地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2018・1月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「ことばの戦争―トレイシー・日本人捕虜秘密尋問所」


● 2018年1月20日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎445教室
● 話題提供:中田整一先生(ノンフィクション作家・元NHKプロデューサー)
● 司会:小林昭美ことば村理事


司会

 今日は中田整一先生に太平洋戦争当時に存在していたアメリカ軍日本人捕虜秘密尋問所・トレイシーについてお話をしていただきます。中田さんは講談社文庫からトレイシーの本も出されていますが、その執筆に15年をかけていらっしゃいます。
 中田さんはNHKのプロデューサーでしたのでその15年の間も毎年何本も名番組を作っておられました。特に私の印象に残るのは、二・二六事件の電話傍受の記録をもとに、今あたかも事件が起こっているかのように作ったドキュメンタリー番組です。並みいる名プロデューサーの中でも中田さんは並外れた方で、余人は逆立ちしても追いつかないという方です。
 NHK定年後はノンフィクション作家として、昭和史について多くの著書を表していらっしゃいます。それぞれ、長期間にわたる取材に基づいた本です。「それでも日本は戦争を選んだ」を書かれた加藤陽子先生という有名な東大教授がおられますが、彼女が歴史家になったきっかけが中田さんの作られた二・二六事件の番組を見たことだったと。中田さんは番組を作るとなると、専門家も及ばないほどの執拗さで、時間をかけて資料を発掘されます。
 今日のお話も、非常に深い取材に裏付けられたものと思いますので、楽しみにしております。


講演要旨

 中田整一でございます。小林先輩から過分な紹介をいただきましたが、これから二時間ほど、映像をはさんでお話しいたします。

中田整一先生


方言が難しい

 私は熊本県の出身で方言の中で育っています。今年の大河ドラマは「西郷どん」で役者さんは苦労しながら薩摩ことばを話していますが、私はNHKに入ってから、隣の県である鹿児島に取材に行ったことがあります。熊本との県境にある鹿児島の村の古老たちがしゃべっていることばがさっぱり分からなかった。薩摩弁は歴史と文化に裏打ちされて作られている。しかも県境は、真偽はわかりませんが、幕府の隠密を防ぐために特に島津藩は薩摩ことばの使用を厳しくし、京都由来のことばも混ぜて難しくした、と。
 薩摩弁の難解さに目をつけたのが日本海軍です。すでに暗号も解読されていた昭和18年5月に、ドイツ在住の海軍武官・野村直邦が帰国するにあたって、ベルリンの海軍武官府と霞が関の海軍省との連絡に早口の薩摩ことばを使ったのです。それで無事に野村武官は、ヒトラーから寄贈されたU511という潜水艦に乗って帰り着いて、最後の東条内閣で5日間だけ海軍大臣をやりました。


太平洋戦争における情報戦―トレイシー日本人捕虜秘密尋問所

 薩摩弁が難しいというお話を冒頭で申しましたが、アメリカ軍が日本語でむずかしいと思った点は、方言なのです。「日本人は世界で最もむずかしい謎の言語をしゃべる」という記録もあります。
 太平洋戦争中に、ことばをめぐって日米で情報戦が繰り広げられたということは、トレイシー・日本人捕虜秘密尋問所に着手するまで、私もまったく知りませんでした。1992年ごろのことですが、私どころかアメリカ人も知らない、日本人も知らない。当時は東西冷戦が終わりアメリカの国立公文書館などが極秘文書を公開し始めた時期です。その流れでトレイシーの話を知りまして、アメリカ国立公文書館から膨大な資料を引っ張り出し、発掘してNHKスペシャルの番組を作ったのです。
 トレイシーについて、なぜアメリカ人も日本人も知らなかったのか。それは、かかわったアメリカの軍人たちも日本人捕虜も、絶対に口外しなかったからです。2007年まで。まったく驚くべきことです。トレイシーにかかわった人物としては、日本文学研究者のサイデンステッカーがいます。彼の自叙伝(「流れゆく日々」)にトレイシーのことが、場所は伏せて、しかしトレイシーにいなければ知りえないことが書かれている。一番問題なのは、トレイシーで盗聴をやったということが書いてあります。それからドナルド・キーンは海軍の日本語学校を出て、トレイシーではありませんが、ハワイの太平洋地域統括情報センターにいた。そういう日本語使いが当時はたくさんいました。

 私は、戦争とは武力と武力の対決であると同時に、国家相互間の文化と文化の対決だと考えています。戦争には民族の特性と国民性が非常によく表れてくる。日本で言えば玉砕とか、神風特攻とか。これらはアメリカにもイギリスにもありません。日本独自のひとつの戦い方ですが、100%兵士が死ぬ、という戦い方を考え出したのは日本だけです。


民族の特性としての玉砕と神風特攻

 機会を得て、5、6年前に南太平洋の赤道の近くギルバート諸島の中のタラワ島というところに行きました。日本海軍が最初に玉砕した島です。アメリカが反攻作戦に本格的に乗り出し、ニミッツという太平洋艦隊司令長官が攻めてきて日本軍を全滅させたのですね。そのタラワ島に上陸しましたら、小学生がずーっと並んでいて歓迎の唄を歌ってくれた。何の唄か、というと、「故郷」なのです。タラワ島の小学生が見事なハーモニーで「うさぎ追いしかの山・・・・」と歌ってくれた。驚いて指揮の先生に聞いたら、これは死んだ日本兵が自分の父母たちに教えてくれた唄だ、と。それを今子供たちに教えているのだ、と。唄をききながら、私は胸が詰まりました。これが玉砕の今日の姿ですね。

