地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2017・3月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「福沢諭吉の英語―翻訳から考える日本の近代化」


● 2017年4月1日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎445教室
● 話題提供:鈴木健次先生(元NHK教養番組プロデューサー・大正大学名誉教授)
● YouTube映像 (講演の全内容をご覧いただけます)
  https://www.youtube.com/watch?v=4RcXb1wB2EY



鈴木健次先生紹介 小林昭美(地球ことば村理事)

 今回は慶應義塾に因んで、福沢諭吉先生をテーマにNHKの日本史探訪という名番組の名プロデューサーでいらっしゃった鈴木健次さんにお話しいただきます。アメリカ学のお仕事もたくさんあり、ご著書も出しておられます。

鈴木健次先生
鈴木健次先生


講演要旨
福沢諭吉は外国語をどのように学習したか


 福沢諭吉が咸臨丸に乗ってアメリカに行ったのは、英語の勉強を始めてわずか一年後なのです。あのベストセラー『西洋事情』を出版したのも、その最初の渡米からわずか六年後です。どうしてそんな短期間に英語を身に付けて取材などもできたのか不思議に思います。やはり、西洋文明を吸収しないと自分たちの身が危ない、日本もどうなるか、という危機感が原動力だったのでしょう。福沢諭吉に限らず、新島襄も内村鑑三も、岡倉天心、新渡戸稲造など、みな英語で執筆している。状況が生んだ語学力ではないかなぁと思わざるをえないです。
 時代のニーズがあって、短期間に長足の進歩を遂げたことは確かだと思うのですが、福沢の場合、緒方洪庵の適塾ですでにオランダ語を身に付けていたことが大きいのです。適塾はバンカラでめちゃくちゃなところもありますが、こと勉強ということになると塾生はみな、昼夜別無しの猛勉強です。勉強法はもっぱらテキストの会読。入門者は文法、次に文章構成法、そして、すぐにテキスト会読となります。塾生には語学能力によって八階級あって、自分の級で三か月トップになると1つ上の級に昇級できる。

アメリカへ渡航

 安政六年(1859)横浜開港、福沢は、その前年にできた中津藩の江戸学問所の洋学指導者として江戸に出てきていたので、横浜へ行ってみます。そこでオランダ語の通じない多くのアメリカ人に会い、これからは英語をやらねばならないと気が付くのです。当時高額だった英蘭辞書を中津藩に買ってもらい独学で英語を学び始めました。そして、万延元年にアメリカに日本の船、咸臨丸が行くということを知って、福沢はつてを頼って、軍艦奉行の木村摂津守の従僕になり、咸臨丸に乗り込みます。
 使節を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号の随船だった咸臨丸は、ポーハタン号のようにワシントンには行かず、サンフランシスコからそのまま帰国します。ですから福沢が経験したのは往路に寄稿したホノルルとサンフランシスコだけ。またポーハタン号の船員はアメリカ人ですが、咸臨丸の乗組員は日本人ですから船内での会話は日本語で、そこはいわば日本の武家社会の縮図だったわけです。ホーハタン号と咸臨丸による日本使節団渡航者が書きのこした西洋見聞録は、伊達藩の下級武士だった玉虫左太夫や使節団ナンバー2だった副使の村垣淡路守の日記などがあり、幕末の日本人の西洋見聞というテーマに関する大変面白い史料となっています。
 福沢は「万延元年アメリカ ハワイ見聞報告書」を、に提出しています。これは玉虫や村垣淡路守のものと比べて面白くない。無理もないことで咸臨丸は日本の封建社会を小さくした世界で、サンフランシスコに上陸しても家司や下司には行動の自由があったわけではありません。この時期の福沢は、まだ西洋学書生の域を出ていません。ただ、福沢の偉いところは、横浜に行って、これからは英語だ、と転向するその目ざとさですね。ウェブスターの辞典を買います。それから貿易の実務用の『華英通語』という単語集のような、中英辞典を買い、帰国早々に中国語と英語の原本に日本語訳をつける。カタカナ表記で発音を表し、三か月後には『増訂華英通語』(1860)という本にして出してしまう。これが彼の最初の著作なのです。
 自らの著作についての回想である「福沢諭吉全集緒言」は、「福翁自伝」ともとれ第二の彼の自伝とも言ってもいいと思います。その中で福沢は『増訂華英通語』で自分が初めてウに濁点のヴの発音表記を編み出した、と自慢しています。風=ウィンドのドや春=のスウリングのグは小さいドやグで表しています。少し前に中浜万次郎も『英米対話捷径』」という本を出していますが、彼は、もともと万次郎は文字を知らずに渡米しましたから、耳で覚えた英語です。春は「スプリン」、風は「ウィン」と申す、と書いている。このほうが実際の発音に近いですね。福沢は文字から入った人ですからdやgを無視できない。小さいカタカナで書いて苦労したわけです。

