「物語で知るアイヌの伝統的生活―人々の物語から」
● 2018年4月7日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎441教室
● 話題提供:志賀雪湖先生(東京外国語大学・早稲田大学・立正大学 非常勤講師)
アイヌの物語
大学在学中から私は十数年ほど、アイヌの方のところへ行き、昔話などを語ってもらって録音し、それを書き起こすことをやりました。今は、録音した資料を整理することと並行して、アイヌ語やアイヌ文化、アイヌ文学を教えております。
今日お話しするタイトルに「人々の物語から」とありますのは、実はアイヌの物語は次の6つのジャンルに分類されていて、そのひとつに「人々の物語」があるのです。
① 英雄の物語(※ユーカラという言葉で知られているのがこのジャンル)
② 神々の物語
③ 人々の物語
④ 言い伝え(物語に分類しない研究者もいるが、語り手自身はジャンルととらえている)
⑤ 川上の者と川下の者
⑥ 和人昔話
「人々の物語」は、主人公の人間が自分の人生の一大事をどう解決したかを語る体験談のスタイルをとって物語が進行しますので、普通のひとの暮らしが垣間見えるものです。
K.デイヴィッド・ハリソンは、人類は記憶の装置として物語という手段を選んだと言っています(『亡びゆく言語を話す最後の人々』川島満重子訳、2013、原書房)。この見解は、物語の機能について、非常に的を得たものだと思います。
もちろんアイヌ自身が書いたものや聞き取り調査、江戸時代の和人の記録、家屋の展示、博物館の展示からも伝統的な生活を知ることができます。しかし調査方法によって、それぞれ得意とする分野に違いがあるのではないでしょうか。
「アイヌ文化を学ぶ」を見る
今日は物語の中から、どんな伝統的日常生活をしていたかを読み取っていただくのですが、その前に具体的にどういう生活だったのか、家とか物とか服装とか、イメージをはっきり持てるように、アイヌ無形文化伝承財団制作/札幌映像プロダクション撮影のビデオ「アイヌ文化に学ぶ」(1991年)を見てみましょう。(ビデオ上映:衣食住信仰について 以下青字はビデオの概略)
<神謡を謡う場面>
今聞いた神謡には、「チチ チチ」という繰り返しがありましたが、これはカワウソの鳴き声を表していると言われています。カワウソの神が自分の体験を謡っているのです。
<北海道庁の昭和61年の調査ではアイヌ人口およそ2万4千人ですが、実際には全国で推定5万とも10万とも言われています。>
2006年の道による調査でも同じくらいの人が北海道に住んでいます。これは、自らアイヌ民族であると認め調査に答えた人の数です。まだ全国規模の人口調査が行われていないために、また、自らアイヌの血をひいていることを伏せている人、伏せられている人がいるために、5万とか10万はいるのではないかと言われています。
<アイヌ文化は自然を敬い自然の恵みを感謝する中で育まれてきました。>
<アイヌ文化も変わっていく部分と変わらない部分があります。昭和25年から始まったマリモ祭りのように新たに作られ年中行事になったものもあります。伝統文化を保存するために毎年アイヌ文化祭が開かれています。日常生活は日本の大多数の人々とほとんど変わりません。一方で独自の文化の保存に懸命に取り組んでいます。(伝統舞踊の動画)>
各方面でのアイヌの人々による地道な活動の結果、アイヌ語を学び、アイヌの歴史文化文学を学ぶ場がわずかですが作られ、若いアイヌの人たちの学びの場、活動の場ができています。最近のアイヌの人々をとりまく状況を知るには北海道新聞社の「こころ揺らす」という連載記事がおすすめです。サロンでお伝えできなかったので、ここに記させていただきます。
<これは大正時代の終わりから昭和の初め頃の家を復元したものです。釘や板を使わず、木の幹や枝を組み合わせ、そこへ葦で壁や屋根を葺いています。葦の代わりに笹を使う地方もあります。>
