地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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北村孝一 「ことわざの世界」


北村孝一(きたむら よしかつ)プロフィール

1946年生まれ。エッセイスト。在野ことわざ研究者(ことわざ学会代表理事)。

1978年頃、ことわざ集の翻訳を依頼されたことから、
ことわざに積極的関心を抱き、 世界のことわざを収集・分析する。
85年頃友人たちと「ことわざ研究会」の活動を始め、
2007年「ことわざ学会」創立に参加。
近年は、西洋起源のことわざの日本語への受容と変容を追究するほか、
ことわざ資料集の監修や日本語のことわざ辞典の改訂に参画する。

★編著書
『ことわざを知る辞典』(小学館、2018年)、『ミニマムで学ぶ 英語のことわざ』(クレス出版、2017年)、『故事俗信ことわざ大辞典』(小学館、2012年)、『ことわざの謎 歴史に埋もれたルーツ』(光文社、2003年)、『世界ことわざ辞典』(東京堂出版、1987年)、『英語常用ことわざ辞典』(武田勝昭氏との共著、東京堂出版、1997年)、『外国のことわざ』(アリス館、2002年)、『日本のことわざ世界のことわざ』(幻冬舎文庫、2004年)など。

★ホームページ
ことわざ酒房(http://www.246.ne.jp/~kotowaza/
ことわざ学会(http://kotowazagakkai.com/


目次
(1)越境することわざ
(2)二兎を追うものは一兎をも得ず
(3)虻蜂取らず
(4)大山鳴動(して)鼠一匹
(5)一富士二鷹三茄子
(6)亀の甲より年の功
(7)窮鼠かえって猫を噛む
(8)夫婦喧嘩は犬も食わない
(9)商いは牛の涎(よだれ)
(10)ミイラ取りがミイラになる
(11)「一富士二鷹…」再論
(12)若い時は二度ない
(13)あばたもえくぼ
(14)坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
(15)聞くは一時の恥
(16)譬(たど)えど豆腐汁ぁ捨てるどごない
(17)暑さ寒さも彼岸まで
(18)色男金と力はなかりけり
(19)一寸先は闇
(20)好きこそ物の上手なれ
(21)火のないところに煙はたたない
(22)牛に引かれて善光寺参り

ことわざの世界
(22)牛に引かれて善光寺参り


 人に連れられて、思いもよらない所を訪れることのたとえ。また、たまたま人に付き合って出かけたことが機縁となって信心したり、初めての体験をすることのたとえとしても使われる。
 「牛に引かれて」は、始めから自分の意志ではなく誰かに連れられてきたことを、「善光寺参り」は、なじみのない場所を訪れることや新たな体験をすることを、それぞれ象徴的に示すものといってよい。
 現代の用例を少し見てみよう。

ホテルまで行って詩碑の場所を聞き、坂道をくだって見に行くことを考えると、もう止めようと思った。「ホテルで昼食を食べ、帰ろう」と家内にいうが、「もう少し行ってみましょうよ」という返事が返ってきた。女は強い。牛に引かれて善光寺参りではないが、家内に導かれて歩き出した。
「藤村詩碑」という表示が目に入ったときの喜びは何ともいえなかった。(斎藤茂太『老いは楽しい』2012)

池(いけ)の端(はた)のにぎわいを目の下にながめながら、晋一は古いそば屋の二階にいた。〈略〉
「ここまで来たのに、どうして博覧会はよそうとおっしゃるの。」
 つれは志摩子であった。
「もともと、こういう文明の見世物とは縁が無いんだ。きょうはきみにさそわれたので、牛に引かれてだが、めんどくさくなって来た。きみがめんどくさいのじゃない。風俗と附合うのがおっくうだ。」(石川淳『白頭吟』1957)

 こうした用例をみると、今日では、「善光寺」が省略されることもあり、省略しない場合でも、特に信心と関わりなく使われるのが大半のようだ。
 また、「牛」は状況に応じて人に置き換えることもあり、「善光寺」も実際に訪れた場所にして応用することもできる。たとえば、こんな例を見つけた。

 とにかくぼくが『少女クラブ』の誌上に連載されていた作品を、雑誌ごと愛読していたことはまちがいない。姉に引かれて貸本屋参りをよくやった。日参まではしなかったけれど、週参くらいはしたかもしれない。(河出書房編集部編『昭和二十六年生まれ』1981)

 ところで、「牛に引かれて善光寺参り」の初出は、俳諧の参考用に編まれた「世話尽」(1656) とされる。江戸初期にはすでに広く知られていた表現であったと思われる。
 ことわざの背景にあるのは、中世以来の善光寺参り(詣で)で、近隣地域ばかりでなく、京阪や関東などからも多くの人々が長野の善光寺を訪れ、女性の参詣者も数多かったという。 多くの地方で 、伊勢神宮とともに、一生に一度は参詣するものとされていた。
 なぜ、「牛」が出てくるのかというと、『本朝俚諺』(1715)には、次のような由来譚が紹介されている(現代仮名遣いに書き換えた)。

養艸(やしないぐさ)云(いわく)、昔信濃善光寺近辺に七十にあまる姥(うば)ありしが、隣家の牛はなれて、さらしおける布を角にひきかけて、善光寺にかけこみしを、姥おいゆき、初めて霊場なる事を知り、度々参詣して後世(ごせ)を願えり。之(これ)を牛にひかれて善光寺参りといいならわす。

 この伝説は、江戸後期に小諸の布引観音と結びつけられ、幕末頃には芳虎の浮世絵にも描かれ、土産物の一枚刷りにもなって、かなり広く知られたようだ。ただし、他のことわざの由来譚の多くと同様に、これをそのまま歴史的事実と受け取るわけにはいかない。

 平安時代末期の「今昔物語」震旦(中国)の部(7巻3)に類話がある。仏教嫌いの老婆(「神母〔じんも〕」と呼ばれる)が家の前に現れた牛を家に引き入れようとして逃げられ、追いかけていくうちに寺に入った。そこで、多くの僧侶が哀れんで「南無大般若波羅密多経」と唱えると、老婆は境内から走って逃げてしまう。その後、老婆は病を得て亡くなるが、娘の夢枕に現われ、般若経の名を聞いた功徳で転生するので、嘆き悲しむことはないといったという。善光寺の伝説と細部は異なるが、牛に引かれて思いがけず寺に入ってしまい、仏縁に導かれるというストーリーの骨格は共通している。
 同じ話が、室町時代の説話集『三国伝記』(3巻14)では「神母牛に牽かれて仏寺に到る事」(原文は漢文)と題して収録されている。説話が庶民に親しまれていくうちに、元の漢文から離れ、「牛に引かれて仏寺に到る」という粗筋だけが残って日本のものとなり、やがて「仏寺」を具体的に「善光寺」にして語られることは十分あり得ることだろう。この辺り(他の説話集も含めて)が「牛に引かれて~」のルーツと推定してよいのではなかろうか。

 ここで、中国の説話と善光寺の伝説の相違点に目を向けると、「神母」ということばがキイワードになる。神母は、日頃から鬼神を祀(まつ)る神道(じんどう)に仕え、仏教を排して寺に近づかず、道で僧に遇うと目をふさいで帰っていた。牛に引かれて寺に入り、僧侶の念仏を耳にして逃げ出した後にも、不祥なことを聞いたと怒り、水辺へ行って耳を洗ったという。単なる不信心ではなく、明らかに仏教を断固として排撃するものがあったといえよう。
 これに対し、善光寺近くに住む姥は、信仰心が薄く、善光寺が霊場であることも知らなかった。さらした布を取り返そうとして牛を追ったので強欲ともいわれるが、霊場と知って、何度も参詣し後生を願うのだから、どこにでもいそうな庶民の一つの典型的なタイプであろう。
 日本でも、古代には有力氏族の蘇我氏は崇仏、物部氏は排仏と、激しい対立・抗争の歴史があり、百済から渡来した善光寺の本尊も、物部守屋によって堀江に投げ捨てられたことがあるという。しかし、伝説にはそうした対立の残影はまったく感じられず、ことわざにもむしろどことなく長閑(のどか)な善光寺参りの雰囲気が漂っている。

