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ことば村・ことばのサロン

2018・9月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「万葉集にやまとことばの起源を探る」


● 2018年9月15日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス西校舎523A教室
● 話題提供:小林昭美ことば村副理事長(元NHK放送文化研究所所長・古代日本語研究)


 8月の夏休みのあと、9月から後半の活動が始まりました。そのスタートとして、小林・ことば村副理事長の「万葉集にやまとことばの起源を探る」サロンが15日に開かれました。
 万葉集のことばには中国、朝鮮半島起源のことばが数多くあることを、長年の古代日本語研究を通して見いだした具体例を挙げて解説、「やまとごころ」に固執する国学に反論する興味深いサロンになりました。
(配付資料は文末にあります。)


講演要旨

 少し面倒くさい話になると思いますが、日本語はどこから来たか、という問いが根底にあります。安田徳太郎は著書「万葉集の謎」でヒマラヤの山奥に日本語と同じことばをしゃべっている人たちがいる、と書き、これが大変売れました。大野晋先生のタミル語から、という説の本も大変売れています。大野先生は1957年に、岩波新書で「日本語の起源」を出し、そこでは日本語はアルタイ系だ、朝鮮語やモンゴル語と同系だ、という説でした。1980年ごろどういうわけか急にタミル語から来ているという説を立てまして「日本語とタミル語」(1981年)を新潮社から出した。すると岩波も負けていませんで、前のアルタイ系だという「日本語の起源」を絶版にして、タミル語説の「日本語の起源新版」(1994年)を出し、他にも何冊もタミル語説を出し営業的に成功しました。


万葉集からそれ以前の日本語にせまる

 起源はどこかと考えるのはロマンチックでいいのですが、起源を先に決めて現代に至るのは歴史的方法ではないと私は考えております。現代からできるだけ昔に遡り、さらにその先を再構築していくという方法でないといけないのではないか。日本語の場合一番古いと言われる「魏志倭人伝」は固有名詞くらいしかないので、まとまった信頼できる資料としては「万葉集」ではないかと思います。
 万葉集のことばはどういうものかを突き止めれば、それ以前の日本語も分かってくるのではないかというのが私の発想です。配付資料の最初に江戸時代の人、本居宣長がありますが、江戸時代の学問というのは藩校でも寺子屋でも漢学だったわけです。そういう時代に本居宣長は「からごころ」、つまり中国かぶれを拭い去れば、「やまとごころ」が見えてくる、と主張しました。ご承知かとは思いますが、本居宣長は伊勢の人で商売はお医者さんだった。あるとき、万葉集研究の賀茂真淵と会い意気投合し、古事記の研究を勧められます。古事記も漢字だけで書いてある。日本語は文字を持たなかったのですが、どうやら「ことば」というものは文明より古いらしい。人間が文明と接する前から「ことば」は持っている、それが先住民のことばだと思います。


文明以前のことば

 今話題になっている本「ノモレ」は、NHKの大アマゾンの取材をしたディレクターが書いた本ですが、アマゾン奥地の先住民はブラジルやペルーの観光資源になっている。先住民も500年前にスペインに征服され、100年前にはゴム農園で奴隷になったりして、文明と接触している人たちがほとんどですが、奥地には鉄を知らない人々もいる。そういう人々と文明に接した先住民とが奥地で遭遇することがある。すると、ことばが通じる場合がある。なぜかというと、たぶん同じ部族だったのが100年くらい前に奴隷になることをまぬがれた人と、奴隷になった人がいたのではないか。要するに、文明に接する以前から両者はことばを共有していた。そこが非常に面白い話だと思います。
 日本人の場合はどうだったか。縄文人は、大雑把に言えば未開人であった。中国に文明が起こり、鉄や稲作を持って、おそらく紀元前三世紀頃に日本へ人がやってきたのが弥生時代の始まりですね。大陸のことばはおそらくその頃に入ってきて、文字はおそらく紀元後300年くらいから入ってきたのだと思います。万葉集は759年に成立したわけですから、それまでに大陸からのことばと接触があった。ですから、「からごころを拭い去れば、万葉集はやまとことばで書かれている」というのはたぶん嘘で、万葉集の中にも漢語起源のものがたくさん入っているに違いないと私は思うのです。


