ことば村・ことばのサロン
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「ことばの戦争―トレイシー・日本人捕虜秘密尋問所」
● 2018年1月20日(土)午後2時-4時30分
司会
講演要旨
方言が難しい
太平洋戦争における情報戦―トレイシー日本人捕虜秘密尋問所 私は、戦争とは武力と武力の対決であると同時に、国家相互間の文化と文化の対決だと考えています。戦争には民族の特性と国民性が非常によく表れてくる。日本で言えば玉砕とか、神風特攻とか。これらはアメリカにもイギリスにもありません。日本独自のひとつの戦い方ですが、100%兵士が死ぬ、という戦い方を考え出したのは日本だけです。
民族の特性としての玉砕と神風特攻
神風特攻については、それがどういうところで決まっていったのかを調べたことがあります。海軍作戦部長の中澤佑というひとがまだ存命のころ、日記に残しています。大西瀧治郎という人物が中澤佑のところに来て、永野修身軍令部総長に会わせてくれ、と。中澤と大西と伊藤軍令部次長の三人で永野総長のところへ行き、日本はもうダメだ、あとは一発必中の作戦を取らなくてはいけないと申告するわけです。永野総長はじっくりと考えた後、それでは仕方がないだろう、その代わり命令はしてくれるな、と。ひとつの逃げを打っているわけです。組織のトップの決定の仕方が非常に日本的なのです。
捕虜は情報である~公文書の管理意識 最近森友・加計問題を追いかけながら、私が考えたのは、あぁ日本人は全然変わっていないな、8億円の値引きがわけのわからない決定のされ方をして、会計検査院が追求できない。要するに文書を隠したか消したか。この体質は70数年前の日本とほとんど変わっていない。重要文書をみんな隠してしまう。終戦の聖断がくだった1945年8月14日11時、すぐに政治指導者たちは本省に帰って1時ごろ重要書類の焼却を命じた。陸軍、海軍、政府、地方公共団体にいたるまで徹底的に重要文書を焼却してしまった。ですから従軍慰安婦の問題でも資料がないと言いますが、当然です、東京裁判にかかわっていくようなものはすべて焼いてしまっている。しかし昭和史を歩いているとぽつぽつと個人で隠していた資料が出てくる。それを使って番組を作ったりしましたが、しかし、公文書の管理に対する日本人の意識は非常に希薄であります。 しかしアメリカは違った。自分たちに不利になるような文書でも徹底的に残す。トレイシーの文書もそうです。尋問官は語らなかったが、しかし記録は残した。国立公文書館に徹底的に、日本人の日記に至るまで残した。公文書をきちんと残すという意識を当時の軍人たちは持っていたのです。自分に不利になるという意味は、ジュネーブ条約違反のことを捕虜尋問所でやっているのです。だから尋問官たちは、これは自らの恥部であると良心に基づき口を開かなかった。日本人捕虜も、生きて虜囚の辱めを受けず、ということで捕虜であったことについて口をつぐんでいた。我々が探し出して取材を始めたためにぼつぼつ口を開き始めた。2007年頃のことです。2007年頃、アメリカ人も初めて口を開き始めました。後で触れますが。
トレイシーとの出会い 最初、私は、これはいったい何だろう、と。読んでみると、氏名・乗っていた船~飛行機の名前・捕まった日時と場所・アメリカ到着の日時・トレイシーに到着した日時が表になっている。これはおもしろそうだと思い、野口さんに少し調べてくれと頼みました。するとサンフランシスコから車で一時間半くらいのところにバイロン・ホットスプリングスという町がある、そこにトレイシーというなんらかの施設があったらしい、というので、運転してもらってすっ飛んでいきました。しかし、日本で言えば教育委員会みたいなところに行って聞いてもだれも知らない。トレイシーなんて聞いたことがない、と。その時は引き返しましたが、その16年後番組を作りまして、その時は自分の本を書くためと、番組のために2度行っています。これから2度行ったときの映像をお目にかけ、トレイシーとはどんなところだったのかを見ていただきます。