   信濃に生まれ、江戸に奉公に出て俳諧を学び、諸国へ俳諧修業の行脚をかさねた一茶は、帰郷した後、文化8年(1812)に「二月廿五日より開帳」と前書きして、次の一句を詠んでいた。

    春風や牛に引かれて善光寺

 善光寺参りの一行に出会ったのか、一茶も誰かといっしょにに善光寺へ向かっていたのか、詳細は不明だが、ことわざを詠み込むことで、時空を超えて、うららかな日和と和やかな気分が伝わってくる。


ことわざの世界
(21)火のないところに煙はたたない


 火がなければ、煙は出てこない。逆に、煙がたっているからには、火元があるはずである。噂が聞こえてくるのは、何かその元になる事実があるはずというたとえである。もちろん、噂が真実を正しく伝えているとはかぎらないが、裏に何らかの事情があるに違いない、ということになる。「煙」は概して好ましいものでないから、噂もあまりかんばしくないものやスキャンダルをさすことが多いといえよう。
 現代の用例を少しみてみよう。

「Aさんとはいつ結婚するの」
「あら、それ何のこと? Aさんと私が結婚ですって? 冗談じゃないわ。Aさんとは、今まで二度か三度、それも何だかザワザワと大ぜいの人中で、ろくにお話もしないで、ただお目にかかったことがあるだけだわ」
「へえ、だつて世間じゃ大へんな噂ですよ。それに火のないことろに煙は立たぬというし」
 (三島由紀夫『不道徳教育講座』1959)

「それでも噂は貶(けな)すもあれば褒(ほ)めるもありで、その割合は半々ですがのし。〈略〉ひとによっては阿呆であるものか、怖ろしく利発なやと感心してなさるのも多いんです」
「ともかく、かなり妙な子やったんや」
「火のないところに煙は立たんといいますよって、噂はみんな本当かもしれませんしのし」
「愚鈍と怜悧(れいり)を併せ備えているとすれば、これは大器の相ありとみてもよろしのと違いますやろか。〈略〉」
 (有吉佐和子『華岡青洲の妻』1967)

 三島の用例は、世間の噂を引き合いに、どちらかというと冷やかし半分の軽い口調で、Aさんとの間に何かあったのではないか、と本人に直接問いかけている。有吉の用例は、娘の縁談をめぐって先方の男の好悪相半ばする世間の評判をどう解したらよいか、両親などが話し合う場面で、噂が本当かもしれないという文脈で引かれている。
 いずれにせよ、ことわざは、噂をそのまま信じたり頭から否定するのではなく、噂の陰に何かあるのではないか、真実を見きわめる必要があるのではないか、ということを示唆しているといえよう。

 ところで、このことわざにはあまり古い用例が見当たらず、見出しの表現が文献で最初に確認できるのは明治後期の『日本俚諺大全』である。異形は、やはり明治期のもので、「火のなき烟りはあらず」、「煙の有る所に火あり」など、比較的多い。
 平安中期の『うつほ物語』に「煙(けぶり)の譬(たと)ひ」が出てきて、これに「火のないところに煙は立たぬ」というたとえと注釈する書が複数あり、私の監修した『故事俗信ことわざ大辞典』第2版(小学館、2012)の「煙の譬え」の項でもこの見解をとったが、物語の本文に明示されていないうえに、以後の文学作品にもまったく類例が見出せないから、この推測には無理があろう、といまの私は考え直している。むしろ、『源氏物語』篝火に出てくる「恋の煙(けぶり)」--「こひ」と「火」をかけて、強く恋い焦がれる情をいう--か、これに類似した表現だったのではないだろうか。

 ちなみに、朝鮮語では、おそらく17世紀以前から、「火のないところに煙は立たない」と類義のことわざ、아니 땐 굴뚝에 연기 나랴(〔火を〕焚かない煙突から煙が出ようか)が使われていて、日本のものより古いのは明らかである。とはいえ、日本語のものは、明治期の異形をみても「煙突」に相当する語がまったく出てこないから、朝鮮語から入った痕跡はないとみてよいだろう。

 結論からいうと、意外なことに、このことわざは西洋由来のものであった。黒船が来航して、英語の重要性に気づいた幕府は、英語の専門家を養成しようとして、オランダで刊行されていた英語入門書 "Gemeenzame leerwijs" を安政四年(1857)に長崎でリプリントし、教科書として用いた。その本のなかに No smoke without fire. があり、そこから広まったものであろう。幕末以降に初めて登場し、異形が多いのは、翻訳であれば納得できる。その後、日本人にもわかりやすい比喩として受け入れられ、明治後期には現在の形で定着したものと思われる。


ことわざの世界
(20)好きこそ物の上手なれ


 好きであることこそ上達のための最も大切な条件である。いまは未熟でも、ほんとうに好きなら上手になれる。
 この「上手」は、今日の感覚でいう上手にとどまらず、達人や名人の域に近いものといってよいだろう。文字どおりには、好きであればその道の上手である、とする一種の誇張表現で、好きが上手につながることを強調されている。技能は未熟でも、好きなことにかけてはひけをとらない初心の者を励ましてくれる表現といえよう。

 文法的には、強意の係助詞「こそ」を受け、「なり」の已然形「なれ」で結んでいる。古典文法でおなじみの「係り結び」が現在でも使われている珍しい例の一つであろう。「好きこそ物の上手」といってもよいのだが、国立国語研究所が公開している「現代日本語書き言葉均衡コーパス」(BCCWJ) を参照すると、このことわざを引く文章17例のうち、15例が「好きこそ物の上手なれ」で、「好きこそ物の上手」とするのはわずか2例、それらも前者の異形(バリエーション)として言及しているにすぎない。用例の数が少ないようだが、BCCWJ は現代日本語の書き言葉の全体像を把握するために構築されたコーパスで、書籍・雑誌、新聞のほか、ブログやネット掲示板などから無作為にサンプルを抽出し、1億語を超えるデータを蓄積しているから、現代人の大半が「~こそ~なれ」と書いていると推定してよいだろう。

 なんだか少し不思議な気もするが、もちろん、私たちがいちいち係り結びを意識しているわけではない。はるか以前の世代から耳になじんでいて、「好きこそ物の上手」というよりも、「好きこそ物の上手なれ」としたほうが日本語のリズムとして心地よく、響きがよいと感じてきたせいであろう。
 ちなみに、ある程度ポピュラーなことわざで、「こそ」が出てくるものをさがしてみると、次の二つが目につく。
 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
 「濡れぬ先こそ露をも厭え」
 どうやら、やや古風な表現が好まれるのも、日本語のことわざの特徴の一つではないかという気がしてくるが、これらの中で、いまもよく使われるという意味では、やはり「好きこそ物の上手なれ」が抜きん出ていよう。

 ここで、少し視点を変えて、古い用例をみてみよう。文献上、最も古い例は、江戸前期の俳人宝井其角の十七回忌に編まれた『其角十七回』(1723)の次の一節のようだ。
「器用さとけいことすきと三つのうちすきこそものの上手なりけれ、と口ずさみせられけるが、将碁の宗匠宗桂もこの狂歌を折りふしずしられけるとぞ」
 現代語に訳すと、かつて其角が「器用さと稽古と好きと三つのうち好きこそものの上手なりけれ」と口ずさんでいらしたが、将棋の宗匠大橋宗桂も折にふれ同じ「狂歌」を口にされていたということになる。大橋宗桂は、江戸幕府によって初めて公認された将棋所の初代名人に始まり、その後も大橋本家の者が襲名しているから、年代からして四代目宗桂(1636~1713)であろうか。「狂歌」というのが、今日の語感と少しずれがあり、わかりにくいが、花鳥風月ではなく、人事や世情を諷して詠うものと解してよい。

