「多言語使用のリアル―『面白い』を超えた先へ」
● 2016年7月9日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎442教室
● 話題提供:山下里香先生(東京大学東洋文化研究所・日本学術振興会特別研究員)
在日パキスタン人の子どもたちのコードスイッチング
山下先生の専門は社会言語学、バイリンガリズム。特に在日パキスタン人の子どもたちがどのような場面や社会的要因とのかかわりで、日本語、ウルドゥー語、英語を使い分けているのかを調査研究なさっています。
関東首都圏のモスク教室での子どもたちや教師のやりとりを文字化したものを見せていただきました。子供たちは地元の小学校へ通っており、放課後モスク教室でイスラーム教の聖典・クルアーンや英語などを学んでいます。モスクの先生はウルドゥー語や英語、他の南アジア諸語の話者ですが、子どもたちどうしのやりとりはほとんどが日本語。しかしその会話の中に、父親の話題が入ってくると途端にウルドゥー語に切り替わります。これは父親の権威とウルドゥー語が結びついていることを示しています。これを多言語使用と呼ぶか?-山下先生によれば、私たちは目上の人について話すときには敬語を使ったり、場面場面でスタイルを変え(スタイルシフト)て話している、それと同様の現象ではないか、とのこと。
バイリンガルとセミリンガル
私たちは「バイリンガル」と聞くと、二つの言語がどの場面でも同じように「完璧」に使えることをイメージします。しかし実際には二言語が生活のすべてにおいて全く同じように運用できる人というのは、いなそうです。リテラシーとは、その言語を読め、意味がわかり、文化的背景の知識を持っていることを意味しますが、それを含め二言語使用者は言語によって得意な分野や場面が異なることが多いようです。今でも時々話題になる「セミリンガル(ダブルリミテッド)」というのは、二つの言語のどちらも十分に使いこなせないために知的な能力が劣ることだと解釈され、早期の外国語教育に異論を唱える論拠になっています。しかし、言語運用能力の優劣を簡単に測ることは難しく、世界中の社会や文化、教育システムにおいても使える物差しはまだ存在していません。例えば、話者の能力ではなく、言語どうしの差異から言語表現できない場合もあります。それだけでなく、それぞれの教育システムにおいて、有名なものに、カナダのカミンズが提唱した、伝達言語能力(BICS)と認知言語能力(CALP)という考え方があります。前者は生活面での社会参加に必要な能力、後者は抽象的な思考を必要とする認知活動にかかわる言語能力とされています。しかし、これらは、発表当時のカナダの文脈において、学業不振の移民の子供たちがマジョリティに追いつくには少し時間がかかることを主張するための理論上の概念であり、言語運用能力や知的操作能力の優劣を裏付けるためのものではないとカミンズ自身が警告しているそうです。
在日パキスタン人の子どもたちに母語教育は必要か
言語少数者の子どもに母語で教育する学校が必要かどうか、どの程度の教育を保証するかは、次のいくつかの視点から検討されるべきだと山下先生は主張します。
① アイデンティティーや人間関係を強めるか
② コミュニティーや社会生活に役立つか
③ どういう進路を選ぶか
④ 文字や言語間の類似性からする難易度
⑤ 十分な教材やスタッフ、カリキュラム、時間がそろっているか
関東首都圏のモスク教室で話されているウルドゥー語はパキスタンの国語ですが、パキスタン国内でそれを母語とする人口は7.6%に過ぎず、パンジャービー語やパシュトゥーン語など、そのほかの言語の母語話者が多くいます。それらの民族語は軽視される風潮がある一方で、むずかしい文章にはペルシア語の借用語彙が使われたりします。そのような多言語社会であるパキスタンに帰国したとき、教育に必要となる言語は英語なのです。また、モスク教室でも、聖典クルアーンがアラビア語で読めることが一番重要であり、ウルドゥー語特有の文化を学習する環境では無いのです。
では、ウルドゥー語学習が必要ないかと言えば、山下先生が出会った、日本語、英語、ウルドゥー語話者の日本で育った女性は、やはりウルドゥー語ができてよかった、情報源が増える、とくにイスラームの知識について、自分で調べることができた、と語っていたそうです。
多言語社会における母語の地位は、日本における母語とまた違う、したがって在日パキスタン児童と海外日本人学校の教育内容とは違うのだろう、ということを改めて感じる講演でした。この講演の全容はyoutubeでご覧になれます。
YouTube映像
https://youtu.be/8zRzQrDJCK0 (別ウィンドウが開きます)
VIDEO
(文責:事務局)