柴田 賢「ベラルーシことば便り」
プロフィール
1993年、東京深川生まれの大学生。
高校時代にロシアで出会った先輩から薦められるままに
早稲田大学文学部露文コースに入学。
趣味は旅、音楽(ロック、アルゼンチンタンゴ)、映画、釣りなど。
好きな食べ物は納豆とジュンサイ。
現在ベラルーシの首都ミンスクに交換留学中。
留学先ではいろいろな人に支えられながら勉強している。
目次
第1回 ベラルーシとの出会い
第2回 歴史博物館にて
第3回 文学の国ベラルーシの詩人
第4回 白ルーシから紅ルーシへ
ベラルーシことば便り
第4回 白ルーシから紅ルーシへ
ベラルーシは日本語で白露西亜、白ルーシと呼ばれることもあるが、この「ロシア」「ルーシ」とは何だろう。白露西亜という呼び名は現在のロシア連邦を連想させるので、「ロシア(連邦)に留学中だっけ?」と言われることがある。しかし、この場合の露西亜というのはモスクワ系のロシア、すなわちロシア連邦のロシアを指しているのではない。そもそもベラルーシ(Беларусь)という国名はベーラヤ・ルーシ(Белая русь[白いルーシ]/羅:Russia alba, Ruthenia alba)という歴史的な地域名称から派生していて、その訳が白露西亜とされて混乱をもたらしているだけだ。ルーシとは現在のロシア人に限らず東スラヴ人の住んだ土地の歴史的な名称であるから、白露西亜と白ルーシを比べれば、個人的には白ルーシの方が混乱を避けやすい訳だと思う。国家としてのベラルーシの領土は古来の白ルーシとは一致していないので、またこれもややこしいのだが。
さて、ルーシには白ルーシ以外にも、紅ルーシ(Червонная русь)、黒ルーシ(Черная русь)というように色の名前のついたものがある。国家の名称として残ったのは白ルーシだが、紅ルーシは文化の独自性という意味で見逃すことはできない地域だ。紅ルーシと呼ばれた地域はガリツィア、ハルィチナ(露:Галиция,ウクライナ語:Галичина)という名称でも知られ、西ウクライナからポーランドに跨る地域を指す。
そんな紅ルーシの中心都市である西ウクライナのリヴィウを訪れることになった。ウクライナはいま危機の中にあるが、少し物々しい国境を抜ければ西ウクライナは静かだった。リヴィウ駅に着くと、まるで西欧の建物のような重厚な作りの駅舎に驚く。駅からまっすぐ旧市街へ歩いていくと、石畳の道路を古いトラムが走っていき、ゴシック風の教会がそびえている。この街の風景はキエフやミンスクといった他の東スラヴの街とは似ても似つかないものだ。
ベラルーシの文豪マクシム・バグダノーヴィチはちょうど100年前のロシア語による随筆で、紅ルーシのウクライナ人をオーストリアのウクライナ人(Австрийские украинцы)と呼んでおり、また彼らの信仰がカトリックと正教の合同教会(Украинская грекокатолическая церковь)であることも記している。この合同教会は16世紀にポーランド・リトアニア共和国で成立してウクライナやベラルーシ民族の間で一般的だったが、その後のロシア帝国の政策により弾圧された。紅ルーシは他のルーシと違い、ポーランド分割後にオーストリア帝国領となって、彼らの信仰もロシアによる弾圧を免れた。だから、彼らは「オーストリアのウクライナ人」と呼ばれ、信仰もまた彼らを特殊な存在にしていっただろう。ただし、殊にリヴィウに関していえば、バグダノーヴィチが街について記した1914年の時点では、人口の多くをユダヤ人とポーランド人が占め、ウクライナ人は少なかったようだ。それもまたこの街の独特の雰囲気を作りあげたのだろうと思う。現在ではリヴィウ人口の多くをウクライナ人が占めているから、本当にルーシの街になったということだ。
