地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2019・11月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「イラン・イスラーム共和国理解のために―テヘラン下町のホセインの追悼儀礼から」


● 2019年11月16日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎441教室
● 話題提供:谷憲一先生(一橋大学大学院・社会人類学)
● 司会:田中真知(ことば村運営委員・作家)


司会 本日は山手線部分運休にもかかわらず、ご参加くださってありがとうございます。今日は私の知人の谷憲一先生をお迎えしました。谷先生は慶應義塾大学文学部社会学専攻のご出身で、学部4年生の時にイランを2週間旅行され、イランに興味を持たれたのですね。
 学部の2年生の時にバックパックでの旅行にはまり、トルコやシリア、レバノン、エジプトなどに行きました。そこで出会った旅行者に、イランはもっと人が良いと言われました。そこで、学部4年生の夏にイランの主要都市を周りました。人々の利他的な振る舞いが印象的で、その秘密を探りたいというのがイラン研究をしようと思った根源的な欲求だと思います。
司会 それで、イラン研究の目的で一橋大学大学院の社会人類学に入られた。
 はい。でも先生は人類学の専門家であって、中東の専門家ではなかったので、イランに関してはほかの先生にも教えてもらいに行きました。
司会 イランについては政治的な側面や宗教的な情報は伝わってくるのですが、谷先生は文化人類学の立場ですから、そうした視点を相対化したらどう見えるか。狂信的信仰と同時に、無神論や世俗化もすごい。そうした対照的なものをたくさん持っているイランについて今日、お話が伺えるのはとても楽しみです。


イラン研究の始まり

 慶應の社会学専攻の時には、宗教社会学のゼミにいました。大学院でも現代の宗教について研究したいと考えていました。また、学部4年生の時に旅行したイランの印象が強く残っていて、実際に現地に行って調査もできそうだな、という直感がありました。ほかの中東諸国に行った時と違い、イランでは現地の人とメールアドレス交換したり、街を案内してくれたりと、深く付き合うことができたからです。そこで、社会人類学を専攻してイランをフィールドにすると決め、一橋大の修士課程に進みました。修士論文は、イスラームに関する人類学的アプローチについての理論的な論文を書きました。博士課程に進んでから、テヘラン大学付属ペルシャ語の語学学校に8か月間留学をしました。(当時の映像)
 語学学校は9時から12時まで授業がありました。クラスには中国やヨーロッパなど世界各国からペルシャ語を学びに来ていました。テヘランで人類学的な調査をするための長期滞在の方法を模索中に、テヘラン大学の修士課程の募集を見つけました。これは外国人向けに作られた、イラン地域研究のプログラムでした。オーストラリア、フランス、ドイツ、トルコ、レバノンなどからの留学生に交じって英語とペルシャ語で授業を受け、最後にはペルシャ語で修士論文も書きました。
 (画像)これが口頭試問をしたときの写真です。指導教官はイスラーム法学者で、この衣装を着ることを許された地位の方、なおかつ世俗的にも海外で社会学の博士号を取得された方でした。こうして、イラン学で修士号を取ったあと、2018年、2019年にそれぞれ1~3か月の短期調査に通い、現在博士論文を執筆中です。

司会 テヘラン大学世界研究科には各国の留学生がいたとのことですが、彼らは何を求めて来ていたのでしょうか。
 大きくは二つに分かれます。過去にイランに来たことがあってイランの文化が気に入り、イランについてより深く学びたいという人と、来たことはないけれどイランに関心があり、テヘラン大学が募集していることを知って、留学を決めたという人。後者は街でペルシャ語しか通じないことが多い生活がきつくて、途中でやめてしまう者も多かったです…。
司会 宗教的な動機から来ているわけではない?
 宗教研究をしたいという人はいましたが、本人が宗教的かどうかは・・・。むしろイランに関心があります。そして、イランに関心がある人はリベラルでオルタナティブなものへの関心が強い場合が多いです。あるいは反米的な志向を持っているという傾向性はあると思います。