ヨーロッパへ渡航・西洋事情の執筆

 帰国後間もない文久二年(1862)に、彼は開港延期交渉のために幕府がヨーロッパに使節を送ると耳にし、今度は通訳として随行することになります。さらに万延元年の渡米から四年後、元治元年には軍艦引き渡し交渉使節の一員として渡米します。数年のうちに渡米二回、渡欧一回は当時としては破格の経験です。実践英語も相当鍛えられたと思います。その間に幕府の翻訳係にも雇われ、当時の緊迫した外交交渉の文書も手掛ける。非政治的な洋学書生だった彼が世界情勢や先進文明についてかなり体系的な知識を持つようになったと思われます。
 彼は文久二年の渡欧時の忘備録をもとに『西航記』を書き、さらに『西洋事情』にまとめました。『西洋事情』は慶應二年に三冊、四年に三冊、明治三年になって四冊、合計十冊も出し、欧米の生活、政治システム、政治思想などを紹介しています。実際の手書きメモ「西航手帖」を見ると、現地で彼がどれほど貪欲に取材し、宿でメモを整理したかが伝わってきます。また彼がロンドンで買った書籍を見ると、労働者階級の上層を対象にしたような本、辞典、教科書がほとんどで、それが『西洋事情』や『学問のすすめ』の執筆に役に立ち、それらの翻訳が著書に多く取り入れられています。『西洋事情』は彼によれば七○万部売れたということで、この数字がどれだけ正確かはともかく、よく売れた。その理由はこうした啓蒙書をうまく使っている点にもあるのではないかと思います。意図的に、誰にでもわかるよう世俗的なことばで書かれています。
 緒方洪庵が彼に翻訳のコツを教えてくれた、と全集緒言にあります。翻訳はとにかく読み手が分かる日常のことばを使いなさい、そのためには難しいことばを使った高級な辞書ではなく、平易なことばで書かれた辞書を使うように、という教えでした。福沢は自伝の中で、自分は翻訳に限らず、ものを書くときにはいつもこの洪庵先生の言われたことを思い出している、と述べています。

アメリカ独立宣言を日本語に訳す

 福沢諭吉は『西洋事情』の中で憲法や独立宣言について述べています。独立宣言を丸ごと訳していて、その翻訳がとても興味深いのです。『西洋事情』という本自体が、子供向けの本や百科事典の翻訳が主で、ほとんど翻訳書といってもいいのですが、独立宣言は純然たる翻訳で、その翻訳を読むと、福沢諭吉の英文解釈に語は間違いもありますが、全体として非常に優れている。独立宣言の前文の一部を見てみましょう。

原文 (Daniel J. Boorstin ed. An American Primer, The University of Chicago, 1966)
 We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness. ―That to secure these rights, Governments are instituted among Men, deriving their just powers from the consent of the governed,― That whenever any Form of Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it and to institute new Government, laying its foundation on such principles and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their Safety and Happiness. Prudence, indeed, will dictate that Government long established should not be changed for light and transient causes; and accordingly all experience hath shown, that mankind are more disposed to suffer, while evils are sufferable, than to right themselves by abolishing the forms to which they are accustomed. But when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same Object evinces a design to reduce them under absolute Despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such Government, and to provide new Guards for their future security.

