ムラブリ語
ムラブリと 呼ばれる人たちがいる。森の人といういみだという。この人たちはタイとラオスの北部の山の中に住んでいる。もともとはラオス北部にいて、次第にタイ側に 移ってきたという。現在ではタイに240-250人、ラオスに25-26人住んでいるという。この人たちの話すことばはムラブリ語と言われる。ヴェトナ ム・中国雲南省・マレーシア・インド-アッサム地方を含む広い地域で話される言語をまとめてモン・クメール語族と言うことがあるが、ムラブリ語もこれに含まれるという。しかし他に親類の言語は見あたらないようである。
ム ラブリ語はこれまでに接触した諸民族から多くの語を借用してきた。とりわけ北タイ語、標準タイ語、ラオス語からの借用が多いという。注目したいのは13世 紀のタイ語の音声と関係するものがあるという。これはただ古くから接触していたというだけでなく、いまより南に住んでいたことを示すかも知れない。
ラ オスのムラブリ人は、ミャオ族に殺されたり、内戦に巻き込まれたりして、人口が激減した。タイでは他の数少ない民族と微かな接触をもちながら、森の中で大 変シンプルな移動性狩猟採集生活を送ってきた。しかし現在では特に若い人々はTシャツにジーンズ姿で定住し、農耕を営み、ミャオ族の店で買い物もする。 2000年にタイ国籍を与えられてからは、ムラブリ人の生活に急激な変化がおこっている。タイの行政府は「ムラブリ族の経済的自立を目的として、タイ語教 育を強化し、タイ文化への同化を推進するものと思われる。この小さな地球上でもっともシンプルな文化しかもたない民族が、そのアイデンティティを保持し、 ムラブリ語を保持して行くためにはバイリンガル教育が必須であり、彼らが集団を形成して暮らせるような方策も必要であろう。」(坂本比奈子「ムラブリ語を 話す人々」『言語』2005年4月)しかし「森の人」が森を失うことの意味を真剣に問わなければならない。
この人々と言語につい て報告し研究し発信しているひとは世界でごく僅かである。坂本比奈子さんがその貴重な一人である。この文も彼女のさまざまな報告のお陰である。最近、さま ざまな用事でタイへ行く人が増えた。タイの別の深刻な社会問題だけでなく、北の森の中に住むムラブリの人たちのことも考えたい。
《金子亨:言語学(2006年掲載)》