谷憲一先生


イランについての一般的なイメージ

 それでは本題に入ります。本邦ではイランについての情報が少なく、思い浮かぶのは国際的に独自路線を貫くイスラーム国家というイメージだろう、と資料に書きました。イスラームにのっとった政治を行う国でよくわからない怖い国というイメージがあるかと思います。
 ただ、その一方で、それに対するオルタナティブなイメージも随分と出回っています。旅行をしてみればわかりますが、ヒジャーブを取り締まられない程度に緩く巻いただけの人もいます。また、旅行者に英語で話しかけたりする人は基本的に教育程度が高く、体制のイデオロギーを批判するような人々であることが多いと思います。こうした人たちとだけ話すと、一般に流布した厳格さのイメージの反転像こそがイランの正しいイメージであると言ってしまいがちな面もあるのではないかと思います。これにも、また問題があります。
 次の画像はNHKの番組です。この番組では、イランでは人前での踊りが禁止されているため、彼女は踊りたいのに踊ることができない。そのためイランは抑圧された社会だという語り口です。確かにそのような側面はあります。しかし、こうした語り口が国際政治の文脈で利用されると、そういった女性の抑圧を西欧諸国が介入して直していかなくてはならないとなります。それはどうかと思うわけです。アフガニスタンでも女性の抑圧という話題がアメリカによる空爆に口実を与えた面があります。リベラルなフェミニストさえも空爆を支持してしまった、と。ですから、そういった表象のもつ政治性ついては注意深くなくてはなりません。
 イランでは一方にイスラーム体制のイデオロギーを支持する人々がおり、他方ではそのイデオロギーを批判するような世俗的な人々がいるといってよいと思いますが、さらにそういう二項対立に単純に還元されないような人々もいます。そういう人々が、とりあえず今の体制に従っているために体制は安定しているわけです。今日の発表では、そういった単純な図式には収まらないような人々を見ていくことが現代のイランを理解するうえで重要だということを示したいと思います。


イラン・イスラーム共和国の概要

 まず、面積は日本の約5倍、人口が約8千万人です。99%がムスリム、その9割以上がシーア派です。残り1%はキリスト教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒などです。
 公用語はペルシャ語、これはインド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派なので文法的には英語やドイツ語に近いです。けれども、文字はアラビア文字です。アラビア語にない音を表すために4字付け加えて使っています。右から表記し、長母音は書きますが短母音は書かないため、文を読むためにはその単語の音を知らないと音読できません。
 二語だけ紹介したいと思います。イランのカスピ海沿いに森がありますが、森の事をジャンギャルといいます。これはサンスクリット語からきていますが、英語のジャングルの語源と言われています。もう一つは、カーキ色という色名がありますが、それもペルシャ語のハーク(土)から来ています。ヤズドやケルマーンにある日干しレンガの家の色です。


イランは多民族国家

 一番多いのはファールスィと呼ばれるペルシャ語が母語の民族。次いで20~30%を占めるアーゼリーで、母語はトルコ語のアゼルバイジャン方言を話します。ほかにクルドやロルがいます。ロル語はクルド語とペルシャ語の中間的な言語です。それからアラブ。彼らのアラビア語はクルアーンで使われるようなアラビア語とは違うので、神学校で彼らが特別優遇されるというわけではありません。それから、バルーチ。パキスタンのバルーチスターン州の人々とも同じ言語です。バルーチの人々は遠い親戚がいるためカラチに行っても簡単に滞在許可が下りるそうです。それから、トルクメン人、トルクメニスタンの言葉を話しています。一部のトルクメン人はモンゴロイドの血が入っているようで、僕もペルシャ語を話しているとトルクメン人か?と聞かれたことがあります。
 (画像)これはロルの結婚式の写真です。ロルは国王がイランを統一しようとした時にそれに刃向い、またイラン・イラク戦争でも多くの殉教者を送り込んだ勇敢な民族といわれています。(画像)これはクルド。だぶだぶのズボンとそれに合わせた上着、これがクルドの正しい衣装です。役所では禁止されていますが、コルデスターン州に行くと街中ではこの服を着ている人がいます。(画像)これはガシュガーイーという遊牧民でシーラーズなどの南の地帯を遊牧して歩いていました。言語はトルコ系。最近では定住して教育を受ける人も多いです。(画像)これが先に触れたバルーチスターン州です。服もインドやパキスタンと共通するサルワール・カミーズを着ています。(画像)最後に、ジョージア(グルジア、ペルシャ語ではゴルジー)人が住んでいる集落がイスファハンのそばにあります。サファヴィー朝時代にアッバース1世がグルジアやアルメニアから人々を連れてきて使役したのですが、その時の子孫の村です。いまではキリスト教は棄教して、ムスリムになっていてイラン料理を食べていますが、家ではグルジア語を話しています。最近ではジョージア文字を習える学校が作られ、グルジアに留学する人も出ています。アルメニア人はジョージア人より圧倒的に多くて、エスファハンやテヘランにはアルメニア人地区があります。金融に関する仕事、例えば両替屋などはアルメニア人が多いです。

