなので、結婚式でお祝いをしていた人たちがそのままお葬式のモスクへお参りに行ってりしている。そういうふうに、いろんなものがゴシャゴシャになっているのが面白かったですね。
 喧嘩もしょっちゅうありました。むこうの喧嘩の特徴ですが、必ず仲裁者が現れる。取っ組み合いになりそうになると、かならず両方をなだめる人が出てくる。日本みたいに周りが無関心ということはあまりなく、必ず他人が何人も介入してきて、その介入者同士で喧嘩になったりもする(笑)。
 ともかく、人に対してつねに関わろうとするところがあります。彼らはひとりでいることはあまり良くないことで、孤独はつながりから切れている、とみなすところがあります。幸せとは、家族や友人といっしょにいることなんですね。ですから、なにかというと集まる。集まるからトラブルも起きる。そういう喜怒哀楽がすべてがさらけ出されている。それでも礼拝の時間になると、平等に集まってお祈りをする。生きる人びとのうねりというか、躍動感をすごく感じるエリアでした。 
 あと、庶民のエネルギーを実感するのはラマダンのときでした。ラマダンとは一般に断食月といわれていますが、食欲だけでなく性欲もふくめて欲望を抑えることが目的とされる月です。ラマダン月の間は、日の出から日の入りまでの間は飲食はいけない。水を飲んでもいけない。厳格にするなら唾を飲んでもいけない。
 そう聞くと、つらくて厳しそうに思えますが、当人たちはわりと楽しみにしています。というのは、この期間は仕事の能率が落ちますが、日没になったあとは、思い切り好きなだけ食べられるからで、一ヵ月間夜の間は飲めや歌えの祝祭的な雰囲気になります。日没になると路上にテーブルが出され、貧しい人も無料で食べられるようになります。僕らのような異教徒でも、いっしょに食べなさい、と言われます。断食月のほうが、普段の月より、食糧消費量が増えるといわれています。
 私がいたところは、下町に見世物小屋がいっぱい出ました。最近は見ないんですが当時は、女の子が曲芸を見せたり、ヘビ女とか、電気女とか、怪しげな見世物もありました。電気女は、蛍光管を握らせるとパッと電気がつくという他愛のない見世物で、ヘビ女も胴体はハリボテで、顔だけ出しているという、いまどき学園祭でもやらないようなバカバカしいものなのですが、それでもすごく受けていました。360度まわる回転ブランコとか、手動式のメリーゴーラウンドとかもありました。しかも乗っているのが大人だったりします。回す人がちょっと休んだりすると、乗っている人が「回せ!」と怒鳴るんです。

ラマダンの夜
ラマダンの夜


さまざまなイスラームの形

 イスラーム世界は一枚岩ではないと申し上げました。イスラームという宗教そのものはわりとしなくてはならないことがはっきり決まっているのですが、それ以外の点については地域によって信仰の形はさまざまです。僕が最初に行ったのがスーダンだったということもありますが、スーダンのイスラームとエジプトのイスラームはかなり違います。スーダンの首都ハルツームの対岸にあるオムドゥルマンというところでは、あるスーフィー教団が金曜日の夜になると聖者のお墓の前でトランス状態になって踊ったりします。こういうスーフィーの聖廟参拝はサラフィーと呼ばれる厳格なイスラーム主義者からは批判されているのですが、実際にはエジプトもふくめて、イスラーム世界のさまざまな地域に見られます。
 エチオピア東部のハラールという町はモスクが200くらいあるイスラーム教徒の町なのですが、ここではムスリムたちがチャットという、噛むと気持ちよくなるような葉を噛む習慣がある。彼らはこういうものも含めてイスラームを名乗っている。それがイスラーム的に正しいかどうかと言うのはさておいて、イスラームにはカトリックでいうような聖職者がいないため、これは異端だという判断をする機関もありません。法学者はいるのですが、彼らはあくまで法の解釈をする人たちで、国によって解釈が全然違ったりします。

チャットを噛むハラールのムスリムたち
チャットを噛むハラールのムスリムたち

 例えば、イランの場合、シャリーア(イスラーム法)を一部採用しているにもかかわらず女性は運転ができます。髪も顔も隠していません。ところが、同じシャリーアを採用しているサウジアラビアでは、女性は運転できないし、髪や顔も隠さなければならない。なにが本当に正しいかどうかを判断できるのは神だけであって、人間は法に基づいて解釈することしかできないんです。そのあたりが分かりづらいところでもあります。


ゆるやかな共存

 イスラーム内部の問題として大きいのはシーア派とスンニ派の対立です。複雑な話になるのでここではふれませんが、長い間、この二つの宗派は対立しつつも共存してきた歴史があります。パレスチナ人とユダヤ人もそうですが、けっして一つにはなれないけれど、なんとかバランスを保ってきた。そうしたバランスが現代になってから失われてきている気がします。
 共存関係が対立関係に変わっていったのは政治的な要因が大きいといえます。欧米が入ってきて支配をするうえで、もともとあった違いを利用して、対立をあおるようなことをしてきた。しかし、まわりから見ると、イスラームそのものが不寛容で好戦的だから、そういうことが起きるというふうにイメージされてしまう。それは大きな誤解です。
 さきほど見たようにエジプトにも、スーダンにも、エチオピアにも、それぞれのイスラームの形があります。イスラームは地上的な権威というものを認めないので、これは異端だとか、こんなものはイスラームではない、ということを権力者が決めるということもありません。むしろ、ゆるやかな中で共存していく、それがもともとのイスラームの精神だったと思います。しかし、今イスラーム世界、中東で起きていることを見ると、なかなかそうは感じられません。
 そろそろ終わりにしたいと思いますが、我々がイスラームはわからないと感じるのも、本質的な寛容さを持ちながら、こんなふうになってしまっている、というところだと思うのです。
 はっきりいえるのは、今起きているさまざまな問題の原因がイスラームの教義そのものにあるとか、イスラームそのものが好戦的なのだ、とする見方は短絡的だということです。最初に申し上げたように、イスラームについて学んでも、現在イスラーム世界で起きている政治的なことは、なかなか分かりません。
 ではイスラームを学ぶのは意味がないのか。そんなことはありません。イスラームを信じて生きている庶民の暮らし、ご紹介したような、喧嘩したり愛し合ったりして暮らしている濃密な人間関係の中には、多様な存在を受け入れながらやっていこうとするゆるやかさがあります。そこから学ぶこと、気づかされることはたくさんあります。ただ、そうしたゆるやかさや多様な価値の共存が政治的なレベルでは、うまく機能していない。それは西洋的な価値観の押しつけによってイスラームの価値観がゆさぶられている、ということと関わっていると思います。そのことについては今回のテーマではないのでふれませんが、少なくともいま政治的に起きていることがイスラームの本質ではないと私は思っています。今日はありがとうございました。


会場のようす


以上

(文責:事務局)