ワルング語(オーストラリア北東)
ワルング語 は1981年にいったん誰も話す人がなくなったことばである。角田太作さんが1970年代の初めにこの言語の調査に行ったときには、もう二人しか話し手が いなかったという。その後しばらくして最後の話し手であったパーマー(ワルング語名:ジンビルンガイ)さんという方は「私が死んだら、このことばも死んで しまう。きちんと記録してくれよ。」と言い残してなくなった。この遺言を角田さんは守った。ことばが絶えて25年後、パーマーさんの曾孫娘から便りがあっ た。ワルング語を習いたいという。角田さんはまたオーストラリアへ旅立った。そして今、彼女のお母さんを含む何人かが角田さんから「母語」を習い始めてい るという(角田太作「原住民の言語・文化と復活」:大角翠編著『少数言語をめぐる10の旅』三省堂2003)。
ワルング語はオー ストラリア原住民語(アボリジニー諸語)のひとつで、クイーンズランド州の北東海岸から南西に入った地域にあった。18世紀後半に白人が植民地化をすすめ る以前には原住民の言語と部族は600もあったという。しかし今では百ほどになってしまった。しかも大多数の言語は少数の老人が覚えているだけのことばに なっているという。アボリジニーの言語は全部が親族で一つの語族に属するという意見がある。そしてまわりのオーストロネシア諸語、タスマニア諸語、パプア 諸語などと区別される。それはオーストロネシアの人たちがユーラシア大陸の南東から遠洋航海に出るはるか以前、おそらくは万年ほど前にこの大陸に来た人々 の言語だろうと言われている。
ワルング語は語幹に接尾辞が付く型の膠着語 的な方法で語を作る。格語尾も時制標識も接辞で表す点で日本語に似ている。しかし「大きい」などの形容詞的な表現は名詞的に変化するので、その点では日本 語的ではない。名詞の格に能格という特別な格があって、これはオーストラリア原住民語全体の特徴となっている。ワルング語には能格に関わって面白い文法が あるという。「男が行く」と言うとき、「男」に格標識は付かない。これを絶対格だともいう。一方「男が水を飲む」と言うとき、「男」に能格が付き「水」に は何も付かない。つまり自動詞主語と他動詞目的語がφが付く。ところが「水は男が飲むんだ」と言うときには「水」に能格が付き、「男」にφが付く、そのと き「飲む」には逆受動という接辞が付く。一方、二つの文がつながるとき、同じ格の名詞が省略される。省略しないと別の人やものを指してしまう。だから「男 が行って(その男が)水を飲む」という時には、最初の「男」がφ付き2回目の「男」が無事省略され、「水」が能格で「飲む」逆受動形になって、やっと文が つながる。大変おもしろいシンタックスである。
角田さんはパーマーさんの曾孫娘たちに曾祖父のことばを教えるとき、この能格のシ ンタックスを例にして、君たちの母語はこんなすばらしい文法の宝ものを持っているんだよ、と語りかけたという。そして彼女たちは不思議なことにこの文法を 難なく習得したと報告している。それから数年が経ち、今、現地の人たちは一度なくなった母語を学ぶためにキャンプをしたり、現地の大学で講座を開くなど、 さまざまな計画を立てているという。言語学者の研究が実際に直接にことばの復興に役に立った貴重な例である。
《金子亨:言語学(2006年掲載)》