<萱野茂さん:「俺の生まれた大正15年から昭和14、5年頃、こういう家が37軒、実際に人が住んでいた。だんだんに変わって、昭和32、3年頃、人が住んでいるこういう屋根の家はなくなった。とても暖かいし、雨が降っても音が聞こえないし。長男が結婚すると別居させる、長女が結婚すると別居させる、ひとつの家に二家族が住まないのがアイヌの村の約束。だから嫁姑の諍い無し!とってもよくできていましたよ。」>
(財)アイヌ無形文化伝承保存会制作/札幌映像プロダクション撮影『アイヌ文化を学ぶ』より
<室内は囲炉裏を中心にして、家族が座る場所、寝るところ、調理する場所などが決められていました。家の中では24時間、365日、火の気を絶やすことはありません。囲炉裏の上は天井の梁から火棚が下げられ肉や魚を燻すのに使われました。宝物や貴重品を置く場所には漆塗りの容器や儀式に使う道具が置かれています。>
アイヌの茅葺き屋根は日本の茅葺きと違って段々葺きが特徴です。漆器が出てきましたが、これは古くは和人との交易で手に入れた宝物でした。18世紀以降は松前藩に漁場労働を強いられるようになると、漁期いっぱい漁場で働き漆製品一つを得るなど言われるほど、非常に高価なものだったようです。
(財)アイヌ無形文化伝承保存会制作/札幌映像プロダクション撮影『アイヌ文化を学ぶ』より
<アイヌ語は日本語とは異なる言語です。日常的には今日ほとんど使われませんが、近年アイヌ語を学ぼうとする若者が増え、今(注:1991年当時)北海道の11カ所でアイヌ語教室が開かれています。萱野:「サケヘというのは言葉の芸術だ、と」>
今、萱野さんが言った「サケヘ」とは、先ほど聴いた神謡で「チチ チチ」という言葉が繰り返されていましたが、その繰り返しの言葉のことです。神々の物語(神謡)ひとつひとつに固有のサケへがあって、その神様を象徴していると言われています。
アイヌ語の正書法はまだ定まっていないのですが、一番丁寧なのはローマ字表記とカタカナ表記を併記するやり方です。1981年に、私が初めてアイヌの物語の採集に行った頃は、まだまだアイヌ語を覚えているお年寄りがいました。地元では北海道ウタリ協会の各支部主催のアイヌ語教室も開かれていました。教室にくる年配の方はローマ字が読めないのでカタカナでアイヌ語を表記することが多かったようです。ただ、文法的なことを説明するのにはローマ字が便利だったため、1994年に北海道ウタリ協会が出版したアイヌ語教材の『アコロイタクa=kor itak』はカタカナとローマ字が併記されています。最近では小学校入学前からアイヌ語を習う子もいて、カタカナをまだ習っていないためにひらがなを使うこともあるそうです。
<アイヌ語も(表記する)カタカナに独自の工夫を凝らしています。>
例えばここに、「イサ オルン アルパ」とありますが、イサは医者です。アイヌ語はサとシャを区別しないので、サで表記してあります。上の行に「シノ ピリカ」とありますね。アイヌ語では母音のあるなしが重要でピ・リ・カではなく、ピリ・カ(pir-ka)、二音節語なんですね。そういう場合はピリカと、小さいリで表します。小さいカタカナ文字を使って子音を表すアイヌ語特有の表記法です。
<アイヌの物語はいろいろな種類があります。これはユカラです。(ユカラの詠唱)>
「英雄の物語」がユカラで、炉縁をたたきながら謡うのですが、語り手ひとりひとりがユカラを謡うときの節を持っています。
<ユカラは地域によってサコロペともハウキとも呼ばれています。(詠唱者のかけ声)>
この、ホーッというかけ声は、本来は聴いているひとが謡い手を力づけるようにするのですが、この方はひとりで謡っているので自分でかけ声もかけていたのでしょう。
人々の物語
次は「人々の物語」、今日読むジャンルの映像です。聞いて下さい。
<(人々の物語の語り)上田としさんの語るウェペケレです。地域によってはトゥイタクとも呼ばれます。>
<(神々の物語の語り)白沢ナベさんの隣にいるのが、アイヌの物語を日本語にしてきた中本むつ子さんです。>