福澤諭吉訳「亜米利加合衆国獨立宣言」(『西洋事情』初編巻之二、全集1、p.323)
 天の人を生ずるは億兆皆同一轍にて、之に附与するに動かす可からざるの通義を以てす。即ち其通義とは人の自から生命を保し自由を求め幸福を祈るの類にて、他より之を如何ともす可らざるものなり。人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通義を固くするための趣旨にて、政府たらんものは其臣民に満足を得せしめ初めて真に権威あると云ふべし。政府の処置、此趣旨に戻るときは、則ち之を変革し或いは之を倒して、更に此大趣旨に基き、人の安全幸福を保つべき新政府を立るも亦人民の通義なり。是れ余輩の弁論を俟(ま)たずして明了なるべし。因循姑息の意を以て考ふれば、旧来の政府は一旦軽率の挙動にて變じ難しと思ふべし。然れども同一の人民を目的と為して強奪を恣にし悪俗を改めしめずんば、遂には自主自裁の特権を以て國内を悩ますに至るべし。故に斯の如き政府を廃却して後来の安全を固くするは、人の通義なり、亦人の職掌なり。

会場の様子


福沢諭吉の翻訳文・訳語

 どうでしょうか、僕はこれは大変優れた文章だと思います。例えば、当時、自由、平等、権利など、今我々が何気なく使っている言葉は定着していないのです。その中でdutyとかrightとかlibertyという言葉を日本語に移す、それは大変な努力です。Creatorというのはキリスト教的な神ですが、日本人にとってはそういう神は存在しない。福沢はそれに「天」という言葉を当てました。儒教的な言葉です。
 英語の構文も日本語とは違う。たとえば、ここで用いられているIt,,,thatの構文です。福沢はthat以下を先に訳していますね。構文を置き換えている。すごいと思います。一行目の「億兆皆同一徹」とは、原文のequalをレールが平行していることに例えていて、これは平等という言葉がなかったからですね。他の作品で、彼は同等という言葉も使っていますが、訳すのに苦労していることがわかります。
 Rights(Life, Liberty, Pursuit of Happiness)は、今でいう基本的人権ですが、そういう概念もない、したがって言葉もないわけです。いちばん興味深いのは「権利」という言葉ですね。彼はそれを「通義」と訳す。unalienable Rightsは人間が生来持っている権利ということですが、彼は「動かす可からざるの通義」と訳し、「他より之を如何ともす可らざるものなり」という説明を付け加えて結んでいます。できるだけわかりやすくしようという工夫が感じられます。
 原文では、基本的人権を守るために、皆と協働して政府という組織を作り、それに人権を守らせる、と言っています。国民の同意がなければ政府は権威を持たないという。しかし、この翻訳ができた慶應二年の時点では、彼はこの意味をよく理解していなかったのではないか。そこをどう訳しているかというと、「政府たらんものは其臣民に満足を得せしめ初めて真に権威あると云ふべし」つまり、上から、政府が国民に満足感を与えなければ、政府は権威がない、と訳しています。国民からの同意がなければ政府は権威を持ちえない、という原文とは発想が逆です。明確な英語の意味を伝えていない。福沢諭吉の、その時点での西欧理解はまだ完璧ではなかったのかな、と思います。彼の主著「文明論の概略」は明治八年に出ていて、そこでは明確にこういう主権在民の思想を理解していることがわかりますから、その間に彼は勉強したのではないかと思います。
 また、prudenceというところ、これは用心深さという意味ですが、彼は「因循姑息」と訳している。原文は、いくら権利があるといっても軽々しく政府転覆を図るものではない、ということを言っていますが、福沢はよりラジカルに、因循姑息な考えでは政府は倒せないと考えるかもしれないが、人民のためにならない政府は倒すべきだと訳していて、かなりニュアンスが違いますね。用心深さ、慎重さというのはプラスイメージ、因循姑息はマイナスイメージ、そこでニュアンスが違ってきてしまって、福沢の訳文は原文以上にラジカルになっています。
 前にも言ったように「権利」ということば、これはまだ日常語になっていないわけですね。それを彼は意味をとって「通義を当てている。今日の話をするにあたって、いちばん関心があったのは、「権利」「自由」などという言葉がいつごろから使われ、いつごろに定着したのか、ということでした。それを実証的に考察するためにヘボンの「和英語林集成」を買いました。その内容は初版、二版、三版でどんどん改良されている。四版以降は三版とあまり変わりません。しかし辞書が変わっていくというだけでは意味がありません。それが変わっていく背景として当時の人々がそのことばをどう使っているか実証しないと研究として意味がない。しかし古い本を片っ端から当たるわけにもいかないので、そういう話をすることはあきらめました。しかしその途中で見つけた興味深い資料を1つご紹介します。

