地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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スワヒリ文明の古都

キルワ再訪


14世紀の世界的旅行家イブン・バッツータが「世界でいちばん美しい町」と称 え、今ではその遺跡が世界遺産になっているスワヒリ文明の古都の一つ、タン ザニアのインド洋岸南方、キルワ島(Kilwa Kisiwani)に初めて渡ったのは 1972年のことだった。小型機が本土側の、草を刈り込んだだけの野っ原に着地 してから、たまたま見つけたランドローバーの運転手に頼んで近くの集落まで 運んでもらった。キルワの名を持つ三つの集落の一つ、キルワ・キヴィンジェ (Kilwa Kivinje「トキワの木の茂るキルワ」。モミの木に似ており、ダウ船 の帆柱の材料となる)の一角である。それから一週間ほどは、その村の、第一 次大戦以前ドイツ領時代に建てられ、すでに壁の崩れ落ちた廃屋の片隅の簡易 ベッドが根城になった。錠前はない。だが、破れ目だらけの蚊帳が吊るされて あり、ベニヤ板がベッドの四方に立てかけてあり、一応は個室の風情はある。 日が沈む頃、ムスリムの男性がカンテラを持ってきてくれる以外、食事のサー ビスも何もない。天井に海鳥が巣をつくり、せわしく出入りしていた。

翌朝、小舟を操る少年に頼んで、目と鼻の先にある(スワヒリ語では、「鼻と 口の先にある」という)「島のキルワ」に渡してもらった。そこには、15世紀 の末にヴァスコ・ダ・ガマの一行が、ついで16世紀初頭にはダルメイダ総督の 一行が、蛮行のかぎりを尽くして破壊した中世キルワの大建造物の残骸が残っ ていた。

それから32年後の2004年8月。私は再び「島のキルワ」の遺跡群を回り歩いた。 この時は、夕方の5時ごろ、本土側の、以前と同じ野っ原に降り立ったのは私 だけだった。乗降客があるときにだけ飛来する小型機が飛び去った後、待合の 粗末な小屋でしばらく待機したが、車は見つかりそうにない。このまま日没に なってはやばいと心配していると、薪を拾って家路に着く土地の人の姿が目に 入ったので、駆け寄って近くの集落まで同行させてもらうことにした。着いた 所は、キルワ・マソコ(Kilwa Masoko 「市の立つキルワ」)という名の開拓 村で、商人宿も何軒かあるという。以前にはなかったターマック道路が、ダラ ダラ(daladala 乗り合い小型バス。英語のdallarが語源)が1時間ほどの距離 内にあるキルワ・キヴィンジェと結んでいた。

同行の村人に、この地方の民話を語ってくれそうな老人にたくさん会いたいと、 こちらの仕事を持ちかけておいたのがよかった。翌朝から、アリーというその 男性の案内で、リュックを背に、テープレコーダーを抱えて、日がな一日、汗 だくになって人家を訪ねまわるのである。

こんな風にして、私はここ10年以上もの間、北はソマリア国境に近いケニア領 のパテ(ここでは、ロバに乗って全集落を訪ねた)から南へ、ラム、モンバサ、 ペンバ、ザンジバル、マフィアの島々を巡り歩き、南は「三つのキルワ」 (Vilwa Vitatu?)で、スワヒリ語の民話や方言語彙の調査をしてきた。今年 も夏が近づくと、またもや熱帯の血が騒いで、アフリカ詣でをしてみたいと思っ ている。なんアフリカ詣での悦びは、何と言っても、旧友との再会、再々会で ある。それというのも、人と人の出会いは、いつも生命を新しくしてくれるか らだ。
「山と山は出会わないが、人と人は出会う」 (Milima haikutani lakini binadamu hukutana)

《M. M.:言語学・文学(2005年掲載)》