 狂歌のいわんとするところは、芸道の名手となる上で、「器用さ」(生まれもった才能)も「稽古」もともに重要な要素に違いないが、比べてみると、「好き」なことこそ決定的に重要なものである、ということであろう。そして、このように受け取ると、ことわざの隠れた文脈が明らかになって、とてもわかりやすくなるのではないだろうか。しかも、其角の時代に、ジャンルがまったく異なる将棋の世界でも共感を得ていたわけだから、おそらく、この狂歌が媒介となって、ことわざも広まっていったと考えられよう。
 ことわざの背後には、其角や宗桂のように、芸道の第一人者による深い洞察力と後進の者への温かい思いがたしかに感じられる。


ことわざの世界
(19)一寸先は闇


 将来、何が起こるかは、ほんの少し先のことでも確かなことはまったくわからないというたとえである。

 この表現は、文字どおりに受け取ると空間の描写のようだが、特にことばで示すことなく時間軸の比喩になっている。何でもないようだが、そう言い切ることによって、未来の深い「闇」が感じられる。
 「一寸」は、メートル法でいえば約3センチということになるが、この換算は無用だろう。ことわざは尺貫法の世界というだけでなく、「一」という数には象徴的な意味が分かちがたく付随しているので、そのままの形で、ほんの少しの意と理解しておきたい。

 一つ用例を引くと、津本陽『海商岩橋万造の生涯』に次のような場面が出てくる。
「儂が神戸であたらしい目論見をば試みられるのも、お父はんが達者でいてくれるさかいや。ありがたいなあ」
 万造がいうと、六兵衛は答える。
「人間はのう、一寸先は闇よ。すべては親様のお心任せや。儂も命の続くかぎりはたらくけど、いつまでの寿命かは分らんさけのう。お前も儂に頼ってたらあかんぞ。〈略〉」

 「すべては親様のお心任せ」の「親様」は、真宗で阿弥陀様のことをいう。父親の六兵衛は紀州の材木商で、戊辰戦争の続くなかでも商売は順調であった。引用箇所の前の地の文では、「いかなる変転の時世でもきりぬけてゆく自信があるようにみえる」と書かれている。これは、もちろん、小説の世界だが、そういう背景を知って読み返すと、六兵衛の「人間はのう、一寸先は闇よ」ということばが重く響いてくる。

 ことわざは、文献の上では江戸初期が初出とされるが、おそらく、さらに前の時代--戦乱に明け暮れ、文字どおり明日の生命もどうなるかわからなかった戦国時代、またはその直後の、悲惨な記憶の生々しい時代に生まれたものではないだろうか。
 「一寸先は闇の夜(よ)」という異形もある。平穏な時代が訪れても、いつまた何が起きるかわからない不安をかかえ、酒食の場では、享楽的に「飲めや歌えや一寸先は闇の夜」と盛んに歌われていたようだ。歌となると、「飲めや歌えや」(3音+4音)の後に「やみ」(2音)できれるよりも「やみのよ」のほうが調子がととのうといえよう。
 さらに江戸後期になると、上方のいろはかるたの一部に収録されて広く知られ、子どもにも親しまれるようになる。そして、現代では、政治やジャーナリズムの一部で、もっぱら「政界の一寸先は闇」の形で使われることが多いようだ。
 しかし、冷静によく考えてみると、古い表現のようだが、現代でもことわざのリアリティは少しも失われておらず、私たちの未来とも決して無縁ではないとの思いがふと脳裏をよぎった。


ことわざの世界
(18)色男金と力はなかりけり


 女性によく持てる男は、えてして経済力も腕力もないものである。色男にはかなり辛辣なことばだが、現代でも、時折やっかみやからかいを交えながら、よく使われる表現である。

 歌舞伎俳優の板東秀佳の作とされる合巻『情競傾城嵩(いきじくらべけいせいがたけ)』(1826年)に「誠や彼の川柳点に云う如く、色男金子(かね)と力は無かりけり」とあるのが、いまのところ最も古い用例といえよう。「川柳点」は、ふつうは柄井川柳撰の万句合せ、またはその作品だが、ここでは川柳と同義とみてよい。現代風にいえば、二人の美女に想いを寄せられる若旦那、初五郎に対し、作者は「まさにあの川柳のいうとおり、色男金と力はなかりけりだ」と評し、落魄したのも恋路の病のせいとしていた。
 歌舞伎〈天衣紛上野初花〉(河内山)(1881年)にも「譬(たとえ)に申す色男、金と力のなさそうな働きのない直次郎」というセリフが出てくる。これは、そのままま引いてはいないが、明らかにことわざを踏まえた表現であろう。直次郎は、直侍とも呼ばれる旗本くずれの片岡直次郎で、傾城の三千歳と相愛の仲だが、お尋ね者として追われる身になる。

 この二つの用例から、どうやら江戸後期から明治初期にも「色男金と力はなかりけり」がよく知られていたことがわかるが、一方は「川柳点」(=川柳)とし、他方は「譬」としているところに注目したい。「色男金と力はなかりけり」は文字どおりの意味で使われるから、後者の「譬」は比喩ではなく、ことわざの異称の「たとえ」である。つまり、同じ表現を一方は川柳といい、他方はことわざといっていることになる。いったい、どういうことなのだろうか。
 もう一度、「色男金と力はなかりけり」を見直し、声に出してみると、五七五の形式をそなえ、季語はなく、内容も軽妙な穿ちが認められ、川柳と呼ぶにふさわしいものといえよう。しかし、川柳だから直ちにことわざではない、ということにはならない。現に〈天衣紛上野初花〉は「譬」(=ことわざ)として扱い、明治以降のことわざ集やことわざ辞典にも収録されているから、素直にことわざとして受け取っててよいのではないかと思う。
 ことわざは、もともと他のジャンルの表現でも出自にこだわらず取り入れてきた。たとえば、芭蕉の俳句「物言えば唇寒し秋の風」は、そのままでも(たいていは芭蕉の句と意識せずに)使うが、後半の季語を略して「物言えば唇寒し」の形で最もよく使う。言い得て妙と思えばそれで十分で、時には短縮したり、改変することもいとわない。川柳もその例にもれず、「町内で知らぬは亭主ばかりなり」は「知らぬは亭主ばかりなり」と短縮され、対象も女房の不貞とかぎらず、また「亭主」を他の人物や役職などに入れ換えるなどして、意味がひろがっていくこともある。

 ところで、「色男~」の場合、「柳多留」などの川柳の古文献には出典が見当たらないという。いわば詠み人知らずの句で、この辺りも、ほとんどが作者不明のことわざの世界との近縁性を感じさせるものがある。


ことわざの世界
(17)暑さ寒さも彼岸まで


 不安定な天候が続いて、なかなか終わらなかった残暑もさすがにお彼岸を境におさまり、秋の風が心地よい。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものである。これは、気候に関することわざのなかでは、もっともよく知られたものの一つで、誰もが耳にし、口にする表現といってよいだろう。

   彼岸は、昼と夜の長さが等しくなる春分の日と秋分の日を中心(中日という)に、前後にそれぞれ三日を加えた七日間で、各地でお墓参りや先祖供養などが行なわれる。仏教的行事の色彩が濃いわけだが、調べてみると、仏教が発祥したインドや中国には見られない行事だという。特に仏教に起源があるわけでなく、日本独特のもので、仏教渡来以前からの太陽崇拝の名残とする説が有力のようだ。
 気候や季節に関する伝統的ことわざは、旧暦(太陰太陽暦)や旧時制で表現されるのがふつうで、現代の生活感覚とはずれが生じ、いつのまにかほとんど忘れられてしまった。そうした流れのなかで、「暑さ寒さも彼岸まで」がいまも盛んに使われるのは、お彼岸という習俗もさることながら、春分・秋分という今日の太陽暦でもそのまま通用する基準に従っていることが大きいのではないだろうか。一週間の幅があるのも、むしろ生活者の実感にプラスに作用している気がする。

