「短歌で自己表現した在日朝鮮人―韓武夫・河羲京を中心に」
● 2018年11月17日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎452教室
● 話題提供:高柳俊男先生(法政大学/朝鮮近現代史、在日朝鮮人史)
はじめに
私の専門は朝鮮・韓国についてで、とくに日本に住んでいる在日朝鮮人(総称)の歴史とか文化の研究をしてきました。そのほか近年では、所属する法政大学国際文化学部では受け入れた留学生に東京以外の視点で日本を考える研修を実施していますが、その担当を十年ほどしております。具体的には留学生を南信州の飯田・下伊那地方に連れて行き、8日間ほどの研修をします。物見遊山とならないためには事前学習が大切なので、それも授業として立ち上げました。もうひとつの校務は自校教育、つまり足元にある自分の大学の歴史を知り、それによって大学生としてのアイデンティティーをつくる、その授業の責任者を当初からやっております。南信州出身の児童文学者・椋鳩十が法政大学の学生で、いわばこの二つの授業の接点のような存在ですので、昨日は「法政時代の椋鳩十」という講義もやりました。明日も、飯田と接する静岡の佐久間へ個人的に行きます。佐久間ダム建設や久根鉱山があったため、1950年代には住民も多かったのですが、今はその15%の人口になっています。地元の在野の研究者たちが『佐久間の民俗』という報告書を作って、「あす発刊記念イベントをやるから来ないか」ということで、出かけます。このままでいくと、人生300年くらいないと足りない感じです。今日の報告も、この場でいろいろ考える機会になればうれしいと思っております。
ことば村との関係ですが、2012年10月のことばのサロン「北朝鮮で暮らすということ」(話題提供:韓錫圭氏)の際、同席してその背景について解説させていただきました。
講演の趣旨
本日は配付資料のレジュメと、私がすでに発表した文章2種類に従ってお話しし、その後に関連映像をご覧いただきます。話の趣旨はことば村のウェブサイトにも載せましたが、「在日朝鮮人が短歌で自らを表現する現象は、『国語』教科書にも取り上げられた近年の李正子(リ・ジョンジャ)が嚆矢ではなく、それ以前からさまざまな曲折を伴いながら継続されてきた。ここでは、在日朝鮮人にとって短歌で自己表現することの意味を、戦後の早い時期から作歌活動を続けた韓武夫・河羲京を中心に、『台湾万葉集』などとも比較しながら考察してみたい」ということです。
韓武夫・河羲京とも、自身で名前をどう発音していたのか分かりませんので、一応韓武夫は「カン・タケオ」と読んでおきます。河羲京は朝鮮語読みでは「ハ・ヒギョン」ですが、『昭和万葉集』では推測読みで「カワ・ギケイ」となっています。
これまでの在日歌人研究
これまでも短歌で自己表現した在日朝鮮人についての研究が全くなかったわけではありません。例えば川村湊先生が評論集『生まれたらそこがふるさと』(平凡社、1999年)の中で、「この国の叙情―尹徳祚から李正子まで」という一章を書かれています。尹徳祚は尹紫遠の名前で小説も書いていますが、短歌そのものは戦前のもので、そこからいきなり1980年代に歌集を出した李正子へ飛んでいます。ただ、注で金夏日と川野順(兪順凡)という、ともにハンセン病の療養所にいらっしゃる方ですが、その二人の名前と書名にのみ言及されています。
ハンセン病の患者さんは療養の中で自分が何者かを問わざるをえず、そこから全国の11の療養所のどこでも、短歌を含めた文芸活動が盛んです。また療養所には、在日の人が大変多いのですね。比率で日本人の10倍くらいになるのですが、これは生活環境、衛生状態によるわけです。ハンセン病は石けんを使うくらいの衛生水準なら罹らない、伝染力のきわめて弱い病気だと今は言われていて、特効薬もでき、完治する病気になっています。しかし、戦前はたいへん恐ろしい病気だと誤認され、その差別偏見もあって、後遺症などのある方々が今も療養所で生活されているわけです。
在日文学に関しては、『<在日>文学全集』(勉誠出版、2006年)があり、全18巻中17巻と18巻が詩歌集になっています。17巻で詩人に混じって、金夏日「無窮花」と李正子「鳳仙花のうた」「ナグネタリョン」「葉桜」を収録しています。
ここでは二人だけが取り上げられていますが、実際には戦後の早い時期から、短歌で自己表現をしてきた在日朝鮮人は少なくありません。しかし金夏日さんを例外に、ほかの人々はいわば無視されている。その理由を考えたいと思っています。
裾野の広い短歌、その歌に込めた思い