 神風特攻については、それがどういうところで決まっていったのかを調べたことがあります。海軍作戦部長の中澤佑というひとがまだ存命のころ、日記に残しています。大西瀧治郎という人物が中澤佑のところに来て、永野修身軍令部総長に会わせてくれ、と。中澤と大西と伊藤軍令部次長の三人で永野総長のところへ行き、日本はもうダメだ、あとは一発必中の作戦を取らなくてはいけないと申告するわけです。永野総長はじっくりと考えた後、それでは仕方がないだろう、その代わり命令はしてくれるな、と。ひとつの逃げを打っているわけです。組織のトップの決定の仕方が非常に日本的なのです。
 昭和19年特攻作戦が始まってすぐ10月25日に、命令で、関行男という大尉が出撃しています。これは戦争における日本の文化というか、国民性というか、をよく表していると思います。


捕虜は情報である~公文書の管理意識

 アメリカはそうではなかった。褒めるつもりはないのですが、残念ながら褒めざるを得ない。日本の気質に気づいて、そこで考え出したのが秘密捕虜尋問所だったのです。つまり、捕虜は情報である、と。いち早くそういう捉え方をした。日本兵の行動の背景にあったのは戦陣訓です。「生きて虜囚の辱めを受けず」と。日本は捕虜になることを許さなかった。そこにアメリカは目を付けたのですね。陸軍情報部長も海軍作戦部長も、捕虜は情報である、人権を大事にしろ、とちゃんと書いた指令を出した。一番上位に置くのは人権である、人権に最大限配慮しろ、と。ですから日本人捕虜はすごい厚遇を受けているのです。

 最近森友・加計問題を追いかけながら、私が考えたのは、あぁ日本人は全然変わっていないな、8億円の値引きがわけのわからない決定のされ方をして、会計検査院が追求できない。要するに文書を隠したか消したか。この体質は70数年前の日本とほとんど変わっていない。重要文書をみんな隠してしまう。終戦の聖断がくだった1945年8月14日11時、すぐに政治指導者たちは本省に帰って1時ごろ重要書類の焼却を命じた。陸軍、海軍、政府、地方公共団体にいたるまで徹底的に重要文書を焼却してしまった。ですから従軍慰安婦の問題でも資料がないと言いますが、当然です、東京裁判にかかわっていくようなものはすべて焼いてしまっている。しかし昭和史を歩いているとぽつぽつと個人で隠していた資料が出てくる。それを使って番組を作ったりしましたが、しかし、公文書の管理に対する日本人の意識は非常に希薄であります。

 しかしアメリカは違った。自分たちに不利になるような文書でも徹底的に残す。トレイシーの文書もそうです。尋問官は語らなかったが、しかし記録は残した。国立公文書館に徹底的に、日本人の日記に至るまで残した。公文書をきちんと残すという意識を当時の軍人たちは持っていたのです。自分に不利になるという意味は、ジュネーブ条約違反のことを捕虜尋問所でやっているのです。だから尋問官たちは、これは自らの恥部であると良心に基づき口を開かなかった。日本人捕虜も、生きて虜囚の辱めを受けず、ということで捕虜であったことについて口をつぐんでいた。我々が探し出して取材を始めたためにぼつぼつ口を開き始めた。2007年頃のことです。2007年頃、アメリカ人も初めて口を開き始めました。後で触れますが。


トレイシーとの出会い

 私がこの文書を発掘したいきさつをお話ししたいと思います。1992年冷戦終了後、極秘文書を含む公文書の公開がアメリカで始まりましたが、当時私はガダルカナルの戦いを「ドキュメント太平洋戦争」という番組で追いかけていました。現地やアメリカを取材する中であることがふっと頭に浮かんできました。松本清張の名作「球形の荒野」(昭和35年)です。戦時中死んだとされた日本の外交官、その姪が、唐招提寺に行く。そこの芳名帳に叔父さんの筆跡でかかれた(別の)名前を見つける。
 ガダルカナルを調べているときに、ガダルカナルの第17軍作戦参謀・越次一雄が捕虜になってアメリカに連れていかれ、戦後もアメリカで生きていて、その娘さんが探している、という囲み記事を読みました。「球形の荒野」の筋書きが頭にあったものですから、カリフォルニアのリサーチャー・野口麻子さんに連絡して、この越次参謀の消息を調べてもらったのです。すると、野口さんが越次の消息ではなくて、このトレイシーの捕虜尋問所の文書を探してきました。越次の名前はないけれど、こういう文書がありましたよ、と。《Interrogation Center, P.O.Box 651.Tracy.California》というタイトルの捕虜名簿です。

 最初、私は、これはいったい何だろう、と。読んでみると、氏名・乗っていた船~飛行機の名前・捕まった日時と場所・アメリカ到着の日時・トレイシーに到着した日時が表になっている。これはおもしろそうだと思い、野口さんに少し調べてくれと頼みました。するとサンフランシスコから車で一時間半くらいのところにバイロン・ホットスプリングスという町がある、そこにトレイシーというなんらかの施設があったらしい、というので、運転してもらってすっ飛んでいきました。しかし、日本で言えば教育委員会みたいなところに行って聞いてもだれも知らない。トレイシーなんて聞いたことがない、と。その時は引き返しましたが、その16年後番組を作りまして、その時は自分の本を書くためと、番組のために2度行っています。これから2度行ったときの映像をお目にかけ、トレイシーとはどんなところだったのかを見ていただきます。


(NHKスペシャルの抜粋上映)
トレイシーで尋問を受けた元日本人捕虜の方々のインタビュー
「アメリカの捕虜になったのは最大の恥だと思った。どうせ帰っても殺される、と」