   ことわざの文献上の初出は太田全斎「諺苑」(1797)で、江戸後期であるが、おそらくそれよりもかなり前、お彼岸が庶民の年中行事として定着したころから、多くの人が同じような感慨をいだき、多少言い回しは違っても似たような表現を口にするようになっていたと想像できよう。お彼岸といえば、牡丹餅やお萩が連想されるが、この庶民的なお餅は安土桃山時代には登場していた。

 ところで、ことわざを文字どおりに受け取ると、春と秋のお彼岸の気温は同じくらいになりそうだが、同じお彼岸でも春と秋ではかなりの温度差がある。東京の春分の日と秋分の日の気温を比べると、一日の平均気温も最高気温も、じつは秋のほうが約12度高いのである。このことわざと気温データのずれは、どこから生じるのだろうか。
 人間が感じる暑さ寒さは、寒暖計の客観的数値どおりではない。冬の寒さに慣れていると15度ぐらいでも温かく感じ、逆に夏の暑さや残暑を経験した後では27度前後でも涼しく感じられる。ことわざは、気温ではなく、季節の変わり目の体感温度を表現していると考えてよいだろう。つまり、ことわざの基準は人間で、だからこそ私たちは、季節の移ろいのなかで毎年「暑さ寒さも彼岸まで」をあらためて実感するわけである。


ことわざの世界
(16)譬(たど)えど豆腐汁ぁ捨てるどごない


 青森県の津軽地方のことわざである(表記は、佐々木達司氏の『ことわざの周辺 -津軽口承散策-』によった)。この津軽弁は、青森県に少し縁のある(といっても南部地方だが)私にとっては、どこか懐かしい響きがする。

 津軽弁はさっぱりわからないという人でも、後半部分は、濁点をとると「豆腐汁ぁ捨てるとこない」となって、だいたいの意味はわかるに違いない。豆腐汁なら、シジミ汁や魚を入れた汁物と違って、貝殻や骨を捨てる必要がなく、ぜんぶ食べられるわけである。
 前半の「譬えど」がややわかりにくいが、同じように濁点をとってみると、「譬(たと)えと」となって、少しわかった気がしてくる。とはいえ、ここまでわかっても、「譬え」を比喩と解したのでは、比喩と豆腐汁は捨てるところがないということになり、何だかまたはっきりしなくなる。

 じつは、この「譬え」は、ことわざとほぼ同義で、ことわざの異称である。佐々木氏は、前掲書で次のように述べていた。
 「ことわざのことを津軽では『譬え』と言う。昔からあることわざはいずれも真理であるということを、豆腐汁と並べて強調しているしているところが面白い。」
 少し意外な豆腐汁を引き合いに出して、ことわざの特長の一つを巧みに表現した「譬え」(=ことわざ)といってよいだろう。

 ちなみに、岩手県の宮古・山田地方には、次のようなことわざがあるという。
 「譬えことばと豆腐は投げっとごが無(ね)え」(伊藤麟市『宮古・山田地方の諺・譬えことば考』)
 「投げる」は、東北や北海道では「捨てる」の意味でよく使われるから、語順などの小異はあるが、ほぼ同じ発想で、同じことわざのバリエーションと考えてよいだろう。もしかすると、さらに広い範囲で、同じような発想の表現が使われている可能性もありそうだ。

追記
 ここまで書き終えて、念のため手元の国語辞典の「たとえ」の項を引いてみると、ことわざと同義、あるいはことわざの異称であるという意味の記述がまったくないことに初めて気がついた。私にとっては、えっ?と首をひねりたくなる意外な発見だが、これについてはまた別の機会に書くことにしたい。


ことわざの世界
(15)聞くは一時の恥


 知らないことを人に尋ねるのは、自分の無知をさらけ出すことになり、恥ずかしい思いをするが、それも一時のことにすぎない。つまり、知らないことは、恥ずかしがらずに積極的に質問するのがよい、ということである。

 「聞くは」は「問うは」といってもよい。また、かつては、この後に「聞かぬ〔知らぬ〕は一生の恥〔末代の恥〕」と続け、対句形式にすることが多かった。私も、幼いころ大正生まれの母から「末代の恥」と聞いた記憶がかすかにある。一時の恥ずかしさのために人に聞かず、知らないままに終われば、そのほうがよほど恥ということになり、引っ込み思案の者を励ます表現でもあった。

 ちなみに、作家の有吉佐和子(1931~1984)は、カドミウムについて専門家に教えを乞うたときのことを次のように書いている。

「あのオ、それでは最初に、カドミウムが何と何の化合物かというところから始めて頂きたいのですけど」
 〈略〉
「カドミウムは、元素です」
 私は朗らかに笑い飛ばした。
「あら、そうですか。私はまたアルミニウムの親類かと思っていたんですよ」
 学者は憮然として、また答えた。
「アルミニウムも、元素です」
 このくらいのことで恥しいとなどと思ったのでは小説家にはなれないのである。「訊くは一時の恥、知らざるは一生の恥」というのが私の座右の銘なのだ。(『複合汚染』)

 有吉の小説はあまり読んでいないが、この一節を見て私は、たとえば『針女(しんみょう)』のディテールのリアリティ(布地による断ち方や縫い方の違い、縫うときの姿勢など)は、なるほど、こうした「一時の恥」などものともしない探究心と取材力に支えられているのだと、納得した。

 ところで、「恥」といえば、ルース・ベネディクト『菊と刀』が日本人を分析して恥の文化としたことがよく知られているが、このことわざをみても「恥」が日本文化のキーワードであることはたしかであろう。

 ことわざは、現在では、対句形式にせず「聞くは一時の恥」だけですますことが多くなっている。「末代の恥」という家系意識が廃れるのは当然だが、視点を変えると、恥の文化は、形を変えながら現代の私たちの心のなかにも半ば残っているのかもしれない。


ことわざの世界
(14)坊主憎けりゃ袈裟まで憎い


 相手が憎いとなれば、少しでも関わりのあるものはすべて憎らしくなることのたとえである。明示されていないが、「坊主」はかつて憎からず思っていた(好意、あるいは愛情をいだいていた)人物とみてよいだろう。「袈裟」に罪はないから、理不尽ともいえるが、愛情を抱いていた相手に裏切られたり、そっぽを向かれて憎い、嫌いとなれば、そういう心理におちいるのも無理はない。「あばたもえくぼ」の裏返しである。

 情念をむきだしにした物言いだが、「坊主」、「袈裟」と視覚的にもあざやかな比喩を用い、誇張表現で愛憎にかかわる心理的機微を巧みにとらえていることはたしかだろう。その裏には、「あばたもえくぼ」のようなユーモアというより、激しい嫌悪の情に半ばあきれた第三者の皮肉が込められているようにも感じられる。そして、そう評された当人にとっても、いっとき燃え上がった憎悪の炎がしずまった後には、ことわざが自らを少し距離をおいて見つめ直す契機となるのではないだろうか。

 なお、男女の間以外にも似たような心理が働くことがあり、ことわざも次のように比喩的に広い意味で使われることがある。 「大体日本人の国民性には、現象に左右されるという心理的動揺の幅がありすぎる。ちょっと許り日英間の情勢が変ると、坊主憎ければ袈裟式にすぐ英語を廃そうとするのである。」(小熊秀雄「文化宣伝の具 英語の国際性を知れ」)
 小熊はなかなか多才な詩人で、昭和13年に辻野鉄平の筆名で都新聞のコラム「大波小波」に書いていた。その後、英語は敵性語とされ、中学校や女学校の授業でも随意科目となって、内容が規制され、授業もごくわずかとなっていった。

 ところで、ことわざの初出は江戸初期の俳諧書『毛吹草』のようだが、異形の「法師憎ければ袈裟さえ(憎し)」が14世紀の『口伝鈔』(親鸞の曾孫、覚如の著作)に出てくるから、およそ800 年前には使われていたことになる。
 比喩に「法師」や「坊主」が出てきて、呼び捨てのように響く背景には、僧侶が古くから人々の尊崇を集める一方で、特権を享受し、一部では堕落したり、庶民の利害としばしば対立する立場にあったことが挙げられよう。ことわざには、「布施ない経に袈裟落とす」や「寺から里へ」、「和尚様の取り衣、百姓の出し袴」など、昔から寺や僧侶に対して批判的なものが少なくなかったといえる。