参加者 民族ごとに職業が決まっているのですか?
 それもあります。仕事を紹介するときに、どうしても親族や同じ民族を優遇する原理が働いています。テヘランではスーパーマーケットのオーナーはトルコ系、果物屋はクルド人、警備員はロルなどなど。
参加者 アルメニア人もムスリムですか?
 いえ、アルメニア正教です。国会には、アルメニア正教徒が2議席、ゾロアスター教徒とユダヤ教徒が1議席、アッシリア東方教会と東方典礼カトリック教会は合わせて1議席を持つよう憲法にも規定されています。

 これまでに見てきたように、イランには様々な民族の人々がいます。皆ペルシャ語を話すことができますが、同じ民族同士だと基本的には母語でしか話しません。タブリーズ、アルダビールなどアーゼリー系の地域ではトルコ語愛が強く、ペルシャ語で話しかけた僕にも、なぜトルコ語を話さないのか、とせまるような状況です。行政機関で働くとなるとペルシャ語の読み書きは重要ですが、自営業の人などは、卒業してしまえば母語だけでも生活できます。高齢者にはペルシャ語があやうい人もいます。


文化的多様性VSナショナリズム

 このように、イランという国家の中にいろんな国があるような文化的多様性があるわけです。そのため、逆にイラン・ナショナリズムも強固で、教育や語りを通して再強化されています。どの民族でも、自分たちの祖先は古代イラン/ペルシャ民族なのだ、といった民族のルーツの語りを持っています。それぞれを突き合せれば矛盾も出てくるのではないか、とも思いますが、どの民族でも古代から連なるアイデンティティを持っていて、それが教育を通じても常に呼び覚まされるわけです。教科書にも民族多様性を強調するよりは、歴史的にアーリア人ルーツというのが強調されます。知識人であっても本気でそうした民族神話を語るという所があります。それがなければイランという国は分裂してしまうのではないかとも感じます。その意味で、イラン・ナショナリズムは過剰で排他的な側面もありますが、仕方がないという側面もあると思います。
 ついでに、こちらのイランの地域的・文化的多様性を表す画像を見てください。(画像:シーア派の聖地の霊廟、ペルシャ湾、テヘラン北のスキー場)

参加者 スキー場にはどんな人が来るのですか?
 一定の階級以上で世俗的な人たちが多いですね。ヒジャーブなど取り外して滑っている女性も見たことがあります。
参加者 宗教警察はいないのですか?
 スキー場でのロマンスを取り締まるために宗教警察がスキーのトレーニングをしている、というニュースがありました。(笑)


イランの歴史的概要

 これは長いイランの歴史の中から現代を読み解くうえで重要と思われる個所を抜き出した概観です。ここに名前を挙げていない王朝や、ほかの王朝の一部だった歴史もあります。
 紀元前550年にキュロス2世、ペルシャ語ではクールーシュ大王がオリエント世界を統一してアケメネス朝ペルシャを作りました。そのときの領土は、現在のアルメニアやジョージアを含むものでした。ですので、こうした国々もかつてはイランの領土だったのに、といったことが今でも平然と語られたりします。

