「ウクライナの言語と文化」
● 2022年9月24日(土)午後2時-3時
● Zoomによるオンライン開催・対談
● 話題提供:中澤英彦先生(東京外国語大学名誉教授)
● 司会・対談:井上逸兵(ことば村村長・慶應義塾大学)
● 参加:53名
対談要旨
司会:今日は中澤英彦先生を迎えて「ウクライナの言語と文化」についてお話を伺います。中澤先生はロシア語はじめウクライナ語を含めたスラブ語を専門とされる言語学者で、NHKロシア語講座の講師をお勤めになったこともあります。最近、ウクライナ都市名キエフがキーフとウクライナ読み表記になりましたが、その変更を提唱された方でもいらっしゃいます。
中澤先生、ロシア侵攻に伴って、取材対応など大変多くてお忙しいかと思いますが・・・。
中澤:そうですね。これまで本に埋もれていた私にとっては多いですね。
司会:政治的な問題や戦争に関して、私も含めて大変関心のあるところですが、今日はそこからは離れてウクライナの言語と文化のお話を伺います。
スラブ語研究を始めたきっかけ
司会:先生が最初スラブ語研究に入られたきっかけは?
中澤:私の伯父が南満州鉄道に勤めていて、ロシア語とシナ語の通訳資格を取ったとたんに捕虜になり、シベリアに抑留されたのです。私はおそらく赤ん坊の頃からロシア語を聞かされていたのだと思います。私の世代は小学校高学年から中学校にかけて社会主義教育で、読む本は岩波の児童文学でソビエトのもの。学校で唄うのはロシア民謡。ですから、私にとってロシア語は運命ですね。
司会:そういう環境で最初はロシア語から入られた。
中澤:最初はウクライナという存在も知りませんでしたから。
ウクライナ語とロシア語の近さは
司会:ウクライナ語とロシア語は、素人から見ても近そうだな、と思いますが・・・。
中澤:その答えは今はなかなか難しいのですね。
フランスの言語学者A.メイエなどは、ウクライナ語はロシアの方言である、と言いました。特に今は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシは言語的、文化的、歴史的にひとつという主張が色々な方面から出てきています。私が学生の頃は、スラブ系言語は14カ国語と言い、最近は20近くまで数えられていますが、日本的感覚からいうと、それらは全部方言ですね。基礎語彙(手、足、水などの単語)で比較すると、一番北に位置するロシア語、南のセルビア、ブルガリアなどまでほぼ同じです。
司会:あ、そうなのですか。
中澤:ええ。学生の頃、飛行機の中で、すごく下手くそなロシア語で日本人の悪口を言っている人が居たので、近寄って行って文句を言ったのですね。すると、「お前はスロベニア語が分かるのか?」。あぁ、これはロシア語じゃなくてスロベニア語だったのか、と。ですから基礎語彙の中でしたら基本的にはお互いに話せる。
司会:なるほど。
中澤:日本人は外国語というと、隔絶していて、ゆっくり話しても相手には分からないものと考えますが、スラブ系言語の場合、相互の間に自然国境と呼べるものはほとんど無いので、言語は徐々に変化していく。国際列車に乗っていて、なんだか分かりにくくなったと思うと、結構離れたスラブ語だったということがあります。
司会:連続しているのですね。
中澤:ええ、ロシア語とウクライナ語の場合、基礎語彙を上回ると、K.ティシチェンコによれば語彙の差は38%あるそうです。38%の語彙差というと、スペイン語とイタリア語の差と同じなのだそうです。近いといえば近い。
司会:お互いのコミュニケーションはできる、と?
中澤:はい。ウクライナ人のほぼ35歳以上の方はソビエト時代の教育を受けています。その時代の共通語はロシア語でしたから、35歳以上、あるいはロシア語を話す地域、家庭に育った方はロシア語が分かります。中にはロシア語が母語の人もいます。
なごやかで日本語に近い響きのウクライナ語
司会:今は、ウクライナではウクライナ語で教育がされているのですね。
中澤:ええ、憲法で唯一の国家語はウクライナ語と規定されています。教育も基本的にはウクライナ語。少数者の言語教育も認めると憲法にありますが。
司会:国民感情的にはどうなのでしょうか。たとえば、キエフとキーウという呼び名など、どう呼ぶか。ウクライナの方はどんな意識でいらっしゃるのでしょうか。
中澤:ソビエト時代に片親がロシア人、片親がウクライナ人という家庭が推奨され、そういう家庭の方に、どういう場合にウクライナ語を使うかと聞いたことがあります。通常はロシア語でしゃべるが、家族でくつろいでいい気分の時はウクライナ語だ、と。実用的にはロシア語、一般的にはウクライナ語のほうが感情を表わしやすいという答えでした。
ロシア語とウクライナ語を音声的に比べると、ロシア語は少しきつい感じがする。同じ先生がロシア語とウクライナ語を教えると、ロシア語の授業では非常に厳しい表情、口調で、ウクライナ語の時は同じ人かと思うくらいなごやかだと受講生が言います。
司会:言葉によってキャラクターが変わる。日本語と英語のバイリンガルもそう言います。
中澤:ウクライナ語の属する東スラブの言語やバルトのリトアニア語(長母音の場合)はアクセントのある母音は長く発音する。チェコ語やポーランド語など西スラブの言語は長くならない。ウクライナ語はロシア語ほどアクセント母音が長くないので、音声だけきくと、一瞬日本語かな?と思う時もあります。
司会:日本語では母音を長く発音する、それに近い。
中澤:そうですね。ただ、四六時中ロシア語の聞こえる環境では無理もないのですが、音声面でロシア語とウクライナ語を厳密に分けて使うのは相当難しい。
司会:言語は連続しているわけですが、ソビエト崩壊後ウクライナという国が出来て、公用語をウクライナ語とした時に、ロシア語と差異化しようという動きはありましたか。
中澤:はい、ありました。ソビエト時代、ウクライナ語を話すと実質的に不利益を被った。ソビエト崩壊後は積極的にウクライナ語政策を採らないとウクライナ語が普及せずかつロシア語と「まぜこぜ」(スールジク)の言葉になってしまいますから。
ウクライナ文化の世界観
司会:文化の面で、ロシア文化とウクライナ文化それぞれの特徴は?
