インド人はなぜ土壇場に強いのか
―ヒンディー語jugāṛ(ジュガールजुगाड़)が語る問題解決の文化―
西岡 美樹(にしおか みき)
(大阪大学大学院人文学研究科准教授 ヒンディー語)
掲載年月日:2026年9月19日
「石橋を叩いて渡る」ということわざがある。たとえ石でできた頑丈な橋であっても、実際に渡る前に安全を確かめる。私はこのことわざほど、日本人の行動様式をよく表したものはないと常々思う。
日本では、事前に計画を立て、起こりうる問題をできるだけ洗い出し、予定どおり物事を進めようとする姿勢が高く評価される。ところが、長年インドのことばや文化に接してきた私には、インド社会には少し異なる発想があるように思われる。その違いを象徴する言葉の一つが、ヒンディー語のjugāṛ(जुगाड़)である。この言葉は日本語に訳しにくい。
「何とかする力」
もともとjugāṛは、農村部で廃品や手近な部品を寄せ集めて作った即席車両を指したとも言われる1。そこから、限られた資源で問題を解決する発想そのものを表す語へと意味が広がったようである。日本語では「工夫」「やりくり」「知恵」「間に合わせ」などと訳されることが多いが、そのいずれもしっくりこない。むしろ「何とかする力」とでも呼ぶのが近いかもしれない。たとえば、必要な部品が手に入らない。予定どおりに人が集まらない。思わぬトラブルが起きる。そのような時、日本人は「計画が崩れた」と感じることが多い。それだけ予定どおりに進めることを重視しているのである。一方、インドでは「では、どうするか」と考える。手元にあるものを使い、人脈を頼り、別の方法を探しながら問題を解決しようとする。こうした発想がjugāṛという言葉には込められている。
私はよく、「これは優劣の問題ではなく、得意分野の違いだ」と説明している。日本人は計画を立て、その計画を着実に実行することに優れている。その結果、高品質で完成度の高い製品を作り出してきた。日本のものづくりは、まさにそうした文化に支えられている。机を作るなら、四本の脚はすべて同じ長さでなければならない。橋を架けるなら、設計どおりの強度が必要である。自動車を作るなら、故障しにくくしなければならない。そこでは工程管理や品質管理が重要になる。決められた手順を守り、再現性を確保し、誰が作っても同じ品質を実現することが求められる。一方、私がインド社会でしばしば目にしたのは、まず動くものを作り、問題が起きればその都度修正していく姿勢である。もちろん、インドにも綿密な計画を立てる人はいる。しかし全体として見た時、日本社会ほど計画そのものを重視していないように感じることが多々ある。むしろ、計画どおりに進まないことを前提として、その時々で柔軟に対応する能力が高く評価されているように思われる。
「手順:計画の文化」対「対応の文化」
以前、インド人の友人が、日本の漢字教育に驚いていたことがある。日本では漢字の筆順を細かく教えるが、彼にはそれが不思議で仕方なかったらしい。
「その字として読めればいいのではないか。」彼はそう言った。
日本人にとっては、正しい結果だけでなく、正しい手順もまた重要である。しかし、インド育ちの彼にとっては、結果が得られるのであれば、その過程にはそれほど大きな意味がない、ということである。
同じようなことは、催し物の案内にも見られる。私の経験では、インドの関係機関がイベントを企画すると、案内が届くのは開催の一週間から十日前ということが少なくない。日本人なら「もっと早く知らせてほしい」と思うだろう。予定を調整するには、大体一か月前には知らせてもらわないと難しいというのが正直な気持ちだ。そのため、直前に知らされても参加できないという事態がしばしば起こる。なぜこのようなことになるのか。彼らには彼らなりの理由があるのだ。早く知らせても人は忘れてしまう。直前に知らせた方が参加者は集まりやすい、というのである。日本人相手のように一か月前に催し物の通知を出すと、忘れられ、かえって集客率が落ちる、という具合である。このやり方を日本社会で行うと、当然問題が生じる。先述の通り、日本人は先の予定を早めに決める傾向があるため、一週間前に案内が来てもすでに別の予定が入っていることが多い。その結果、集客はかえって難しくなる。ここにも、計画を重視する社会と、その場の状況に対応することを重視する社会の違いを垣間見ることができるだろう。