漢字の担い手は僧侶

 万葉集も漢字で書かれていますが、6世紀に仏教が漢語で入ってきました。万葉集以前に漢詩集の「懐風藻」がありますが、万葉集を勉強する学者と懐風藻を勉強する学者の仲が悪いために、この二つを合わせて考えることができない。私のような部外漢から見ると、日本人は漢文を書く方が早くできて、日本語を書くのは難しかったんだな、と感じるわけです。懐風藻にはお坊さんの漢詩が多い。万葉集に僧侶は居ないことはないですが、希です。
 話が飛びますが、朝鮮半島の新羅に郷歌(ヒアンガ)という、万葉集のような歌集があります。それにはやたらに僧侶が多い。ですから、やはり僧侶は漢字の担い手として中国から朝鮮半島に来て、そこで漢字を習った人たちが不比等として日本にやってきた。不比等は朝鮮半島出身が多いというのが定説です。日本書紀や古事記では、日本が国をなして、朝鮮半島から不比等を召して、となっていますが、そうではなく、漢字が出来る人がやってきて、長い時間をかけて、万葉集ができたのだということだと思います。
 歌そのものはことばですから、文明以前からあったわけですが、それを表記する方法を朝鮮半島から来た不比等が担っていた。
 ヒアンガは植民地時代の平壌にあった朝鮮帝国大学で小倉進平先生が研究された。ヒアンガも漢字で書かれていますが、どれを音で読み、どれを訓で読むかが議論になっていたのですが、植民地時代が終わって韓国の学者が小倉先生の研究を受け継いで研究した結果、梁柱東という大先生によって読み下されています。それをみると、実に万葉集の漢字の使い方と似ているのです。


音韻転移の法則

 私は韓国でその梁柱東の「ヒアンガ」を買いました。漢字交じりのハングルで書かれています。ハングルの構造は大変論理的に作られています。ハングル文字でコパヤシと書いてコバヤシと読みます。第一音節は清音で第二音節は濁音になる、という規則があるからです。古代日本語でも中国語の濁音は清音になるという規則があります。コバヤシの林も、辞書でバヤシはない。コが付くから連音でバになるとわかります。古代に遡れば遡るほど、日本語と朝鮮語は似ています。例えば古代日本語では、ラ行で始まることばはありません。朝鮮語では、現在でもラ行で始まることばはありません。
 資料の5ページに「中国語のラ行音は日本語では転移する」と書いてあります。つまり違う音になるのですね。ラッキョウとか言えるようになったのは、万葉集より大分後になってからです。万葉集ではラ行で始まるのは「力士儛」(リキシマイ)という一語しかありません。
 三省堂の時代別国語辞典を見ると、ロクロとか、ラデンという中国語は入っていますね。けれども、普通ラ行は朝鮮語では無くなります。ですから李さんは、本来の朝鮮語ではイさんです。Liは無くなるのですが、Loだと、朝鮮語ではノになるのですね。LとNは調音の位置が同じだからです。調音の位置が同じ、あるいは鼻音など調音の方法が同じものは転移しやすい。ノテウ(盧泰愚)大統領のノはロの字を書きますよね。朝鮮語では中国語のLはNに転移するわけです。入り渡り音というのですが、日本語イ段の場合、頭子音が失われる。例えば、資料5ページにありますが、立[liəp]は(リツ・たつ)になり、粒[liəp]は(リュウ・つぶ)になり[li]は(た行)に転移している。瀧(リュウ・たき)や峰(リョウ・たけ)龍(リュウ・たつ)など、学校で国字と教えられたと思いますが、中国語が転移したものだと思います。弥生時代の初めから万葉集成立まで、およそ1000年、その間に日本語の仲に入ってきた中国語起源のことばだったと思います。
 リュウ[liəp]という時はイがあるのになんで(たつ)なんだ、さきほど李さんはイさんで、イがあると頭のリ音が取れると言いましたが、中国語で頭子音と母音の間にイが入る、日本語で言えばヤ行のヤユヨみたいなものですが、それが発達してきたのは隋の時代と言われています。その前の例えば詩経の時代などではイの音はなかった。イが出てくると粒はイボになった。それとツブになったのとあるわけです。蝶を旧仮名遣いでは(てふてふ)と書きますね。中国語音では韻尾が[-p]なので(ふ)と書いたのです。(てふ)のほうが中国語音に忠実なんですね。

