芸能界業界用語事典 <2「笑う」>
花も膝もわらう
広辞苑で『わらう』を引いてみましょう。
1. 口を大きく開けて喜びの声をたてる。おかしがって声をたてる。
②ばかにしてわらう。嘲笑する。
2. (比喩的に)つぼみが開くこと、果実が熟して皮が裂けること、また縫目が
ほころびることなどにいう。俳諧新選「口明けてわらわぬ花や女郎花」
3. 力が入らず、機能しなくなる。「ひざがわらう」
なるほど、花も膝も笑います。動物の中で、笑うことが出来るのは人間だけだと言われますが、チンパンジーやイルカなどは、本当に笑っているように見えることがあります。笑いは気持のいいものです。笑いは自然に心の底から沸き出してきます。ですから、「笑え」と強制するのは、笑いの本質を無視した理不尽なものです。
『カラオケ』などは疾うの昔に一般で使う言葉として採録されていますが、もともとは業界用語で、歌のないオーケストラ、もしくは楽器ひとつを抜いて録音したオーケストラのことです。『マイナスワン』とも言います。自分が担当する楽器をマンナスワンした『カラオケ』があれば、一人でフルオーケストラ気分で練習することが出来ます。話が横道にそれましたが、今日ここで取り上げる『わらう』は広辞苑にはありません。
「邪魔だ。 わらって」
ドラマの撮影では、シーンの画面はつながっていなければなりません。たとえば、物の位置、俳優の衣裳、肌の色など、カットが変わっても同じでないと見ていて変です。連続ドラマに出演中の俳優が、撮影休みにスキーに行って、真っ黒になって帰って来て、袋叩きにあったというのがありますが、そういうのはいけません。
では、ドラマの撮影現場をのぞいてみましょう。
今は貧乏だが、希望に溢れる青年が、好きな女性の誕生日にプロポーズするシーンです。場所は前からこの日のために決めていた青山の白亜のレストラン。
一張羅に身を包み、プレゼントには、なけなしの金をはたいて買った誕生石をあしらったネックレス。そして青年の心を伝える赤いバラという設定。撮影開始。青年は意気揚々とレストランの階段を上がり、ボーイに案内されて予約の席に着く。が、慣れない場所なので落ちつかない。早く来すぎてしまって間がもたず、辺りをキョロキョロ。彼女は丁度定刻に、白いスーツ姿で現れ、席に着く。カット変わって、いよいよプロポーズのカットの撮影にかかる。スタッフ一同、監督の「よーい、スタート」の声を待っているところへ、
「あのうしろにある赤いバラ、わらって」と監督の声。
今まで誰も気付かなかったが、背景の壁に掛かっているフランス絵画の風景 画の脇に、アクセントの様に赤いバラの一輪挿しが置いてある。そのバラを、 監督はわらえ(片づけろ)と仰る。
「どうしてですか?」
「はじめに渡すプレゼントのネックレスは高価かもしれないが前置きだ。肝腎なのは、青年が心を籠めて最後に差し出す赤いバラなんだよ。それが出る前に、同じ赤いバラが背景に写ってたんじゃ、なんにもなんないじゃないか」
「しかし、前のカットにも背景のバラは写ってるんですよ。今までそこにあったものが、カット変わりで急になくなったら、おかしいですよ」
「お客(観客)はそんなの気がつきゃしないよ。邪魔なんだから、背景のバラはわらって」
「そんな、乱暴な……」
「いいんだ。お客にはわらって許してもらう。早くしろ!」
監督の命令を受けて、助監督はシブシブ背景のバラをわらいます。
『わらう』とは、片付ける、取り去る、退ける、ということです。
「その雲 わらって」
黒沢監督の伝説に「あの雲、いらないから、わらって」というのがあります。
そこに苦労人の助監督がいて、「はい。風が雲をわらってくれるまで待ちましょう」と言ったか言わなかったかわかりませんが、撮影現場で使われる『わらう』は、このように非常に理不尽なものです。しかし、確かに、いらないものは、そこにあってはならないのです。
いかに有名大学を出て、優秀な成績で入社した新人助監督でも、撮影現場では、はじめは一番の下っ端ですから、コキ使われます。それにもめげず、早く現場の仕事を覚えようと一生懸命働きます。「おい、新入り、その花瓶、わらってくれ」と言われてもどうしていいか判りません。
「わらうんですか?」「そうだ。早くしろ!」
彼は花瓶を手に取って……笑いたくもないのに、大笑い。
「バカヤロー! まじめにやれ!」
彼ははじめからまじめなのに、知らないということは恥ずかしいことです。
実際の仕事で一人前になるためには、何によらず長い時間と経験が必要なのです。
そう言えば、和田アキ子の唄に『笑って許して』というのがありますね──
笑って許して ちいさなことを
笑って許して こんな私を
抱きしめて 許すと言ってよ
いまはあなたひとり あなたひとり
命ときめ 命ときめ 愛しているの
愛しているの しんじてほしい
笑って許して 恋のあやまち
笑って許して おねがいよ
──とは言っても、現実の世界では、笑って許すのは、なかなか難しい。