 “アメリカは尋問で艦船、軍需工場の位置などあらゆる機密情報を捕虜から引き出しています。得られた情報は軍の中枢に送られました。その記録は1万ページを超えています。情報が戦争の行方や、終戦政策を左右した実態に迫ります”
 “ワシントンの国立公文書館に延べ1113人分の捕虜の記録が残されていました。その存在はこれまでほとんど知られておらず、今回の取材でその全貌があきらかになりました。捕虜の写真、両手の指紋、アメリカ本土へ連れてこられた時の登録書です。名前、本籍など捕虜本人が書きこんでいます。これはアッツ島で捕虜になった陸軍一等兵の尋問調書です。通信に使われていた暗号について、暗号の仕組み、使用例、さらに複雑にする方法などを答えています。”

 “これは昭和18年3月ソロモン諸島付近で撃沈された駆逐艦「峯雲」の平面図です。捕虜となった乗組員が描きました。射撃指揮所などが詳細に描かれています。峯雲は戦前から戦中にかけて量産された日本の駆逐艦の基本的な型です。アメリカ軍は同型の駆逐艦を攻略する手掛かりにしたのです。日本国内の基地や工場の絵図もあります。これは陸軍上等兵が描いた山口県徳山の海軍燃料廠です。どこのタンクに何トンの石油が貯蔵されているか話しています。”
 “徳山の海軍燃料廠は昭和20年5月10日に爆撃を受けました。秘密尋問所で得られた情報はアメリカ軍の戦略に生かされていたのです。”

 “アメリカ陸軍情報部がまとめた秘密尋問所の報告書です。昭和18年1月にトレイシーと名付けられた陸軍海軍合同の秘密尋問所を開設しました。捕虜からの情報を重視したアメリカは、前線で捕虜をとらえるとすぐに日本語のできる情報将校などが尋問を行い、重要な情報を持つと判断された捕虜を秘密尋問所に送り、より多くの情報を得ようとしたのです。”

 “太平洋戦争中、アメリカ本土にあった日本人捕虜収容所は5か所、さらに秘密尋問所にも収容されていました。秘密尋問所はふたつ、ひとつはワシントン郊外のフォート・ハントでドイツ人やイタリア人の尋問を行い、もうひとつはカリフォルニアのトレイシー秘密尋問所で、ここに日本人捕虜が送りこまれました。ここで得られた情報は陸海軍の諜報部に送られ、さらに国務省や戦時情報局や、のちのCIAとなる戦略情報局にも送られていました。昭和17年6月、戦局を大きく変えたミッドウェー海戦で日本海軍は徹底的な打撃を受けました。このときはじめて多数の捕虜が捉えられました。このころまとめられた日本人捕虜への質問マニュアルです。日本海軍が使うレーダー、機雷や魚雷、戦闘機、潜水艦などさまざまな兵器についてデータを収集するよう求められています。日本語で質問し、質問が十分理解されているか確認するのも重要だとされています。”

(トレイシーが開設された昭和18年1月に、尋問を受けた空母飛竜一等機関兵の永井さん(87歳)のインタビュー)

 “永井さんは8回尋問を受け、飛竜の装備や作戦行動について話しました。昭和18年1月以降トレイシーには撃沈された多くの艦船の乗組員が連れてこられました。アメリカ軍はそこから得られた情報を分析し、どう攻略するかを考えようとしていました。また、寄港地や給油地を調べることで日本海軍の作戦や行動を読み取っていきました。”


 今映像でちらっとゴールデンゲイトブリッジが出てきましたが、その向こうの島影、これはエンジェル島と言いまして捕虜が連れていかれるところです。捕虜たちは橋をくぐって、その6車線の橋を車が激しく行きかっているのを見て、仰天するわけです。日本で車はあまり見たことがない。アメリカの文明のすごさに対する最初の驚きなのです。
 アメリカの日本人捕虜は大体1万人、トレイシーの捕虜はそのうちの2342人、三年間で、ですね。捕虜の情報価値、その真贋を見定めて選ばれるのですが、その選定をするのがエンジェル島なのです。エンジェル島は明治以来、中国人や日本人の移民を審査するイミグレーションでした。


トレイシーに来た日本人捕虜たち

 陸軍情報部長からは、捕虜は情報である、最高限度に人権に配慮しろ、海軍作戦部長、キング提督ですが、かれも同じく捕虜は情報である、いったん隔離したのちは最高のもてなしをしろ、と。そこで、アメリカに連れていかれたらそのまま殺されるのではないかと思っていた捕虜はびっくりするわけです。そういう懐柔策があって、だんだん心を開いていく。それがトレイシーの大きな特徴のひとつです。
 1943年には71人がトレイシーに送られました。まずエンジェル島で日本人捕虜は尋問を受け、その情報はワシントンに送られ、トレイシーにも送られ審査される。重要な情報を持っていると判断されると、トレイシーから尋問官が来て直接尋問したうえで選別をしていく。

 豊田穣という直木賞を取った戦記作家がいます。本人は黙っていますが、この人も捕虜になって記録がいっぱい残っている。豊田穣はハワイに連れていかれ空母エンタープライズを見学し、厚遇されます。そこで彼は戦艦大和の情報やゼロ戦の秘密についてもしゃべっている。その後アメリカはゼロ戦攻撃にその情報を利用したでしょう。
 パールハーバーで捕まった酒巻和男という捕虜第一号、この人はトレイシーには行っていません。1943年の71名は主にガダルカナルとミッドウェー、日本の最初の負け戦の兵士で情報として非常に重要です。1944年に1040名、7月から陥落していくグァムやサイパンからの捕虜。1945年には1231人、硫黄島、沖縄戦の捕虜。最後の頃の捕虜たちはどういう役割を果たしたかというと、占領政策をどうするか、そのための情報を聞き出された。天皇制をどう思っているのか、天皇を処刑したらどうなるかなど。捕虜は勝手にいろいろとしゃべります。また、早く民主的な国家をつくってほしい、という捕虜もいます。日本では口が裂けても言えないことです。
 1943年1月の捕虜の中、先ほど出てきた鹿児島の内門義雄さんという、潜水艦ロ号第61の乗組員ですが、あとで触れますが、この方は大変ドラマチックな経験をします。熊本の永井末人さん、飛竜の生き残り35名の内トレイシーに連れていかれた9名のひとりです。