ことわざの世界
(13)あばたもえくぼ


 「あばたもえくぼ」とは、いうまでもなく、相手に好意を抱き、惚れこんでしまうと、欠点さえも美点や魅力と感じてしまうことのたとえである。
 これは、人を恋するとき、ほぼ例外なく誰にでも働く心理的メカニズムであろう。遠藤周作は、「恋愛とは陶酔ですから、いつでも相手を冷静に、まるで科学実験のモルモットでも調べるように眺めるというわけにはいかない。恋愛をすれば、どうしても相手のアバタもエクボと見えるのは当然でしょう」と述べている(『恋愛とは何か』、1972)。ことわざは、こうしたの心理の機微を比喩によって鋭く指摘し、暗にそういうものだから、少し頭を冷やしてみることを勧めているものといえよう。

 目を世界のことわざに転じると、西洋では「恋は盲目」といい、中国には「恋人の眼には西施が見える」(西施は中国の伝説的な美女)という類例が認められる。さらに、フィリピンでは「恋人にとって醜いものはない」といい、マダガスカルでは「愛していれば醜男も美男子に見える」というそうだ。男女間の心理は東西を問わないわけだが、類例のなかでも日本のことわざは、とりわけ視覚的で、簡潔、かつ辛辣で、印象深い。

 ところで、私は、ことわざの意味について「いうまでもなく」と書き出したが、じつは、近年その意味がぴんとこない若者がふえているようだ。昨年(2016年)の新聞で、大学の先生が「あばたもえくぼ」と言ったら、学生に「アバターもえくぼですか」と返されたという投稿を見かけた。よくできた笑い話のようだが、教授自らの投稿だから、実際に体験されたことに違いない。
 このようにわかりにくくなったのは、「あばた」(あるいはあばた面〔づら〕)が今日の日常会話からほとんど姿を消したせいだろう。惚れた者の心理はわかっているとしても、冒頭の単語がまるで見当がつかなければ、ことわざがぴんとこなくなるのはやむをえまい。

 あらためて「あばた」を説明すると、漢字では「痘痕」と書き、天然痘(疱瘡)の発疹が治った後に皮膚に残る痕跡をさす(同じように見えるニキビの跡をいう場合もある)。このように説明しても、いくらなんでも「あばた」が「えくぼ」に見えやしない、と思われるかもしれない。たしかに、現実的にはそんなことはありそうになく、極端な誇張表現に違いないが、だからこそユーモアも生まれ、言われた当人も少しは耳を傾けてみようかという気にもなるのではないか。比喩の力である。

 ちなみに、夏目漱石は幼時に種痘を受けたことから天然痘にかかり、回復後もあばたが残って、本人も気にかけ、写真を修整することもあったという。しかし、漱石は単なるコンプレックスに終わらせず、自らを俎上にのせ、痘痕(あばた)について猫にユーモアたっぷりに論じさせていた(『吾輩は猫である』六)。
 「主人は痘痕面(あばたづら)である。御維新(ごいっしん)前はあばたもだいぶ流行ったものだそうだが日英同盟の今日から見ると、こんな顔はいささか時候後れの感がある。あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くその迹(あと)を絶つに至るだろうとは医学上の統計から精密に割り出されたる結論であって〈略〉」
 猫の誕生から70余年を経て、1980年、WHOは天然痘の絶滅を宣言している。


ことわざの世界
(12)若い時は二度ない


 ものの価値は、あるのが当たり前と思っているうちは、なかなかぴんとこない。たとえば、きれいな空気や水は、恵まれた環境のなかではあまり意識されず、大気が汚染されたり水が濁ってはじめて、失われた価値の大きさに気づかされ、愕然とすることになる。
 青春もまた、しかり。真っ只中にいるときはさほどに思わないが、過ぎ去ってはじめて、二度と返らぬ時の流れを顧み、いとおしく感じることができるのではないだろうか。そんなとき、ことわざは「若い時は二度ない」という。若い時は二度ないから、存分に青春を謳歌せよということで、若者が言ってもかまわないが、どちらかというと、年長者がいうと説得力があろう。若者を半ばけしかけながら、同時に温かく見守る視線が感じられる。
 この表現は、ごくわかりやすい日常的な物言いで、特に意識せずに使うことも多いので、ことわざとしては少し物足りなく感じられるかもしれない。あるいはまた、歌謡曲の文句じゃないの、と思う人もあるだろう。実際、「ぼろは着てても心は錦」に始まる水前寺清子の〈いっぽんどっこの唄〉(星野哲郎作詞)には、次のような一節がある。
  若いときゃ二度ない どんとやれ
  男なら 人のできないことをやれ
 なるほど、文章にすると「若い時は」だが、口語では、たしかにこの歌詞のように「若いときゃ」と発音することが多い。「どんとやれ」以下は、「(人生の応)援歌」をかかげた歌手に合わせたフレーズだろう。
 とはいえ、むろん、この〈いっぽんどっこの唄〉が出典というわけではない。室町中期の「伊勢貞親教訓」に「若き時は二度なきに」とあり(これはことわざといえるかどうか微妙だが)、江戸中期の享保頃からは、明らかにことわざとして比較的よく使われるようになったから、案外古くからのことわざといってよいだろう。
 しかも、あまり教訓的な堅苦しさがなく、多くの人々の共感を得られるので、各地の民謡や小唄などに取り込まれることも少なからずあったようだ。ちなみに、明治41年、釧路の芸妓小静は若き啄木を前にして「若い時は二度ない」を唄ったという。


ことわざの世界
(11)「一富士二鷹…」再論


 毎年師走に入る頃、「一富士二鷹三茄子」についてマスコミ関係者からよく問い合わせが来る。お正月に間に合わせて何とか企画を実現したいのだろうが、辞典もろくに読まずに質問してくるのには閉口することも多い。
 先日もクイズ番組の担当者からメールがきて、「三茄子」の後に続く「四扇五煙草六座頭」などについて説明を求められた。しかも、その日のうちに回答してほしいというのだから、よほど切迫しているのだろうが、少々厚かましい。
 私は、「四扇五煙草六座頭」が『俚言集覧』の自筆本の欄外に書き込まれたものであることをまず指摘した。そして、江戸期の他の文献には見当たらないから、ごく一部でいわれていたにすぎないと思われ、六まで続くことを前提にクイズを出題するのはかなり疑問である旨、メールで回答した。それきり何の返信も来ないのは、半ば予期していたものの、いささか寂しい話である。
 ところで、「一富士二鷹…」については、このエッセイの(5)で、ことわざの由来がいまとなってはわからないと書いた。しかし、その後、そこで示した諸説以外のものがあることに気づいたので、簡単に紹介しておきたい。
 国会図書館所蔵の『絵本あつめ草』は、江戸時代に貸本屋の大惣がさまざまな絵本を集めて、主題別に合綴したものらしく、その第十巻は『新版夢阿和勢(ゆめあわせ)ゑづくし全』と題されている。その二つ目に夢にちなむことわざを解説・絵解きしたもの(作品名未詳)があり、次のような記述があった。
「ふじの山をゆめ見る人は思ひよらざる幸ひきたり、物のかしらと成りつ。しんずる富士権現の念じて吉たかをゆめにみれば、目高き人に愛せられ、のぞみ事かなふなり。なすびを夢に見れば、其内懐妊ありて安産なり。その子寿命ながし」(読みやすいように、引用者が句読点を付し、一部かなを漢字に改めた。)
 残念ながら刊年は不明だが、同じ巻には享和三年(1803)刊のものも収録されており、おおまかに江戸後期の絵本といってよいだろう。
 ここで引用した記述が直ちにことわざの由来を示すとまでいうつもりはないが、一つの説として、ある程度説得力があると感じたが、いかがだろうか。特に、茄子を夢に見ると安産で、子どもが長生きするというのは、「親の意見と茄子の花は千に一つもあだ(無駄)がない」ということわざ(俗謡でもある)を想起させ、俗信として根づいていた可能性もあるのではないか、と考えている。
(『絵本あつめ草』については、棚橋正博氏の「絵本考(二)──大惣旧蔵『絵本あつめ草』について──」(帝京大学文学部紀要『国語国文学』第14号、1982)を参考にさせていただいたことを記して、感謝したい。)


