「ベラルーシのことば、人々、暮らし」
● 2016年2月13日(土)午後2時-4時30分
● 目黒青少年プラザ美術室
● 話題提供:清沢紫織先生(筑波大学大学院・日本学術振興会特別研究員)
ベラルーシは東にロシア、北にラトヴィアやリトアニア、西にポーランド、南にウクライナと国境を接する内陸国で湖や森に恵まれた美しい国。しかし日本ではチェルノブイリ事故に見舞われた国として名前が知られています。
タタール人やユダヤ人が多く住んでいた時代があったため、首都ミンスクのホテルにはモスクの痕跡があったり、正教会はもともとのカトリック教会の様式であったり、ゴーリキー記念演劇劇場はシナゴーグのなごりをとどめているなど、歴史に翻弄された人々と時代がしのばれます。
ベラルーシ語はロシア語やウクライナ語と同じ東スラブ語で、ベラルーシではベラルーシ語とロシア語の二言語が使用されています。道行く人のインタビューではほとんどの人が「母語はもちろんベラルーシ語、でも日常使っているのはロシア語」と答え、その返事そのものもロシア語でされているのが印象的です。母語は一般的には幼少時に身近な言語環境から自然に習得した第一言語を指しますが、ベラルーシ人の意識では、自身の民族的帰属と強く結びついた言語と理解されているようです。
19世紀には「ベラルーシはロシア民族の一部であり、ベラルーシ語はロシア語の方言とする大ロシア説」と、「ポーランド人の一部でありポーランド語の方言とするポーランド説」があったように、大国に挟まれたベラルーシはおのずから自らの民族アイデンティティーを強く意識せざるを得ないのでしょう。
1919年にベラルーシ・ソビエト社会主義共和国が創設されてソ連邦の一員になり、1924年に4つの公用語が定められます。ベラルーシ語、ロシア語、ポーランド語、イディッシュ語です。1990年に言語法が成立、ベラルーシ語は国家語、ロシア語は民族間交流語となり、ベラルーシ語の保護を強くうちだしましたが反対意見も多く、1995年に国民投票でロシア語も国家語となり、1998年の新言語法ではベラルーシ語あるいはロシア語の二言語体制となりました。人々は民族意識から母語はベラルーシ語としますが、子供には広く使えるロシア語を身につけさせたいと願っているとのことです。2001年ユネスコはベラルーシ語を消滅の危機にある言語のひとつと認定、その程度は最も軽いものではありますが、これからベラルーシ語はどのように継承されていくのか。継承の試みとして、2013年からモスクワやミンスクそのほかでベラルーシ語市民講座が開かれています。
最後にベラルーシの作家・2015年度ノーベル文学賞受賞のアレクシェーヴィチ(作品はロシア語で書く)の授賞式スピーチの映像を見せていただきました。これまで様々なインタビュー等で「私のとって重要なのは人間について理解することです。言語そのものは重要ではありません。だから、私はベラルーシ語では書きません。」「ベラルーシ語は私にとって、私が育った農村の風景でありその農村のおばあさんなのです。私はベラルーシ語を通して女性の声の世界を知りました。」といった発言のあったアレクシェーヴィチですが、授賞式のスピーチでは「お別れに際して、この素晴らしいホールにベラルーシの言葉が響いてほしいと思うのです。私の人々の言葉が」という言葉に続けて最後はベラルーシ語で語られました。
ベラルーシの詩人ヴァリャンチン・タラスの詩「私には2つの言葉がある」は1行ずつベラルーシ語とロシア語で書き分けられています。その一節に「私には2つの言葉がある/まるで鳥の持つ2つの翼のように/私には2つの言葉がある/まるで2つの窓から差す光のように」とあります。歴史的、社会的に困難な問題である2言語使用が、その個人にとっては豊かさ、恵みであるという、その個人の強さが感動的でした。
講演の全容はYouTubeでご覧いただけます。
YouTube映像
https://youtu.be/42mE9TeX7-M(別ウィンドウが開きます)
(文責:事務局)
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