 それからラ行がナ行に転移するのは、さきほどの盧泰愚がノテウになるのと同じ例で、浪[lang]は(ロウ・なみ)となった。韻尾の-ngは調音の位置はクと同じでクで表れることもありますが、調音の方法はmと同じなので、(ミ)で表れている。
 そのほか、マ行に転移するとか、脱落する例もあります。陸[liuk]は頭のlが脱落して(おか)となった例だと思います。柳[liu]も頭のlが脱落して(やなぎ)となったので、中国語起源だと思います。
 万葉集には梅がよく出てきますが、これも中国語起源です。漢字には意味を表すと同時に70%位の漢字には音を表す部分があります。「梅」の作り部分は(マイ)ですよね。この(マイ)に母音(ウ)が付いた。ムは半濁音というか、唇で調音します。その前に母音がついてのは、これが半濁音だったからだと思います。スエーデンの学者にベルンハルト・カールグレンという人がいて、今では顧みられていませんが、彼曰く、梅は万葉集成立の少し以前にたくさん中国から入ってきた、だから万葉集にたくさん歌があるのだ、と。母音ウが付いたのはmの音が半濁音だからだ、と。だから梅だけでなく、馬とか未(ミ・いまだ)など、mなので母音が前に付いた。mの前に母音が付いたやまとことばはたくさんあります。それはほとんどみな、中国語と同源のことばです。


小林昭美先生


 ここで質問があればどうぞ。

参加者A 朝鮮語で万葉集を読むと、まったく違う意味になるという本を昔読みましたが、中国語だけでなく、朝鮮語の影響もあるのでしょうか。

小林 ある程度そういうことは言えると思いますね。でもあの本の他にも朝鮮語で読むと万葉集は卑猥な歌ばかりだなんて、いかがわしい本がいくつか出ていまして、それは眉唾だと思います。

 朝鮮語との関連が出ましたので、資料6ページを見て下さい。

 渡津海の 豊旗雲に 入り日さし 今夜の月の 清明けくこそ (天智天皇)

 この渡津海の(ワタ)は朝鮮語の(パダ)ですね。パダは朝鮮語で海のことです。渡津海は、朝鮮語のパダと日本語のウミを並置したものです。朝鮮語を日本語で翻訳した。海の、という言う意味です。その後の豊旗雲とは、豊かな旗のような雲、というのが万葉学者の一致した意見ですが、私は、その見解は狭いと考えています。私は、旗と書いてあるが、実は朝鮮語のパダではないかと思います。そうだとすると、豊かな海雲という意味です。雲は朝鮮語では(クルム)と言います。(クルム)と(くも)は似ている。そうするとこれは同源ではないかという推論が成り立つのではないか、そう私は考えています。あんまり認められていません(笑)。


万葉の歌人たち―人麻呂、大津皇子の歌にある中国語起源のことば

 万葉集の時代について、資料1ページの下の図を見て下さい。高松塚古墳の壁画です。高松塚というのは古墳時代の最後くらいの古墳で、700年くらいに出来たのではないかと言われていますから万葉集成立の50年前。たいして前ではありませんね。資料の3ページに柿本人麻呂の絵がありますが、この絵は、どうも平安時代の貴族の装束を模して描いているようです。本当は高松塚古墳の絵(これは女性ですが)に近かったのではないでしょうか。高松塚古墳は数十年前に発掘されたのですから、それ以前の人はこの絵を見ていないので、そのようには描けないのですね。
 資料2ページに行きます。大津皇子という人がいます。謀反の企てがあったということで死を賜るのですが、そのひとのうたが万葉集と懐風藻の両方に出ています。