中澤:ウクライナ文化の一番の特徴は、知られていない、ということです。ロシア帝国時代、ソビエト時代、ウクライナは世界から隠されていた。ソフィア・ローレン主演の「ひまわり」という映画、はじめは撮影場所はモスクワからシェレメーチェボ空港へ向かう途中とされていた。しかしエキストラのしゃべっていることばや背景からもシェレメーチェボの近くではない。その後、目下激戦地となっているヘルソンだと分かった。キーウの大学の先生にウクライナ文学について尋ねたら、非常に困った顔をして、ウクライナ文学について教わったことがない、と答えた。35歳以上の人はそういう状態ですね。
もうひとつの特徴は、例えば、私が部分訳をしたウクライナの作家レーシャ・ウクライーンカの代表作『森の詩』に見られるように、自然と人間を二項対立で見るのではなく、同じレベルとして捉えることです。
司会:日本的なのですね。
中澤:ええ。日本人にとっては普通ですが、向こうのひとにとっては、ギリシア時代以前の発想で、斬新なのですね。ウクライナ文化はヨーロッパ文化の中では花鳥風月を愛でるような日本的感性がある。リビウの南のウージホロドでは、日本を思わせる桜祭りをしますし、民謡には月が本当によく出てくる。月は男性名詞で男の恋人の象徴でもありますが。
司会:そんなに日本的感性に近い国がヨーロッパにあるとは想像していませんでした。
中澤:モスクワからキーウに行くとほっとするのですね。ロシア人は失敗して笑うなんてありませんが、ウクライナ人は照れ隠しに笑う。モスクワの地下鉄駅を出る時とキーウの地下鉄を出る時、後ろの人のために重いドアを支えるか、支えてもらったら有り難うというか、を調べたことがあります。はるかにキーウのほうがそれをしている。
司会:ウクライナ人に親しみを感じますね。
中澤:(笑)私はロシアにもウクライナにも親しい友人がいて、どちらかに加担することはありませんが、感性の点ではウクライナが日本人に近い。日本の俳句や和歌のウクライナ語訳が出るとキーウだけで3000部くらいはすぐ売れるのです。
司会:ウクライナの方自身は、日本の感性が自分たちに近いと感じているでしょうか。
中澤:日本の侍とウクライナのコサックはそっくりだ、と言うウクライナ人はかなりいます。
ウクライナ人の心意気とは、誇り高く何よりも名誉を重んじ、独立不羈、年長者に忠節、夫・妻・恋人には貞節、友情には篤く、人には謙虚でありながら、義のためにはいかなる困難も怖れず身も心も捧げる、というものです。
司会:まさに侍ですね。そして優しい人でもある。
中澤:本当に優しいです。発車したバスを、おばあちゃんが「乗せてくれぇ」と追いかけてくると、乗客が全員「乗せてやれぇ」、と叫ぶ。(笑)
司会:日本語なら、人情と言いたくなる。遊びに行きたいと思う日本人は多いのでは。
中澤:日本人でウクライナに行ったひと、私の知るかぎり全員、熱烈なウクライナ贔屓という不治の病に感染し、一生治りません。(笑)
ちなみに、NHKの「みんなのうた」の「古いお城の物語」はウクライナ人の作曲です。
(https://www.youtube.com/watch?v=_NWqaJGF3ik)
元のウクライナの歌詞は違いますが、メロディーは日本人にぴったりくる。ですから、俳句や和歌が受け入れられるのでしょうね。
詩と歌の国ウクライナ
司会:ウクライナには伝統的な詩の形式はありますか?