 時代が下って、ササン朝ペルシャはゾロアスター教を国教とし、また自らの権威の源泉をアケメネス朝に求めた帝国です。642年にイスラーム帝国との戦いに敗れ、その一部となってイスラーム化していったわけです。その後モンゴルが侵攻してイルハン朝となりましたが、官僚はペルシャ人が登用されていました。1501年に今のイランにほぼ似た領域にサファヴィー朝が成立しました。建国者イスマーイール1世は、シーア派の神秘教団の教主でした。帝国を創ってから十二イマーム派というシーア派のひとつの宗派を国教として定めます。

 次のガージャール朝時代、1821年ロシアとの戦争で現在のアルメニア、ジョージア、アゼルバイジャンの領土を失います。その後、イランを改革しなくてはならない、ということになり、王族がヨーロッパに留学したり、フランスやドイツの学校が国内にできたりしました。
 1906年から11年にかけて立憲革命が起り、立憲君主制になります。当時イランの周辺では、イギリスがインドとイラクを植民地化、ロシアがイランの北にあるアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタンなどを領土にしていました。近代化を要したイランではレザー・ハーンがクーデターを起こし、現在の国民国家としてのイラン形成に重要な意味を持つパフラヴィー朝を起しました。
 当時、ロシアに近いイランの北西部では左翼運動の影響が強く、共産主義革命を目指す反乱があったり、それをロシア(ソ連)が支援したり、ということもありました。つまりイラン北西部はソ連の一部になっていた可能性もあったわけです。レザー・シャー(レザー・ハーンが即位して改称)の功績はそれを断ち切って今のイランの形にまとめたことにあります。彼はペルシャ語を公用語化し、初等教育をペルシャ語で行うようにしました。また、徴兵制を敷いて近代的な軍隊を創りました。さらに、トルコに倣って世俗化政策をとり、1930年代半ばには教育省の通達でヒジャーブも禁止したこともありました。しかし当時は、それになじめない人々が抗議のデモを行うこともあったわけです。

 第二次世界大戦が起こり、イランは中立を宣言していましたが、ナチス・ドイツとの友好関係を保とうとしていたことから、イギリスとソ連が手を組んでイランに侵攻し、1941年にレザー・シャーは国外退去させられます。そして息子のムハンマド・レザー・シャーを王として擁立しました。

参加者 途中ですが、イランというのは国名ですか、民族名ですか?
 イランは国名でアーリア人の国、という意味です。
参加者 ペルシャというのは?
 かつてこの地域の人々がパールスを自称してきたことによります。ペルシャ人というとひとつの民族だけをさすことになってしまうので、ナショナリズム的にもまずいということでイランがつかわれるようになりました。

 続けます。ムハンマド・レザー・シャーが即位して、最初は首相を立てるなど民主主義的な面もありました。しかし、1953年に首相だったモサッデグという人気のある政治家が、イギリスが持っていた石油の利権をイランが奪回するとして、石油の国有化宣言をしました。するとCIAが工作をしてモサッデグ政権を失脚させ、パフラヴィー国王の独裁になりました。それで、イランは今のサウジアラビアのように、アメリカから高い武器を買い、貧富の差が激しい国になりました。それがのちのイスラーム革命に繋がっていくわけです。

 1979年にイラン革命が起き、イラン・イスラーム共和国が成立しました。革命の混乱と軍の弱体化に乗じて、領土問題を抱えていたイラクが好機とばかりに1980年にイラン領に侵入し、88年まで続くイラン・イラク戦争が起こりました。革命当初のイランが「革命の輸出」を図っていたため、周辺国やヨーロッパ諸国はイラクの支援に回り、孤立するイランではナショナリズムが強化されていきました。街中にイラン・イラク戦争の殉教者の写真が飾られています。殉教者の家族は政府系機関で就職する際に優遇されることもありました。


