「ことばを通してみる日中関係」
● 2015年2月21日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス大学院棟348教室
● 話題提供:張弘先生(杏林大学外国語学部中国語学科准教授)
● 司会:八木橋宏勇(杏林大学外国語学部准教授)
司会 今日は「ことばを通してみる日中関係」と題して、杏林大学中国語学科の張弘先生をお迎えしての「ことばのサロン」です。張先生は四川省のお生まれで四川大学、北京外国語大学で学ばれ、通訳者、翻訳者として実務経験を積んでこられました。
杏林大学の外国語学部は英語を学ぶ学生が多いのですが、卒業時の成績をみると、圧倒的に中国語学科の学生に成果が上がっている。これは張先生の実務経験に基づいた教授法によるものだろうと感じております。今日はそういう実務の背景をお持ちの先生から見た日中関係についてのお話をお楽しみいただけると思います。
はじめに
張弘 中国では、「長江の波は後から後から押し寄せて前に進んでいく」という言葉があります。その意味は、優秀な若手がどんどん出てきて、年よりは追いやられていく、ということです。私は八木橋先生とは杏林大学では同期ですが、親子ほど年が違います。八木橋先生を見るたびに、このことばを感じます。
私が今やっていることは、通訳・翻訳の仕事の外、大学で中国語通訳・翻訳者を育てる教育の仕事で、日中関係の専門家ではありません。基本的に私の経験に基づいて、日中関係を語るキーワードにそってお話します。
「日中友好」
日本と中国の関係を語るときに必ずついてまわるのは、「日中友好」という言葉です。必ず「友好」が付きます。2月の13日時事通信で、日本のODAで作られた「中日友好病院」が略称として「中日病院」を使用することが明らかになり、日中関係者やインターネット上では「友好」が消えた、と波紋が広がっている、と報じています。ネット上では「厳しい日中関係の中で友好が無くなったからか」とか、「中国政府の意向を反映しているではないか」との意見も出ました。
2000年ごろ、中国の高官が訪日するときに、通訳としてついたことがよくあり、その昼食会か、晩餐会かの席上で、日本の政治家がまさにこの「日中友好」ということばについて語りました。彼いわく、「友好」が必ず付く、というのはそもそも日中関係がおかしいのではないか。いつか、中国と日本が本当に普通の二国関係になった時に、あるいは本当に日中友好が実現した時には、この「日中友好」という枕ことばが要らなくなるのではないか、そのような日が来ることを望んでいます、と。私は大変感銘を受けたので、この時事通信の記事を見た時にそれを思い出したのです。本当に日本と中国の関係が友好的である日が来ることを願っています。
「有国家 才有小家」
私がなぜ日本へ来て、今ここでお話をしているか、プロフィール紹介も含めてお話いたします。私は1963年(昭和38年)生まれで、この年はまさに文化大革命が始まる直前です。
その時代を表すキーワードは「有国家 才有小家」(国があってはじめて家庭がある)。西欧の考えと逆ですね。英語を習ったとき衝撃をうけたのは、まず、自分の名前を書く。住所も身近な番地から大きなものへと書く。中国のこの時代の決まり文句は、国が無ければ、個人の家庭なんて無い、だから国は何よりも上にあるのだ、ということを暗に意味するものだと思います。
そういう中国で象徴的なものと言うと、「三十年河东,三十年河西」(価値観の二転三転)。中国の大河・黄河は流れを変えるのです。自分の住まいは30年前は河の東にあった、でも河が流れを変えて、30年後は河の西になってしまった。この言葉の意味は、人生は一寸先が闇であるということ、いい意味で解釈すれば、今が悪くても先はひょっとすれば大成功するかもしれない、世の中のすさまじい変わり方を意味しているわけです。中国人は、少なくとも私の世代の人間はみな波乱万丈で、それぞれの物語がある。政治環境からもたらされた家の事情があるということです。
たとえば、名前ですが、当時よく言われた「生在红旗下,长在红旗下」(赤旗のもとに生まれ、赤旗のもとに育つ)、毛沢東時代共産主義の中に生まれ、その教育を受けて育つということですが、 そこからその時代の名前には紅が多いのですね。勇ましい名前が多い、兵隊の兵ですとかも多いのですが、代表的なのが紅です。この紅は「ホン」と発音しますが、私の名前の弘も「ホン」と発音します。親は紅には抵抗があって、同じ発音の弘にして、苗字と同じ弓偏でもあるし、親として、知識人としての矜持を保とうとしたわけです。
