地球ことば村
言語学者・文化人類学者などの専門家と、「ことば」に関心を持つ一般市民が「ことば」に関する情報を発信!
メニュー
ようこそ

【地球ことば村・世界言語博物館】

NPO(特定非営利活動)法人
〒153-0043
東京都目黒区東山2-9-24-5F

http://chikyukotobamura.org
info@chikyukotobamura.org

ファス語への旅

1981 年の夏、筆者はニューギニア島の高地周縁部と呼ばれる地域でのフィー ルドワークに備えてオーストラリアに向かっていた。ただ、実際にどの言語・ 文化集団を調査したらよいのか皆目見当がつかなかった。何せパプア・ニュー ギニアには、海岸部・島嶼部にオー ストロネシア系、内陸部にパプア系と、合 計 700 以上もの言語・文化集団が存在するのである。パプア系の高地周縁部 に限っても、その数はかなりのものにのぼる。残念ながら当時日本ではパプア・ ニューギニアでのフィールドワークに関して十分な情報を得る事は出来ず、オー ストラリアで様々な状況を検討した結果、最終的に南部高地州の高地周縁部に 居住するファス族の間でフィールドワークを行う事に決めた。ファスは、まだ 文化人類学的な現地調査が行われていない、人口約 1200 人足らずのサゴ採集 民である。しかし、フィールドで用いる言語をどうするかが大きな問題であっ た。一般に、パプア・ニューギニアで現地調査を行う場合、ことばに関して 2 つの選択肢が存在する。 1 つは現地語を用いるという方法であり、もう 1 つ はパプア・ニューギニアの事実上の共通語となっているピジン・イングリッシュ (ピジン語、トク・ピジン等と呼ばれる事もある)を用いる方法である。

ファス語はパプア諸語の中で最大のトランス・ニューギニア言語門、クトゥブ 言語系に属し、東隣のフォイ語と強い類縁関係があるとの事は分かった。しか し、数少ない学術論文だけではとてもファス語を習得する事など出来る相談で はない。ファス語の大雑把なイメージをつかむだけで満足しなければならなかっ た。

1982 年の夏、ファスの人びとが暮らすワロの町へ飛んだ。そこには多少英語 の通じる若者が 2 人いて、アシスタントとして今後の調査を手伝ってくれる 事になった。調査は、アシスタントたちに様々な物の名前を片端から聞き、記 録して行くという形で始まった。その後ワロのキリスト教会にファス語の聖書 やファス語の読み書きを子供に教えるためのテクストがある事もわかり、それ を教科書にしてアシスタントからファス語を習う事になった。しかし、日常生 活ではどうしてもアシスタントの通訳に頼ってしまう。なかなか学習成果はあ がらなかった。

それでもさすがに調査開始から約半年経つ頃には、通訳に頼らず、片言ではあ るがファス語でインフォーマントにインタビューしながら調査を進めて行く事 が出来るようになった。ちょうど同じ頃、通訳の助けをまったく借りずに調査 せざるを得なくなり、これが逆に功を奏し、ファス語の会話能力は飛躍的に向 上していった。やがて、アシスタントともファス語で話しをするまでになった。 また、ファス語の辞書の存在もわかり、運良くすぐに入手出来た。

調査も終わり近くなると、カセットに吹き込んでもらった神話等のテクストを 文字に起こす作業を開始した。さすがに自然のスピードで話されたテクストを 聞き取るのは難しく、アシスタントの助けを借りねばならなかったが、テクス トの意味不明な部分に逐語訳を付けて行く作業はファス語の理解に大いに役立っ た。

さて、ファス語に多少習熟して来ると、日本語を母語とする者にとってファス 語は大変に習得が容易な言語である事が分かって来た。名詞、代名詞、形容詞、 動詞など一旦分かってしまえば何の造作もない事であった。特に、動詞と接尾 辞は、まさに日本語の動詞の活用と助動詞の組み合わせそのものなのである。 しかも、母音調和が ある方言の方が、動詞に様々な音便形を持つ日本語の感覚 に近い。語順も主語+目的語+動詞であるから、大雑把に言えば、単に日本語 の単語をファス語の単語に置き換えるだけで、いとも簡単にファス語の文章が 出来てしまうわけだ。しかも、日常会話においても、神話等のかなり形式的な テクストにおいても、日本語と同じ感覚で主語や述語がどんどん省略される。 節を次々につなげて行って 1 つの文を作る手続きも日本語の場合とほぼ同じ である。やっかいなのはトーンで、 1 回目の調査の最後まで自信が持てなかっ たが、最低限の区別さえ分かれば何とかなりそうだった。結局、音声的・音韻 的にも、形態的・統語的にも、ファス語は日本語を母語とする者にとっては 「楽勝」の言語であったのである。

他のパプア系の言語をみても、少なくとも形態的・統語的側面に関して、パプ ア系の言語はファス語とほぼ共通した構造を持っているようである。確かにパ プア系の言語と日本語は構造的に類似しているのである。では、何故これまで パプア系の言語は一般に難しいとされて来たのであろうか。もちろん、本格的 な言語学的研究が遅れていたという事もその理由の 1 つであろう。しかし、 どうも本当の理由は、これまでパプア系の言語・文化集団を調査して来たのが 主に欧米の研究者たち(母語の語順が主語+動詞+目的語の人たち)であった という点にあるように思える。彼らにとって日本語の習得が非常に難しいのと 同じような意味で、パプア系の言語の習得も難しいのである。パプア系の言語 は難しいという神話は早急に解体する必要がある。

しかし、いかに習得が容易だったとは言え、筆者のファス語の能力には大きな 限界がある。ファス族の人びとが自然なスピードで話している場面では、せい ぜいその大意がつかめるだけで、とても細かな所までは聞き取れない。もちろ ん調査に支障がない程度には会話が出来るが、インタビューの場合も含めて、 ファス族の人びとは親切にも常にこちらの会話能力に合わせて話しをしてくれ るのである。従って、こちらのファス語の能力はずっとある 1 点に留まった ままになってしまう。 2 回目の調査では、テクストのテープ起こしを中心に 調査を行い、その過程でより全体的にファス語の構造を理解する事が出来た。 かなり間をおいた第 3 回目と第 4 回目の調査でも、別にファス語を忘れる事 なく、言葉の面では調査にまったく支障がなかった。しかし、とても「現地語 を自由にあやつる」と言い切る自信はない。むしろ、そうではないと自信を持っ て言い切れるといった方が正しい。

まあ、この程度の現地語能力でも何とかフィールドワークをこなして行けるよ うだし、パプア系の言語は日本語を母語とする者には習得がやさしいのだから、 関心のある方は是非ともパプア・ニューギニアでのフィールドワークに挑戦し てもらいたいものである。

《栗田博之:文化人類学、事務局が抜粋(2005年掲載)》