「マンガ学と言語学の接点を求めて」
● 2021年10月23日(土)午後2時-3時30分
● Zoomによるオンライン開催・対談
● 話題提供:出原健一先生(滋賀大学)
● 司会:井上逸兵ことば村村長(慶應義塾大学)
対談要旨
司会:ことば村のサロンはTV以上、学会未満、ということで、学会よりはくだけた感じでことばの専門家にお話をうかがっています。今日お迎えする出原健一先生は滋賀大学教授でご専門は認知言語学、今年三月に「マンガ学からの言語研究―視点をめぐって」(ひつじ書房)をご出版されました。実は、出原先生と私は慶應義塾大学の唐須教光先生同門の兄弟弟子で、信州大学で同時期に勤めていたこともあり、まだ牧歌的だった国立大学にあって、よく一緒に遊びました。
出原:こんなにたくさんの方に集まって下さってありがとうございます。言語学の先生方のお名前もあって、少し緊張しております(笑)。
司会:外国の方と思しきお名前もありますね。チャットで質問や感想をお寄せください。
ことばと文化の相同性
司会:で、ご新著「マンガ学からの言語研究」のイントロは認知言語学で、全体としてはマンガ学と言語学の接点、「視点」をキーワードにこの両者を繋いで、マンガ学の人に認知言語学の知見が役に立ちますよ、言語学の人にはマンガ学はいいネタですよ、というような感じの内容ですね。
出原:そうですね。認知言語学では、ことばと文化は構造的に同じであることが多い、相同性がある、と言いますが。池上嘉彦先生(東京大学名誉教授)が主唱されています。例えば日本語と欧米言語との構造的な違いが、それぞれの絵画や庭園などに同じような構造の違いとして見られると言われていて、その研究も多数あります。私はそれをことばとマンガでできるかな、と思ったのがきっかけです。
司会:ある言語とその言語圏の他の文化とはそれぞれの構造に類似性がある、ということですね。これは、60年代、70年代に流行った文化記号論と似ていますか。
出原:そうですね。僕はそう思います。本にも書きましたが。池上先生もそうですね。
司会:その相同性についてが、ご新著の中核にある、と。
マンガ学とは
司会:そもそも、ですが、僕はマンガ学というのがよく分からないのですが・・・。どんな方がどんなふうにやっているのですか?
出原:マンガに関わる論考、たとえば作家に関して、作品に関して、あるいは鳥獣戯画以来の歴史的研究、等さまざまな立場からばらばらにされていた研究が、2000年位に学会としてまとまったのです。マンガとは何か、マンガ学とは何かという定義が定まっているというよりはボトムアップ的に集まって運営されている。心理学や言語学、美術、医学、教育さまざまな分野で学際的にマンガが研究されていて、形態論、統合論など体系化されている言語学のように体系化されてはいないと認識しています。
司会:アメリカ学会というのがあって、そこにはアメリカに関することなら文学研究者も、政治学の人、歴史学の人もいるというように、マンガ学会にはマンガをテーマにしたさまざま分野のひとが集まっているイメージですね。
認知言語学とは
司会:今日はこのマンガ学と認知言語学の接点についてお話を伺いますが、認知言語学とはどんな学問か、一般のかたに対してどのように説明しますか。
出原:そもそも言語学が明らかにしようとするのは、たぶん、大きくは二つの謎だと思います。ひとつは、人間なら誰しも言語を身につけることができるという現実。もうひとつは、世界に多く存在する言語は、SVOということでいうと6パターンありますが、ほとんどは二つに集約される、それは何故か。その説明のために立てられる仮説のひとつは、生まれながらにそうした言語の装置が人間に備わっている、というもの。これは生成文法の考え方です。もうひとつはそういう装置を想定せず、普通の心理学的な認知能力によって言語も習得できるのだという立場です。後者の立場で言語を研究するのが認知言語学だと思います。
司会:言語学史の中で20世紀後半、言語能力は遺伝子レベルで備わっているという考え方が一方にあり、もう一方には目の動きなど身体の動きとことばも関係があるという認知言語学の立場がある。今日はその認知言語学の立場から、特に「視点」からマンガ学との接点をお話いただきます。