初めて覚えた歌は「我爱北京天安门」(私は北京天安門が大好き!)でした。(歌う)といういたって簡単な歌ですが。北京天安門に赤い太陽が昇る、偉大な毛沢東が私たちを前進に導いていく、そういう歌です。意味は分からなかったのですが、そういう歌を歌いながら成長していったわけです。
共産主義が実現するとどういう社会になりますか?と大人に聞くと、帰ってくる答えは「土豆烧牛肉」でした。毎日無料で肉じゃがが食べられるよ、ということです。私の心に残った、共産主義の分かりやすいイメージです。当時は配給制で、ほとんど肉なんて食べられませんでしたから、共産主義になるといいなぁと感じたわけです。
一方、当時もっとも恐れた質問は「什么成分?」 です。こういう集まりなどでは、まず、毛沢東語録の「人民のために奉仕せよ!」と言った後、「什么成分?」(どんな身分ですか?)と聞かれます。意味は、どんな出身ですか、ということです。階級ですね。貧農・下層中農(自分の土地も持たず貧しい農民)あるいは都市で言えば工場労働者が、社会主義の主人公と言われる身分、中国を支える人々だとされていました。それ以外の人々、資本家、地主、知識階級、少なくとも前2者は打倒すべき対象となります。悪いことにうちは親が知識階級でした。祖父が成都で弁護士をしていて、収入で土地を買って地主になりましたから、出身が地主ということになってしまった。共産党がやってくる、というので、祖父の弟は台湾に逃げましたが、祖父は長江を超えて国民党が支配していた四川までは来ないだろうと構えていたので、そのまま成都に残り、結局刑務所に入れられ、後、銃殺されたと聞きました。実際写真一枚残っていません。写真が見つかったら、昔の時代に戻りたいのかと処罰を受けるので残せませんでした。
革命は大人をそのように駆り立てて行きましたが、一方で子どもは勉強するにしても先生がいないわけで無法状態になるわけです。「阳光灿烂的日子」 という映画が子ども天国だったその時代を描いています。
そして周恩来・毛沢東が亡くなって鄧小平の時代になります。
改革開放の時代・外国的月亮比中国圆
私が中学校1年生か2年生の時に毛沢東が亡くなりました。これからどうなるのかと、みなさんが泣いていましたが、家に帰ったら親たちがコソコソとしゃべっていて、これから時代がかわるぞー、と、なんとなく外と雰囲気が違うな、ということを覚えています。そして何が変わったかというと、私の時代は、中学校卒業すると、ほとんど田舎へ下放されるわけで、親もいつ帰れるかわからなくなる、と心配しているときに毛沢東が亡くなり、鄧小平が復帰して、すぐに高校入試・大学入試を復活するという話になりました。
それまでちっとも勉強しなかったのに、急に勉強ができないと上に行かれないというモードになり、「近水楼台先得月」(水に近い楼閣にいれば、先に月を眺めることができる)つまり、条件が整っているところにいれば物事に有利に働く、親が教師あるいは教育関係者の子弟が、もっとも早く入試にのれた、ということで、私は高校入試も大学入試もみごとに突破して、大学に入りました。
当時の大学は本当に狭き門で、合格率は6%くらいでした。100人のうち5,6人しか入れない。しかも、大学も重点大学と非重点大学に分けられていて、日本でいえば、東大、一橋、早稲田、慶応、それ以外は大した大学ではない、みたいな感じですごくはっきり分けている。その中で言われるのは「千军万马过独木桥」軍隊が千人も万人も狭い橋を渡ろうとすると、たくさんの人が落ちてしまう、優秀な人しか渡れない、という言葉です。
一方で当時の大学は、まさに国を背負う人材を育てるわけですから、学費は不要で就職保証という扱いでした。学費も寮費も払う必要がなく、卒業時には人数分の就職口が来るわけです。大学の知名度によって就職口の良しあしが決まり、大学側は学生の4年間の成績や大学の様々な活動に積極的にかかわったかどうかを見て、来た就職先を振り分けるのです。「天之骄子」は時代の申し子という意味で、まさに当時の大学生は時代の申し子でした。有名大学の大学生といえば、見る目が違ったものです。
入学した私たちも4つの理想に燃えていました。「实现四个现代化 /建立小康社会」 (工業・農業・国防・科学技術の四つの分野で近代化を達成することを目標にした国家計画)ですね。これについて宿舎で遅くまで語り合ったものです。中国の将来はどうあるべきか、とか、現在の問題は陣痛のようなもので、それを解決すれば未来が開けるなど、と。1月のことばのサロンで、鄭先生が韓国人は政治の話題を避ける、と言っていましたが、中国人はいつの時代も政治の話題が大好きなのです。