「リヴィウではウクライナ語が公用語」と日本語のガイドブックに書いてある。実際に、聞こえてくるのはウクライナ語ばかり。そして外国人にもウクライナ語で話しかけてくる。ウクライナ語はロシア語やベラルーシ語と同じ東スラヴ語だけれど、すべて理解するというのはちょっとロシア語を話すだけの外国人には無理な話で、何を言われたのかわからないでいるとすぐにロシア語ではなく英語に切り替えてくる。それでロシア語に慣れた耳と頭はよけいに混乱してしまうのだった。街ではEU旗を多く目にするが、それが英語の普及を象徴しているように感じた。
街の雰囲気は、例えばポーランドのように整然とはしていない。リヴィウは観光地でもあるが、それよりも人の居住地がこの街の主な機能なんだろう。悪化するウクライナ情勢の中で外国人観光客が少ないのもそういう印象を抱かせるのかもしれない。またいつか、平穏になったこの国を訪れたいと思う。
(2014年7月)
(この記事は、現在のウクライナの観光をおすすめするものではありません。事態が終結し、誰もがこの場所を訪れることができる日が来ることを願っています)
ベラルーシことば便り
第3回 文学の国ベラルーシの詩人
ベラルーシ語を習い始めたときに一つ驚いたのは、教科書に文学作品からの抜粋が多いことだった。文学がテーマの教材ではないのに、冒頭の発音練習から詩が登場し、最後にいくつかの有名な物語が読み物として掲載されている。他の言語の入門用学習書では、あまりこういう本を見たことがない。どうしてベラルーシ語だけ?ベラルーシ語の勉強を進めるうちに、その理由が分かってきた。
ベラルーシ語はロシア語より格変化が複雑で、部屋で活用表と睨めっこする時間を作らないとすぐに文法が頭から抜けてしまう。とはいえ、あまり長いこと机に向かっていても頭が痛くなるだけなので、たまにはミンスクの街を歩いてみることにする。
大学の寮から20分くらい歩くと、ヤンカ・クパーラ公園に出る。ヤンカ・クパーラ(1882-1942)はベラルーシ文学を代表する詩人で、公園内の文学博物館で彼の文学の軌跡を見ることが出来る。最寄り駅の「クパーラウスカヤ」もやはりこの詩人の名前から取られている。文学者の名前が駅名になっているのはロシアやウクライナでも一般的だが、日本ではありえないことなので少しうらやましくもある。しかもこの駅は二つの路線が交差する、街で一番大きな地下鉄駅だ。ここから地下鉄に乗って二つ目の駅が「ヤクープ・コーラス広場」。駅前の大きな広場の中心に、ヤンカ・クパーラと並び称される同世代の詩人ヤクープ・コーラス(1882-1956)の銅像がたっている。広場を挟んで大型デパートと市場を中心とした商業施設が向かいあっていて、やはりこの駅も街の主要地区にある。なぜそこかしこに詩人の名前がついているのか、という疑問はベラルーシ文学の歴史を少しひも解けばすぐに明らかになる。
新時代(近代)のベラルーシ文学の発展は、ヤンカ・クパーラとヤクープ・コーラスの登場を機に始まったと言われている。当時のベラルーシ作家は、民族文化の再興やベラルーシ語の文語の確立、ベラルーシ文化のヨーロッパ的コンテクストへの組み込みを試みている。これらの使命を帯びた20世紀初頭の文学は、現代でも街のランドマークの名称として現在まで生きてきたわけだ。ベラルーシの作家は、大国に挟まれたベラルーシのアイデンティティ確立にもひと役もふた役も買ったわけだ。こうして書いてみると小難しくなってしまう。ではベラルーシ文学の個性は何かといえば、一言ではもちろん言えないけれど、この地の自然が大きな役割を果たしていることは間違いないだろうと思う。例えば、ベラルーシ語の教科書に収録されているヤクープ・コーラスの物語では、ナラの木とガマの穂が会話してさえいる。ベラルーシの自然の中でこそ生きてくる王道的な寓話だと思う。
ミンスクから電車で30分ほど北へ行くと、ヤンカ・クパーラの生地ヴャーズィンカがある。先月、この場所でマクシム・バグダノーヴィチ(上の二人にならぶ文豪)の詩を朗読してきた。その話はまた別の機会に書きたいと思う。ヴャーズィンカにはヤンカ・クパーラの生まれた木造の家(ハータ[Хата]という)が博物館として残されている。また、周りには池を囲んで白樺やオークの森があって、ベラルーシの友人が「ここに生まれたら僕もきっと詩を書いていた」と言っていたが、まさに詩人の生地にふさわしい自然が残っている。