シーア派とは何か

 イスラームを二つに大別するとシーア派とスンナ派です。世界中のムスリム人口でいえばスンナ派のほうが圧倒的に多いですが、中東地域に限れば、シーア派もそれなりの数を占めています。最初、預言者ムハンマドが彼に従う人を集めてムスリム共同体ができたのですが、預言者ムハンマドの死後、その後継者をめぐって内部分裂が起こりました。
 歴史的には、アブー・バクルが互選で選ばれて後継者(カリフ)になるのですが、ムハンマドのいとこで娘婿でもあったアリーこそが指導者であるべきだと唱える一派が生まれました。アリーも第4代カリフになるのですが、その後暗殺されてしまいます。そして、ウマイヤ朝が成立しましたが、そこではカリフは世襲制になりました。ウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世は飲酒をするなどイスラームの規範からは堕落していました。そこでアリーの次男のフサイン(ペルシア語ではホセイン)がヤズィードに対抗するために立ち上がったのですが、カルバラーという場所でヤズィードの軍に惨殺されてしまいまいました。
 その後、ホセインの子孫が第4代イマーム、第5代イマームと続くのですが、イランの国教では12代目までをイマームと見なしてそこでイマームが「お隠れ(不可視の状態)」になったと考えます。それが十二イマーム派と呼ばれる宗派です。歴史的には、シーア派はマイノリティとして辛酸をなめてきたわけです。
 その中でアイデンティティを強化するために、シーア派独自の儀礼を発展させてきました。それが、ホセインがカルバラーの戦いで殉教したことを偲ぶ追悼の儀礼です。後で詳しくお話します。

 サファヴィー朝時代、イランがシーア派化した理由の一つとして、スンニ派のオスマン帝国の影響に対抗するということがありました。オスマン帝国の有力法学者がファトワー(法令)を出すと、サファヴィー朝のムスリムの領民にまで影響があったのですが、それを断ち切るためです。シーア派の法学者をレバノン南部から連れてきました。イランでシーア派法学が発展し、神学校での教育も制度化しました。同時にホセイン追悼儀礼がそれぞれの地域に根付いた形で発展して、追悼集会、路上行進、宗教劇など様々な形で行われるようになりました。
 シーア派とスンナ派の違いのひとつは、シーア派には、クルアーンやハディースを解釈してイスラーム法について語ることのできる立場のムジュタヒドがいて、平信徒はその人の考え方に付き従う習従関係があります。優れたムジュタヒドは、マルジャエ・タグリード(模倣の源泉)と呼ばれる特別な指導的立場にありますので、信徒の間はヒエラルキー構造でできていることになります。そしてホメイニーもマルジャエ・タグリードの一人でした。


フィールドはテヘランの下町

 1850年に大バーザールとお城とモスクがあった地域はここ(図像)ですが、1930年になると城壁が取り払われて、居住地域が広がりました。その後も近代化に伴ってさらに拡張していきました。それに伴い、国内のトルコ系アーゼリーの人々が移住してきて、スラム地帯もできました。ここ(図像)が、僕が住んで調査していた場所です。当時、計画性なく家が建てられたために、入り組んだ小路が多く、人口密度が高いのが特徴です。興味深いのは、ホセインの追悼儀礼を担う集団がたくさんあって、儀礼の時期になると至る所でやっているということです。こうした儀礼を通じた集会はかつて、仕事の紹介や相互扶助の場にもなってきました。イスラーム革命の時には国王を批判するホメイニーの演説テープが集会を通じて人々の間に流通し、テープを聞いたひとがストリートに出てデモをしたといったこともありました。人類学者のマイケル・フィッシャーは、その際、「カルバラーの悲劇」が、現実の不正に立ち向かうような現実の解釈枠組みとして用いられることを指摘しました。それを「カルバラー・パラダイム」と名付けています。