(NHKスペシャルの抜粋上映)
“アメリカは尋問で艦船、軍需工場の位置などあらゆる機密情報を捕虜から引き出しています。得られた情報は軍の中枢に送られました。その記録は1万ページを超えています。情報が戦争の行方や、終戦政策を左右した実態に迫ります”
“これは昭和18年3月ソロモン諸島付近で撃沈された駆逐艦「峯雲」の平面図です。捕虜となった乗組員が描きました。射撃指揮所などが詳細に描かれています。峯雲は戦前から戦中にかけて量産された日本の駆逐艦の基本的な型です。アメリカ軍は同型の駆逐艦を攻略する手掛かりにしたのです。日本国内の基地や工場の絵図もあります。これは陸軍上等兵が描いた山口県徳山の海軍燃料廠です。どこのタンクに何トンの石油が貯蔵されているか話しています。” “アメリカ陸軍情報部がまとめた秘密尋問所の報告書です。昭和18年1月にトレイシーと名付けられた陸軍海軍合同の秘密尋問所を開設しました。捕虜からの情報を重視したアメリカは、前線で捕虜をとらえるとすぐに日本語のできる情報将校などが尋問を行い、重要な情報を持つと判断された捕虜を秘密尋問所に送り、より多くの情報を得ようとしたのです。” “太平洋戦争中、アメリカ本土にあった日本人捕虜収容所は5か所、さらに秘密尋問所にも収容されていました。秘密尋問所はふたつ、ひとつはワシントン郊外のフォート・ハントでドイツ人やイタリア人の尋問を行い、もうひとつはカリフォルニアのトレイシー秘密尋問所で、ここに日本人捕虜が送りこまれました。ここで得られた情報は陸海軍の諜報部に送られ、さらに国務省や戦時情報局や、のちのCIAとなる戦略情報局にも送られていました。昭和17年6月、戦局を大きく変えたミッドウェー海戦で日本海軍は徹底的な打撃を受けました。このときはじめて多数の捕虜が捉えられました。このころまとめられた日本人捕虜への質問マニュアルです。日本海軍が使うレーダー、機雷や魚雷、戦闘機、潜水艦などさまざまな兵器についてデータを収集するよう求められています。日本語で質問し、質問が十分理解されているか確認するのも重要だとされています。” (トレイシーが開設された昭和18年1月に、尋問を受けた空母飛竜一等機関兵の永井さん(87歳)のインタビュー) “永井さんは8回尋問を受け、飛竜の装備や作戦行動について話しました。昭和18年1月以降トレイシーには撃沈された多くの艦船の乗組員が連れてこられました。アメリカ軍はそこから得られた情報を分析し、どう攻略するかを考えようとしていました。また、寄港地や給油地を調べることで日本海軍の作戦や行動を読み取っていきました。”
今映像でちらっとゴールデンゲイトブリッジが出てきましたが、その向こうの島影、これはエンジェル島と言いまして捕虜が連れていかれるところです。捕虜たちは橋をくぐって、その6車線の橋を車が激しく行きかっているのを見て、仰天するわけです。日本で車はあまり見たことがない。アメリカの文明のすごさに対する最初の驚きなのです。
トレイシーに来た日本人捕虜たち
豊田穣という直木賞を取った戦記作家がいます。本人は黙っていますが、この人も捕虜になって記録がいっぱい残っている。豊田穣はハワイに連れていかれ空母エンタープライズを見学し、厚遇されます。そこで彼は戦艦大和の情報やゼロ戦の秘密についてもしゃべっている。その後アメリカはゼロ戦攻撃にその情報を利用したでしょう。