その時代で思い出すのは読書三昧ですね。朝6時から図書館が開きます。6時にはもう行列ができています。席を取ってから、外で外国語を朗読する、中国の漢詩を朗読する。それまでは禁じられていた「世界名著」が解禁になって冊数が限られているものですから、皆で回し読みをしたものです。小さいころ読んでいた本は、国民党との戦いの物語や抗日戦争の本しかなかったですから。前の人に、読み終わったらどんなに遅くても起こしてね、と頼んで、本を受け取ってすぐに読んだものです。私の在籍した日本語学科は20人しかいませんでしたが、彼らは現在世界中に散って活躍しています。
留学もブームになりました。「出国热=洋插队」ですね。それまでは共産党が一番、でしたが、ふたをあけてみたら中国の方が落ちこぼれているのではないか、海外の方が月も丸いのではないか、と見方が反対になり、とにかく留学に行こう、という時代になりました。私はそれに乗って日本に来たわけではありませんが・・・。
通訳の現場から見た日中関係
1980年に大学に入学したのですが、これは現役入試の一期生だったと思います。それまでは下放されていた人たちが大学へ入ったのでずいぶん歳の差がありました。私の世代は中国で一番幸運な世代、と言われているのです。高校へも入試で入れたし、田舎に行かずにすんだ、大学にも行けた、という。私は親が教育者で小さい時から本をよく読んだりしていたので成績が良かった。四川省では文系で第5位でした。北京大学にでも行ける、と喜びました。世界名著でフランス文学が面白かったので、フランス語学科に行こうと願書を書いて出しました。中国では省ごとに入学ラインを決めるのですが、私より何十点も低い人のところにどんどん入学許可書が来るのに、私の所には待てど暮らせど来ない。やっと滑り止めに志願した四川大学の、しかも書いてもいない日本語学科から許可書が届きました。後から分かったのですが、北京大学のフランス語学科は外交官養成のためのもので、外交学校の中高ですでにフランス語を学んだ人しかとらないとのこと。
私の日本語の学びはそんなスタートでしたが、四川大学に日本語を教えに来た先生との出会いが、私の人生を変えました。初めて日本人に会って、日本語が自分に合っている、と思い、それからは日本語一直線でした。卒業時、成績優秀だとそのまま大学に残って助教になるのが普通で、私も21歳で7月に卒業し、9月には大学の教壇に立っていました。日本語を教える人材が少なかったのです。先生の内、実際に日本に来た方もほとんどいませんでしたし、しゃべる人も少なかったです。
この年は日本と中国が色々の協力事業を始めた年です。そういう中で日本の丸紅との商談で中国企業の団体が日本に出張するのに、通訳が必要だから出してくれ、と大学に要請がありました。先生に、君が行け、と言われて有頂天になりましたね。日本へ行くなんて夢のまた夢でしたから。でも4年間勉強しただけで通訳が務まるのか、当時はきちんとした辞書もないのですから。でも行くことにし、丸紅の当時拝島にあった工場で初めての通訳を務めました。「私は四川大学外国語学部日本語学科を卒業した張弘と申します。どうぞよろしくお願いいたします」とそれだけはスムーズにいえるようにしました。でも技術的な話はまったくちんぷんかんぷんで、物を見ながら両方に、これは何と言いますか、これは何と言いますかと聞いて書いたと言う感じで、誰よりも一所懸命覚えましたね・・。双方の意思疎通ができ、ご苦労様と言われた時は本当によかったと思いました。
また、その当時は抗日戦争の記憶はまだ広く残っているから、日本人は中国人に対してあまり良くはしてくれないのではないか、という懸念がありました。出国費用をいただきましたが、これは中国人があまり変な格好で海外に行くのはよろしくない、ということですね。当時の月給が60元のところ、300元でしたね。スーツケースや洋服を買って、日本に来たら、中国人もセーターを着るんですね、と言われた。要するに、人民服じゃなく、ということですね。そういう時代でした。日本ではみなさんに親切にしてもらいました。拝島から、中国で知り合った日本人の知人のいる西日暮里に行くために立川で乗り換える、その時にホームにいた若い女性に、これは東京に行きますか?と尋ねたら、にっこり笑って、行きますよ、ごいっしょしましょうか?と言われ、すごく感動しました。まだその方の顔を覚えています。