[万葉集の歌]
大津皇子、被死之時、磐余池陂流涕御作歌一首
百傳 磐余池 鳴鴨 今日 隠去(万四一六)
[読み下し]
大津皇子の被死(みまか)らしめらゆる時、磐余の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りましし御歌一首
ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

[懐風藻の漢詩]
五言 臨終 一絶
金烏臨西舎    金烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨み
鼓声催短命    鼓声(こせい)短命を催(うなが)す
泉路無賓主    泉路(せんろ)賓主なし
此夕誰家向     この夕 誰が家にか向ふ

 読み下しは枕詞があったりしますが、分かりますよね。磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を見るのも今日が最後で死ぬのだ、ということですね。懐風藻の漢詩のほうは、金烏が太陽、太陽が西に沈もうとしていて、太鼓の音が短い命を催促する。泉路・あの世には私をもてなしてくれる主人も居ない。この夕べ、どこへ向かえばいいのか。
 私は万葉の歌とこの漢詩を同じ人が書いたとするとすごいことだと思います。バイリンガルとは、同じ気持ちを他のことばに置き換えるということではなく、違う発想を促すのだと思います。英語でもそうですよね、奥さんにMy darlingと英語で言えても日本語で言える人はそういない。ことばはその背景にある文化を担っているから、和歌をそのままに訳すことも、漢詩を和歌に訳すこともうまくいかないのではないかと思います。おおまかにごまかさないと、翻訳ということは成り立たないのではと思います。

 万葉集の代表的歌人の人麻呂だと思いますが、資料3ページにいくつか代表的な和歌が書いてあります。

●楽 思賀碕 雖幸有 大 麻知(万30)
楽浪(ささなみ)の、志賀(しが)の辛崎(からさき)、幸(さき)くあれど、大宮人(おほみやひと)の、舟待ちかねつ

 先ほど申しましたように、楽浪の浪は中国語と同源、舟も中国語と同源と言われています。船はセンですから舟とは一致しない。
 それから兼、(かね・ケン)。兼は古代中国語では韻尾が[-m]なのですが、日本語では中国語の韻尾の[-m]と[-n]を弁別しないので、兼(かねる)とナ行に転移します。かねるのルは活用語尾です。中国語には活用というものがありません。朝鮮語と日本語にはあります。ですから古代に遡れば遡るほど、私は、日本語は朝鮮語に似ていると思うのです。朝鮮語にも日本語にも活用があり、てにをはがある。中国語にはてにをはもありません。語彙は文明の国である中国から朝鮮に入って、朝鮮から日本に入った。もともとの日本語は朝鮮語により近かったのでしょう。ヨーロッパでも、たぶんラテン文化が覆ったために語彙が共通語のようになっている。同じように、漢字文化圏の中国、朝鮮、日本、ベトナムは漢字との接触のために語彙を共通にしているものがたくさんある。発音は地域、国によって違いますが。
 日本人は日本特殊論が大好きです。しかし歴史的に見れば中国文化が朝鮮を通って入ってきたというのが事実です。やはり漢字の果たした役割は大きいのではないかと思うのです。

 人麻呂の楽浪の和歌は、中国語の順序で書いたために日本語で読むときにはレ点を付けなくてはならない。

●東 炎  反 月西渡(万48)
「東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」

 私はこの、「立」とか「見」は中国語と同源だと思っています。万葉集での書き方はいろいろあって、例えば 楽浪の和歌で、中国語にはない助詞を之という字で表していますが全く表さない書き方もある。同じ人麻呂がいろんな書き方をしています。資料4ページの

●戀 戀哉 我妹  過(万2401)
「恋ひ死なば恋ひも死ぬとや我妹子が吾家(わがへ)の門(かど)を過ぎて行くらむ」

 文字数が12、三十一文字の和歌を12文字で表している。ということは書いてないものがたくさんあるということです。日本語では二重母音を避ける傾向がある。吾家の(わが)が母音で終わっていますね、そこで次の(いえ)がリエゾンするのですね、なので(わがいえ)が(わがへ)になる。