ことわざの世界
(10)ミイラ取りがミイラになる


 ミイラを取りに行った者が、目的を達せないばかりか、自分がミイラになってしまう。連れ戻しに行った者が先方にとどまって帰ってこなくなったり、意見をしようとした者が逆に説得されてしまうことなどをたとえていう。
 この表現は、一度聞いただけで簡単には忘れないほどのインパクトがある。「ミイラ」という日常の世界とはかけ離れた、いささか不気味な外来語を繰り返しているせいだろう。しかし、私が調べたかぎりでは、外国語にミイラを比喩にした類似のことわざは見当たらず、外国語起源のことわざではないものと思われる。
 日本にも、平泉の中尊寺などにミイラがあり、「ミイラになる」とか「ミイラ化した」といったことばは、ある程度使われている。けれども、「ミイラ取り」というのは、このことわざ以外にあまり聞いたことがない。どうも奇妙な話である。
 そもそも、なぜ、ミイラを取りに行くのだろうか?
 じつは、ミイラには二つの意味があり、エジプトの王様のミイラのように、死体が腐敗せず、乾燥して遺されたものをさすほか、防腐剤の一種で死体の腐敗を防ぐ没薬(もつやく)もさした(語源としては、後者を用いて死体を保存することから、前者の意味でも使われるようになったとされる)。
 話がややこしくなるので、ここでは、前者をミイラ、後者を没薬として説明しよう。江戸時代には、没薬が万病に効く舶来の高貴薬としてもてはやされていた。実際はラカンラン科植物の樹脂から作られるのだが、当時は、人間のミイラが原料と信じられていたために、砂漠に原料となるミイラを取りに行った者が、遭難してミイラになるという話がまことしやかに流布されていたようだ。遠い国の灼熱の砂漠の話は、真偽の程はたしかめようもなかっただろうが、人々の好奇心を刺激し、高貴薬の神秘性を高め、業者にとっては「薬九層倍」どころではない効能があったものであろう。
 このことわざは、こうした背景のもとに成立し、高貴薬の「ミイラ(没薬)」が人々の語彙から消えてしまった後も、ことばのインパクトゆえに比喩的に使われ続けているといってよい。


ことわざの世界
(9)商いは牛の涎(よだれ)


 商売は、牛の涎のように、気長に辛抱し、粘り強く続けることが大切である。すぐに利益を得ようとして、あせってはならない、というたとえである。
 「牛の涎」といっても、いまでは見たことがない人も多く、ぴんとこないかもしれないが、牛は、草などを食べた後、いつまでも口をもぐもぐさせ、ねばねばした涎をたらしている。行儀が悪いようだが、胃が四つある反芻動物特有の生理現象で、牛にとっては、いいも悪いもないのだが……。
 とはいえ、日頃から牛を間近に見ていた昔の人も、このことわざを初めて耳にしたときは、戸惑ったに違いない。牛の涎は日頃から知っていても、それがどう商売と結びつくのか、とっさにはわからないのがふつうだろう。いわば謎をかけているわけで、これは、ことわざの重要なレトリックの一つといってよい。そして、その後で謎を解くと、たとえに意外性があって、少々品がなかったり、卑俗なものほど効果的で、印象に残る。
 古い用例をみると、『日本新永代蔵』(1713)で、「商は牛の涎(ヨダレ)、万事せかぬが大器なり」とするなど、ことわざを引いて、すぐにさらりと謎を解いているものが目につく。
 牛は古くから東日本よりも西日本で多く飼われていたようだが、このことわざも関西を中心に商人の間で広く使われ、上方のいろはかるたの一部にも採用されていた。上方の商家では、正月に住み込みの店員を集めて遊びながら文字をおぼえるように、かるたで遊ばせることもよくあったようで、このことわざは、商いの基本を教える上でも役立ったにちがいない。


ことわざの世界
(8)夫婦喧嘩は犬も食わない


 日頃からよく使うことわざで、いまさら意味を説明するまでもないが、夫婦間のいさかいを他人が相手にするのはばかげている、ということである。
 たしかに、たいへんな剣幕で非難し合っていた夫婦が、いつ、何をきっかけに仲直りするか、他人にはまったく見当がつかない。しかも、いったん仲直りすると、まるで何事もなかったかのように元の鞘におさまるのだから、一方の話をまに受けて肩をもったり、双方の間に入って一生懸命仲裁したりすると、なんともばかばかしい思いをする結果となる。だから、少々大きな声がしても、よほどのことでないかぎり、他人は口をはさむものではない、ということになり、また、目の前で夫婦喧嘩が始まったときにいえば、みっともないから、いいかげんによしなさい、ということにもなる。
 でも、なぜ、わざわざ犬を引き合いに出してきて、「犬も食わない」などと言うのだろうか。
 『故事俗信ことわざ大辞典』第2版(小学館)で、「犬も食わない〔食わぬ〕」の含まれる表現を検索してみると、「自慢の糞は犬も食わぬ」、「夏の蛤(はまぐり)犬も食わぬ」、「師走坊主は犬も食わぬ」など、三〇近く出てくる。夏の蛤のように時節外れで不味かったり有毒のものや、夫婦喧嘩や自慢話のように傍迷惑な困りもの、相手にしてもしょうもないものばかりで、「師走坊主」も後者のバリエーションである。
 ちなみに、「犬」は、古くは何でも食べる獣とされていて、「頼めば犬も糞食わぬ」というくらいで、糞を食うのは、むしろふつうだったようだ。したがって、「犬も食わぬ」というと、ばかばかしくて誰だって相手にしないとか、時節外れで、とても食べられたものではないということになるわけである。「嫁に食わすな」が、屈折した表現ではあるが、秋茄子など、旬のうまいものを強調するのと、対極をなす慣用表現といってよいだろう。「犬」を引き合いに出すのは、やはり相応の根拠があってのことであった。


ことわざの世界
(7)窮鼠かえって猫を噛む


 ネズミの天敵は猫だ。猫にかかるとネズミに勝ち目はまずないから、猫と気づいたら、ともかく逃げるしかない。ネズミはすばしっこく、逃げ足もおそろしく 速いが、猫は逃げ場のないところに追い込んで、仕留めようとする。猫は、もともと古代エジプトで狩猟用に飼われていたというくらいだから、狩猟能力に優 れ、身体の構造も獲物を捕らえ攻撃するのに適している。逃げ場を失ったネズミは絶体絶命のピンチにおちいるが、そこまで追い詰められると、死にものぐるい の反撃に転じ、猫を噛むこともあるという。
 このことわざは、基本的に比喩として用いられ、人間の話になる。つまり、弱い者や身分の低い者でも、本当に追い詰められると必死の反撃に転ずる、という 意味で使われる。だから、油断すると危ないぞとか、そこまで追い詰めることはないということにもなっていく。たとえば、松本清張の小説『中央流沙』では、 汚職事件のもみ消しをはかり、課長補佐の倉橋を説得していた大物弁護士が、「ぼくは、もうこれ以上いうと危険だな、と思った。いわゆる窮鼠猫を噛むという こともある。あんまり追詰めて倉橋君に居直られても困る」と、倉橋の変死後に語っていた。
 ところで、この表現は、「キュウソ カエッテ ネコヲカム」という漢文調から容易に推測できるように、漢籍に由来する。漢代の『塩鉄論』に「窮鼠囓 狸」とあるのが出典とされるが、「狸」はタヌキではないか、と読者は不審に思われたかもしれない。しかし、同じ漢字でも日中で、あるいは時代によって意味が異なることがままあり、当時の中国では、「狸」はヤマネコや野良猫をさしていたようだ。
 日本の古文献『玉函秘抄』や『管蠡抄』(ともに鎌倉時代)でも「猫」を「狸」としていて、中国由来であることを裏付けるが、それ以後のことわざ集などで は、いずれも「猫」になっている。この変化の背景には、大陸からもたらされた猫の飼育が庶民にまでひろまったことが挙げられ、その頃、この表現も知識人の 教養から庶民の世界へひろまっていったことを示唆している。