角川書店に『短歌』という雑誌があります。その1960年12月号は特集「祖国をうたう」で、リカ・キヨシが30首、河羲京、西原武夫(韓武夫)、杉原宗三郎、金山光雄(金夏日)、金忠亀が各15首を載せています。理由は言うまでもなく、前年1959年12月に北朝鮮に向けて帰国船第一号が新潟港から出た、その帰国事業に絡んでこの特集が組まれたわけです。金夏日さんと同じく、杉原宗三郎さんもハンセン病の多磨全生園の方です。今でも活躍しているのは金忠亀さんで、『しんぶん赤旗』などに投稿されています。一度お会いしたいと思っております。
これら6人のうち、5人が何らかの短歌結社に所属しています。日本文学の中で、短歌で飯を食っている人は本当にわずかなのでしょうが、どんな新聞を見ても必ず短歌欄、俳句欄があり、裾野は膨大です。職業的な歌人ではなくても、このように短歌に自分の思いを込めた在日の方々のその思いを、私は汲み取っていきたいと思います。
かつて『昭和万葉集』(全21巻)というものがありました。あれもやはりそういった庶民の歌から昭和という時代を読み取る、その時代を生きた人々の思いを汲み取ることが趣旨だったと思います。在日朝鮮人の短歌もそれと同じような作業をする必要があると考えて、いま少しずつやっている次第です。
韓武夫の場合
韓武夫さんが大阪のほうにいらっしゃるということで、会いに行ったことがあります。実際にはすでに亡くなっていてお会いできず、残念な思いをしました。韓武夫の歌集『羊のうた』(桜桃書林、1969年)を古本市で手に入れて、なかなかの歌人だと思い、雑誌『社会文学』の26号に書いた論文を資料として今日お持ちしました。
彼の経歴は『羊のうた』末尾の「後記」から分かります。22ページにわたって自伝的な文章が書かれています。韓武夫と親しかった飯田明子さんの主宰する『蛮』という短歌雑誌がありますが、そこにも自伝的な文章「雪幻記」を書いています。それらから生い立ちを見ると―1931年に在日二世として大阪・猪飼野の長屋で生まれます。母とは死別、父とは生き別れ、主にハルモニ、つまりお祖母さんに育てられました。その祖母はのちに帰国事業で北朝鮮に帰ります。
1937年、朝鮮人児童の多い鶴橋尋常小学校に入学しますが、未入籍だったためクラスに配属されず、入学式後いつまでも校庭に立ち尽くすことを余儀なくされました。「私の永い人生のかなしみと劣等意識を決定づける長い長い一日だった」とあります。1945年学徒動員のまま猪飼野高等小学校を卒業後、立命館高校に入学します。戦後は在日の特権もあり、無料で映画ばかり見ていて月謝滞納で退学、父が筑波山のほうにいるとわかり、そこで養豚や密造酒造りなどを手伝います。しかし父の再婚相手の義母になじめず別に暮らすことになります。
当時は朝鮮戦争に突入していく時代で、在日の北系・南系の両陣営とも激しい闘争を展開、しかし韓武夫は過激な民族闘争についていけず「独自な存在理由を欲し」て、政治より文学の道に進みます。さまざまな日本文学を読みあさる中で、石川啄木の「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」にいたく感動し、自分でも短歌を詠むようになります。
その後も病気になったり、家族の問題があったりして、連続して歌を詠んでいたわけではありませんが、先ほどの1960年の角川『短歌』には15首が選ばれています。これらの作品や、参加していた結社「砂廊」(後の「作風」)でうたった歌などをまとめた歌集が、先の『羊のうた』です。
『羊のうた』収録の作例
戦前から戦後にかけて、いま以上に在日朝鮮人に対する視線が厳しかった時代、日本社会から差別的な見方をされる。そういう苦しみをうたった歌がどうしても多くなります。実際の作例をご紹介します。
●日本人らしく擬装する民族の哀しみもちて吾は生き来し
●鮮人吾に嫁ぐゆゑ妻を傷つけしパンパンという語を最も憎む
●われゆゑに朝鮮人らしく清きまで装い凝らす妻の貞節
●激情に堕ちむおそれをいましめて腰ひくく構う異邦者の吾は
●やり場なき怒りに狂い妻を打つ不意にきたなき吾が朝鮮語
歌集全体としてはこういう歌ばかりではありません。次の歌などは意味深長というか、内に秘めた想いを感じさせます。
●白き舗道よぎらむとする霊柩車音もなく吾が翳を轢き行く
●炎天の舗道を鎖鳴らしゆく油槽車も吾も禍もてり
また、ある種の抵抗をうたった歌も印象的です。
●唐辛子赫く耕地の前衛にあり砲のごと天を射しゐつ
●幾億の実を結ぶ麦銃にして天を刺すなり雨に打たれつつ
子供との関係が微妙だったようで、そのことをうたった歌もあります。
●否みがたき血のつながりよ戸籍なき子のまぼろしに顕つ黒き花
●育ちゆく子のかなしみを内に秘め硝子に欠けし黝き日をみつ
●父へ向くる吾子の怒りや冬の玻璃微塵に毀け光こぼるる
河羲京の場合