参加者 革命期の民衆の不満は具体的にはどんなものだったのでしょうか。
 今でもありますが、貧富の差が主ですね。石油収入で潤う一部の金持ちに対し、労働者の権利は制限されていたりしたわけです。スラムが拡大したりしました。
参加者 シャー政権は宗教の抑圧もしましたね?ホメイニーに対しても。
 そうです。ホメイニーは国内で影響力を持っていたので追放されました。けれども国外での演説テープが国内に流通したわけです。
参加者 流入してきたアーゼリー人以外の民族はなぜ来なかったのですか。
 当時、ほかの民族は自治、とまではいえないけれども、中央と距離があったからだと思います。
参加者 クルドはシリアやイラクにもいますが、かれらはスンナ派ですか。
 イラン内のクルドも二つに分かれます。南部のケルマンシャーなどのクルドはシーア派です。コルデスターン州にいるクルドはほぼスンナ派です。イラクのクルディスタンにも両方いますね。他にもゾロアスター教やキリスト教、アフレハックなどもいます。シリアやトルコあたりのクルドは共産主義の影響が強く無神論者も多いです。


イスラーム革命以降のホメイニー師の時代

 先ほど言ったように、イラン・イスラーム共和国は、革命によって成立した国で、体制側も人々のエネルギーの怖さを熟知しています。そこでその大衆のエネルギーを絶えず自分たちの側に誘導しなくてはならないと自覚しています。自分たちも革命によって倒されかねないという潜在的恐怖があると言えるでしょう。
 国の最高指導者はマルジャエ・タクリード(模倣の源泉)でなくてはならないということと、近代的な三権分立をミックスさせたのがイスラーム共和国憲法になります。簡単に言えば、最高指導者がいて、その下に議会や行政があるけれども、それらは最高指導者に付き従うわけです。ですから独裁的ともいえるかもしれませんが、一応、民主的な仕組みも持っている。それから、すべての法律がイスラーム的でなくてはならない、と憲法に規定されているので、議会が通した法律がイスラーム的か否かを判断する「監督者評議会」があります。これはイスラーム法学者6人と一般の法学者の6人で構成されています。


ハーメネイー師の時代

 ホメイニー師は1989年に亡くなるのですが、後継者問題が起こります。最初ホセイン・アリー・モンタゼリー師が後継者指名されていましたが、その後ホメイニー師と対立し、指名を撤回されました。そこで出てきたのが今のハーメネイー師です。純粋にイスラームの学識という点からすると、ホメイニー師や他のマルジャエ・タグリード(模倣の源泉)のレベルに達していませんでした。
 そこで最高指導者になる条件を、ハーメネイー師でもなれるように緩くするための憲法改正が行われ、ハーメネイー師が最高指導者となりました。同時に、ハーメネイー師がその地位にふさわしくないと考える人々も現れました。そのためハーメネイー師は自分の権力を固めようと様々な党派を利害によって支持基盤にしながら権威主義化を進めます。ひとつは革命防衛隊の政治参加です。革命防衛隊は、最初は国軍がクーデターを起こさないよう牽制するために作った宗教的な軍隊だったのですが、それが肥大化して政治的な影響力を行使できるようになりました。また、巨大な建設プロジェクトに関わるなど、経済も支配しています。革命防衛隊の下部組織としてバスィージ(動員組織)があります。彼らが宗教警察として、街でヒジャーブをしていない女性を摘発したり、また宗教儀礼の際に警備をしたり、といったことをボランティアでしているのです。

 イスラーム的な規制として、ドレスコードがあります。女性のヒジャーブ着用の義務と並んで男性にもタンクトップや半ズボンでの外出禁止があります。それは旅行者など外国人にも強制されます。ですから旅行者も外出の際はTシャツ、長ズボンを着なくてはなりません。それからお酒の禁止、ダンスや歌も禁止です。とはいえ、このように禁止という文面だけ読むと、いかにも人々は抑圧されてかわいそうと我々は考えてしまいがちではありますが、実際住んでみるとそうでもない面もあるわけです。この点は後で触れます。