主観的把握と客観的把握
司会:ご新著にも書かれていますが、主観的把握と客観的把握ということからお話いただくといいかな、と。
出原:これは池上先生がよく挙げられる例ですが、日本語で「ここはどこですか」と聞く場合、英語では「Where am I?」と言いますね。Where is hereとは言わない。
司会:Where is hereを試したことがありますが、びっくりするくらい通じないですよね。(笑)もう少し想像力を働かせられないのかと思うくらいに。
出原:一般化すると、基本的に見えるものなど、認識するものを言語化するのが主観的把握で、この場合「ここ」というのは見えているもの、ですね。一方、英語では俯瞰的に見渡し、地図上で私はどこにいるのかという発想を言語化している、これが客観的把握です。
司会:英語には、はっきりI(私)が出ていて、私が上から見ている感じですが、「ここはどこ」というと「私」は埋没している感じですね。「私」が中に入り込んでいるので、その意味で主観的ということですね。
出原:そうですね。(資料のマンガ画面表示)これは男子高校生が女子高校生に、女の子の好きな相手から預かった手紙を渡した場面です。
▼(台詞を言う女の子の画)「わーっ本当!?」
▼(手紙を見る女の子の画)「あれっ?」
▼(手紙に書かれた文字)「おめでとう!!鳥丸より」
女の子が手紙を見て「あれっ?」と言っているコマは女の子を外から見た画で、客観的把握、マンガ学でいう客観ショットですが、手紙の文字のコマは女の子の見えているものの画で主観的把握、主観ショットです。客観ショット、主観ショットは映画論由来の用語かと思いますが。
このように、ある登場人物に客観的ショットで焦点を当て、その後にその人物の見えるものを描くのをマンガ学の用語では同一化技法と呼びます。竹内オサム先生(同志社大学)の提唱したものです。どのマンガでも使われる技法で、感情移入しやすくなる。この作例でも、この女の子の心情が切なく伝わってきます。
司会:この場合、この手紙は自分が好きな烏丸君からではなく、持ってきた男の子が自分で書いた、烏が鳥になっているので女の子がそれに気づくという。
出原:そうですね。女の子が鳥の字にフォーカスしている。
主観と客観の間―身体離脱ショット
出原:次の作例ですが、
▼右のコマ:ワイングラスをかかげて「きれい・・・」と言っている女性 それを見る眼鏡の男性
▼左のコマ:眼鏡の男性のライバルの男性
右は客観的な見えですね。左のコマは眼鏡の男性が女性を見てライバルを思い起こしている、実際にはそこにいないライバルを投影している場面です。明らかに眼鏡の男性の主観の見えなのです。しかし完全に主観ではない。なぜなら、眼鏡の男性の後ろ姿が写りこんでいる。では客観か、というと眼鏡の男性にしか見えないものを見ているわけですから、客観でもない。こういう描き方はマンガでは非常に多く現われます。
司会:主観でも客観でもない、という言い表し方はありますか?
出原:言語学での言い方は、多分無いと思います。マンガ学では泉信行さんというマンガ研究者が「身体離脱ショット」と呼んでいます。主観と客観が入り交じっている、という。
言語学でも主観的把握と客観的把握の二分法ではなくて、中間があるとよく言われます。例えば「明日」。背景的には「今・ここ」があった上での「明日」でないと、「明日」が特定できません。主観と客観の間である、というふうに言われます。しかし、この作例の場合は、主観と客観の間ではなくて、混ざっている。間ではない、というのが私の主張です。この混ざっている状態が、言語構造にもないだろうか。欧米の言語である場合、自由間接話法と言われるものが、昔から主観と客観が入り交じっていると言われてきました。
自由度の高いルビの振り方
出原:今度の本の中でも書きましたが、マンガや、ライトノベルと言われる分野でよく使われているルビでは、視点を重ね合わせているところがあるのではないか、と思います。
司会:ご新著をお読みの方はお分かりでしょうが、漢字だけでなく色々な語にルビを振って違う読ませ方をするルビの付け方に触れていらっしゃいますね。これはライトノベルの特徴なのですか?