外国の研究を認めない国学者

 ちょっと横道にそれますが、古事記、日本書紀には歌謡が収録されています。日本語の歌を漢字の音だけを使って書いてあります。例えば

●やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき山 こもれる 大和しうるはし

 この大和を、日本書記では「夜摩苔」書いてあります。だけど、これを(やまたい)とは読まない、(やまと)なのです。古代日本語のoにはo乙とo甲があって、(たい)という二重母音は無いのですよ。ですからこれで(やまと)と読むのです。ところが魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は、漢学者によれば中国語だから(やまたい)だと、一方国学者は(やまと)だ、と言います。漢学者と国学者は人脈が違うので、議論にもならない。
 本居宣長が漢学者を嫌っただけでなく、漢学者も国学者を軽蔑しているのですね。東大の先生になるのに、夏目漱石もそうですが、みんな留学した。しかし国文科の先生だけは留学しなかったのですね。した人もいます、上田萬年ですね。博言学を勉強してきましたが、日本に帰ってきたら国学者になってしまった。大槻文彦も立派な辞書を作るなど、その時代としては優れた学者でしたが、国語学に西欧言語学の知識を残してはいません。さきに、ベルンハルト・カールグレンの話をしましたが、彼の専門はオリエント言語学です。駒込の東洋文庫に著作があります。その中で日本語の(うめ)とか(うま)は中国語と同源であると言っている。ところが亀井孝という国文学の大先生は論文の中でカールグレンは間違っている、例えば(たけ)と(チク)が同じなんてあり得ないだろう、日本に竹は昔からあったのだから日本語には(たけ)があったと、全部否定するのですね。国文学の人は本居宣長の子孫みたいな人ばっかりですから、外国人の言うことなど認めないのです。山田孝雄(よしお)という大先生が国語学史という本を岩波から出しています。国語学というのは日本人が日本語を研究するから国語学という、外国人が何かいうのは国語学ではないと主張したのですね。それぐらい排他的なのです。今は、国語学会は名称を変えて日本語学会になっています。少し進歩した。だけど頭の中は全く同じです。


東歌にみる中国語起源のことば

 資料の4ページの東歌を見てみましょう。

●鳥が鳴く吾妻(万1807)
勝鹿(かつしか)眞間娘子(ままのをとめ)歌一首。高橋蟲麿之歌集中出。
鶏(とり)が鳴く 吾妻(あづま)の國に 古(いにしへ)に 有りける事と 至今(いままでに) 不絶(たえず)言ひ來(ける) 勝壮鹿(かつしか)の 眞間の手兒奈(たこな)が 麻衣(あさぎぬ)に・・・(万1807)
【原文】
勝鹿真間娘子首幷短歌
鶏鳴 吾妻乃國尓 古昔尓 有家留事登 至今 不絶言來 勝壮鹿乃 真間乃手兒奈我 麻衣尓・・・

 鳥が鳴く吾妻とは何か。奈良の方から見て吾妻は蛮地である。吾妻の人間が話しているのは鳥が鳴くようだ、ちっとも分からない、という意味ですね。この鳥が鳴く吾妻は、私は、中国語の翻案だと思うのです。中国語には「南蛮鴂舌(けつぜつ)」ということばがありまして、南蛮は南の野蛮人、鴂はモズのこと。中国は西安が中心で、そこから見ると南のひとびとはモズが鳴くようだという意味で、中国語の成句と日本語の枕詞が底通しているのです。「鳥が鳴く」という枕詞を考えた人は、この「南蛮鴂舌」という中国の成句を知っていたに違いない。つまり、文字として中国語が入ってくることによって、日本語に語彙がたくさん入ってきて、ことばが成立してきた、という歴史がある。だから、万葉集までたどると、全部やまとことばで書いてあって、「からごころ」は消えてしまう、なんていう本居宣長の考えは、ロマンチストではあるけれど、歴史的事実に即していない、と思うわけであります。