トレイシーでの尋問、盗聴による情報収集 日本ではスパイの学校として知られる陸軍中野学校がありました。これは陸軍の学校ですよね、アメリカのトレイシーやフォート・ハントは国家の仕事です。大統領直属の統合参謀本部がイギリスからノウハウを仕入れてやった国家ぐるみの仕事で、そこが日本と違う。トレイシーの記録から、資料①の皇居の図面を見てください。長いこと宮内庁に勤めていた昭和天皇記念館の館長長門保明さんに見せたところ、その正確さに驚いていました。最終的にアメリカ軍は皇居を爆撃する予定だった。昭和20年1月の段階で天皇が終戦のご聖断を下した地下壕の部屋まで書いてある。天皇が宮中祭祀のためにお召替えし身を清めるための部屋「陵稀殿」は、日本独自の文化で訳語がないので、そのままRyokidenと表記してあります。アメリカは、皇居を知るには近衛兵の持つ情報が一番だということで、捕虜の中からさりげなく近衛兵を探し、みつかった者をトレイシーに送った。この絵図面はその情報から作成されたものです。
徹底した情報の一元化 (NHKスペシャルの抜粋上映) “トレイシーはどんな場所だったのか。ここは戦前、ハリウッドスターなど有名人が集まるリゾート地でした。第二次大戦に軍が接収、秘密尋問所に作りかえたのです。建物の多くは崩壊し、おととしは火災に見舞われました。”
(トレイシーで尋問官を務めていたドナルド・ウィリスさん(90歳)の映像)
“ホテルの建物をそのまま利用し、尋問室や捕虜収容室、尋問官の宿舎など、売店や映画館までありました。敷地は85ヘクタールにも及びました。尋問室のあった建物は4階建てで、1階は事務所、2階は将校の部屋と食堂、3階に日本人捕虜尋問室があり、4階は二人一組が中心の捕虜の収容部屋として使われていました。” (内門さんのインタビュー) “尋問官たちは日本人捕虜の口が軽くなるよう、酒を与えることも提案しています。20歳をむかえた捕虜にアイスクリームとコーラを振る舞いバースデイパーティを開いていました。(日本人捕虜の写真)当初口を閉ざしていた捕虜たちも、手厚い扱いに次第に口を開き始めました。バドミントンを楽しむ捕虜、尋問官と一緒に移った写真もあります。” (ドナルド・ウィリスさんのインタビュー) “トレイシーではおよそ40名の日本語のできる尋問官や文書整理の係官など総勢100人を超えていました。彼らに求められたのは情報の正確さでした。尋問官は捕虜の話に矛盾が無いか、偽りは無いか、事前に得た情報を照合し何度もチェックしました。話をさせるために心理的圧迫を加えた尋問も行われていました。これは全く応えようとしない駆逐艦乗組員に行った尋問記録です。10時30分尋問が始まるとふたりの尋問官のひとりが乱暴なことばを投げつけます。11時30分尋問官が入れ替わり尋問中捕虜を立たせたままにしました。13時さらに別の尋問官に入れ替わり、一転して穏やかで親しげな口調で話しかけました。すると16時にはそれまでかたくなに拒否してきた捕虜は質問にすべて答えました。こうした圧力をかける方法は話をさせる有効な方法だと報告されています。” “さらにトレイシーではひそかに盗聴が行われていました。アメリカ軍が開発した最新の高感度集音器を捕虜の部屋の天井裏に取り付け、部屋での捕虜同士の会話を録音しその後の尋問に活用していました。録音は文字に起こしてワシントンに報告していました。これはその録音記録です。「横須賀では地下に工場をつくるために山を削っているらしい・・・」「アメリカは堕落した国と教えられたが、個人主義や自由主義は学ぶべきだ・・・」「日本は大和魂に頼りすぎだなぁ」「日本の防御はおもちゃみたいなものだ、攻撃されたらひとたまりもないだろう・・」” (ドナルド・ウィリスさんのインタビュー) “昭和4年に定められた捕虜についての国際条約:ジュネーブ条約では捕虜は名前と階級、または認識番号以外は答えなくていいと定めています。捕虜の会話を盗聴しその情報をもとに尋問を行ったり、心理的圧迫を加えて尋問をおこなったりするのはジュネーブ条約に抵触する恐れがあったのです。”