河羲京については、私のところで出しているミニコミ誌『鐘声通信』の拙稿をご覧ください。1976~77年頃、NHKに朝鮮語講座を要望する署名運動がありました。朝鮮半島を優雅に「三千里」と言いますが、在日の知識人による季刊雑誌『三千里』の事務所でこの署名運動を進めていて、当時大学1年生だった私もそれに関わりました。そのとき集まった人たちが後に始めた読書会が「鐘声の会」で、数年後から『鐘声通信』を出して今に至っています。その469号に河羲京について書きました。
河羲京については経歴的なことはほとんど分かっていません。推測で韓武夫と同世代ではないかと考えます。たまたま手に入ったアンソロジー歌集『日本・殺風景』(短歌世代社「短歌世代シリーズ」第1集、1962年)の中に、河羲京の89首を収めた「殺風景の中の風景」が含まれていました。タイトルから、この歌集の中心的存在として扱われていることが分かります。
日本社会と在日社会の挟み撃ち
河羲京さんは、自分がいわば挟み撃ちにあっている、在日社会からも日本人社会からも疎まれるような存在と感じていたようです。自分の章の扉に自身の思いを書いているのですが、日本人の歌人からはなぜ民族的・社会的な歌ばかりつくるのかと問われ、「正統派」の同胞からは異国語で、しかも極めて日本的な文学形式で創作することへの批判を受けて苦渋の道を歩まざると得なかった、と。
角川の『短歌』特集でも、最初に評論を書いているのは朝鮮総連の正統な在日文学者の許南麒さんで、彼も在日朝鮮人が短歌という形式でうたうことに対して、「奇形」とか「悲劇」「奇妙な感じ」「悲壮な出発」など、否定的に評しています。
一世の場合は「朝鮮語で書け」と言われるのもある意味わかりますが、二世になると「母国語の朝鮮語で書け」というのは過酷なことですよね。すでに母語は日本語になっているわけで、ものを考えるときは日本語で考える。もちろん日本語でも長編小説は無理としても、短歌や俳句はつくろうと思えばできる。極めようと思えば大変ですが、三十一文字でつくればなんとなく短歌になる。そこに自分の複雑な思い、狭間に生きる辛さを表現していくのはごく自然なことです。しかし当時はそういう捉え方は少なく、両方の側から挟撃される中で生きてきた、そのことが河羲京の歌に以下のように出ているように思います。
●この国に生りこの国に馴染みたるわれにまとうる陰口は「倭奴」
●この国の人いくたりを愛しきて疑われきたるわが同胞愛
●「チョウセン」という抑揚にこだわりてわれはつねに忍辱の民
●蛮族の所作といわんか日本人よ 関節折りて豚足を食む
北朝鮮帰国事業にまつわる歌も多くあります。いま日本にいる人たちの約95%のふるさとは南ですが、当時の政治状況から、多くの在日の人やその家族は差別の厳しい日本と決別し、北を目指して新潟から帰国船に乗りました。当時はそれだけ北朝鮮が輝かしく見えていた時代であり、そう宣伝されていました。その状況の中で、彼の歌には「南もふるさと」という思いや、北への冷静な目が感じられると思います。
●祖国は我らに還えれどなお遠しみなみに北に悲哀はまかれて
●アリランもトラジもわれら唱うときみなみに北にわかたず祖国
●よくも書き悪くも書き来し平壌信、われらは既に思惑はもたず
そうみてくると、『短歌』の特集「祖国をうたう」に載せた15首のうち、以下の1首だけ単行本に収録しなかったのも、単なる偶然ではないのかもしれません。
●隷属の日の朝鮮を言うならめ見よ近代に息づく平壌
このように日本と朝鮮、あるいは南と北の狭間で生きる苦しみをうたった河羲京について、その経歴も含めて今後も調べていきたいと思っています。
まとめ
短歌で自己表現してきた彼らは二世であり、母語は日本語で、また身近に短歌という文学形式がありました。日本の歌人、たとえば韓武夫は石川啄木、福岡の歌人キム・英子・ヨンジャさんの場合は若山牧水に惹かれて自らも作歌するようになったといいます。「民族的・朝鮮的であるかどうか」というかつての評価基準を越えて、今は短歌で自己表現した在日朝鮮人の生き方や、短歌に込めた思いなどを率直に、虚心坦懐に読んでいく作業、それが大事なのではないかと思っております。
その意味でも、かつて50年間日本の統治下にあった台湾の人々が戦後に読みためた歌を集めた「台湾万葉集」の存在は貴重です。植民地時代に台北の高校で万葉学者の犬養孝さんが教えていて、その影響で台湾のインテリ層に短歌が広まったのだと思いますが、戦後の国民党支配下の恐怖政治を生きる複雑な思いなどを歌に託しました。台湾万葉集を考えるときと同じような視点で、在日朝鮮人の知られざる歌人たちの営みを捉えていくことが重要ではないかと思います。実は、田井安曇(我妻泰)のように、早くからそうした歌人を評論し、側面から支援した人もいました。より有名なところでは近藤芳美ですね。在日朝鮮人の歌人たちと同様、こうした支援者についてもきちんと記録を残しておくことが必要だと思います。
この後NHK-BSの「台湾万葉集」のドキュメンタリーを鑑賞。
(文責:事務局)
|