一方で、イデオロギーの違いで私が変な行動をとったこともありました。泊まっていた旅館で、中国でなら引退しているような年配の方が食器を洗っている、資本主義は大変だ、と思わず私が洗います、と言ってしまいました。
またODAで専門家を派遣する時代があり、JICAの専門家の語学研修をしたこともありました。一日6時間、3週間缶詰になって中国語の勉強です。現地では通訳も付くのですが、中国語が分かった方がいいので。ODAでの専門家派遣の最後まで研修を担当しました。みなさん大変立派な方たちで、ああ、こういう方たちが中国へ行って仕事をするのだな、とうれしく思ったことです。
それから同時通訳の勉強をし、デビューしたのが国連のアジア犯罪防止研究所での、日本と中国の司法界の方たちの会議でした。毎年、10数年続きましたが、90年代、それまでは無かった中国の刑事訴訟法ができて、日本の刑事訴訟法との違いなど、厚い資料を読み込んでから通訳しましたが、今から思うと最初の年など、なにを通訳したか、聴きたくない感じですね。でも続けて声がかかりましたから、まぁ、大丈夫だったのかな・・・。この司法会議の際、中国の警察の高官の方が雑談の中で、これからの中国は間違いなく民主化する、日本に対する考え方も変わる、とおっしゃったので、ああ、時代はこんなに変わったのかと思いました。中国の変化のスピードの速さを感じましたね。
2000年からはペンクラブ日中作家交流の通訳もやっています。その中で印象に残ったのは莫言さんですね。ご存知のとおり、2012年にノーベル文学賞をもらった作家です。ペンクラブ主催「災害と文学」というシンポジウムで、大江健三郎さんと対談したり、いろいろな活動がありました。その時ですが、私がホテルから帰ってきたら、莫言さんから電話があったと言われ、ホテルの部屋に電話したのですが、出なかった。翌日なかなか莫言さんが現れず、あとで聞いたら、靖国神社が問題になるので、こっそり行ってみたいと前日私に電話をよこした。でもつながらなかったので、翌日日本の知人に連れて行ってもらった、と。感想は聞きませんでしたが、あぁ、そういう人なのだなぁ・・・、と。
また文革時代をテーマにした小説を書いている女流作家・王安憶さんは渡辺淳一さんと対談しましたが、中国では渡辺淳一さんはとても有名です。中国で人気があるのは村上春樹と渡辺淳一。渡辺淳一が紹介されてから、中国では一気に不倫文化が花開いたと言われます。この対談はかみ合わなくて苦労しました。
「山の郵便配達」は日本で大変人気のあった映画・短編小説ですが、これを書いた彭見明(ポン・ジェンミン)も来日して、中国ではあまりヒットしなかったこと、中国と日本の感性の違いなどを語りました。
また、日中の若手政治家の交流プロジェクトの通訳もしました。江沢民のすぐ下の曾慶紅さんと河野洋平さんの二人で交わしたプロジェクトで、日本と中国の若手政治家が互いの国を訪問しあう、というものです。私は10年間通訳を担当しました。最初に中国から来たときはすごく緊張感のあるミッションでした。外務省から人選はもちろん、服装まで細かく指定されました。粗相があってはならないと言われ、一日が終わると反省会が続き・・・。当時は子どもも小さかったし、受けようかどうか迷いましたが、話を持って来た担当の課長さんが、お国のためだと思って引き受けてくださいと言うのでびっくりしました。そんなに大事なことで、私が役立てるなら、引き受けようと思ってお受けしました。
朝は野党党首との朝食会、午前中はレクチャーや省庁訪問、昼は与党幹事長の昼食会、夜は外務大臣主催の晩餐会というハードスケジュールでした。当時の政治家にはみんなに会いましたね。まさに自分が歴史のひとこまにいるなぁと感じつつ、やっていました。一番印象に残るのはホームステイですね。2005年以降、地方でのホームステイがスケジュールに入りました。一日、どこかの日本の家庭で過ごす。そのホームステイに行く前と後とで、顔がまったく違っているのですね。行く前は緊張感が抜けなかったのが、帰ってくると日本人はいい、素晴らしいと感激の面持ちなのです。かなり地位のある40,50くらいの方が私をハグして、良かったですよーとおっしゃる。男性でも涙を浮かべる人もいて、これで少し日本のことが分かった、と。靖国問題があると時期がのびたり、ハラハラしましたが、何とか途切れずにプロジェクトの実施ができました。ただ、このプロジェクトも2,3年前に終了しました。