日本は日本人には捕虜はいない、ということで、ジュネーブ条約を批准していませんでした。日本人は捕虜にならないのに、敵兵が捕虜になった場合厚遇するのは不公平だ、という理屈を立てているのです。そこで、日本の捕虜政策はご承知のように、彼らを使役に使う。これは捕虜虐待にあたります。だからポツダム宣言10条で、「われらの捕虜を虐待したものは厳罰に処す」という一項を加えられて、戦後930人近くのBC級戦犯で処刑されました。
アメリカ人はどうやって日本語を習得していったのか。
そこで1941年6月に、ハーヴァード大学とカリフォルニア大学バークレー校に海軍日本語学校を極秘に作りました。入学した中に、ドナルド・キーンとか、サイデンステッカー、さきほどのウィリスさんなどがいたわけです。この海軍日本語学校は1942年にコロラド州ボールダーに移転します。 「菊と刀」のルース・ベネディクトはコロンビア大学から戦略情報局の職員になっています。「菊と刀」で著わした日本人の情報を、彼女はトレイシーで得ているのです。トレイシー文書の中に、今本になっている「菊と刀」の前段階の原稿がありました。内容はかなり違うと思います。そのとき彼女が考えたのは、日本人はアメリカがこれまで戦った敵の中でこれほど気心の知れない敵はなかった、と。そういうことを「菊と刀」の中に書いています。そういうところから情報を取り始めた。一般国民の調査もやっています。当時どれくらいの日本国民が英語を知っていたか。米国海軍の推定ではアメリカ人が一人に対して10万人です。確かに日本は、明治以来小学校で英語を教えていました。森有礼が明治19年に学校令を改定し高等小学校を作る。今の小学校五年から中学二年くらいまでですが、ここで積極的に英語教育をした。戦時中の敵性用語禁止の時も陸軍や海軍の士官学校では、軍事的な教材ではありましたが英語は教えていました。特に井上成美提督は校長時代に国の方針に逆らって、江田島の海軍兵学校で英語教育を徹底させた。日本人はけっこう英語から離れなかったのですが、アメリカの日本語は申した通りの状態でした。 それまでアメリカは日本人をどう見ていたか。謎の言語をしゃべるカルト集団だ、と風刺漫画で見ていた。だからこそ、日本語学校を立ち上げて急激に教育する必要があったということだと思います。
連合国の情報収集・システム化への熱意
B29はいかに効率的に空襲をしたか (NHKスペシャル抜粋上映) “日本の戦局が悪化するにつれ、トレイシーでもっとも重要視された尋問項目があります。A-airと題された報告書です。陸軍情報部MISがトレイシーで得た情報を分析し爆撃目標についてまとめていました。” 東京大空襲も、ヒロシマもナガサキもここから始まるのです。この絵図面から。
“日本の軍事基地や工場、都市などの情報が集められていました。添付された地図は293枚に及びます。アメリカは昭和17年9月長距離大型爆撃機B29を完成させました。昭和19年7月サイパン陥落によってこの島から出撃するB29は日本全土を爆撃圏内に収めることが可能になりました。” (ギルバート丹治氏のインタビュー)