この物語ではアテヤテヤテンナというサケヘ(繰り返し)がところどころに入ります。火の神様を象徴するサケへです。次に紹介するのは、国立劇場で謡われたワオ(青鳩の神)の物語です。「ワオリ」というサケヘが聞こえてくると思います。アオバトのワオ~という鳴き声がサケへになっています。
<白沢さんと中本さんは平成4年4月、東京の国立劇場の舞台に立ち、カムイユカラを演じました。>
<ユカラやウウェペケレには人間と神様の関わりの話がたくさんあります。中本さん:「アイヌは何一つ魂のないものはないという考え方なのでね。ですから謙虚でまっすぐな気持ちを持っていないといけない、という教えがね、たえずあるわけで。それで神様の話が多いのだと思います。」>
アイヌの人々は、全てのものに魂があると考えてきました。そして、人間の役に立つもの、人間の力の及ばないものを神様だと考えてきました。全ての存在に神を認めていたと、ときどき勘違いされることがありますが、すべてが神様ではないのです。
江戸時代の和人の記録
映像資料はここまでで、次に田端宏先生の「近世アイヌの生活」『アイヌの歴史と文化』Ⅰ(創童社2003)にまとめられていた、18世紀末~19世紀の和人の記録を読みます。一覧表にしましたので、ご覧ください。
物語を鑑賞したのち、振り返ってこの記録を見ていただくと、和人の記録から分かること、物語から分かることの違いを知ることができると思います。
■アイヌの生業
① 漁撈 鮭は最も重要な食料。簗漁や追い込み漁などいろいろな手法で取る。
② 狩猟 鹿が大きな比重を占めていた。皮や骨、腱も使った。熊猟では猟の前の祈り、解体の作法、頭骨を祭る儀式などを伴う。毛皮や胆嚢は交易品。
③ 農耕 肥沃な川岸に種を撒き、除草などはしない粗放で小規模な農耕。女性や老人の仕事。
(志賀:松浦武四郎が江戸時代、蝦夷地を歩いた記録を読むと、ここに畑を作れば良い畑になるだろうと書き残しています。)
④ 採集 行者ニンニクやウバユリなどが大事でした。
⑤ 交易
■暮らしの断面
⑥ 住居 映像資料にあったような住まい。
⑦ 家族形態 一組の夫婦と未婚の子どもたち。結婚した順に家を出て行くので、末っ子が家を継ぐことが多い。
⑧ 男女の分業 男性は対外的な仕事や生業、祭祀を担当。女性は家事育児全般と漁の補助など。
⑨ 食事 一日2回。
⑩ アイヌの衣料 和人がアイヌの習俗を描いた絵にはアイヌ文様の着物が描かれています。
⑪ 口承文芸
■社会的しくみ
⑫ 村落 数戸から十数戸で父系の血縁関係が中心になっている。大きな川に沿って形成される。
(志賀:物語の中では、川中の村、川下の村、川上の村、と三つの村が出てくることがあります。)
領域を侵すと太刀や漆製品(宝物)で償うという賠償制度がありました。コタン・コロ・クルという村長がいましたが、世襲ではなく、優れた人物が務める。困っている人にはさりげなく肉をおいていくような相互扶助のしくみがありました。
⑬ 和人との関係 いくつもの村落を代表する有力者は和人から「惣大将」と呼ばれた。松前藩による「惣乙名、乙名」などの役職が定められ、和人との調整はアイヌ社会の重要問題となる。
なお、サロンでお話しする時間がなかったのですが、一覧表には、「信仰」という項目を増やす必要があると考えています。つまり、和人による記録によって当時のアイヌの人々の具体的な生活を知ることができるものの、信仰については記録するのが難しかったようです。そこで、物語からアイヌの人々の生活にねづいた信仰を読み取ろうと考えました。
物語鑑賞① 「妻が私に筋子をかけた」
次に萱野茂さんの著書「カムイユカラと昔話」(小学館)から、「妻が私に筋子をかけた」を読んでいきましょう。村長の息子が主人公で、その体験として語られていきます。(以下青字は物語の概略)
<村長の息子である私は妻をもらったが、子どもができなかった。妻が言うに、子どもを得るために妾をもらってくれと。アラモイサムという村の村長の娘をもらってきてほしい、と泣いて頼む。>