出原:専門家の方もいらっしゃるのでお話ししづらいですが(笑)、一般にも、例えば言語学の本で、「過程」に「プロセス」とルビを振ることもあります。ライトノベルではそれよりも自由度が高くなっていて、私も集めて分類しましたが、客観的(読者や作者視点)と主観的(登場人物視点)があります。同じ時間に複数の視点を提示したいのだろうな、と思います。
司会:僕は日本語の特質だろうと思っていましたが、同じ語でも漢字で書いたり、ひらがな、カタカナで書いたりするし、同じ漢字も音と訓がある。また、ルビの振り方で視覚的に読めるのとは違う意味を読ませたり、広告などで本来とは違う漢字を当て字で書いたりする。日本語話者の失語症は音失語しても文字失語しない率が高いなど、ビジュアル的理解と音声的理解、多重に理解するのが日本語話者は得意なのではないかと思っていました。そういうことと今のお話は関連していますか。
出原:欧米言語に見られる自由間接話法では二つの視点が混じり合っていますが、その話法自体は日本語に無いので、多分それを補う文字表現としてルビがあるのかな、と思います。
アメリカンコミックと日本のマンガ
司会:ご新著で触れられているように日本のマンガにはアメリカンコミックの影響があるということですが。
出原:そうですね。明治大正の頃から、海外のマンガ家が来日して指導することもありました。手塚治虫はもちろん、ディズニーの影響を受けています。
司会:以前阿佐ヶ谷で飲んだ時に小学館の大賀社長とお話しして、「ドラえもん」を外国に出すときに、日本の本と海外の本の開き方が違うので、外国版に合わせるために画を鏡像のように反転させてしまった。で、藤子不二雄がめちゃくちゃ怒ったと聞きました。(笑)
出原:日本のマンガは右開きなので、読者は右から左に読む。それに合わせて主役は基本的に左を向き、相手は主役の視線がぶつかるように右を向いています。
司会:そこも視点ですね。
身体離脱ショット
出原:次の作例ですが、心理学でも言われる身体離脱について。映画論ですと肩ナメショットと言いますが、肩越しにカメラが舐める、ということですね。マンガですと肩ナメには限らず、例えば―
4,5歳の主人公が初めて気球を見に行ったシーンです。
▼主人公のコマ
▼気球を見上げるシーン
主人公が小さいので、気球がより大きく感じられるというシーンですね。単に肩ナメというだけでなく、体とものの関係、身体性を重視する方法です。同一化技法のひとつで、竹内オサム先生がモンタージュ型と呼ぶものです。まず登場人物に焦点をあてた客観ショット、その後で主観的なショットということですね。
例えば連続するものもあります。
▼ドアがガチャッと開く=客観ショット
▼男の子がドアの方を見る=客観ショット
▼女の子がのぞく 男の子の後ろ姿も描かれる=肩ナメによる身体離脱ショット
▼女の子だけの画=男の子の主観ショット
というように、だんだん主人公に近づいていく一連の流れがマンガにはあります。
視点の操作
司会:出原さんは共同注意にも触れられていらっしゃいましたね。共同注意とは指さし行為のように、方向を指している指先を見るのではなく、指している方向を見るという人間に備わった能力ですが、生後9ヶ月くらいからその能力が発達するといわれています。絵本の場合、このような「視点」の組み替えは無いのでしょうね?そのあたりがマンガと絵本が違うような気がしたのですが。
出原:そういう研究もあったような気がします。
司会:大人の見るマンガと小学校低学年くらいで見るマンガと、こうした視点の操作(描き方)は発達に合わせて違ってくるように予想しますが、いかがでしょう?
出原:どのくらいの年齢から、ということは分かりませんが、小学生が読むマンガであれば普通に(視点の操作は)あると思います。
自由間接話法と身体離脱ショット
司会:出原さんは、マンガ学の知見で言語学に貢献することがあるなら、主にどんな点で、とお考えですか。
出原:本にも書きましたが、英語の例で―
She stared at him in speechless amazement. How could he come back so soon? Why had he not informed her of his return. But he was there waiting for her to throw herself into his arms.
