マプチェ語
マプチェ語は南米のチリとアルゼンチンに住む先住民族アプチェ人の言語である。この言語を話す人はチリに約20万人、アルゼンチンに約8千人いるという (細川弘明:アラワク諸語『言語学大事典』第1巻)。一方でマプチェ人の人口は全体で50万から100万とも言われていて(箭内匡:「地球ことば村」こと ばのサロン)、実体はよく分からない。しかしマプチェ語は南米先住民族の言語で一番大きなアラウコ語族といわれる言語の代表であり、いくつかの大きな方言 に分かれているが、今も多くの先住民によって話されている。
マプチェ語を始めとするアラウコ系の言語はスペイン人が侵略するは るか以前からもともとチリ北部に住む先住民族によって話されていた。この人たちはスペイン人の支配に対してもっとも長く強固に抵抗した人たちで、1880 年代に鎮圧されてチリ中南部の「保護地」に移住と定住を強いられた後でも民族の言語と文化・社会組織を守り続けてきた。現在アルゼンチンに住んでいるマプ チェ人は白人との抗争に追われ、アンデスを越えて逃れた人々であるが、この人たちもマプチェ語を守り、チリに住む昔の係累といまも交流をつづけている。
マプチェ語の特徴はとりわけ動詞の構造が複雑なことである。この言語では、動詞語幹にアスペクトや 方向性、モーダル、人称、数などの形態素が動詞語幹に直結して、長い動詞を作る。複統合的構造をもつ言語である。この点で北米先住民族の多くの言語に似て いる。19世紀の始めに中南米には「何でも腹に詰め込んでしまう」言語構造をもつ言語があるという研究報告があったが、それはこのアラウコ諸語やマヤ諸語 を念頭においたものだったのだろう。
マプチェ人は自分のことばをマプチェ・ドゥングンまたはマプ・ドゥングンという。マプは 「大地」、チェが「人」、ドゥングンが「舌」である。この人たちはことばを舌で伝えてきた。声にこそ「ことだま」が宿るとでも考えたかのように、文字を拒 否して「声の文化」を作り、それを発達させてきた。この「声の文化」の中心に口頭伝承がある。先祖にまつわる伝承が数多く舌で語り継がれ、優れた伝承者が 集団の尊敬を集める。「儀礼的会話」ができる人がいる。この人たちは「声の文化」におけるシャーマンのような役割を果たすという。
マプチェの若い者はやはり都会へ出る。山からサンチャゴへ出て学校に行く。だが寄宿学校にかよってもマプチェ語を捨てない。結婚する相手はやはりマプチェ だという青年がいた。彼は、マプチェの社会に教育を導入して、マプチェの社会に「知の輝ける道を開く」ために、新しい方法による文化計画を作ると誓ってい た(箭内匡氏報告のカルロス・ムニザガ『一人のアラウコ人の一生』1960から)。
《金子亨:言語学(2006年掲載)》