トレイシーでの尋問、盗聴による情報収集

 アメリカはどこから学んでこのトレイシーをつくったのか。イギリスからなのです。第二次世界大戦がはじまり、イギリスはドイツの捕虜を尋問し始め、捕虜尋問のノウハウを確立した。このとき、イギリスは初めて盗聴器を使っているのです。
 日本が初めて盗聴録音器を使ったのは二・二六事件の際の参謀本部です。日本のほうがイギリスやアメリカより先に始めているのです。アメリカはイギリスから盗聴録音を学んで、トレイシーでそれを使ったわけです。その録音記録が全部国立公文書館に残っているのです。

 日本ではスパイの学校として知られる陸軍中野学校がありました。これは陸軍の学校ですよね、アメリカのトレイシーやフォート・ハントは国家の仕事です。大統領直属の統合参謀本部がイギリスからノウハウを仕入れてやった国家ぐるみの仕事で、そこが日本と違う。トレイシーの記録から、資料①の皇居の図面を見てください。長いこと宮内庁に勤めていた昭和天皇記念館の館長長門保明さんに見せたところ、その正確さに驚いていました。最終的にアメリカ軍は皇居を爆撃する予定だった。昭和20年1月の段階で天皇が終戦のご聖断を下した地下壕の部屋まで書いてある。天皇が宮中祭祀のためにお召替えし身を清めるための部屋「陵稀殿」は、日本独自の文化で訳語がないので、そのままRyokidenと表記してあります。アメリカは、皇居を知るには近衛兵の持つ情報が一番だということで、捕虜の中からさりげなく近衛兵を探し、みつかった者をトレイシーに送った。この絵図面はその情報から作成されたものです。

皇居の図面
皇居の図面


徹底した情報の一元化

 トレイシーの尋問方法は非常に緻密で、10のチェック行程を経ていました。情報に一点の誤りがあってはならない。陸軍、海軍は同じ捕虜を別の観点から尋問している。10のチェックが通った情報はトレイシーで総括したうえで陸軍情報部にあげる。トレイシーの秘密管理は憲兵司令部がする。陸海軍がそれぞれ勝手に上にあげてはならない。日本の陸海軍は喧嘩して戦争に敗れた。アメリカは情報を必ず一元化する、そのシステムを作り上げました。ここが日本との違いです。国民性です。また情報の違い、ほんのちょっとした、兵隊の所属の違いなどでもマッカーサーのところまで訂正の報告をしています。徹底的に正確を極める。情報立国アメリカですね。
 もうひとつ、どうやって彼らが日本語の語彙を集めていったか。戦地から、わからない日本語についてトレイシーに問い合わせが来る、トレイシーで日本人捕虜に聞くわけです。例えば、搭乗員ということば、これは飛行機のクルーであり、船ではこの語を用いない、と。侵略、これはaggressionで、正当な理由のない攻撃だが日本兵の行動については用いられない、など。語彙をどんどんふやしていったわけです。
 ジュネーブ条約では捕虜は自分の軍籍と名前と階級のみ話せばよい、ということになっています。トレイシーではそれも含め、膨大な情報を取っています。もうひとつ、映像をご覧いただきます。


(NHKスペシャルの抜粋上映)

 “トレイシーはどんな場所だったのか。ここは戦前、ハリウッドスターなど有名人が集まるリゾート地でした。第二次大戦に軍が接収、秘密尋問所に作りかえたのです。建物の多くは崩壊し、おととしは火災に見舞われました。”

(トレイシーで尋問官を務めていたドナルド・ウィリスさん(90歳)の映像)
 これは2007年制作の番組で、ウィリスさんはこのときはじめて口を開きました。

 “ホテルの建物をそのまま利用し、尋問室や捕虜収容室、尋問官の宿舎など、売店や映画館までありました。敷地は85ヘクタールにも及びました。尋問室のあった建物は4階建てで、1階は事務所、2階は将校の部屋と食堂、3階に日本人捕虜尋問室があり、4階は二人一組が中心の捕虜の収容部屋として使われていました。”
 “かたくなに口を閉じる捕虜もいました。当時兵士に教え込まれたのが東條陸軍大臣の表した「戦陣訓」でした。「生きて虜囚の辱めを受けず」前線では捕虜になる前に自決する兵士が相次いでいました。”
 “鹿児島市の内門義雄(85歳)さん。潜水艦ロ号第61の三等兵曹で昭和17年9月1日にアリューシャン列島アトカ島で捕虜になりました。内門さんの尋問調書です。内門さんはトレイシーに連行された後も自決を考え続けていました。(尋問の再現)”

(内門さんのインタビュー)

 “尋問官たちは日本人捕虜の口が軽くなるよう、酒を与えることも提案しています。20歳をむかえた捕虜にアイスクリームとコーラを振る舞いバースデイパーティを開いていました。(日本人捕虜の写真)当初口を閉ざしていた捕虜たちも、手厚い扱いに次第に口を開き始めました。バドミントンを楽しむ捕虜、尋問官と一緒に移った写真もあります。”

(ドナルド・ウィリスさんのインタビュー)

 “トレイシーではおよそ40名の日本語のできる尋問官や文書整理の係官など総勢100人を超えていました。彼らに求められたのは情報の正確さでした。尋問官は捕虜の話に矛盾が無いか、偽りは無いか、事前に得た情報を照合し何度もチェックしました。話をさせるために心理的圧迫を加えた尋問も行われていました。これは全く応えようとしない駆逐艦乗組員に行った尋問記録です。10時30分尋問が始まるとふたりの尋問官のひとりが乱暴なことばを投げつけます。11時30分尋問官が入れ替わり尋問中捕虜を立たせたままにしました。13時さらに別の尋問官に入れ替わり、一転して穏やかで親しげな口調で話しかけました。すると16時にはそれまでかたくなに拒否してきた捕虜は質問にすべて答えました。こうした圧力をかける方法は話をさせる有効な方法だと報告されています。”