中澤:ロシアとはちょっと違う形式ですが、あります。ウクライナといえば詩、それと歌という感じです。ウクライナの民謡は20万以上あると、ある言語学者が言っています。ユネスコ登録によれば一民族で一番民謡の数が多い。彼らは本当によく歌います。モスクワ大学に研究に行った時、12時過ぎて歌声が聞こえカセットレコーダーを持って駆けつけたらウクライナの留学生でした。(笑)
司会:ロマンティックな人々という感じも受けますね。
中澤:私はウクライナ語の授業では、ウクライナは愛の国です、と言います。森林の中に鉄道が走って、ハート型に木々が削られて「愛のトンネル」と人気があります。フランスのダニエル・ビダルの歌、「天使の落書き」https://www.youtube.com/watch?v=1F30Ga1PiVsの歌詞に「ひとたび友としてこの門をくぐる者は、好むなら一生友として迎えよう」。これはウクライナ人の感覚にかなり近いです。
司会:人々の情愛が深い、というイメージが出来てきました。
中澤:知り合いのご両親は小学校1年生の時の同級生同士で、私の知り合いであるその娘さんも小学校1年生の同級生同士で結婚。親子で、とびっくりしました。
質問に答えて
司会:チャットによる質問です。ロシア語とウクライナ語が分かれたのはいつ頃でしょうか。
中澤:今回の紛争をきっかけに、私はこれまでの定説(ロシア側から見た説)がおかしいと思うようになりましたが、定説によれば、印欧語族からスラブ語派が分かれたのが紀元前1500年から紀元ぐらいまで、紀元後5~6世紀頃にスラブの南、西、東の諸派が分かれ、8~14世紀くらいまでが東スラブ人が同じ言葉「古代ロシア(東スラヴ)語」を使っていた。14世紀くらいから今のロシア、ウクライナ、ベラルーシと分かれた。これが定説です。
ウクライナ側の説は違うのです。今度の紛争以前から、ロシア人の先祖とウクライナ人の先祖は元々違う、と。その根拠は古い時代の語彙です。例えば鳥のカッコー、知る限りほとんどの言語ではククーシュカとかクックー、カッコーなど鳴き真似なんですが、ウクライナ語では「ゾズーリア」です。それは、スラブ祖語時代の語彙らしい。それを継承しているのがウクライナ語だ、と。
また、アクセントの位置。「新しい」はロシア語でノーヴィ(アクセントはノー)ウクライナ語でノヴイー(アクセントはイー)。ロシアの権威ある言語雑誌にはるか以前に掲載されていた論文によると、ウクライナ語はスラブのご先祖のアクセントを今なお継承している、と。
またゴート人外交官の5世紀の頃の記録で、この地域(ウクライナ)の人々は他の地域と違う言葉(つまりウクライナ語の祖形)を使っている、と。
そこで、ウクライナ側の説では、ウクライナとロシアの民族はもともと違っていた。後に成立したゆるやかな国家連合キエフ・ルーシ時代に同じくくりにされたが、その後モンゴルに攻撃され、北に移ったのがロシア、西にあってモンゴルの影響が少なかったのがベラルーシ、影響を受けたのがウクライナ、と分かれて元の状態に戻った、と。それがウクライナ説です。
司会:もともと祖先も違っていたウクライナとロシアがソビエト連邦のメンバーになることで近づいた、ということはありますか。
中澤:ロシアもソビエト連邦もウクライナ人というものを民族的に無くそう、つまりロシア中心にウクライナ人、ベラルーシ人を一本化しようとする姿勢は基本的に同じです。言語もロシアの一方言である、とする。I.オヒィエーンコという言語学者によれば、ウクライナ語禁止令が13回以上も出されている。1991年のウクライナ独立までウクライナ語を使っているとまともな社会生活はできませんでした。
司会:次の質問です。「はい」「いいえ」は基本的語彙だと思いますが、ウクライナ語の「ターク」はポーランド語の「タック」から来ているのでしょうか。
中澤:ウクライナ語の規範としては、「yes」は「タック」です。この背景を考えてみます。ロシア語とウクライナ語の基礎語彙で食い違いがあるのは、乱暴な言い方をすると、ウクライナ語では、文法はロシア語、単語はポーランド語との類似性が高いのです。
もっと大枠をお話すると、ウクライナは絶えず大国対小国という構図にあって、最初はウクライナが大国だった。ヴォロディーミル(ウラジーミル)聖公の時代には、ウクライナがヨーロッパで版図が一番大きかった。それからモンゴルにやられた後は、ポーランドが大国になり、その後はロシアが強大化します。それらの支配が長く続き、おおむねドニエプルの西側は西スラヴのポーランド文化、東側とキーウは東スラヴのロシア文化の影響が強い。ですから「yes」の「ターク」も西の影響でしょう(ただ、スラヴ祖語を継承している可能性も否定できません)。ウクライナ人の自慢ですが、ロシア人もポーランド人も、我々の言葉は分からないが、我々は勉強しなくてもその2つの言葉が分かる、と。
司会:今日はウクライナの方もご参加ですが、チャットで、リビウでは「yes」は「タ」です、と寄せてくださいました。
中澤:ロシア語の「ダー」とウクライナ語の「ター」はほとんど機能は同じですので、それはありうると思います。
司会:細部に本質が宿ると言いますが、今日の先生のお話はまさしくそういう内容でした。ウクライナについて、我々の理解を深めていただきました。ありがとうございました。
(文責:事務局)
2022/10/14掲載
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