そもそも、インドでは予定そのものが流動的であることも少なくない。日本では数か月前から日程や段取りを固めることが多いが、インドでは状況に応じて予定が変更されることを前提としているように見えることがある。そのため、日本人は「なぜもっと早く決めないのか」と感じ、インド人は「なぜそんなに先のことを気にするのか」と感じる。ここにも、計画を重視する文化と、その都度の対応を重視する文化の違いを見ることができる。
学会や研究会も例外ではない。日本や欧米の会議では、発表時間が二十分であれば、その枠内に収まるよう発表者は事前に準備する。しかし、私が参加したインドで開催された会議では、予定が大幅にずれたり、発表時間そのものが変更されたり(発表時間の短縮)することも珍しくなかった。もちろん全ての会議がそうであるわけではないが、「予定どおりに進まないこと」をある程度織り込んで運営されているように感じることがある。そのような状況では、綿密な計画を守る能力よりも、その場その場で柔軟に対応する能力の方が重要になる。私はこのような場面に遭遇するたびに、日本は「計画文化」、インドは「対応文化」なのではないかと考える。日本人は不確実性を減らそうとする。できるだけ問題が起きないよう準備する。そのための制度や仕組みを整える。一方、インド人は不確実性が存在することを前提としているように見える。予想外の出来事は必ず起こる。その時、どう対応するかが重要なのである。
jugāṛ的発想と管理的発想
この違いは、現代のソフトウェア開発にも通じるように私には思われる。ソフトウェアは、まず動くものを作り、その後アップデートによって機能を追加したり、不具合を修正したりすることができる。完成品を一度で作り上げなければならないわけではない。その意味で、「まず動かし、問題があれば後で直す」という発想との相性はよい。私には、このような開発スタイルとjugāṛ的な発想との間には、どこか共通するものがあるように思われる。一方、橋やビル、新幹線、工作機械などはそうはいかない。完成後に気軽に修正できるものではなく、最初から高い精度が求められる。そのため日本では、工程管理や品質管理を重視する文化が発達したのではないかと思う。もちろん、日本型の問題解決にも弱点がないわけではない。工程や手順を重視するあまり、予定外の事態への対応が遅れることがある。決められた手順から外れることに強い抵抗感があるため、柔軟な発想が生まれにくい場合もある。日本人がしばしば「融通が利かない」と言われるのは、その裏返しなのかもしれない。
インド人はというと、対応文化の中で培われた対応力によって土壇場に強い。もちろん、この姿勢にも長所と短所の両方がある。柔軟な対応力を生む一方で、「間に合わせ」で済ませてしまう危険があるからだ。このjugāṛは創意工夫であると同時に、応急処置でもある。しかし、それは単なる貧しさの産物ではない。限られた資源や不確実な環境の中で生きてきた社会が育んだ、一種の適応戦略と呼んでよさそうである。もちろん、このような発想が常によい結果を生むとは限らない。壊れた車をその都度修理し、代用品を取り付けて動かし続けた結果、もはや原形をとどめていないような車を見かけることもある。日本人からすれば、安全性の面で問題があるように見えるかもしれない。しかし、これもまたjugāṛの一つの姿なのである。
日本人は石橋を叩いて渡る。では、インド人はどうするのか。私の印象では、橋が壊れたらその時に何とか渡る方法を考える。どちらが優れているという話ではない。日本が計画によって問題を未然に防ごうとするのに対し、インドは起きてしまった問題への対応力を磨いてきたのである。その発想を象徴する言葉こそが、ヒンディー語のjugāṛなのである。