五十音図の「ん」はサンスクリットから

 日本の五十音図の最後には(ん)というのが書いてありますが、あれは中国語を読むための工夫であって、(ん)という音節は日本語には無かった。だから、中国語を取り入れた頃、絹[kyuan](ケン)は(きぬ)になったし、浜[pien](ヒン)は(はま)に、君[giuən](クン)は(きみ)になった。nの後に母音を付けて発音したのです。nは語頭に来ないし、単独では言えないからウンといいますね。ンにはnとmがあります。朝鮮語の金さんはキムさんですね。あれは中国語の発音に近い。日本語ではnとmがごっちゃになってしまった。中国語でも今の北京語ではふたつが合流してnだけになっています。広東語では区別がまだ残っていますが。
 日本語の五十音図はどのようにできたのか。空海の時代、中国ではサンスクリットの学問が盛んでした。天台宗の円仁などはサンスクリットを大変良く勉強しています。円仁の著した「在唐記」は漢字だけで書かれていますが、その中に、サンスクリットのこの発音は日本語ではこれが近い、という記述もあります。サンスクリットの五十音は(あかさたなはまやらわ)と同じで、つまり、日本語の五十音図は、サンスクリットを学んだ結果できたのです。その中には(きゃきゅきょ)とか(しゃしゅしょ)というのは無い。これらは中国語の音を表すために、後に加えられた。最後の(ん)はサンスクリットでは[m]です。下に点をつけたmもありますが、これは音節化したmということです。サンスクリットの五十音は「あかさたな」と順序は同じで、最後に[m]がついている。それを参考にして日本語の五十音図の最後に(ん)をつけたわけです。


会場のようす


万葉集の読みの難しさ

 先に申しましたように、語彙は日本語も朝鮮語も中国語から受け継いだものが多い。文章の構造は、日本語と朝鮮語は非常に近い。中国語は四声がある、また、ほとんど助詞を使わないということもあります。
 文字には表音文字と象形文字があり、表音文字には音素を表す文字と音節を表す文字があります。音節構造は言語によって違いますから、音節文字で外国語を表すのは非常に難しい。しかし音素を表す文字なら割に簡単にできます。
 ハングル文字の構造は日本語より簡単です。カ行はみな同じkを表す部分と母音でできていて、音節文字ではあるけれど、音素に分解できるのです。日本語の(かきくけこ)は同じ子音を使っているけれど文字の中には同じ子音を表す要素は全く無い。
 万葉集の読み方が難しいのは、中国語と同源のものばかりならいいのだけれど、同源語でないものも訓にはたくさんあるからです。例えば、資料6ページの

●渡津乃 豊旗爾 伊理比紗之 今夜乃月 清明己曾(万15)
[日本語読みくだし]
渡津海の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清明けくこそ

 万葉集は平安時代には読めなくなってしまう。そこで、源順(みなもとのしたごう)というひとが読めるようにしろと君命を受け、そのときに「清明己曾」を読んだ読み方が「すみあかくこそ」。この旧訓にたいし、賀茂真淵は「あきらけくこそ」、歌人の佐々木信綱は「さやにてりこそ」、以下、「きよくあかりこそ」(武田祐吉)、「さやけかりこそ」(斎藤茂吉)、「きよらけくこそ」(折口信夫)、「まさやかにこそ」(沢瀉久孝)、と読みました。
 「万葉精選」という、万葉秀歌を集めた中国語の翻訳本があり、その中にこの歌の中国語訳があります。

滄海靡旌雲 諼[言逮]*映斜曛 占知今夜月 輝素必可欣(その1)
洋洋大海上 落日照雲彩 今夜的月光 清明定加倍(その2)

 二つありますが、語彙は似たようなものです。例えば「雲」は古代中国語の[hiuən]の弥生音ですね。(くも)とずいぶん違うようですが、この[h]は古代中国語では喉音でカ行よりもっと喉の奥で調音する。これは日本語になると[k]になるのですね。しかし音では(ウン)じゃないか、どうして(くも)と同じなのか。この[h]は次に[i]が来ると発音されなくなることが多い。「熊」[hiuəm]もそうです。あれは(ユウ)ですよね。[h]が脱落しています。
 「今夜」(こよい)の(こ)は「今」(いま)。[i]があるために[k]が脱落しています。日本で出版された朝鮮語の万葉集翻訳本(金思ヨプ訳)でこの歌の朝鮮語訳を見てみます。