 お手元のB4版の追加資料は、幕末から1888年までですが、当時出た外国語辞書の辞書名・編者名を挙げて、重要な西欧的概念であるFreedom、Liberty、Rightの記述を一覧にしたものです。これは岡和田常忠という人がカードにとってあったものを、石田雄(たけし)東京大学名誉教授がご自身の著作の綴じ込みとしたものです。この石田名誉教授の著作で、例えば中村正直まさなお(敬宇)がミルの「On Liberty」をどう訳したかがわかります。詳しいことは省略しますが、面白いのはこのOn Libertyを中国人も訳している。すると、日本と中国の政治状況が違うところから訳が違ってくる。
 この一覧の中で、例えばRightはそれまで日本になかった概念です。ことばが無かったから和英辞典に収録しようがなかった。それが明治になってヘボンの辞書第三版に初出します。
 福沢はその「権利」にあたるものを「通義」と訳した。「権利」と「通義」はある期間併存していました。「権利」を使ったのは津田正道や西周で、そのほか「権理通義」とか「権義」と訳した人もいたようです。福沢が苦労して作った訳語はたくさんありますが、「通義」は「権利」に負けましたね。しかし、丸山真男も言っていますが、僕は「権利」より「通義」のほうがいいように思います。なぜなら、「権」にはどうしても「権力」のにおいが入る。英語のRightにはPowerのニュアンスはありません。当時「権利」が定着したのは、自由民権運動の中、政府に権力があるなら、国民にも権利がある、という意識があったのではないか、そのため「権利」が定着したのではないかと思うのです。
 「自由」や「社会」という言葉も難物です。Societyを中村敬宇もOn Libertyの翻訳「自由の理」の中で「仲間会所すなわち政府」と説明的に訳しています。SocietyとGovernmentを厳密に区別していないのです。それが「自由の理」を原文から引き離しているところだと石田雄が指摘しています。ミルの「自由論」では、わがまま勝手にならないように、制限は必要であると説いていますが、どこに制限を置くか、ということにミルの関心があります。ひとつは法律を作って政府が制限する、もうひとつはパブリック・オピニオンによる制限、つまり社会から指弾されることによる制限だ、というのです。この、世論による、多数による制限がどこまで許されるかがミルの自由論のいちばんの論点だということです。中村敬宇の訳だと、この二つの区別ができません。しかし自由民権運動の中で、すべての制限は政府からくると訳した本は、自由を制限するのは政府だ、ということで、逆に運動を鼓舞する。それで中村敬宇訳の「自由の理」はベストセラーになったのではないか。これは石田教授の分析です。
 ここまでが僕がお話ししたかったことの前半です。続きはまた機会を改めてお話しすることにいたします。

(文責:事務局)