ユネスコのやっているACCU中国教職員招聘プログラムの通訳も10年くらいしました。これは、日本と中国の関係を教職員が分かることが重要だということから、互いの教職員の交流を図るプログラムです。中国の教職員の人が来日して一番感激するのはなんだと思いますか?それは、日本のどこへ行っても同じ教育が受けられるということです。無人駅しかないような片田舎でも、小中学校があり、同じようなキャンパスの設備があり、同じ教科書を使って勉強できる。これは、今の中国の人にとってもすばらしいこと、日本の底力はここだなぁと言います。私が80年代、外務省の招待を受けて来日した時、広島の小学校を見学して、中国の子どもたちもこういう教育が受けられたら、とすごく感動したのですが、今でも先生方が学校見学で感激する、まだまだ中国では教育格差が改善されていないのですね。これはハード面ですが、ソフト面で何に感激するかというと、皆さん思いもよらないでしょうが、日本で漢詩・漢文が教えられているということです。中国の古典が日本で学ばれているというのは驚きです。教科書問題などいろいろありますが、こういうところも見てくださいと言いたいです。それから、部活です。中国は受験戦争が大変で、高校生などのんきに部活などやっていられない。ブラスバンドを演奏してくれたりすると、先生方は、あぁ、中国の子どもにはこういう時間がないなぁと言っていました。あとは給食や掃除。学校を見学するとお昼にいっしょに給食を食べる。質素ですが、栄養満点の給食をみんなが食べられる。それは中国ではあり得ない。子ども達が掃除をするのを見て、日本では小さい時から自分のことは自分でする、と。中国では掃除は業者に委託してやってもらっています。
それぞれの国のイメージ
中国人の日本像は「一衣帯水」とか、「唇齿相依」唇と歯のように 切っても切れない関係、「友好邻邦」友好関係の国、「礼仪之邦」 礼儀正しい人々の国、そういうものですね。意外かもしれませんが、中国人の日本像には悪い言葉がほぼ出て来ません。
日本人の中国像は「漢字の国」「漢文・漢詩、三国志や水滸伝などの古典を共有」「?千年の歴史」とか、ですね。でも、今中国というと、PM2.5、中国人観光客とか、いくらでも出て来ます。
時代別に見ると、毛沢東時代に、日本と敵対関係に終止符を打ったのは大きな出来事でした。ニクソン訪中の衝撃などを背景に日中の国交が1972年に正常化され、その際、毛沢東は、日本の軍国主義と日本の国民を切り離して、日本国民も被害者だったのだから戦争賠償請求を放棄して国交正常化を図りました。その晩餐会で周恩来首相が言ったことは、「前事不忘 后事之师」でした。その直後の田中首相の挨拶は「中国国民に多大なご迷惑をかけました。それを深く反省します」というものです。その「ご迷惑」の中国語訳は、「添麻烦」で、これは、例えば私がお茶をだれかの服にこぼしたり、八木橋先生に頼みごとをしてお手数をかけたり、そういうときに言う言葉なのです。ですから、この「添麻烦」を聞いたとき、中国側は凍りついた、というわけです。その後、これが誤訳かどうかと問題になりました。この訳をしたのは哈爾浜出身の外務省官僚で、日中国交正常化について書かれた本によると、必ずしも誤訳ではない。通訳としてはそれしか言いようがない、ということですね。
そのあとは、ODA、円借款の時代です。大平正芳さんが首相になって、1979年からです。これを戦争賠償放棄の代わりだと見る中国人もいました。最長40年、3000億ドルの円借款をしたということです。慶應湘南キャンパスで、ある円借款の専門の先生がおっしゃるには、円借款のなかでは中国は一番の優等生で、常に早め早めに返している、と。それを聞いて、安心しました。
大平さんは田中内閣の外務大臣でした。国交正常化の日中共同声明を作った方です。ですから首相になってから円借款も積極的にやられました。また国際交流基金を通じて、北京大学に日本語学研修センターを作り、修士課程を設置しました。中国の大学で日本語を教えている教師を、毎年数十人選抜して大学院レベルの研修を受けさせるのです。そのクラスを「大平クラス」と称しました。ちなみに私もその大平クラスを出たのです。このクラスは当時すごいステイタスなのです。というのは教える先生が林四朗先生、松岡栄治先生とか、最近「問題な日本語」を出された北原保雄先生とか、一流の学者の方々ばかりです。その先生方に師事できたのは本当に幸せです。印象的だったのは、ある日、「大地の子」の取材中だった山崎豊子さんがやってきて、「二つの祖国」という映画の上映と山崎さんの講演があり、内容にとても感激しました。