大(han) 海(pa da) 横(ka ro) gil ge ppeol chin 雲(ku reum) e ji neun 太陽(hae) 光(pit) in 今日(o neul) 晩(pam)月(tal) eun 明(palk) ge 照(pi chwo) ju oet eu myeon

雲は、(ku reum)です。これもおそらく中国語の雲[hiuən]の転移したものだと思います。それから朝鮮語では太陽を(hae)と言います。日本語の陽・日(ひ)と同源です。「日」は(にち)になり、(じつ)になります。この(じつ)からジャパンになっていく。


史実から見て神代の時代とはいつか

 このように、中国語、朝鮮語、日本語と音が転移しつつことばが伝わってきている。しかし、このことは学校でも教えませんね。本居宣長のように、万葉集は日本独自の文化遺産だといった方がわかりやすくてロマンチックではありませんか。
 古代のロマンといいますが、ロマンは作り上げられることが多い。史実を調べてみるとどうもそうではない、ということがある。古事記では、天照大神が怒って岩屋に隠れてしまう。すると、馬の皮を投げ入れたりする。議事倭人伝には、馬は日本にいないと書いてある。ですから、古事記・日本書紀の言う神代というのは馬のいなかった縄文時代ではなく、弥生時代だと言わざるを得ない。で、天照大神は機を織っていますが、木綿が入るのは後なので、絹を織っているのですね。なので、蚕を飼って糸を作り機織りをする。機織りは中国の朝廷ではお妃の大きな仕事で、機織りは中国から日本に伝来した。従って神代は中国と関係を持っていたということに他ならない。私はそう思います。
 今、皇居では天皇陛下が稲作をして新嘗祭を執り行う、皇后の役割としては蚕を飼うということがあります。稲作も蚕も弥生時代におそらく朝鮮を経由して中国から入ってきた。
 どこの国にも神話があり、神話が悪いわけではありません。しかし、歴史的に見ればどうかということが一方になくてはならない。アメリカでカトリックの一部の人が進化論を学校で教えてはいかん、と。人間は神代から始まったのに、サルから始まったなんて困る、というわけです。日本でも神代から稲を作り、蚕を飼っていたと言うなら、アメリカのカトリックを笑えませんね。日本の歴史の始まりである古事記・日本書紀もある部分は否定されざるを得ないのではないでしょうか。日本は尚古の国で古いものを尊ぶ、それを丸裸にするのはいかがかとは思いますが、天照大神が機織りをしていたことについて、誰か歴史学者が言わないものかと、私は思っております。


日本語の起源はどこまでわかったか

 資料8ページの最後の表ですが、訓にも二種類あって、縄文時代1万年の原やまとことばと弥生時代の訓(これは私は弥生音と呼んでいますが)です。弥生時代~古墳時代~飛鳥時代と万葉集が成立するまでの約1000年の間に大陸から入ってきた語彙と位置づけています。音にも二種類あって「呉音」と「漢音」。漢音はのちに西安から入ってきた音、呉音はどちらかというと江南地方の音で中国では田舎ことばと言われる音です。呉音は朝鮮半島を経て入ったものもあると思います。上海のあたりを江南と言いますが、遣唐使もあの辺に流れ着いたり、空海、鑑真なども行きますね。ですから呉音は音の中では少し古くて、漢音、正音ともいわれる音は後に西安の都から来た音博士によって伝えられた。
 古事記伝を読む限り、本居宣長は大先生です。だけれども、カールグレンも知らなかった、朝鮮語も知らなかった、だから今書くとすれば相当改訂版にしないといけないのではないか。しかし、国学の徒は本居宣長を神様のごとく崇めているのですが、私は神様でも一度裸にしてみるのもいいのではないか、と。それが私の結論であります。


★ 当日の配付資料はこちらからダウンロードできます。(PDF、280KB)


(文責:事務局)