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(6)亀の甲より年の功


 年長者は、年齢を重ね経験を積んでいるだけに、若者には思いもよらない事例を挙げたり、知恵を授けてくれることがある。どんなに利発な若者でも、なるほ ど、さすがと感心するほかなく、そんなときに、「亀の甲より年の功だ」などという。あるいは、逆に自分のほうが年上なら、漱石の「坑夫」に登場する人物の ように、「亀の甲より年の功ということがあるだろう。……まあ年長者のいうことだから、参考に聞くがよい」などと前置きして話し出してもよいだろう。江戸 中期、18世紀の早い時期から用例が認められ、現在でもよく使われることわざである。
 この「亀の甲」は、辞典では、「年の功」と語呂を合わせるために引き合いに出したもので、特に意味はないとすることが多い。亀は長寿とされ、老人を連想 させるし、年を取り経験豊かになることを「甲羅を経る」ということもあるから、関連がなくもない気もするが、「亀の甲」の代わりに「蟹の甲」や「烏賊(イ カ)の甲」という例もあり、たしかに特に「亀の甲」にこだわる必要はないようだ。
 しかし、それにしても、亀の甲、蟹の甲、烏賊の甲は、いずれも人間にとってあまり役に立つもの、価値のあるものではない。そう考えると、これらをわざわ ざ引き合いに出すことで、やはり微妙なニュアンスが生じているのではないだろうか。年長者の言動に感心する一方で、少しおどけて語呂を合わせ、軽い笑いを 誘って場をなごませたり、場合によってはさほどのものではないというニュアンスもいくぶん添えられる、なかなか高度なレトリックといってよい。ことわざ は、言いたいことを端的に(あるいは比喩的に)表現するだけでなく、コミュニケーションの潤滑油や緩衝材としての役割も果たすわけである。
 さらに、橋田寿賀子が「渡る世間に鬼はない」を「渡る世間は鬼ばかり」としたように、「亀の甲より年の功」をもう一ひねりして、「年の功より亀の甲」や 「年の功より烏賊の甲」と逆転させる(ことわざでは、「打ち返し」という)と、年長者の知恵もほとんど価値がないという痛烈な皮肉になる。これは、もちろ ん、一般論ではなく、年の功を自慢するような人物を批評する際に使われるものだが、18世紀半ばには早くも文献に顏を出している。
 なお、明治期の『諺語大辞典』以降、「年の功」を「年の劫」とする辞典も少なくないが、これはいささか疑問であろう。「劫」は、サンスクリットの kalpa の音訳「劫波」の略で、百年千年どころではない途方もなく長い年月をいう仏教用語とのことだが、日常使うのは、囲碁の劫争いと「未来永劫」ぐらい。ことわ ざの用例では、ふつうに「年の功」と解して特に問題のあるものも、逆に「劫」と解してしっくりするものも見当たらない。江戸期の俚諺集の類も大半が「功」 で、あとは仮名書きのようだから、ことわざの表記としては「功」でよい、と私は考えている。


ことわざの世界
(5)一富士二鷹三茄子


 誰でも、夢を見るならなるべく縁起のよい夢を見たいと思う。ことに新年の初夢となれば、できるだけ吉夢を願うのが人情であろう。
 江 戸時代から明治中期までは、正月に縁起物として宝船に七福神を描いた一枚刷りを売り歩く者がいて、これを買い求めて二日の夜に枕の下に敷いて寝る習わしが あった。その絵には、「なかきよのとおのねふりのみなめさめ、なみのりふねのおとのよきかな」という回文(上から読んでも下から読んでも同じ文)が付され ていることが多い。文意はあまり鮮明ではないが、なんとなく長閑(のどか)で、心地よい響きがして、正月にふさわしい雰囲気が感じられる。
 当時の人々はよい初夢が見られるように意識的に準備していたわけだが、その初夢に見て縁起のよいものを順番に並べたのが「一富士二鷹三茄子」である。
 この表現、あまりによく知られていて、いまさら説明するまでもないようだが、なぜ、この三つが選ばれたかは、じつはよくわかっていない。富士と鷹が縁起がよいのは一応わかるとして、問題は、最後になぜ茄子(なすび)が出てくか、である。
 「一富士二鷹三茄子」の初出は『悉皆世話字彙墨宝』(1733年)のようだが、これより前に広く流布していたものと思われる。とはいえ、江戸後期にはす でにその起源はわからなくなっていて、随筆には、駿河の名物とするもの(笈埃随筆など)、駿河で高いもので、富士山、愛鷹(あしたか)山、初茄子の値段と するもの(甲子夜話)など、さまざまな説が登場している。茄子については、語呂合わせで「成す」とするものもあるが、一種のこじつけで、さほど説得力があ るとはいえまい。駿河や徳川家康とのかかわりを説くものが多いが、いまとなっては起源はよくわからないとするほかなさそうである。
 ここで、このことわざをレトリックの観点からみると、「一富士二鷹」の後にまったく異質の「三茄子」をもってきたことが、きわめて効果的だったことを指 摘しておきたい。茄子は、意外であるとともにユーモラスであり、強い印象をもたらして、ことわざとして今日まで伝承される決定打になったのではないか、と 思う。ことわざには、「一押二金三男」や「馬方船頭お乳(ち)の人」のように三つのものを羅列する形式があり、単なる序列ではなく、三つ目に何をもってく るかで全体の印象が大きく変わることが少なくないのである。
 最後に、運悪く初夢の夢見が悪かった人のために、次のようなことわざもあることを紹介しておこう。
 「夢は逆夢(さかゆめ)」(夢と現実は逆さまである)
 「夢と鷹とは合わせがら」(夢は解釈しだい、鷹は鷹匠しだいである)


ことわざの世界
(4)大山鳴動(して)鼠一匹


 ことわざのなかにはテキスト(本文)だけでは理解することが困難で、背後の伝説や昔話(寓話)と一体のものがあることは、前にもふれた。
 「大山鳴動(して)鼠一匹」もその代表的な一例だが、いまでは寓話のほうはすっかり忘れられ、ほとんど誰も意識しなくなっている。このことわざは、疑獄 事件などで、世間が大騒ぎしたのに結果はまるで期待はずれ(小者が捕まって終り)といった場合にマスコミでよく使われ、おなじみの表現といえるが、あらた めてテキストとして見直してみると、どうだろうか。
 感覚的にいうと、「大山鳴動」はマスコミの空騒ぎや当事者たちの動揺にぴったりの比喩で、「鼠一匹」も小物の比喩としてわかりやすい。しかし、論理的に考えると、「鼠一匹」がどうしたのか、捕まるのか、現れるのか、いま一つはっきりしない。
 明治期のテキストには「大山鳴動して一鼠出(い)づ」とか「〜鼠一匹出づ」とあるが、いまではそういう明確な言い方をする人はいなくなった。そして、はっきりしないにもかかわらず、それで通用するところが面白い。日本人の言語表現の特徴の一端が表れているといえよう。
 ところで、この表現、大山を「泰山」と書くこともあるので、漢籍に由来するものと思われがちだが、じつはホラティウス(古代ローマの詩人)にも用例があ り、明らかに西洋起源である。ラテン語では、Parturiunt montes, nascetur ridisulus mus.(山々が産気づいて、こっけいな二十日鼠が一匹生まれる)といった。これもいささか理解しにくい表現だが、その背後には、山が激しく振動して、何 かが出現するという評判が高くなり、多くの人が集まって見ていたところ、地響きとともに二十日鼠が一匹ひょっこり飛び出した、というごく短い寓話があった のだった。
 その寓意は、大きな口をたたきながら、結果はちっぽけなことしかできない人物を批判するもので、ことわざもこれに沿って使われる。この寓話は、イソップ 寓話集(シュタインヘーヴェル本)にも収録されたから、ヨーロッパでは広く知られ、近代に入ってからもことわざと一体のものとしていつも想起されることに なった。
 ひるがえって、日本での意味や用法を考えると、大騒ぎして結果はたいしたことがないという点は共通するものの、対象は主として社会的事件の顛末で、西洋 の用法とは大きな隔たりがある。おそらく、日本にもたらされた後、かなり早い段階で寓話が脱落してしまったせいであろう。