萱野さんは「妾」と訳していますが、私にとって「妾」という日本語は本妻と対等なイメージがわきません。第二の妻とでも訳したくなります。関係者全員が同意している妻なので。一夫多妻制は本当にあったかという質問に対し、ある条件下であったことが『アイヌ文化の基礎知識(改定・増補版)』(草風館、2018)に書かれています。
<そこである日、その村に出かけていき、大きな家の前に立って、エヘンエヘンと咳払いをして来訪を知らせた。すると中年の女が出てきてどうぞお入り下さいと言う。家の中には中年の男が座っていて私が礼拝をすると礼拝を返してくれた。そのうち家の外で薪を投げ下ろす音が聞こえ、驚くほど美しい娘が入ってきた。夕方近くふたりの息子も狩りから返ってきて挨拶をかわし、皆で夕食を食べた。そのうち私が訪ねてきた理由を聞かれたので、『私はユペッという村の村長の息子で、妻との間に子どもが生まれないので、妻はお嬢さんのうわさを聞いてぜひもらって欲しいと言ったのです。もし家族の皆さんやお嬢さんが承諾してくださったら妻も喜んでくれるでしょう』と言い、肘を脇腹に付け両手を前に出し上下させるお願いの礼拝(イタッコシムシシカ)を何度もした。
主は、姉娘は手元で結婚させるが、妹娘でよければ、と承諾してくれた。妹娘も承諾の印の所作、右手の人差し指を左の人差し指へそっと摺り合わせ、そのまま上げてきて上唇にそっとあてたので、私は満足した。
翌日その娘をつれて私は私の村へもどった。妻は大変よろこんで、数日後には窮屈だろうから別に家を建てなさいと言ってくれた。妾と暮らすようになって、私は本妻を忘れたように行くことがなくなった。暮らしに困った本妻に村人が時々肉を窓から入れてくれていたが、私はそれもしなかった。>
肉を入れる窓は、炊事用の窓ではなく、(人の出入り口でもなく)、神様が出入りする窓から入れます。肉は獲物である神様からの贈り物だからです。
<数年が過ぎた頃、本妻の家の前を通って狩りに行こうとすると、本妻が筋子を山盛りにした椀を手に出てきて、その筋子を私の背にぱっとかけ、家の中へ引っ込んだ。
山に着いて枯れた茅の斜面を登っていると、うしろからパチパチと音がして火の手があがった。転がるように逃げて谷底に着いて見上げると物音もせず、煙もない。帰り道はいつも通りの茅の原で、山火事があったとは信じられない。我に返った私は、本妻を顧みなかったことへの神からの罰だろうと思った。>
この語りの西島てるさんの地域では、家の神様と火の神様は夫婦だと考えられています。この場面は幻覚ですが、火の神様が妻の味方をして夫を罰した場面なのでしょう。
<戻った私に妾は私の様子がただならないことに気づいたが、そのまま夕食をとり、私は寝入ってしまった。
すると夢に神が現れ、横座(上座)に座って『私はおまえの家のソパウンカムイ(守護神)だ。おまえの妾は精神の悪い女で、妾の魅惑に迷ったおまえは本妻に食べ物をやらずに不自由させた。本妻のみならず、家に居る諸々の神、火の神様や守護神の私まで何年もひもじい思いをした。今朝本妻がおまえに筋子をかけたのは、ほんとうは火の神が熾火をおまえにかけたのだ。
おまえは人間らしい心を取り戻したのだから、明日はもともとの家にもどり、たくさんの御幣(イナウ)を削り、私のキモノのイナウを新しいイナウに取り替えるのだ。本妻にもイナウを刀の鍔にイナウをつけて渡しなさい。受け取れば許されたことになる。妾はもとの村に返して、妾の家も壊してゴミ一つ残さないようにしなさい。おまえたち夫婦には特別に女と男の魂を一つずつやろう。したがって本妻との間にふたりの子どもが生まれるだろう』>
家の守護神が、未熟な夫のことを親身になって導いていることを考えると、夫の守護神のようにも思えます。家の主人が亡くなったときは家の守護神も送り儀礼する地域があることからもそう言えそうな気がします。