 “さらにトレイシーではひそかに盗聴が行われていました。アメリカ軍が開発した最新の高感度集音器を捕虜の部屋の天井裏に取り付け、部屋での捕虜同士の会話を録音しその後の尋問に活用していました。録音は文字に起こしてワシントンに報告していました。これはその録音記録です。「横須賀では地下に工場をつくるために山を削っているらしい・・・」「アメリカは堕落した国と教えられたが、個人主義や自由主義は学ぶべきだ・・・」「日本は大和魂に頼りすぎだなぁ」「日本の防御はおもちゃみたいなものだ、攻撃されたらひとたまりもないだろう・・」”

(ドナルド・ウィリスさんのインタビュー)

 “昭和4年に定められた捕虜についての国際条約:ジュネーブ条約では捕虜は名前と階級、または認識番号以外は答えなくていいと定めています。捕虜の会話を盗聴しその情報をもとに尋問を行ったり、心理的圧迫を加えて尋問をおこなったりするのはジュネーブ条約に抵触する恐れがあったのです。”


 日本は日本人には捕虜はいない、ということで、ジュネーブ条約を批准していませんでした。日本人は捕虜にならないのに、敵兵が捕虜になった場合厚遇するのは不公平だ、という理屈を立てているのです。そこで、日本の捕虜政策はご承知のように、彼らを使役に使う。これは捕虜虐待にあたります。だからポツダム宣言10条で、「われらの捕虜を虐待したものは厳罰に処す」という一項を加えられて、戦後930人近くのBC級戦犯で処刑されました。
 トレイシーの捕虜だった日本人で、戦後そのまま日本に帰らなかったひとが調べた限りで3人いて、そのうちひとりの消息を追跡しましたが、わかりませんでした。


会場の様子


アメリカ人はどうやって日本語を習得していったのか。

 太平洋戦争が始まる前は、あまりにもアメリカ人は日本人を知らなかった。それに陸軍も海軍も気づき、1940年、日本語学校が必要だ、と考え始めました。それ以前、第一次世界大戦が終わったとき、日本語を話す人はほとんどいなかった。1920年から年間ひとりずつくらい、語学将校を東京のアメリカ大使館に派遣するようになりました。太平洋戦争開戦までに65名、日本語の読み書きができる人材が育った。アメリカ海軍軍人20万人中、日本語がしゃべれる者はこの65名、パーフェクトにできるのがそのうち12人、そのひとりがザカリアス大佐といって、終戦間際に日本に対してサンフランシスコから降伏を呼び掛けるザカリアス放送を何回かやりましたが。それほど日本語が使える人材が少なかったのです。

 そこで1941年6月に、ハーヴァード大学とカリフォルニア大学バークレー校に海軍日本語学校を極秘に作りました。入学した中に、ドナルド・キーンとか、サイデンステッカー、さきほどのウィリスさんなどがいたわけです。この海軍日本語学校は1942年にコロラド州ボールダーに移転します。
 陸軍日本語学校は、同じく1941年の11月、太平洋戦争開戦直前にサンフランシスコのプレシディオにできました。ここは学生60人中日系二世が58名です。
 ボールダーの海軍日本語学校では一日13時間授業があり、すべて日本語で行われています。構内での英語の使用は禁止、学校のことは口外しない、12か月(のちに14か月)で1800字の漢字を読み書きできるようにする、7000語の日本語語彙を通常的に使えるようにするというものでした。学生は大学卒か大学院卒、日本に居住経験のある人も含まれていました。さらに日系人を信用していなかったのか、秘密を守るために全員白人でした。
 ここでは基礎を徹底的に教え、最後の二週間で軍事用語を教えました。映画とかダンスとか、日本の本とかを徹底的に見せたり、読ませたりしました。映画は相当有効だったらしいです。エンジェル島での尋問で氏名を当時の人気俳優・長谷川一夫と言う捕虜がたくさんいて、すぐに偽名だと見破られたそうです。(笑)学生は12か月、のちに14か月の訓練を経て、選別された者はトレイシーに送られました。

 「菊と刀」のルース・ベネディクトはコロンビア大学から戦略情報局の職員になっています。「菊と刀」で著わした日本人の情報を、彼女はトレイシーで得ているのです。トレイシー文書の中に、今本になっている「菊と刀」の前段階の原稿がありました。内容はかなり違うと思います。そのとき彼女が考えたのは、日本人はアメリカがこれまで戦った敵の中でこれほど気心の知れない敵はなかった、と。そういうことを「菊と刀」の中に書いています。そういうところから情報を取り始めた。一般国民の調査もやっています。当時どれくらいの日本国民が英語を知っていたか。米国海軍の推定ではアメリカ人が一人に対して10万人です。確かに日本は、明治以来小学校で英語を教えていました。森有礼が明治19年に学校令を改定し高等小学校を作る。今の小学校五年から中学二年くらいまでですが、ここで積極的に英語教育をした。戦時中の敵性用語禁止の時も陸軍や海軍の士官学校では、軍事的な教材ではありましたが英語は教えていました。特に井上成美提督は校長時代に国の方針に逆らって、江田島の海軍兵学校で英語教育を徹底させた。日本人はけっこう英語から離れなかったのですが、アメリカの日本語は申した通りの状態でした。

 それまでアメリカは日本人をどう見ていたか。謎の言語をしゃべるカルト集団だ、と風刺漫画で見ていた。だからこそ、日本語学校を立ち上げて急激に教育する必要があったということだと思います。