ことわざの世界
(3)虻蜂取らず


 西洋由来の「二兎を追う者は一兎をも得ず」が浸透するにつれて、しだいに使われなくなったことわざに「虻蜂とらず」がある。かつてはよく耳にし、自分でも口にしてきたが、最近はあまり聞かなくなった。
 その衰退の原因は、直接には、ほぼ同義の「二兎を追う者は……」の影響を受けたことに間違いないが、「虻蜂とらず」という表現自体にも遠因があるのではないかと思う。二匹の兎を追うのは、兎狩りなどしたことがなくても、何となくわかる。しかし、虻と蜂を両方取ろうとする状況は、どうもぴんとこないのではないだろうか。
  虻と蜂は、一見したところよく似た昆虫だが、蜂は蜜を採ったり子を食べたりと利用価値があるのに対し、虻はうるさいばかりで効用はなさそうである。いや、 昔から、むしろ病を媒介する有害なものとして一般に忌み嫌われてきたといってよいだろう。にもかかわらず、なぜ、一時に虻も取ろう蜂も取ろうとするのか。
 古いことわざ集をひもといてみても、「あぶもとらず蜂もつかず」(言彦抄、宝暦頃)、「あふもとらすはちもとらす」(諺画苑、1808)、「あぶも取らねば蜂も得とらん」(国民の品位、1891)などの異形(おそらく「虻蜂とらず」よりは古い形であろう)は出てくるが、ことわざのテキストのみによってこの疑問を解くことはできそうにない。
 じつは、この例のように、用法は確立されているが、テキストだけではその意味を十分説明しきれないケースが、ことわざには時折認められる。たとえば「物 いわじ父は長柄(ながら)の橋柱」、「蛙の願立」など、ことわざの背後に伝説や寓話が存在し、これらを知らなければ、ことわざもほとんど理解できないもの である。ここでは長柄の人柱伝説などの説明は省くが、ことわざが単なる定型表現ではなく、伝説や寓話(昔話)などのフォークロアのジャンルと隣接し、密接 な関連を持っていることを示す事例として興味深い。
 ちなみに、虻の登場する昔話といえば、今昔物語などにも収録された「わらしべ長者」がよく知られている。わらしべ一筋を手にした若者が、うるさくつきま とう虻をこれにくくりつけて歩くうち、大きな柑子(蜜柑)三つと交換するように求められ、そこから次々に運が開けていく話である。
 残念ながら「虻蜂とらず」との関連は見出せないが、このことわざの背後にも、いまは失われた別の昔話があったのではないか、と私は想像する。


ことわざの世界
(2)二兎を追う者は一兎をも得ず


 「二兎を追う者は一兎をも得ず」──誰でも知っていることわざで、多くの人が自分でも使ったことがあるに違いない。あらためて説明するまでもないが、比 喩的な意味は、二つの目標を同時に追求しようとすると、どちらも中途半端に終わり、結局、一つとして自分のものにならない(達成できない)ということであ る。
 この表現、特に予備知識がなければ、漢文から入ってきたものと受け取るのが、日本語の普通の感覚であろう。漢文でなければ、兎を一兎(いっと)、二兎 (にと)とはいわない(匹とか羽で数える)し、「~をも得ず」もいささか古風な文語調で、漢文の書き下し文を思わせるものがある。
 しかし、現在判明しているかぎりでの初出は、『西洋諺草』(明治10年)であり、英語からの翻訳である。ただし、ほぼ同一内容のことわざが、ロシアを含むヨーロッパ全域に認められるから、英語のことわざというより、まさに“西諺"(当時の表現)というべきだろう。
 この西洋起源のことわざは、『西洋諺草』の紹介からわずか2~3年のうちに『修身児訓』などの教科書に登場し、15年後には、巌谷小波の短編「暑中休 暇」(明治25年)で少年同士の会話にも使われる。さらに、同じ年の尾崎紅葉『二人女房』には、明らかにことわざをふまえた「二兎を逐ふのであるから難 い」という表現まで出てくるのだから、その浸透ぶりはきわめて広範、かつ急速なものがあった。
 『西洋諺草』に紹介された西諺は700余。その中で日本語に定着したものは10点程度だから、70分の1以下の狭き門である。この関門を突破した「二兎 を追う者は~」の定着にはさまざまな要因が絡み合っているが、何よりもその比喩が日本人にとってわかりやすかったことが大きいだろう。「兎追いしかの山」 の歌詞にみられるように、かつては山野に野生の兎が多数生息し、兎狩りもよく行なわれていた。
 そして、もう一つ、漢文調の訳文も西洋臭さを消し、受け入れやすくしていたのではないか、と思われる。


ことわざの世界
(1)越境することわざ


 “ことわざ”というと、古くから言い伝えられてきた庶民の知恵、あるいは民族の知恵というイメージが強い。たしかに、そういう側面が色濃くあることは間 違いなく、今日でもよく耳にすることわざの中には、「井の中の蛙大海を知らず」のように平安時代から使われてきたものもある。また、それほど古くなくて も、「なくて七癖」のように、江戸時代の文献で確認できる庶民的表現も数多くある。
 とはいえ、だからといって、ことわざは日本の伝統文化であると単純に決めつけられると、それは少し違うと、いわざるをえない。ことわざが日本だけのもの と思い込んでいるのは論外だが、日頃私たちがよく使うことわざの中に外国起源のものが意外なほど混じっていることに注意したい。
 たとえば、私たちは日常会話のなかで、「二兎を追う者は一兎をも得ず(だ)」とか「溺れる者は藁をもつかむ(で…)」ということがままあるが、西洋起源 であることは知らないか、ほとんど意識していないといってよいだろう(『日本国語大辞典』第2版にも起源についての記述はない)。あるいは、「鉄は熱いう ちに打て」や、ちょっと古くさいが「艱難汝を玉にす」を挙げてもよい。(西洋起源については文末の★参照)
 これは、一見外来語に似た現象のようだが、外来の単語ではなく、一つの文が日本語のかなりコアな部分にしっかり定着している点で、注目に値しよう。
 ことわざは基本的に口承されるものであり、少なからぬ人々が共感し口にしなければ、たちまち消えていく運命にある。にもかかわらず、こうした表現が定着 してきたことは、ことわざ自体、特定の言語や文化の境界を越えていくインタナショナルな性格を元々もっていることを示唆しているのではないだろうか。


二兎を追う者は一兎をも得ず
※英語では、If you run after two hares, you will catch neither.
ヨーロッパ諸言語のことわざは類似の表現が多くあり、英語以外の言語からも日本語に入ってきているが、ここでは英語のみ示した。

溺れる者は藁をもつかむ
※A drowning man will catch at a straw.

鉄は熱いうちに打て
※Strike while the iron is hot.
これはオランダ語から最初に入り、『和蘭字彙』(1855-58)には3種のテキストとその和訳が収録されている。

艱難汝を玉にす
※Adversity makes a man wise.
訳文との隔たりが大きいが、漢文には見当たらない表現で、格言として漢語ふうに訳したものと思われる。拙著『ことわざの謎』2章(光文社新書)参照。