<翌朝、言われたようにして、もともとの家にもどり、横座にすわって礼拝し、たくさんのイナウをけずった。妻はイナウをつけた鍔を受け取ってくれた。妾はもとの村へ送り帰した。最初はひとりで寝ていましたが、夢にまた現れた神に叱られ、遠慮しながら妻と一緒の寝床で寝るようになり、やがて男の子、続いて女の子が生まれた。だから今いる男たちよ、顔の美しさだけに迷うことなく、精神のいい女をえらびなさい、と一人の老人が語りながら世を去った。>
このように、人々の物語は、ある人が自分の人生の一大事を語るものです。ここで言われた「精神がいい」とはどういうことなのか。みなさんどうお考えでしょうか?(参加者:心のやさしいこと/ひとに気を遣う/神様を忘れない/村のしきたりがよくわかる)夫が妾のところに行ってしまって帰ってこないので、妻は食べ物に困っていたわけですね。ところが妾は全く存在感がない、なにも行動をおこしていない。村人は気にして肉を置いたりしているのに。アイヌの言い方では食い根性が悪いというらしいですが、食い根性が悪いほど精神が悪いことはない、と考えるらしいのです。
なお、時間の都合で「夫婦のあきれた話」(鳩沢ふじの語り、田村すゞ子『アイヌ語音声資料』1、早大語研1985)を読めなかったのですが、これも子のない夫婦が第二の妻をもつ物語です。ただ①とちがうのは妻同士が尊敬しあっている点です。そのため物語の展開が違ってきます。合わせて読んで比較することで何か発見があるかもしれませんね。
物語鑑賞② カツラの木の女神
次に鑑賞していただくのは「カツラの木の女神」です。これは平取町立二風谷アイヌ文化博物館ホームページの「アイヌ口承文芸を見る・聞く」で公開されているものです。このサイトで、貝沢とぅるしのさんのこの物語の語りを聞くことができます。ちなみに、このアイヌ名は「垢まみれ」という意味です。トゥルは垢、ウシは付いている、それにノがつくと「たっぷり」という意味がプラスされます。なぜそんな名前をつけたのかというと、病気の神様は汚いものを嫌がるため、「垢まみれ」とつけ、長生きするように願ったのだそうです。
この物語は昭和44年に萱野茂さんが採集したものです。「カツラの木の女神」というタイトルは萱野さんがつけたのでしょう。伝承されてきたアイヌの物語には題名がないのですが、資料整理や本で紹介するために題名をつけることがあります。(以下青字物語概略)
<私には父母と兄が二人いました。>
「人々の物語」は展開のパターンが決まっていて、最初に家族構成について語ります。
<兄たちは別に暮らしていました。兄たちは両親に全然食べ物をくれませんでした。>
伝統的な暮らしでは、子供が結婚するとつぎつぎと独立するので、未婚の私が父母と暮らしている状況です。兄たちは、独立しているとはいえ、相互扶助の習慣があるはずなのに全く両親への気づかいをしないのはとんでもない親不孝ということになります。
<山の向こうに立派な男がいるので、そこへ宝物を持って行って、代わりに食べ物をもらって来るように父に言われました。女が歩くときには刃物を持って歩くものだと言われて支度をして、山向こうに出かけました。川伝いに登って下って、心細い思いをしながら行くと、立ち姿のいいカツラの木が立っていました。>
刃物はメノコマキリ(女性用の小刀)でしょう。カツラの木はランコと言います。
<その根元で火をたいて休みました。ひこばえの小さなカツラを一本、人の背丈に切って、自分の鉢巻きを裂いたものを巻いて『これから山向こうの村に食べ物をもらいに行ってきます。戻ってくるのを待っていて下さい。私の身を守ってくれたら、もらった食べ物をお裾分けいたします』と言いました。>
立ち木の姿なのですが、立ち木を人格(神格)をもった存在として対面している場面です。
<段々明るくなるころ、美しくて人の多い村に着きました。その村長と私の親は知り合いなので、村長のところへ行くように言われていました。訪問の音を立てました。>
訪問するときは、咳ばらいをしたり、草履をパンパンと打ち合わせたり、壁をトントンとたたいてノックするような作法があります。よりかしこまった作法では、じっと家の近くで待って、家の人が気づくのを待つ。物語の中ではそのように描写されることもあります。