連合国の情報収集・システム化への熱意

 駐日大使となるライシャワーもかかわった日本語に関する会議があります。連合国がワシントンで1944年12月25日~1月15日に開いた陸軍省日本資料会議です。各戦場で日本人の残した資料が集められたが眠ったままになっている、そこで米英豪70人くらいの日本語の使える軍人たちが集まり、集められた資料を活用し、戦略に利用しようと開かれた会議なのです。こういう会議が開かれること自体が、連合国の情報に対する熱意や組織の表れです。話し合われた一つが、語学要員を戦場でガードするシステムづくり、ガードする部隊を作るなどですね。もうひとつ、パトリック永野という日系二世3名を指名して、間もなく陥落するはずのベルリンへおくり、ソ連が侵攻する前に日本大使館にある対ソ連情報を確保しろ、という命令を出します。しかし、いち早くソ連がベルリンを制圧してしまうのでそれを実行できなかった。そのかわりに、ドイツ降伏直後にドイツにいた外交官たち、三国同盟を推進してきた大島浩大使を含め、アメリカに護送し、フォート・ハントに連れて行きます。終戦直前にトレイシーが閉鎖され、日本人の高位高官の捕虜はフォート・ハントに集められます。


B29はいかに効率的に空襲をしたか

 次の映像を見てください。トレイシーの一番重要なところです。B29が日本をどのように爆撃したか、というところです。


(NHKスペシャル抜粋上映)

 “日本の戦局が悪化するにつれ、トレイシーでもっとも重要視された尋問項目があります。A-airと題された報告書です。陸軍情報部MISがトレイシーで得た情報を分析し爆撃目標についてまとめていました。”


 東京大空襲も、ヒロシマもナガサキもここから始まるのです。この絵図面から。


 “日本の軍事基地や工場、都市などの情報が集められていました。添付された地図は293枚に及びます。アメリカは昭和17年9月長距離大型爆撃機B29を完成させました。昭和19年7月サイパン陥落によってこの島から出撃するB29は日本全土を爆撃圏内に収めることが可能になりました。”
 “太平洋戦争中、軍情報局で航空情報を集めていたギルバート・丹治さんです。日系二世の丹治さんは大学で航空学を学びました。陸軍入隊後その知識を買われTAIC航空技術諜報部隊に配属されました。TAICは敵の航空機の機密情報を収集するため昭和19年7月に組織されました。捕獲した日本の戦闘機をアメリカ機の色に塗り替えて極秘に飛行テストを行いその能力を計っていました。さらに機体を分解しエンジンのナンバープレートなどからどの工場でどの部品が作られているかなども分析していました。”

(ギルバート丹治氏のインタビュー)

 “情報をひとつひとつ積み上げて爆撃のターゲットを絞り込んでいったのです。中でも重要な目標のひとつとされたのが、名古屋の三菱重工業の工場でした。アメリカはこの工場で日本の飛行機の32%が作られていると分析していました。工場は港に組み立て工場、内陸部にエンジン工場がありました。この二か所の詳細な情報を得るため、昭和19年11月はじめトレイシーにサイパンで捕虜になった名古屋出身の兵士たちがひそかに送られました。
 これはそのうちのひとり、陸軍兵長の調書です。この捕虜は港の組み立て工場で働いていました。捕虜は敷地内の建物の大きさ、構造、製造している戦闘機の機種(雷電)などについて話しています。この証言をもとに工場の配置図が作られました。B29迎撃能力を持つ雷電は、もっとも優先すべきターゲットだったのです。エンジン工場についても捕虜が尋問されていました。これはその調書です。旋盤工だった捕虜は、生産体制やラインの細部にわたって答えています。これがその証言に基づいてエンジン工場の内部を描いた図面です。エンジンが最終的に組み立てられる場所が特定されています。”

 “こうした情報をもとに、アメリカ軍は最も効果のある爆撃を行います。捕虜たちの尋問から一か月後、昭和19年12月13日サイパンから飛び立ったB29 90機は名古屋を爆撃しました。エンジン工場が集中的に狙われ生産ラインや最新エンジンの開発室などが徹底的に破壊されました。組み立て工場はその五日後に狙われ、雷電の最終組み立て場も爆撃されました。”

 “昭和20年太平洋戦線の各地で玉砕が続き、アメリカ軍は日本本土に迫っていました。2月19日アメリカ軍は硫黄島に上陸、激闘は一か月続きました。日本軍の戦死者はおよそ2万1千人、アメリカ軍戦死者はおよそ6千8百人、アメリカ軍は太平洋戦争中最大の損害を被りました。日本本土への上陸作戦を計画していたアメリカ軍は作戦を遂行すると犠牲者が増え続けるのではないかと懸念しました。昭和20年5月8日ワシントン陸軍情報部からトレイシーに新しい尋問マニュアルが送られました。アメリカ軍が日本本土に上陸した場合、日本人はどう行動するか、どうすれば戦争を終わらせることができるのかを聞き出すように指示しています。
 硫黄島でとらえられた捕虜たちの答えです。「日本は空襲だけでは降伏しない。本土に上陸されれば降伏するだろう。」「本土に上陸されれば、日本人すべてが武器を持って戦うだろう。」「日本人は無条件降伏は奴隷になることだと信じている。」尋問に答えたひとり、甲府市に住む中島義男さん(91歳)です。海軍硫黄島警備隊に所属していました。尋問にこう答えています。「本土決戦ということになれば日本人すべてが最後まで戦うだろう。これは凄惨な戦いになる。」「爆撃が続き財産や命が失われ続ければ、人々は降伏するかもしれない。」「戦争が早期に終結し、軍国主義ではない新たな日本が築かれることを祈っている。」”