中国人の流儀として、「饮水思源・喝水不忘挖井人」 (水を飲むときに井戸を掘った人を忘れない)ということがあります。恩義のある人は忘れない。ですから、田中角栄や大平正芳のことは中国の人はいつまでも忘れないでしょう。
鄧小平時代の日中関係→日中友好“蜜月期”
鄧小平時代は「改革开放 发展才是硬道理」 ということで、経済発展へ舵を切りました。蓋をあけて見たら中国は遅れた貧しい国じゃないかという現実に直面したのです。その中で日本がまぶしく見え、日本モデルへの期待が高まりました。大きなプロジェクトとして、上海にできた宝钢 (パオカン・工業団地)に国中が湧きましたね。ちなみに、このパオカンの通訳をしていた方が私の通訳の先生です。一方、農業に関して、当時の中国には化学肥料が無かった。80年代日本から化学肥料を買って、生産量があがりました。今思うと、これほど化学肥料に頼らない方がよかったかなとも思いますが。
あとは家電ですね。彩电(カラーテレビ) 冰箱(冷蔵庫I 洗衣机(洗濯機)80年代から90年代の中国では皆が欲しがった。私も通訳の仕事で得たお金で親にカラーテレビを買って贈りました。
また、それまでは西側の映画がなくて、中国、北朝鮮、ベトナム、アルバニアやユーゴスラビア、そういうところの映画だけでしたが、日本の映画やドラマが入ってきて、女性は皆山口百恵にあこがれ、男性は高倉健にあこがれました。中華人民共和国建国60年だったか70年に、誰か呼ぼうというとき真っ先に名前が挙がったのが山口百恵でしたが、もう引退していたので実現しませんでしたが、それほど人気がありました。
江沢民時代の日中関係→政冷经热"逆流期"
江沢民時代、私は日本に来て間もないころでしたが、「大地の子」がヒットして、どこへ行っても中国人は敵方の戦災孤児を育ててくれて、心が広く、すばらしいとよく言われ優しくしてもらいました。しばらくすると中国も経済が軌道に乗って、世界の工場と言われるようになり、日本からの投資も過熱してきます。1992年、日中国交正常化20年を記念して、中国国家主席の初の来日として江沢民が来日しました。ところが、江沢民来日直前に韓国の金大中大統領が訪日して、国会で「過去を直視しながら、未来志向的な関係を築いていくべき」と演説し、それまで凍結されていた日韓の交流を再開しようと言ったのです。そこで日本国内に韓国歓迎ムードが盛り上がりました。過去のあつれきから一歩前進と受け止められたのです。そのあとに江沢民の訪日があって、はじめての中国国家元首の来日ということもあり、日本側はとても期待していると感じられました。江沢民はいろんなところで演説しましたが「以史为鉴 面向未来」(歴史を鏡にして未来へ向かう)ということを言いました。この言葉自体は何の問題もありませんが、当時の日本は大変トーンダウンしてしまいました。日本人は歴史認識が足りないと言いに来たのではないか、と思ったのでしょう、当時のがっかりしたムードを思い出します。 江沢民が帰った後で、中国脅威論が台頭し、中国の安い製品、農産物が日本の経済の空洞化をまねいたのではないか、と言われました。中国の高官を連れて慶應湘南キャンパスへ行った時も、講師から中国脅威論を聞かされ皆でびっくりしたということがあります。
朱鎔基首相来日
江沢民訪日以来、日本の村山首相や橋本首相が訪中しているのですが、関係はあまり改善されていませんでした。そんな中1999年朱鎔基首相が来日し、「增信释疑」(信頼を増して、疑念を取り除く)をテーマにした訪日、信頼関係を醸成し、疑心暗鬼をなくして理解を深める、そのための訪日でした。朱鎔基首相の真摯な態度から、冷ややかだった日中関係もある程度修復されたと思います。筑紫哲也のTV番組での朱鎔基首相と市民との対話では、市民から寄せられる質問に朱鎔基首相が真摯に答える非常にすばらしい内容でした。共産党のこれまでのあり方とは違う柔軟さを感じました。朱鎔基は高潔でIQの高い人物です。すべてのデータは数字で全部覚えている。リニアモーターカーの視察に行くとき私が通訳として同行しました。その際、彼がTVでの市民対話でどう映ったかを心配しているのが印象的でしたね。本当に生真面目なすばらしい方でした。