<汚れ水を捨てに、家の娘が出てきて、山向こうに住む娘が来ていると父親に報告しました。客人を招く準備をして、家のひとが外に出て、迎えてくれました。遠慮深く入って、入り口の方を向いて座ろうとしました。>
家に招かれても、すぐに炉端の客人のすわる位置までいかずに、下座の方で入り口を向いて座るのが、かしこまったやり方なんです。「もっと火のそばへ」とその家の主人から声がかけられると、立たずににじり寄って、少しずつ火のそばへ近づきます。このような作法があったことは物語によく語られています。
<どういう用件かと聞かれ、少しでも鹿肉、熊の肉など食べるものをもらえるよう頼みなさいと父に言われたと説明しました。家の主は残された家族を顧みない兄を罵りました。家の娘が料理して、ごちそうをしてくれました。年配の女性(主の妻)は私をなでさすってくれ、私の持参した宝物を見て、ねぎらってくれました。宝物を上座に置いて拝礼しました。>
なでさするのも女同士のあいさつの作法です。
<暗くなり、狩りから返ってきた人の物音がしました。その人は神窓から獲物の肉を入れました。その家の二人の息子でした。挨拶の後、上の息子の問いに主は事情を説明し、飢餓で困っている人に食べ物をあげる時は代償を取るものではないが、この宝物をまた背負わせるのも大変だからもらっておくことにしよう、と言いました。>
お礼として持ってきたものは、断るべきではないとする語りもあります。いずれの場合も、お礼を持ってきた人への配慮が語られる場面だといえます。
<明日はこの娘を手伝って食べ物を持って途中まで送っていけと言いました。息子たちも、娘の兄たちを親不孝ものと憤りました。
食事をごちそうになりました。私は自分のお椀からそっと肉を取り出しました。>
空腹で待っている両親のことを思うと、自分だけ食べるのは忍びなく、さらにあのカツラの木にもこの肉を食べさせたいと思っている場面です。娘の心根の良さ、健気さが語られています。
<ぐっすり眠って翌朝、たくさんの食料を荷造りしました。息子たちは送ってきましたが、途中で、また困ったら早く来なさいね、と彼らは帰っていきました。ひとまとめにした荷物を背負って、私はカツラの木のところまで来ました。すると、行きには無かった家があり、中で火が燃えていて、頭にあの鉢巻きをした本当に美しい娘(カツラの女神)がいました。
女神は私に、戻ってくるまで休んでいましたよ、アイヌの紳士たちが途中で戻るように私と私の親が思わせたのですよ、と言いました。これほど精神のいい人たちはいない、若い方の息子は人間の子孫ではない、私が取り持って、彼が婿としてあなたの元にいくでしょう、そうなれば、もう困ることはないでしょう、と。私はもらってきた食べ物を捧げました。>
木の神様はアイヌの世界にはたくさんいます。この物語からは、カツラの木の神様と娘との精神的交流が伝わってきます。その後、どうなったかは、二風谷アイヌ文化博物館のホームページでごらんください。
実は語り手の貝沢とぅるしのさんは1940年にも同じお話を語っていて、萱野茂さんが『カムイユカラと昔話』で紹介しているのですが、1944年の語りと違って、主人公の私(娘)が結婚する相手が、助けを求めていった山向こうの村長の弟息子ではなく、女神が選んだ精神の良い若者で、「どこからか立派な若者がやってきて……」と語られています。話の骨格は変わらずに、こまかなことがらが変化する。口承文芸というものはそういう変化を含めて、語り手ひとりひとりの語り口を認めつつ語り伝えられるものだということができます。
ホームページでは、今後も未公開資料が公開される予定だそうです。語りの声と一緒に、ぜひお読みになって、アイヌの人々の伝統的な暮らしの様子を知っていただけたらと思っています。(サロンでお話できなかったことも補足させていただきました。)
(文責:事務局)
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