芸能界業界用語事典 <3「ピーカン」>
暖冬のせいで、東京は初雪のないまま、花の季節を迎えそうです。雪に弱い東京の交通事情からずれば、雪より優しい雨の方が歓迎されるかもしれません。
雨と言えば──
並木の雨のトレモロを テラスの椅子でききながら
銀座娘よ なに想う 洩らす吐息に うるむ青い灯
しのび泣く 恋に泣く 東京の人
佐伯孝夫作詩、吉田正作曲、三浦洸一が歌った『東京の人』。
また、新国劇の『月形半平太』では、芸者染八の「月さま、雨が……」に答えて、半平太の「春雨じゃ、濡れて参ろう」の名セリフ。
これらの雨は、日本人が雨に託す心情を代表するように、やさしく、かなしく、しっとりした情緒を盛り上げています。
しかし、映画『羅生門』の旅法師(千秋実)と杣売り(志村喬)と下人(上田吉二郎)が捨子を拾うファーストシーンでは、下人が降り止まぬ雨を呪います。『赤ひげ』では、仏様のような大工の佐八(山崎努)が長屋の住人に看取られながら死ぬシーン。『野良犬』では、殺人犯(木村功)を追い詰めた佐藤刑事(志村喬)が銃弾に倒れるシーン。『七人の侍』では、ラストの泥んこの戦闘シーン。いずれも土砂降りの雨のシーンです。黒澤監督の描く雨は、激情の籠もった残酷な雨です。
戦後、日本が復興に邁進した時代、都市のインフラを整備するため、土木建設工事に従事した日雇い労務者にとっても雨は、残酷な狂人が振るう刃物そのものでした。
土方殺すにゃ刃物はいらぬ 雨の三日も降ればよい
と、戦後復興を支えた縁の下の力持ちたちを嘆かせた雨は、映画テレビの撮影現場で働く人達にとっても、同じく残酷な雨なのです。
野外撮影(ロケーション)は完全に天候に左右されます。雨狙いは別として昔のロケーションは晴天が原則です。なぜなら、昔はとにかく厚化粧でしたので、雨ではそれが落ちてしまうこと。そして、光量不足でピントが甘くなり鮮明な画像を得ることができません。現在でも、晴天のシーンを想定して組まれた撮影で雨に降られると、準備したスタッフ、機材、忙しいスケジュールに縛られている俳優たちの、今後のスケジュールの組み直しなど、時間と金銭に重大な障害となります。撮影中止となれば、小さなことでは、準備した弁当をどう処分すればいいのか。食うに困っている人に差し上げたくもなります。祈るようにして迎えた撮影当日の朝、抜けるような晴天に恵まれた時の喜びは例えようもありません。
その晴天を『ピーカン』と言います。で、『ピーカン』の語源はと言うと、諸説あります。
インターネットの『雑学大作戦:知泉』によると──
1. もっとも一般的な語源は『煙草の缶入りピースのパッケージ色が抜けるよう
な青い色なので、同様の青空を指してピース缶の様な空、と言うことからピー
カンは名付けられた」と言うモノがある。
2. 同様にピースの缶が語源になっているモノでも「ピースの缶にはオリーブの
枝をくわりか鳩が描かれている」と言う事から来たと言う説もある。これはち
ょっと学術的なのですが、鳩とオリーブの組み合わせは聖書にある「ノアの方
舟」伝説が元になっており、雨が止んで洪水が収まった時に地面が見えている
と言う意味で、鳩がオリーブの枝をくわえて戻ってきた事に由来しています。
つまり「雨が上がって晴れる=オリーブをくわえた鳩』という連想から、晴れ
のことをピース缶(ピーカン)と呼ぶようになったと言う説。
3. 完全な天気と言う意味で「パーフェクト・コンディション」を略して「パー
コン=ピーカン」となったという説。
4. オペラ「蝶々夫人」の中で歌われるアリアに、有名な『ある晴れた日に』が
あるが、それを歌いながら蝶々夫人が待つ人物が「ピンカートン」なので、そ
こから晴天の事を「ピーカン」と呼ぶようになったという説。
5. 映画監督山本嘉次郎によると「空がピーピーカンカンと晴れている」と言う
言葉遣いが昔あり、そこから来たと言う説。これによるとピーピーとは、あま
りの天気の良さに喜んだヒバリが鳴いている声で、カンカンは太陽が照りつけ
ている表現だそうです。
6. 映画関係者では「映画撮影をするときに晴れた日にはカメラのピントがカー
ンと決まることからそう呼ぶようになった」は言う人もいます。
とりあえず、最初の「ピース缶の色」と言うのが一番支持されているものです。
以上が、インターネットの『雑学大作戦:知泉』によるものです。
ピース缶が語源だとすると、箱入りのピースも同じデザインのパッケージなので、なんでわざわざピース缶なのかとの疑問が湧いてきます。当時の映画関係者がみんなヘビースモーカーで、10本入りの箱入りピースではなく、もっぱら50本入りのピース缶だったということかも知れません。
ちょっと待てよ。ピースはいつ発売されたんだ?
ピースが発売されたのは、1946年(昭和21年)1月10日で、懸賞で入選した関口重雄氏のパーッケージデザインでした。ブルーの色は同じですが、鳩はいません。金色の鳩に白抜きのPEACEの現在のデザインは、1952年(昭和27年)4月1日からで、レーモンド・ローウェイのデザインによるものです。
と言うことは、ピース缶説が正しいとするれば、それ以前にはピーカンという言葉はなかったことになります。もしあったとすれば、ピーカンの語源は、どうも、山本嘉次郎監督の説が順当のようです。
ともかく、昔は天気予報も当てにならず、天気はまったく人力の及ばぬお天道さま任せで、「ピーカン」と言う言葉には、現場で働く人達の切なる願いと大きな喜びの気持が籠もっているのです。
ところで、井上陽水の歌に『傘がない』というのがありますね。
その歌詞は──
都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけど問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ
つめたい雨が今日は心に侵みる
君の事以外は考えられなくなる
それはいいことだろ?
──と言うものです。深刻に社会問題を考えながら、別の自分は愛する恋人のところへ飛んで行きたい。しかし外は雨で傘がない。雨は人生を左右することもあるのです。