ホセインの追悼儀礼

 (画像)これは僕の住んでいた地域で、儀礼の一部として羊を殺している場面です。ホセインの追悼儀礼はモハッラム月(イスラム暦の1月)の1日目から10日目まで、特に10日に盛んですが、その時期はいたるところで羊を屠って集会で食事をふるまいます。イランではムハンマドの誕生日のお祝いはほかの地域ほど盛んではないのですが、代わりにこのホセインの追悼儀礼を盛大に行っています。女性が参加するものもありますが、多くの場合は男性が担っています。普段はモスクに行かないような若者も儀礼には参加します。
 (画像)このように道路に鉄の棒を立て、バナーを張ってヘイアト(儀礼の開催単位)の本拠地となる空間を作り、そこで儀礼をおこないます。またある集団は、追悼行進をします。140キロ以上あるアラーマト(金属棒の一本足の装飾板)を腰のベルトに固定し、地区の中を練り歩きます。これを持って歩くというのが男らしさのアピールでもあります。
 各地区で集団がそれぞれ、いかに派手なアラーマトを作って行進するか、を競う様子も見られます。(映像)

参加者 モスクで追悼の祈りをするのですか。
 モスクでは別の儀礼をおこないます。また、モスク以外に地域集団が場所を作ってそこで儀礼をおこないます。

 (映像)胸をたたくのは、伝統的には悲しみの表現。そこから派生したのが鎖叩き(映像)です。この鎖は軽い素材で痛くありません。南アジアのシーア派は鎖の部分に刃を付けて背中を傷つける行為がありますが、イランにはありません。(映像)上着を脱いで、ちょっと怪しいディスコみたいな雰囲気の中、胸を叩きます。宗教劇も見せましょう。(映像)衣装をきて、ホセインの話、ホセインの家族の話など、いくつかの物語を演じます。ガージャール朝の時はテヘランに大きな劇場ができてたくさんの観客がいたということです。イスラーム革命の前はヨーロッパの研究者が民族芸能のひとつとして注目したこともありました。儀礼としては行進や胸を叩く集会などが主流ですが。

司会 宗教劇は専門の俳優がいるのですか。
 います。
司会 そういう俳優が巡礼のように各地区を回る?
 ええ、そういう感じです。イマームを演じる場合はコピーしてはいけないので、舞台上で台本を見ながら演じます。その人物になりきるのではなく、明らかに演じているのだと観客に伝えるのですね。イマームは神聖な存在で普通の人間ごときがコピーできないというわけです。

 で、行進や胸叩きの集会の後、参加者に食事をふるまいます。実際、食事だけをもらいに来るひとがいるのが問題になったりして(笑)。道には仮設の小屋を作り、紅茶を道行く人に配ったりもします。
 儀礼は地域的な違いもみられます。ロルの地域では体中に泥を塗って行進します。これはイスラーム化以前の土着の儀礼が入っているのではないかという研究があります。土と水、それを火で乾かす、というのはゾロアスター教の要素であり、地域の土着的なものがホセイン追悼儀礼と融合して、独自に発展しているということです。


追悼儀礼にみられる様々な側面

 追悼儀礼は、儀礼の意味としては、ホセインの死を悲しんで涙を流すことを美徳とする儀礼です。実際に泣く人もいます。しかし、その一方で祭りの要素が入っていて、地域の親睦を深める場ともなっています。
 そこから言えることをふたつ挙げます。一つは音楽やダンスについてです。先にも述べましたが、イランでは公共の場において原則的には音楽・ダンスが禁止されています。ただし女性のソロの歌以外は、イスラーム革命から現在まで、禁止の規定がかなり緩くなっている面もあります。そもそも私的な領域では歌もダンスも普通に消費されています。日本ではダンスというのは、専門的に習って正しく踊るもの、という意識が強いと思いますが、イランでは音楽に合わせて体を動かすことは皆が行うことです。(映像)踊りは、結婚式など、生活の中にあります。
 (映像)この人はマフムード・キャリーミーという、一番有名な宗教歌手です。体制に近い組織に運営される集会で、そこに大人数が集まり宗教歌を聞きながら皆で胸を叩いています。まるで人気歌手のライブに行くような感覚で儀礼が位置付けられている、とも言えます。この事例は、音楽やダンスに類するような行為が、宗教的な儀礼の中に取り込まれていることで、公共的な場所でも許容されているという例です。
 さらに面白い事例があります。(映像)これは「Rosvaye Zamaneh」という古い歌で、このシャキーラーという女性歌手だけでなく、様々な人に歌われてきます。このメロディーを覚えていてください。(映像)これは同じメロディーですよね、歌詞も宗教的なものに書き変えて音楽が儀礼に取り入れられている。毎年新しい宗教歌が作られるのですが、このように本来ポップ歌謡だったものが流用される現象もあります。儀礼の中に本来禁止されていたダンス・音楽の要素が取り入れられているわけです。