それですこし日中間のムードが持ち直したかと思ったら、2001年小泉首相の靖国参拝で急にまた悪くなって、政冷经热、経済は過熱しているが、政治は冷え切っている、という状態になり、4年間は首脳同士の交流もなくなりました。
胡錦濤時代の日中関係→“新蜜月期”も束の間
続く胡錦濤時代には4つの象徴的な訪日・訪中がありました。ひとつは2006年の安倍晋三首相(第一次安倍内閣)の訪中ですね。歴代の首相就任直後の慣例となっていた訪米よりも前に、あまりに長い間関係が断絶しているため、安倍首相は訪中・訪韓をしたのです。この訪中は「破冰之旅」(氷を砕く旅)と表現されています。「冰冻三尺非一日之寒」(氷が三尺の厚さになるには一日の寒さではない)冷え切っている関係を溶かすのはすぐにはできない、まずは氷を砕かなくては、という形容詞がつけられていました。安倍首相は「戦略互恵関係」の構築を提唱し、今に至っています。
ここから一気に雪解けムードになりました。安倍首相夫人の昭恵さんも中国中央テレビ放送の独占インタビューに出演しさまざまな質問に答えていました。ああいうのは日本でも放送すればいいのに、と本当に思います。その後中央テレビは日本に取材に来て、さまざまな日本の企業や市民の暮らしを中国で放映し、大きな反響があり、好評を博したということです。
翌年2007年4月に温家宝首相が返礼として来日しました。国会での演説タイトルは「友情と協力のために」。その中で言ったのは「歴史の鏡を忘れないのは恨みを抱え続けるためではなく、教訓を銘記して、よりよい未来を切り開いていくためだ」と。そこで温家宝首相の訪日は「融冰之旅」(氷を溶かす旅)と表現されています。
同年の12月に福田康夫首相が訪中しました。28日北京大学での演説では、日中関係の三本柱を提案しました。互恵関係の中でともに国際貢献をすること、相互理解と相互信頼という3本の柱です。立ち見まででた会場で大きな反響がありました。福が来る年末にかけて、「福田が来ました」と冒頭で言って、爆笑が起こりましたね。この福田首相の訪中は「迎春の旅」と表現されます。
次に「暖春の旅」と言われるのが胡錦濤主席の訪日ですね。2008年の5月です。胡耀邦時代、国交正常化して間もない80年代に、3000人の日本人学生を中国へ、300人の中国人学生を日本へ互いに呼ぶという交流がありましたが、その中国人学生の中に胡錦濤もいたのです。ですから彼は日本に理解があり、日本と仲良くしたいと考えていました。訪日の中で彼は日比谷の松本楼に立ち寄りました。松本楼の常務取締役の祖父が梅谷庄吉というかたで、孫文の支援者だったのです。孫文と宋慶齢が結婚式を挙げたのも松本楼でした。さっき言いましたが、中国人は水を飲むときは井戸を掘った人を忘れない、中国との友好に尽力してくださった方を中国は忘れませんよ、ということだったのだろうと思います。
習近平時代の日中関係→一触即发or互利共赢?
野田首相の時代に、現在も続いている尖閣諸島問題が始まったわけです。余談ですが、野田首相は自分でドジョウだと称していましたよね。ドジョウの日本でのイメージは「泥臭い」「素朴な」、ですよね。でも、中国では「狡猾」「ずるがしこい=つかめない」というイメージなのです。ですから中国のすばらしい通訳者は、このまま訳すと誤解を招く、と指摘していました。
尖閣諸島・钓鱼岛 領土問題に関しては、毛沢東や大平正芳のような昔の大物政治家が大所高所からやっていればいいのになぁと思います。私の記憶では、鄧小平がこの問題に関して、「これを解決するには我々の世代では智慧が足りない。次の世代でもっと賢い者が出てきたら解決するだろう」と言いました。
それから、歴史問題もあります。私の考えですが、「以史为鉴= 面向未来」(歴史を鏡とするのは、未来へ向かうためだ)ということです。お互いに歴史を客観的に見て、いかに建設的にそれを活かすかということです。中国と日本は、「和则两利,斗则俱损」(仲良くすれば互いに利益があり、戦えばどちらにも損になる)という関係ですね。最近のキーワードとしては「相向而行 互利共赢」互いに同じ方向に向かって歩み寄り、そうすればウィンウィン関係になると言われています。
日中関係がここまで悪くなっていったことについて、私は情報時代の危うさを感じています。「信息误区」(情報の誤認)ネット上ではネガティブな感情が増幅しやすい。私たちひとりひとりが気をつけなくてはなりません。中国で流行っている言葉は「正能量>负能量」(プラスのエネルギーは必ずマイナスのエネルギーより大きい) そう信じたいですね。
これからの日中関係→你中有我,我中有你
