聴雨軒と観瀑亭
台湾・台北に故宮博物院があることは、どなたもご存じだろう。 蒋介石が大陸から台湾に逃げ込んだとき、北京の故宮博物院から主 なオタカラをほとんど全部、台湾に持ってきてしまったものだ。し かし、その故宮博物院からさらに100メートルほど先に進んだ向 かい側に、「順益台湾原住民博物館」という、私立の、小さな、し かししゃれたモダーンな博物館があるのはあまり知られていない。 名前の通り、台湾の先住民、台湾では正式に原住民と呼ばれるのだ が、オーストロネシア系の原住民の器物、衣類、日常用品、狩猟・ 漁労用品などを展示している。わたしは4年半ほど、非常勤ながら この博物館の館長をしていた。
順益台湾原住民博物館のあるあたりは緑が多く、以前から気持ち のいい雰囲気だったが、最近は博物館の前や横の一帯が台北市の公 園になって整備され、いっそうきれいになってきた。
宿舎から博物館に通うたびに、前々から気になっていた看板がある。 看板とも言えないほどに遠慮深く、小さなサインが立っている。黄 色の地に黒の明朝体で、「仙境 聽雨軒」(「仙境」は割書きとい うのか、横に書いてあって、その下に「聽雨軒」が縦書き)と書い てある。おそらくはしゃれた四阿(あずまや)でもあって、静かに 雨の音を聞きながら、あるいは軒の上から水を少しずつ流すなどし て雨に見立てて、極上のウーロン茶でも飲ませてくれるところなん だろうなと、漠然と考えていた。
館長を辞める前に、ぜひ一度は訪ねて、結構なお茶を味わってお きたい。そう思って、日本語の上手な博物館のS小姐 (註1)に聞いて みたら、とーんでもない、「聽雨軒(ting1-yu3-xuan1)(ティン・ユ ー・シュェン)」とは女性用のトイレのことだと言うからびっくり 仰天。男性用のは「觀瀑亭(guan1-pu4-ting2)(クワン・プー・ティ ン)」と言うのだそうだ。うーむ、なるほど、さすが文字の国、し ゃれた言い方をするもんですねえ。すっかり感心してしまった。
念のため館長宿舎の世話などこまごました用をしてくれていたM 小姐に聞いてみたら、彼女は私と同じく「聽雨軒」はお茶屋さんだ と思っていたから、早のみこみは日本人だけではないらしい。これ がトイレの別称だと分かるには、やはりある程度の教養が求められ るのだろう。故宮博物院の近くだからこそ、使える名称なのかもし れない。ちなみにS小姐は4年生大学の日本語科卒業の才媛、M小 姐は高校卒後日本語を独習、日本にも1年留学という、媛の方が突 出した才媛である。
もう一つ、ついでに教わった。「おしっこに行く」のは「上一 號」、「うんちに行く」のは「上二號」と言うそうである。「一 號」は前にも運転手の一人がそう言って、そわそわと駆け出したこ とがあるので知っていたが、「二號」もあるとは知らなかった。お まけに動詞としては「上」を使うということも、初めて知った。し かし一號、二號では、どうもいささか趣に欠けるように思われる。 「聽雨軒」や「觀瀑亭」の風流風雅には、遠くおよびもつかない。
ことのついでだから「トイレ」の言い方を聞いてみた。「厠所」 (これはちょっとむき出しすぎる)「洗手間」「化粧室」(これは 女性だけ)「盥洗室」など。最後のがいちばん丁寧だそうである。 WCとも言う由。もっともWC(英語 water closet)が何の略称 なのかは、S小姐も知らなかった。これはおそらく日本語から入っ た言い方だろう。日本ではもう使われなくなった用語だが、古語は 周辺に残るという、一つの例になるかもしれない。別に何も言わな くても、親指と人差し指をくっつけない程度に丸めて、Cの格好に して見せれば、それでも分かるとか。「聽雨軒」や「觀瀑亭」では 風流すぎて、普段には使えないらしい。
その年のはじめには「しゃがむ」かどうかの雑文 (註2)を読ませ たり、今度はまたこんなことばっかりきくものだから、「先生は最 近はトイレの研究ですか?」などと、からかわれてしまった。
(註1)「小姐(シアオチェ)」という字を見て「小さい姐御か、こ わい」と言った人がいた。小姐とは「お嬢さん、ミス」を意味する 単語で、「姐御」とは関係がないから安心してほしい。本来はまだ 結婚してない若い女性を指すが、店やレストランで働く女性も、年 齢に関係なく「小姐」と呼びかける。対する男性に呼びかけるには 「先生(シエンション)」である。それでは学校の先生は何という のか? 「老師(ラオスー)」である。男女の別はない。
(註2)土田滋「厳粛なるセレモニー」『図書』597: 16-20. 東京: 岩波書店 (1999.91); 『日本語のこころ -- '00年版ベスト・エッ セイ集』pp.141-148 に再録(日本エッセイスト・クラブ編. 文藝 春秋. (2000.07); 文春文庫 (編 11 18) に「しゃがむ?」として 再録 (2003.07), pp. 154-162.
(土田滋)