「文字の透明な力―その起源と進化、原理」
● 2021年5月15日(土)午後2時-3時30分
● Zoomによるオンライン開催・講演と対談
● 話題提供:大月実先生(大東文化大学外国語学部)
● 司会:井上逸兵(ことば村村長・慶應義塾大学)
司会
今日は大東文化大学の大月実先生をお迎えして、文字のお話を聞きます。大月先生は上智大学のフランス語学科を卒業された後、スウェーデンのウプサラ大学やイギリスのエディンバラ大学に留学(在外研究)、多彩な言語、文化環境でさまざまな視点から大変面白い言語研究を続けてこられました。今日のお話も非常に楽しみにしております。
大月実先生 講演要約
音声言語から文字へ
今日は文字について、言語進化と記号論の観点からお話ししたいと思います。ヒトの言語は、もともとは声を使うものですが、音声[声音]言語は時間・空間の制約を受け、情報の保持や伝達には記憶の負担が伴います。文字のない時代に出現し発達を遂げた、西アフリカ各地のグリオと呼ばれる階級の人たちは、優れた記憶力で民族の歴史や教訓、情報などをメロディーに乗せて語り伝えます。しかし、このようにして伝えられる情報は、個人に強く依存するもので、万人が常時アクセスできるものではありません。時空を超えた伝達には文字の誕生が必要でした。
文字の起源に関しては、意味は伝えても言語体系には組み込まれていない「未文字」(非文字)と、言語体系に組み込まれた「文字」の別がありますが、そのような未文字は2種類あり、形式と内容に類似性のある「図像(アイコン)」と、近接性のある「指標(インデックス)」(例:縄の結び目の位置と結び方で数量を示すインカ帝国の「キープ」)があります。また、文字にも、それぞれの系列の図像的文字と指標的文字が認められます。
文字の誕生は文明と密接に結びついています。四大文字体系とでも呼ぶべき体系を生み出した文明(メソポタミア、エジプト、中国、メソアメリカ)には共通の特徴があり、人口増加と都市化に伴い、住民や富の管理(戸籍登録;徴税・配給)、暦や農業、土地測量・調査、土木技術の伝達などの必要性が背景にあったと考えられます。
当初の文字は、話し言葉に相当する内容を伝えようとする(あるいは、伝えることのできる)ものでは決してなく、その用途は非常に限定的なものでした。古代文明の書字板や碑文に書かれた初期の文字の表した内容は、(a)固有名(神々・王族など重要人物)、(b)普通名(重要な事物:土地・作物など)、(a)数、(d)単位などに限られていました。
このことからも見て取れますように、名詞と数詞が重要です。言語進化論において、名詞は文法進化の第一段階にしばしば置かれています。言語習得においても、幼児は(喃語・カテゴリー化という前言語的な獲得を経て)、他のどんな語彙にもまして、名前(名詞)を多く習得すると言われています。また、名前を尋ね、多くの名詞を獲得する「命名の爆発」の段階があります。動物は基本的に名前を持ちませんが、一部の(知能の高い)動物の伝達体系で固有名・普通名に相当するものが観察できるのは興味深いことです。
逆に、簡素な言語とされるアマゾンのピダハン語では、色彩語などがなく、名詞が充分にそろっていません。また数詞もありません。虚構や神話などもなく、ピダハン族の人たちは直接体験の世界に生きていると言われています。
一方、文字においては、最初の段階から数詞、つまり一般性・抽象性に関わる語彙が出現しています。動物の伝達体系が、餌や敵、生殖といった種の死活に関わり、基本的に「いま・ここ」の世界に限定されている(唯一の例外のミツバチのダンスにおいても、その内容は餌のありかに限られています)のに対して、ヒトの音声言語は、その内容が「いま・ここ」に縛られず、現実世界を含んだ可能世界のことを語ることができます。また、話すそばから雲散霧消する音声言語と異なり、未文字や文字は、原理的には時間と空間を超えての伝達が可能になります。ヒトの結縄や刻木は、徴税・設計といった民族の文明に、絵文字は狩猟や戦いといった生活に関わっています。そして、文字は統治のための法律、宗教上の経典、民族の神話や叙事詩などに関り、それぞれ公的・普遍的・歴史的に記録するものです。
文字史には、未文字以降は、象形文字・楔形文字>表意文字・表音文字、という推移があり、大きく全体として見ると形式化、体系化、単純化の方向に進んでいます。この過程には、(一部の文字ではなく)少なくとも文字体系全体としては逆行することはないという意味で「単方向性」があると言えるでしょう。また、文字体系を考える際、異体系の共存に加えて、下位体系の存在を考慮する必要があります(ローマン・アルファベットが基本の英語においても、アラビア数字や各種記号を併用しています)。
デジタル時代の文字~絵文字・テクスティング