 体制のイデオロギーを維持するためには、イスラーム儀礼にはなるべく多くの人が参加することが望ましいわけです。したがって儀礼自体が娯楽化していくということがあります。ここには国家のイデオロギーが儀礼を通して人々を取り込んでいくという側面と、人々がイデオロギーを換骨奪胎していくという側面の両方があると言えるのではないか。そのように見ると、単純にイランでは音楽・ダンスが禁止されている、人々は抑圧されているとは言えない面が見えてくると思います。


自傷儀礼に対する批判とそれでも続ける人々と

 最後にもうひとつ、事例を挙げます。主にアーゼリーによる自傷儀礼、ガメザニーです。カメは剣の意味で、剣を頭に叩きつけて血を流す儀礼です。それによってホセインが苦しんで殉教したこと追体験する。(映像)かなり強く叩いているのがわかりますね。毎年参加している人は後頭部に傷が盛り上がっているのがわかるほどです。
 実は現在イランではこの儀礼は禁じられています。世俗化政策だったパフラヴィー朝は、ホセイン追悼儀礼は許容しましたが、血を流す儀礼は禁止していました。それは西欧諸国が野蛮であるとして批判し、対等な国として条約を結ぶことができなくなるという事態を避けるためです。とはいえ、禁止しても特にアルダビール出身者たちは、今でも行っているのです。現在ハーメネイー師は、自傷行為はイスラーム法で禁止されているとの法令を出していますから公の場で行うことはできません。
 イラクでは行われていて、イラクのマルジャエ・タクリードたちは、体を「過度に」傷つけるものでなければという条件付きで許容しています。自傷儀礼を行っている人々にとっては、男としての度胸試しのような側面もあり、ある種の同調圧力もあるようです。イランのアルダビール出身者でも、特に教育のある人は、自傷儀礼には批判的です。
 近代化によって生活様式も変化してくる中、宗教儀礼の脱暴力化ということが世界的レベルで指摘できるかと思います。イランでもそうした考え方がかなり広まっていると思われます。ただ、一方で規制にも拘わらず、こうした自傷儀礼を伝統として遂行する人々もいるというわけです。


一面的な図式に当てはまらない人々

 これまで取り上げてきたような、ホセインの追悼儀礼の担い手のような人々というのは、体制のイデオロギーであるイスラームに従順な人々と、それに反発する世俗的な人々という図式にはうまく当てはまりません。儀礼に参加することで体制のイデオロギーに従うように見えながらも、そこから逸脱していく面も持っています。こうした微妙な側面に着目することが大切だと考えます。
 また、2つ目の事例ですが、宗教の脱暴力化というのは、と殺場所への規制や嫌悪なども含め、体制派か世俗的な人々かに関らずイデオロギーの違いを超えて広がっています。イラン社会における重要な変化であると考えています。
 こうした微妙な緊張関係を見ていくことで、ヒジャーブの強制や酒の禁止など、イスラーム体制の規範とされているものを文字通り受け取ることが一面的な理解でしかないことがわかると思います。確かにそういう面もあるし、規範に対して文句を言う人々がいることも事実です。しかしながら、現地社会に実際に住んでみると、私たちが外から想像することと少し異なるということがわかります。そのような実感の断片を示し、現地社会の既存のイメージを刷新していくことが人類学者の仕事のひとつではないかと考えています。今日はその一部をお伝えできたのではないかと思います。ありがとうございました。


(文責:事務局)

2020/5/8掲載