 “捕虜たちの回答は陸軍から国務省や諜報機関に伝えられ、日本人の戦意をしる手掛かりとなっていきました。”


硫黄島で投降した捕虜のドラマ

 今名古屋空襲の映像が出ましたが、名古屋空襲の前に日本列島が晴天に恵まれた日がありました。その時、B29をテニアン、サイパンから飛ばし列島の空中写真を撮っているのです。それをトレイシーの情報と合わせ空爆する、B29の空爆はそこから始まっているのです。捕虜の中の東京下町出身者の情報は東京大空襲で役立ちます。したたかな捕虜がいまして、地図を描いて、ここは自分の家だから焼いてくれるな、と書いている。(笑)その図面が残っています。
 横須賀の軍港の港外にある猿島の地図を見ても、地下防空壕の中まで、また三浦半島のどこにレーダーがあるか、も克明にしゃべっていて、アメリカ軍は本当に毛穴の中まで覗いていたのです。

猿島の地図
猿島の地図

 硫黄島ではアメリカ軍は甚大な被害を受けました。日本の語学力のある連中が通信班を作り、アメリカの上陸軍と周りを取り囲んでいる艦船とのやりとりを傍受し、栗林師団長に伝える。この場合は、日本の語学将校がアメリカ軍の動きをつかんでいた。この功績があったので、手の内を読まれたアメリカ軍は最大の被害を被った。硫黄島が敗れたあと、残った通信兵は周辺の島に散らばり、アメリカの情報を集めたようですが、彼らの行方はその後わかっていません。硫黄島陥落の際、栗林忠道中将の横にいて通信兵をしていたサカイタイゾウ(本名サカモトタイゾウ)という人がいた。陥落直前、サカイタイゾウは自ら進んでアメリカ軍に投降します。彼は大変絵心のある青年で、画家を目指してフランスに留学しようとした。そこで神田のアテネ・フランセで学んだ経験を持っていた。銃弾を潜り抜けて幸運にも生きて捕虜になれたサカイに対応したロパルト中尉は、彼を英語で尋問したけれど通じない。ロパルトはイタリア系なので、今度はイタリア語でやってみたけれど、それも通じない。フランス語で話したらすぐに反応があった。フランス語で話がはずみ、ふたりは大変親密になります。捕虜収容所に送られる前に、ロパルトが聞いたところ、サカイはこれから始まる沖縄戦の情報まで持っていた。

 日本は沖縄戦の前に、沖縄駐留の一師団を台湾に派遣している。日本は沖縄戦というより米軍との戦闘は台湾から始まると思っていたため、沖縄は手薄になっていた。サカイはそういう沖縄の情報までしゃべった。暗号についてもしゃべり、暗号機械の絵図まで描いています。ロパルトは、これは大変な捕虜だと思ってアメリカに連れて行き、サカイタイゾウはトレイシーからフォート・ハントに送られるのですが、その際サカイは、自分はこれから死ぬのだろうから、戦争が終わったら自分の写真を結婚したばかりの妻に届けてくれとロパルトに託します。ふんどし一丁で灼熱の壕から飛び出して投降した彼が、一枚だけふんどしに隠していた妻との写真です。写真の裏にはボードレールの惡の華の一節「おとなしくしておいておくれ…私の苦悩よ・・・」が書かれています。

 ロパルトは後にカリフォルニアの高等裁判所の判事までやった人ですが、この写真をずっと持ち続けていた。2004年、臨終の床で、弁護士である甥にこの写真を家族に届けてほしいと命じました。彼の死後4年間、どうやって探そうかと調べているときに、静岡新聞にサカイタイゾウの写真を家族に返したいという小さな記事が出ます。
 その新聞記事を見た静岡放送の岸本達也ディレクターが写真の追跡をし、2008年に番組を作って、これが芸術祭優秀作品賞を取りました。トレイシー文書を発掘してくれたリサーチャーの野口さん、彼女のご主人の修司さんがこの「スペアヘッドニュース」という海兵隊の機関紙を探し出してくれました。ここにこの写真の顛末が書かれています。結局2008年に写真は横浜に住む娘さんのもとへ戻ります。戦争が終わって63年、サカイタイゾウが死んで25年がたっていました。そういうドラマが硫黄島の戦いの陰にあったのです。

 1945年7月トレイシーが閉鎖されてサカイはフォート・ハントに送られます。そこでサカイは戦後の日本について、民主制になるべきという自分の思いや、天皇制についても語っています。彼は中国から来た日本陸軍情報将校・沖野亦男と相部屋にさせられ、会話を盗聴されています。その盗聴記録も全部残っています。
 この沖野亦男は戦争で片足を失って傷痍軍人会の会長をしながら、東京オリンピックでのパラリンピックの創始者となります。硫黄島の戦いからこのように多くのドラマが生まれてきました。

 フォート・ハントに来た捕虜の中に、ベルリンにいた大島浩日本大使と小島秀雄海軍武官がいました。私のNHKの先輩が「Uボートの遺書」という名作を作りました。これはジェットエンジンなどの研究に行った日本人技術者の二人が捕虜になることを拒否してUボートで自決する話です。大西洋を日本へ帰国する途中でドイツが降伏してしまったからです。二人は子どもたちに遺書を残しました。
 いっしょに乗って日本へ向かっていたケスラーというドイツ空軍の大将をフォート・ハントに連れてきて、ドイツ駐在海軍武官の小島秀雄とを対面させる、そのシーンをアメリカは盗聴するのです。ケスラーは小島に二人の技術者の勇敢な最期の様子を涙ながらに告げました。
 ケスラーは、早く日本は戦争をやめろ、原子爆弾をアメリカはすでに持っている、日本がこのまま戦争を続けたら、人類の滅亡に繋がる、と。大島大使は原子爆弾が何たるか、わからない、そういう会話が残っています。