(2014年6月)
ベラルーシことば便り
第2回 歴史博物館にて
ベラルーシの首都ミンスクは人口約190万人と、日本でいえば札幌市に相当する規模の大都市だ。そんなミンスクだけれど、ベラルーシが近隣諸国と比べて観光が発達していないこともあるのか、名所や博物館はあまり多くない。その点でミンスクの博物館はロシアやウクライナの大都市ほど充実しているとは言い難いのだが、だからこそ現地の人に口コミで教えてもらう情報の有難さは増してくるものだと思う。また、小規模ながら文学館や歴史博物館がいくつかあって、それはそれで味わい深くもある。
先日、博物館学を専攻するベラルーシ人の大学生に歴史博物館を案内してもらう機会があった。国立歴史博物館は先史時代から19世紀頃までの歴史を扱うオーソドックスな博物館。規模は大きくないが近代までバランスよく展示されていて、難点を言えば解説が主にベラルーシ語のみで書かれていて少々分かり辛いところか。博物館を案内してもらいながらも、展示そのものとはあまり関係のないことを思わず考えてしまったりする。今日はそのささやかな思案の一端について書いてみたいと思う。
友人は「質問があったら聞いてね」と言いながら、先史からリトアニア大公国のことまですらすらと説明してくれる。彼女は大学では自国の文化や音楽について学んでいるが、外国語に力を入れている学校に通っていたらしく、ロシア語とベラルーシ語に加え、英語、ポーランド語、ドイツ語、ラテン語に通じているという。
展示されている歴史的文書にはベラルーシ語で書かれたもの、ロシア語のもの、そしてポーランド語のものがある。これはベラルーシが文化の境界に位置しているためだろうと思ってしまう。歴史博物館に限らず、例えば世界遺産のニャスヴィシュ城(リトアニア大公国、ポーランド・リトアニア共和国の貴族ラジヴィル家の城)でも、当然ながらポーランド語の展示を多く見た。
ニャスヴィシュ城
つい「ロシア語とポーランド語ならどちらがベラルーシ語に近いと思う?」と、不躾で厄介なことを問うてしまう。それはロシア語だと友人は答える。しかし、ロシア語話者とポーランド語話者では相互理解は難しいが、ベラルーシ語話者とポーランド語話者は意思疎通もそう難しくはないと続ける。ロシア語とベラルーシ語は東スラブ語に、ポーランド語はチェコ語と共に西スラブ語に数えられるから、ロシア語とポーランド語では差異が大きいことは理解しやすい。ただし、確かにロシア語とポーランド語では差異が大きすぎるが、ベラルーシ語とポーランド語に共通の語彙が多いことは、素人目にも良く分かるのだ。ベラルーシ語やウクライナ語と共に東スラブ語と言われるロシア語は、実は南スラブ語由来の語彙を多く受容していて、ベラルーシ語・ウクライナ語とは異なる語彙が多いとも言われている。
ロシア語ともポーランド語とも共通項も持つベラルーシ語。この言葉が文化の狭間に位置するベラルーシ地域を象徴していると考えるのは、安直な思量かも知れないが、ついついそう考えてしまうのが第三国からの訪問者というものだろうと身勝手ながら納得することにしている。
少し博物館の展示にも触れておきたい。この時期は「白ルーシとその隣人たち Белая русь і яе суседзі」という季節展をやっていて、ベラルーシとその周辺国の民族衣装や楽器類を見て回った。写真手前はベラルーシ伝統的な普段着だけれど、ロシアやウクライナのものに良く似ていて一目では見分けられないというのが友人の意見。実際、ベラルーシの服装はウクライナ、ロシア、リトアニア、ポーランドと相互に関わっている。写真の楽器はツィンバロム(Цымбалы)と呼ばれる弦楽器。現在でもこの楽器を演奏するアンサンブルがある。ツィンバロムもまた、東欧諸国に跨る楽器で、どの国のものとは特定し難い。
1月だというのにミンスクの気温計はプラスの表示が続いていて、街の人々は「十年に一度の暖冬」とか「冬はまだ来ていない」と口々に言う。今日の気温はプラス2度。帽子なしで過ごせる気温だけれど、昨日の6度に比べれば少しは寒い。マイナス20度以下を覚悟して買ったジャンパーは未だに出番もないが、そろそろ本物の冬がやってくるだろうと、これもまたベラルーシ人が言っていた。