イタリックになっている部分は自由間接話法です。「彼女」が思っている内容ですね。思っていることを表す場合、本来は二文目のcouldは現在形、三文目のherは、meのはずです。時制とか人称代名詞が客観になっている。しかし内容は主観である、という入り交じった形。これが自由間接話法です。これはまさにマンガ学でいう、身体離脱ショットにあてはまります。最初に彼女が彼を見てびっくりした、どうしてびっくりしたのか、というと、と誘導していく。これは全体の流れとしてマンガ学でいう同一化技法にあてはまります。読者を登場人物の思考に入り込ませるという点で共同注意的な部分もあるかな、と思います。
司会:認知言語学で言われることが、マンガ学でも言われる、要するに相同的である、と。ということは、言語だけが独立しているのではない、という認知言語学の基本的立場のメッセージですよね。言語だけが独立してほかのものとは関係のない特別な地位にある、という20世紀後半の主流であった生成文法に対するアンチテーゼのひとつの材料になる、と認知言語学初学者は言えるかもしれません。
認知の仕組みは言語でもマンガでも同じ
司会:こういうお話を聞くと、人間の認知の仕組みはこうできているのだな、言語でもマンガでもそうで、ふたつは並行関係にあると気づかされます。それが出原先生のおっしゃる根幹の部分ですね。
出原:そうですね。マンガ学から言語学に援用されるものは他にもいろいろあるかと思いますが、「視点」はわかりやすいと思います。ことばだと見えているものを全て表現するわけにはいかない。マンガは、少なくとも焦点の当たっているところは一目瞭然に描かれます。そういう「視点」から探っていくのは、まだ誰もあまりやっていないので、やってみるのもいいかなと考えています。
司会:マンガから言語を考える研究者があまりいない、ということですか。
出原:マンガにおける言語現象を、「役割語」とかを扱う研究は結構あると思いますが、マンガ学の知見を言語学に応用できるかという研究はあまりないですね。
マンガの中の擬態語・擬声語
司会:なるほど。出原さんも論じていらっしゃいますが、「ガガガー!」などの文字がおもしろい擬態語、擬声語というのか、あれもマンガの特徴ですよね。
出原:篠原和子先生(東京農工大学)のオノマトペ研究など、ですね。マンガの世界では音だけではなくて実体化される。「ワァー」とあると、誰かにぶつかっている、とか。また、マンガの中で新たなオノマトペが生成されることもあります。マンガ学の夏目房之介先生が例としてあげていらっしゃいましたが、擬態語として「ひらきなおり」が使われるなど。
司会:初期のマンガだと思いますが「シーン」という擬声語、シーンとしているというのは、本来音は無いですよね。
出原:日本のマンガが翻訳されると「シーン」は取っ払われると夏目先生の本「マンガはなぜ面白いのか」(NHKライブラリー)にありました。
司会:なるほど、面白いですね!無音を言語化するのも面白いけど、外国語になると消されてしまうというのも。
出原:はい。擬声語であると同時に時間感覚も表せるのですが。
司会:参加者から、「シーン」を最初に使ったのは手塚治虫という説は本当ですか、と。
出原:さぁ、マンガ学の専門ではないので、なんとも分かりません。
司会:手塚治虫はマンガに革命をもたらし、マンガのジャンルを一段引き揚げたすごい人です。僕は藤子不二雄の「マンガ道」も好きで、手塚治虫に憧れて富山でマンガを描き続ける話ですが、その中で手塚作品の中では映画的に表現されていると。手塚治虫は他の漫画家に大きな影響を与えましたね。
認知言語学の進む方向
司会:アメリカンコミックの視点と英語、日本のマンガと日本語には、それぞれに特徴的な相同性、つまりそれぞれの言語構造が反映されているのでしょうか。
出原:例えばスヌーピーでは、舞台の上で演じられているかのように観客の視点は変わらない、ということは以前言われています。今はアメコミと日本のマンガお互いに影響し合っていますから。
司会:むしろ言語より国境を越えやすい媒体でしょうね。
出原:アメリカの研究者が書いた「マンガの言語学」という本があって、認知言語学の知見を使って、アメコミに特徴的なこと、日本のマンガに特徴的なことを分析されています。
司会:言語学はいろんな分野に首を突っ込んで、有用ですよ、と言っているようですね。認知言語学は1980年のメタファーの話とか主観的把握・客観的把握以来、バージョンアップできていないという感じを、多分みなさんお持ちではないでしょうか。これからどう進んでいったらいいのか、ひとつの道が色々な事象に首を突っ込んでいくことが可能な展開かなと思っていました。
出原:認知言語学自体はさまざまな分野とコラボしていっているので、今後マンガ学もその一分野に加えてもらえたらと思います。メタファーに関しても、マンガで使えるのではないか。例えば音楽マンガで音を画でどう表現するのか、という試みがあります。音象徴というよりは共感覚的に、ですが。
司会:認知言語学も認知科学のひとつだとすれば、そのような知覚につながっていかざるを得ないですよね。今日は面白いお話をありがとうございました。
(文責:事務局)
2022/2/10掲載
|