これからの日中関係は「你中有我,我中有你」(あなたの中に私があり、私の中にあなたがある)。すでにそういう相互補完関係は経済構造などに表れています。「优势互补」(優位性の補完)
また、日本文化の魅力・魔力を中国では「酷日本」(酷=クール ジャパン)と表現しています。
中国人は、ネット調査だと9割が日本は嫌いというけれど、それは歴史認識の一点についてだけです。ほかの点では褒めることばかりです。若い人たちは日本の漫画「动漫」を読み、アニメを見て成長してきたのですから。日本が好きな人たちは「哈日族」と言われ、「宅男・宅女」はオタクのことです。
「日剧」は日本のドラマ、「樱桃小丸子」はちびまるこ、「机器猫」はドラエモン、日本語の「攻略」「达人」は中国語になっていますね。
今日本の新聞に毎日出てくるのが中国の富裕層。中国語では「土豪」。もともとは田舎の金持ちを指す言葉でしたが、今の成金を茶化してそう呼びます。土豪は日本でお金を使う。2014年度は大陸の中国人250万人弱が来日、増加率は83.3%の及ぶ、と。一人平均14万円を日本に落としています。韓国人は2万円、台湾人は3万円ですが。上限をつけない中国人もいる、と。去年外国人が日本で使った総額はなんと2兆円で、その4分の一は中国人ですよ。何に使うのか。通訳者がよく聞かれるのはマツモトキヨシ。とにかくブランド大好きですから資生堂の化粧品がNO1。次は炊飯ジャー「电饭煲」ですね。魔法瓶「保温杯」は「象印」「虎牌」に限ります。最近はウォッシュレット「温水便座」、さらに金持ちは「买房」マンションを買う。爆買は「貨掃」です。品物を一掃するように買う。
「友好」という枕詞不要の健全な日中関係を目指して
過激な言葉をネット上に書き込んでいる人は、たいてい中国へ行ったことがない、日本に来たことがない。百聞は一見にしかず「百闻不如一见」だと思います。杏林大学で中国語を学ぶ学生は希望者100%中国へ留学して、留学した学生は100%中国は面白いし、聞いたことと全く違う、もっと中国へ行きたいし中国で働きたいと言います。
中国は複雑多様です。中国人であっても、中国が分かるかといえば、分からないかもしれません。地方や時代、教育レベルによって違います。あまり単純化してはいけない。日本はそれに対して単一協調の文化です。単一であるかどうかは別にして、少なくとも単一志向ではありますね。中国では皆が違う、というところから始まります。「百里不同风 千里不同俗」(百里離れると違う風が吹く 千里離れると風俗が違う)と言われます。中国人同士も同じ考えを持つとは限らないのです。
これからは、日本と中国は協同、協力、共栄「互动 合作 共赢」の道を歩んでいかなくてはなりません。日本では雨降って地固まると言いますが、中国では「不打不成交」(闘わなければ友達にならない)といいます。喧嘩して本音が出て、そこから理解するということわざですね。建設的な関係をいかに築いていくかということです。
大学の役割
それには大学の役割がとても大きいと思います。中国のある大学の学長の言葉が大変すてきだと思ったので最後にあげておきます。「是大学改变社会 而不是社会改变大学」(大学が社会を変えるのであって、社会が大学を変えるのではない)今は目の前の利益ばかりに追われて、大学は就職予備校のようになっています。そうではなくて、こういう社会であってほしいと議論し、よりよい社会に変えていく、それを大学に求めている言葉なのだと思います。中国でも民主化の動きなどは必ず大学生から発信されています。今の日本も経済優先の中で大学が変わろうとしているのではないか、大学にいる一員として心していきたいと思います。
今日は機会を与えてもらって、私自身振り返ることができ、とても良かったと思います。北京大学の大平クラスにいたころ、学芸大学の松本先生に師事されていた小幡先生というかたの日本語文章表現法という授業があり、その中で、もしも、地球上で国というカテゴリーが無くなって、ことばだけが残って、地球ことば村という状態になったら、どんな世界になるだろうか、それを想像して文章を書いてください、という課題がありました。ずいぶんロマンチックなことを書いた記憶がありますが、今、本当にそういう世界に向かっていったのなら、争いも減るのかなぁ、と思います。以上、ご清聴ありがとうございました。
(文責:事務局)
2021/5/21掲載
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