“情報をひとつひとつ積み上げて爆撃のターゲットを絞り込んでいったのです。中でも重要な目標のひとつとされたのが、名古屋の三菱重工業の工場でした。アメリカはこの工場で日本の飛行機の32%が作られていると分析していました。工場は港に組み立て工場、内陸部にエンジン工場がありました。この二か所の詳細な情報を得るため、昭和19年11月はじめトレイシーにサイパンで捕虜になった名古屋出身の兵士たちがひそかに送られました。 “こうした情報をもとに、アメリカ軍は最も効果のある爆撃を行います。捕虜たちの尋問から一か月後、昭和19年12月13日サイパンから飛び立ったB29 90機は名古屋を爆撃しました。エンジン工場が集中的に狙われ生産ラインや最新エンジンの開発室などが徹底的に破壊されました。組み立て工場はその五日後に狙われ、雷電の最終組み立て場も爆撃されました。”
“昭和20年太平洋戦線の各地で玉砕が続き、アメリカ軍は日本本土に迫っていました。2月19日アメリカ軍は硫黄島に上陸、激闘は一か月続きました。日本軍の戦死者はおよそ2万1千人、アメリカ軍戦死者はおよそ6千8百人、アメリカ軍は太平洋戦争中最大の損害を被りました。日本本土への上陸作戦を計画していたアメリカ軍は作戦を遂行すると犠牲者が増え続けるのではないかと懸念しました。昭和20年5月8日ワシントン陸軍情報部からトレイシーに新しい尋問マニュアルが送られました。アメリカ軍が日本本土に上陸した場合、日本人はどう行動するか、どうすれば戦争を終わらせることができるのかを聞き出すように指示しています。 “捕虜たちの回答は陸軍から国務省や諜報機関に伝えられ、日本人の戦意をしる手掛かりとなっていきました。”
硫黄島で投降した捕虜のドラマ
硫黄島ではアメリカ軍は甚大な被害を受けました。日本の語学力のある連中が通信班を作り、アメリカの上陸軍と周りを取り囲んでいる艦船とのやりとりを傍受し、栗林師団長に伝える。この場合は、日本の語学将校がアメリカ軍の動きをつかんでいた。この功績があったので、手の内を読まれたアメリカ軍は最大の被害を被った。硫黄島が敗れたあと、残った通信兵は周辺の島に散らばり、アメリカの情報を集めたようですが、彼らの行方はその後わかっていません。硫黄島陥落の際、栗林忠道中将の横にいて通信兵をしていたサカイタイゾウ(本名サカモトタイゾウ)という人がいた。陥落直前、サカイタイゾウは自ら進んでアメリカ軍に投降します。彼は大変絵心のある青年で、画家を目指してフランスに留学しようとした。そこで神田のアテネ・フランセで学んだ経験を持っていた。銃弾を潜り抜けて幸運にも生きて捕虜になれたサカイに対応したロパルト中尉は、彼を英語で尋問したけれど通じない。ロパルトはイタリア系なので、今度はイタリア語でやってみたけれど、それも通じない。フランス語で話したらすぐに反応があった。フランス語で話がはずみ、ふたりは大変親密になります。捕虜収容所に送られる前に、ロパルトが聞いたところ、サカイはこれから始まる沖縄戦の情報まで持っていた。 日本は沖縄戦の前に、沖縄駐留の一師団を台湾に派遣している。日本は沖縄戦というより米軍との戦闘は台湾から始まると思っていたため、沖縄は手薄になっていた。サカイはそういう沖縄の情報までしゃべった。暗号についてもしゃべり、暗号機械の絵図まで描いています。ロパルトは、これは大変な捕虜だと思ってアメリカに連れて行き、サカイタイゾウはトレイシーからフォート・ハントに送られるのですが、その際サカイは、自分はこれから死ぬのだろうから、戦争が終わったら自分の写真を結婚したばかりの妻に届けてくれとロパルトに託します。ふんどし一丁で灼熱の壕から飛び出して投降した彼が、一枚だけふんどしに隠していた妻との写真です。写真の裏にはボードレールの惡の華の一節「おとなしくしておいておくれ…私の苦悩よ・・・」が書かれています。
ロパルトは後にカリフォルニアの高等裁判所の判事までやった人ですが、この写真をずっと持ち続けていた。2004年、臨終の床で、弁護士である甥にこの写真を家族に届けてほしいと命じました。彼の死後4年間、どうやって探そうかと調べているときに、静岡新聞にサカイタイゾウの写真を家族に返したいという小さな記事が出ます。