ニューヨークのコーエン児童医療センターの調査によりますと、97%の家庭がタッチスクリーン式器機を保有しており、子どもがそのような器機を使い始める平均年齢は生後11ヶ月とのことです。文字は、時空を超えての安定した情報伝達と反省的思考に極めて重要ですが、同時に声音によって伝わる音質・抑揚などの話者の感情や心的態度に関わる情報は失われます。デジタル時代にあって、それを絵文字・顔文字という下位体系を併用することで補おうとする動きが顕著に出ています。
顔文字の方向性は日本では縦型、欧米では横型になりますが、これは、シュメール文字の発達におけるのと同様、筆記の方向性に関係するものと思われます。また、表情を読み取る際に、生後7ヶ月のこどもにおいてすでに、東アジアでは相手の目に注目するのに対して、欧米では口に注目するという報告があります。この違いも絵文字の表情に反映されていると思われます。
また、デジタル時代に特徴的な文字の綴り方であるテクスティング(texting)では、様々な新奇な綴り方が創出されていますが、それらは「縮約」(例:message→msg)と「(文字体系の)混合」(例:great→gr8/to be→2b)の2つの原理の下に集約することができます。
テクスティングを記号論的に捉えると、(a)記号自体に関しては、音声文字が恣意性に、絵文字・顔文字(図像)が自然性に関わります。(b)記号の使用については、集団的閉鎖性と部外者に対する排他性があり、それが反発を生むこともあります。また、(c)記号の使用者に関しては、遊戯性・娯楽性(さらに幼児性)が見られます。従来、これらはバラバラに捉えられてきましたが、記号論的観点から統一的に把握することが可能になります。
言語の双極性(bipolarity)仮説
個別言語の成立に不可欠な要件としての「双極性」は、お互いに拮抗しながらも非対等〔主と副〕の2つの言語変種の存在です。この言語変種には、地域方言や階級方言、文体などがあります。動態性を失った単極性(一つの極)や分離独立を促す多極性(3つ以上の極)ではなく、双極性があるからこそ、言語は動態的に史的変化・推移し、方言上変異・分布しうるという仮説です。(またそれぞれの極の下にさらなる小極が存在します。)
厳密な意味での単極の言語は、自然言語には存在しないと考えられますが、母語話者のいない人工言語は、純粋な単極言語と言えるでしょう。母語話者のいなくなった書き言葉のように、それ自らの力で変化することはありません。
また、言語全体を統べる力がなく多極化が起こるとその言語自体は崩壊する道を歩み、しばしば別の言語が派生していきます。俗ラテン語が分化し、ロマンス諸語が生まれたのはその典型例です。
文字にも双極性があります。漢字の簡体字/繁体字や英語の綴りの米国式/英国式などです。それまであった副極が主極に取って代わるというよりも、新たな極が生まれて主極となるのが一般的です。
文字と言語復興・言語創造
いったん死語と化したものを、再び母語話者のいる言語として復活(再活性化)させた唯一のケースとしてはヘブライ語があります。エリエゼル・ベン・イェフダーの尽力によって、それまで書き言葉として伝えられてきた古典ヘブライ語が、日常的な話し言葉(現代ヘブライ語)として復興させられたのですが、これも文字言語があったからこそ可能になったといえます。(古典語をそのまま復活したのではなく、新しい語義、造語、外国語の借入などがあります。)彼の息子は現代ヘブライ語の初めての母語話者となりました。
一方、人工語のエスペラントはもともとは文字言語として発明されましたが(もちろん話者を得ることを想定してですが)、のちにそれを第二言語として話していた家庭に育った子どもの一部はエスペラント母語話者となり、現在世界に数百人(推定によってはさらに多人数)いると言われています。まだ言語共同体としては限定的ですが、すでにある程度の方言的変種が発生していて、今後、双極性によってダイナミックに変動していく可能性はあると言えるでしょう。
音声言語と文字言語―その特徴的機能
言語の二大機能は伝達と思考ですが、人間は調音(articulation)によって、発声による動物よりも、より詳細な情報伝達と、より特定的な思考ができるようになりました。さらに文字言語によって、伝達に関しては、(伝達者の意図を超えての把握も含めて)より理解可能性が保証されるようになります。思考に関しては、形式・内容の吟味・再検討がより容易となり、より反省可能性が保障されるようになります。このように、文字言語は音声言語の単なる補足ではなく、それを補って余りあるものです。言語進化上、明らかに異レベルの質的発展を遂げています。両者の並行処理が可能ですし、文字言語は音声言語にも作用するもので、文字を得た言語はそれ以前とは異なった次元にあると言えます。文字の秘められた力には、探究すべき未開の領野が広がっており、私たちをいざなっています。
(文責:事務局)
2021/5/26掲載
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