(2014年1月)
ベラルーシことば便り
第1回 ベラルーシとの出会い
日本人がおよそヨーロッパと呼ぶ地域の端にベラルーシという国は位置している。日本では東欧よりも旧ソ連という括り方を多く目にするかもしれない。そして、その地域にベラルーシ語と呼ばれる言語があって、共和国の国家語ではあるがその話者人口は減少傾向にあり、同じく国家語であるロシア語の方が優勢である、ということを初めて知ったのは高校生の頃だったと思う。
ベラルーシ国立大学
大学ではロシア語を専攻することにした。スラヴのことばに関する本を読むようになって、ベラルーシにはロシア語とベラルーシ語だけではなく、二つの言語の混成言語(Трасянка/トラシャンカと呼ばれる)まであることを知った。どうやら複雑な話らしい。ベラルーシの言語事情について、日本語で読める文献もほとんど出ていない。これは実際に飛んで行って確かめてくるしかないな。そんな思いで、首都ミンスクの大学との交換留学に応募し、うっかり選考を通過してしまった(と言っても、他に希望者がいたのかどうか定かではない)。2013年9月から10か月の予定で留学生活をスタートした。こちらの大学では留学生向けのロシア語の授業と、ほぼマンツーマンのベラルーシ語の授業を履修している。
ここミンスクに来て最初にベラルーシ語を耳にするとしたら、それはおそらく地下鉄の車内放送になると思う。あの旧ソ連らしい頑丈な青い電車。放送も旧ソ連圏各地で内容は同じらしいが、現地語で語られており各国の言語を比べて聞くのには面白い材料になる。ミンスク地下鉄の車内放送を最初に聞いたとき、私はこれをロシア語なのだと思った。今思えば大きな間違いなのだが、私は自分のロシア語に自信がない故、「車内放送も聞き取れないとは自分はなんて不勉強なことだろう」と落胆した。しかしベラルーシ語の発音を習ってから聞いてみると、確かにロシア語に似ているが、これはれっきとしたベラルーシ語放送なのだった。公共交通機関の案内板も基本的にベラルーシ語で表記されている。
では街では車内放送のようにベラルーシ語が話されているか、というとやはり皆ロシア語で話している。それも特に若者は訛りの目立たない綺麗なロシア語を話しているように思う。
こちらに来てはや一か月半。確かに街中でベラルーシ語の「音」が聞こえることは滅多にない。しかし生身の人間が話すベラルーシ語を聞くことも、実は全くないわけではなかった。ある日ベラルーシ料理のカフェで、じゃがいも料理のドラニキを運んできたウェイトレスが «Смачна есці»(スマチナ イェスツィ/どうぞ召し上がれ)と何気なく言った。私は初めて聞くベラルーシ語に感動し、«Дзякуй!»(ジャクイ/ありがとう)と答えて店を出てきた。
二度目は公園で、突然革ジャンの男性に話しかけられた時だった。最初は何を言われているのか理解できず、「良く分からないのですが...」と言うと、身振りを交えて説明してくる。そして、そうかこれが人の話すベラルーシ語なのだと途中で気付いた。何を言われたのかと言えば、「タバコをくれないか」とただそれだけだったのだが。この時私はベラルーシ土産用の刺繍のスカーフを巻いていて、ベラルーシ語が出来る人と思われたのかもしれない。「あなたはベラルーシ語しか話さないのですか?」と質問すると、「いや、ロシア語も英語も話すよ」との答えが。けれどその返答もベラルーシ語だったのがなんだか愉快だ。
馴染みの薄かった国に住んでみるというのはそれ自体面白いことだが、ベラルーシ語ということばを学ぶことで少しだけ多くこの国に近づける気がする。明日はどんな言葉を聞くだろうかと、いつも楽しみにしながら生活している。
黄葉の公園
後記:
「はや一か月半」などと書いたものの、僕の感覚では「まだ一か月半」であり、もっと勉強せねばと思い続ける日々です。語学も言語のことも勉強中ですが、この国で大きなエネルギーを得て帰りたいと思っています。
(2013年10月)