1945年7月トレイシーが閉鎖されてサカイはフォート・ハントに送られます。そこでサカイは戦後の日本について、民主制になるべきという自分の思いや、天皇制についても語っています。彼は中国から来た日本陸軍情報将校・沖野亦男と相部屋にさせられ、会話を盗聴されています。その盗聴記録も全部残っています。
フォート・ハントに来た捕虜の中に、ベルリンにいた大島浩日本大使と小島秀雄海軍武官がいました。私のNHKの先輩が「Uボートの遺書」という名作を作りました。これはジェットエンジンなどの研究に行った日本人技術者の二人が捕虜になることを拒否してUボートで自決する話です。大西洋を日本へ帰国する途中でドイツが降伏してしまったからです。二人は子どもたちに遺書を残しました。
「私の太平洋戦争」のドラマ
昭和38年にアメリカ研修中の自衛隊員が通りかかって、同じ日に死んだ日本人の名前があったということで、日本の厚生省に届けたのです。厚生省は3人の名前を、先ほど触れた鹿児島の内門義雄さんに照会しました。元日本兵の三人について何か知らないかと。 フォート・ライリー陸軍墓地での返還式の際、アメリカは儀仗兵が21発の弔砲を放ち、丁重に3人の遺骨を送り返してくれました。これが昭和62年のことです。この返還のことをニューヨークタイムズとワシントンポスト紙が短い記事で伝えましたが、どういう視点でかというと、3人が同時に死んでいるのがおかしい、何かあったに違いないと。すると、驚くべきことには、アメリカの一市民がこの記事に、やはりおかしいと疑問を抱いたのです。横須賀の海兵隊に4年の駐留経験のあるジョージ・ガーナーという人でしたが、知り合いの上院議員に死因を調べてくれと頼んだ。議員が陸軍省に問い合わせてもらちが明かないので、ガーナーさんは怒りを覚えて、陸軍長官じきじきに、「一納税者」と断って、ありったけの資料を開示しろと、上院議員の名前も添えて、強硬な手紙を書き送りました。するとちゃんと出てきました。射殺の原因と、射殺された後、陸軍高官たちが電話でやりとりしている、その録音記録が出てきた。射殺された原因ですが、彼らは病院で割腹自殺を図っているのです。その傷で収容された病室で、マキノが牛乳をこぼし、それを監視兵が声高に拭けと命じた、モップで拭きつつある中で口論になり、モップでつっかかっていった。そのために監視兵が3人一緒に銃殺した、という調書が残っていました。捕虜についてのこういう情報は、戦時中の日本の利益保護国スペインや中立国スイスを通じて赤十字に伝えられ日本に届いているはずなのですが、日本には一切そういう資料はありません。 そんな経緯があって、トレイシーの捕虜第一号の男が、最後に日本に帰ってきたのです。昭和16年に開戦し、昭和62年に遺骨となって帰ってきた。内門さんは貴美子さんに手紙をしたためて、「世話になった人たちにあなたから礼状を出してくれ、そこに私の名前も添えておいてください」と頼みました。内門さんは「これで私の太平洋戦争も終わりました」と、手紙を結んでいます。
トレイシーその後 もうひとつ、トレイシー付近の封鎖線は昭和20年9月1日に解かれ、一般市民が通れるようになった。それから間もなく盗聴装置は全部日本に持っていかれました。そして、巣鴨プリズンで使われたのです。戦犯たちの生々しい会話が記録されているはずです。これは巣鴨プリズンで盗聴をした人の弟さんからの話なのです。その弟さんすら、当初お兄さんが戦後日本に行ったということは全然聞かされていなかった。それほど、アメリカの諜報機関にかかわった人々の口の固さが分かります。
トレイシーから学ぶこと―歴史を資料として残す気迫 (文責:事務局) |