「私の太平洋戦争」のドラマ

 最後にもうひとつ秘話をお伝えしたいのですが、トレイシーの捕虜第一号の中に、潜水艦ロ号第61の5人の捕虜のひとり、マキノカズノリ一等兵曹がいます。かれはトレイシーからウィスコンシン州マッコイの収容所に連れていかれ、そこで結核になります。アメリカ軍は傷病兵を徹底的にケアしますから、彼は転地療養となります。その病院で、いっしょに行った彼を含む3人の日本兵が射殺される。しかし、射殺の理由が分からなかった。そしてカンザス州のフォート・ライリーの陸軍墓地に3人が葬られます。

 昭和38年にアメリカ研修中の自衛隊員が通りかかって、同じ日に死んだ日本人の名前があったということで、日本の厚生省に届けたのです。厚生省は3人の名前を、先ほど触れた鹿児島の内門義雄さんに照会しました。元日本兵の三人について何か知らないかと。
 そこで内門さんは、牧野一則マキノカズノリは同じ潜水艦の乗組員だ、転地療養に出る時に手を握って見送った、のこり二人のうち一人は名前が違っており一人は陸軍なので所属もわからないが、マキノの遺族をおしえてくれ、と厚生省に書き送ります。
 しかし厚生省は、遺族の名前と住所を内門さんに教えはしたが、埋葬された墓地については、教えませんでした。
 そこで内門さんはそれから20年かけて厚生省に通いながら、墓地を教えてくれ、遺骨を日本に連れて帰りたいと、たったひとりでそれからの太平洋戦争を戦ったのです。
 厚生省はけんもほろろでしたが、マキノの娘さんの住所だけは教えてくれた。それは熊本県熊本市の合志町というところでした。後に私は偶然その町に住む友人に頼んで娘さんの中西貴美子(旧姓牧野)さんの消息を探しだしましたが、福岡市に引っ越していたということがわかった。
 内門さんはそれよりはずっと前、合志町に貴美子さんを探し当てて、なんとか遺骨の返還運動をしようと話をした。しかし厚生省は動かず、らちが明かないので福岡出身の山崎拓自民党代議士に仲介を頼みました。すると厚生省も動きアメリカ政府は即、返還しようと言ってくれて、無事遺骨は帰ってきたのです。

 フォート・ライリー陸軍墓地での返還式の際、アメリカは儀仗兵が21発の弔砲を放ち、丁重に3人の遺骨を送り返してくれました。これが昭和62年のことです。この返還のことをニューヨークタイムズとワシントンポスト紙が短い記事で伝えましたが、どういう視点でかというと、3人が同時に死んでいるのがおかしい、何かあったに違いないと。すると、驚くべきことには、アメリカの一市民がこの記事に、やはりおかしいと疑問を抱いたのです。横須賀の海兵隊に4年の駐留経験のあるジョージ・ガーナーという人でしたが、知り合いの上院議員に死因を調べてくれと頼んだ。議員が陸軍省に問い合わせてもらちが明かないので、ガーナーさんは怒りを覚えて、陸軍長官じきじきに、「一納税者」と断って、ありったけの資料を開示しろと、上院議員の名前も添えて、強硬な手紙を書き送りました。するとちゃんと出てきました。射殺の原因と、射殺された後、陸軍高官たちが電話でやりとりしている、その録音記録が出てきた。射殺された原因ですが、彼らは病院で割腹自殺を図っているのです。その傷で収容された病室で、マキノが牛乳をこぼし、それを監視兵が声高に拭けと命じた、モップで拭きつつある中で口論になり、モップでつっかかっていった。そのために監視兵が3人一緒に銃殺した、という調書が残っていました。捕虜についてのこういう情報は、戦時中の日本の利益保護国スペインや中立国スイスを通じて赤十字に伝えられ日本に届いているはずなのですが、日本には一切そういう資料はありません。

 そんな経緯があって、トレイシーの捕虜第一号の男が、最後に日本に帰ってきたのです。昭和16年に開戦し、昭和62年に遺骨となって帰ってきた。内門さんは貴美子さんに手紙をしたためて、「世話になった人たちにあなたから礼状を出してくれ、そこに私の名前も添えておいてください」と頼みました。内門さんは「これで私の太平洋戦争も終わりました」と、手紙を結んでいます。


トレイシーその後

 NHKの国際放送がきっかけになったのではないかと思いますが、放送直後からトレイシーの尋問官たちが動き始めました。2007年にフォート・ハント跡地に彼らが集まってシンポジウムをやったのです。そして初めてアメリカ政府から表彰されました。トレイシーやフォート・ハントでやったことはその後の東西冷戦にアメリカの諜報収集に非常に役立った、と。そこで彼ら尋問官はどっと表に出てきたのですね。

 もうひとつ、トレイシー付近の封鎖線は昭和20年9月1日に解かれ、一般市民が通れるようになった。それから間もなく盗聴装置は全部日本に持っていかれました。そして、巣鴨プリズンで使われたのです。戦犯たちの生々しい会話が記録されているはずです。これは巣鴨プリズンで盗聴をした人の弟さんからの話なのです。その弟さんすら、当初お兄さんが戦後日本に行ったということは全然聞かされていなかった。それほど、アメリカの諜報機関にかかわった人々の口の固さが分かります。


トレイシーから学ぶこと―歴史を資料として残す気迫

 これで終わりとしますが、過去や情報を蓄積しない国家や社会、組織は、物事の本質を見る目を失っていきます。歴史の教訓を学ばないということで、同じ過ちを繰り返す。歴史を資料として残す気迫に欠けている日本、だから森友問題のような問題も起こる。これが、我々が今日トレイシーから学ぶ教訓ではないかと思います。ご清聴ありがとうございました。

(文責:事務局)